心理学のすすめ ー性格ー

2011.02.02 Wednesday 00:16
皆様、新年明けましておめでとうございます。

今年最初のブログですが…そうですね、もう2月ですね。
スミマセン…今年もこんなペースです。
皆様どうぞ見捨てないで下さい。

寒いですが、風邪は引いてないですか?
冬は疲れを溜めるとロクなことがないので、野生動物のように栄養を蓄えて活動を抑え、出来るだけゆったり過ごせるといいですね。
またそんな話を言い訳に、春まで極力ナマケるのもアリでしょう。

さて今月は、そんな冬とは何の関係もない「心理学」の本をおすすめしようと思います。
特に今やる理由もないのですが、それでも内省的になるには一番いい時期なんじゃないでしょうか。

先ずは「性格」についての話です。

世の中には本当に色々な人がいて、生きることはそれに翻弄されることと言っても過言ではないと思うのですが、心理学で最もポピュラーな関心を集めるのは、この「性格」についての話じゃないでしょうか。

血液型や星座を基にした性格占いも昔から馴染みの深いものですよね。
性格を大雑把に決めつけられることに対しての抵抗感もあるためか、「単なる統計だ」と嫌う人も少なくありませんが、この分野に関してより学術的にアプローチしているのが心理学の「性格論」です。

もっとも最近では、血液型はそのルーツとなる各民族が暮らしていた大昔の環境条件(A型民族→寒冷地、集団生活…など)に、星座の方は、誕生月の季節が人格の基礎に与える影響に関連づけて研究されてもいるそうです。

類型と法則付けを本分とする学者が放っておくはずもないこのテーマの研究はギリシア時代からあり、近代以降では「気質類型論」「タイプ論」などと呼ばれ、精神科医クレッチマーや心理学者ユングによる性格分類が有名です。

クレッチマーの類型論は病理的分類とも呼ばれ、性格と精神病理の関係性に注目し、さらに痩せ型や肥満型などの体質的特性との関連性をも見いだした類型論で、気質のタイプを躁鬱(そううつ)気質、分裂(統合失調)気質、粘着気質などに分類します。

少し乱暴な説明ですが、躁鬱型(調子を崩すと躁鬱病になりやすい)気質の人は社交的で温和、妥協的で素直な性格、体型は丸みを帯びる傾向が強く、分裂型はやせ形で、思慮深く内省的、かたくなで美意識が強い…といった感じの話です。

体質と気質を統合的にとらえるこのタイプ論は東洋の陰陽説による体質分類にも似ている所が面白いです。
根拠付けや実証が難しい心理学は、自然科学に比べて経験主義的な面が強く、特にこの人は多くの症例データを基にしたのでそんなことにもなるのでしょう。

我々素人は、気質の病理的側面に関して「精神病になるタイプとならないタイプ」という風に線を引いて考えてしまいがちですが、この法則で見ると誰でも病気になる可能性を持っていて、「自分は〜病に近いタイプなんだ」という見方になってきます。

ユングの場合は、人の性格に、客観性や社会の価値観に重きをおいた思考、行動をしがちな「外向型気質」と、あくまで自分の内面にある主観的要因に基準を求める「内向型気質」という2タイプの傾向があることに注目し、これを発展させた性格分類を展開しました。

これも雑に言うと「外向型」の人は「現実的で社会性が強く行動的で世間の動向を重視する」というような性格で、「空想好きで社会的価値よりも自分の価値観を大事にし、思考的で独創的な内向型」の人とは対称的。
さらに、その二大気質を思考型、直感型、感情型、感覚型といった、その人が頼る精神作用のタイプも分けも加えて8種類に分類した理論です。

まぁ、どちらも一昔前の研究ですし、数十億の個性を数パターンに分類する多少強引な理論でもあるので、「中間型や移行型が無視されやすい」「類型特有の特性ばかり注目される」等々、大いに批判も受けている研究で、実際には特定のタイプにピタリとハマる人の方がむしろ少なそうな位の印象はありす。
大事なのは「外向型と内向型という2タイプの人間がいる」という認識よりも「人間の心理にその2つの方向性がある」と、とらえる方がリアルで、つまり一人の人格の中にも大なり小なり外向と内向両方の心理がある、ということを理解した方がいい気がします。

ただ、人間のパーソナリティに関心を持ち、考えて行く上で、この手の理論が指標になるという実感はあります。
「自分はどういう奴なんだろう」ということを考える時に、何の方向性もない雑然とした意識で、中々取りかかれるものではありません。
こうした類型に照らし合わせて「このタイプが近い」とか「どれも違うじゃん」とかやってる内に少しづつ自分や社会が見えて来たりもします。

ちなみにクレッチマーで言うと、こんな風に自分について考えてしまう人(僕もです)は分裂型の様ですね。
統合失調はアイデンティティーの障害なので、自分は何者?という疑問を持ちやすく、調子が悪くなって来ると鏡を見て「誰だコイツ」という気持ちになったり、かなり混乱が進んでしまうと「自分は神だ」とか「俺が本物のジョン・レノンだ」とか言い出してしまうこともあるそうです。

逆に躁鬱型の人はこの手の疑問を感じないので、自分のことや哲学的思考に走るより社会的責任感など、外から来るプレッシャーの方が天敵になって来るようです。

ユング論なら分裂型に近いのは内向型気質で、一般に言う「内向的な性格」という意味と少し違い「流行や決まり事よりも自分の価値観を基準に動く人」という感じの性格になります(日本人の多くは内向的ですが、気質は外向型)。
心理的には「客体を尊重し、自分をこれと関係付けようとする外向型に対して、内向型は客体の感覚を抑圧しようとしている」と説明されます。

僕などは元々強力な内向型で、特に思春期の頃はハヤリものや社会的慣習が本当に嫌いでした。
この理論で内向型気質というものを知った時には、ただヘンな奴なのかと思っていた自分の性格の要が分かった様な気がして、何だか安心したものです。
お陰で、その辺が開き直ったまま成長してしまい、結局こんな店を作る大人になってしまいました。

そんなアール座はよく「高円寺っぽい店」とも「高円寺っぽくない店」とも言われます。
おそらく前者は「独創的」「我が道を行く風」という印象で、後者は「俗っぽさやユルさがない雰囲気」「誰でもなじみやすい庶民派でない」という位の意味合いなんだと思っています。
内向、外向両者を有する高円寺という街の複雑さも見えて来ますが、ウチの評価はやはりどちらも内向型の特徴ですね。

内向型の店と言うと、いわゆる開かれた店ではなさそうですが、お客様はどんな方が多いのでしょう。
この流れだと内向型の方が多い様に感じますが、多くの方を対象にする場合はそう簡単に分かりませんね。

いくつかの飲食店で働いてきて、ひいき目ではなくアール座のお客様は感受性のアベレージが並でないことを感じますし、独自の世界観をお持ちで神秘的なものやファンタジックなもの、ヘンなもの(笑)に引かれる方が、リピーターの方には多い様に思えます。
一見すると内向感覚型的要素とも思えますが、ただ厳密にそれがどのタイプの気質に起因するものかは中々一概に言えませんし、そもそもが単なる全体的な印象なので個人を見る時の正確なデータになりませんね。

難しいのは、大人になると最も発達した性格(主機能)を補う様にそれと対立する性格(補助機能)が強く現れて来たりすることです。
特に人間関係が複雑で自分の立ち位置や自己表現が重要な現代においては、この辺りの関係がより複雑になっているように思えます。

一時代前なら「周囲に認められようと考える人は社交的で現実的で新し物好きでミーハーで…」などと、多少大雑把な言い方をしても、そこそこ的を得ていたんじゃないでしょうか。
僕が知っている昔でも、外向型か内向型かをある程度見た目だけでも判断出来た様に思えます。

所が現代はあらゆる趣味趣向が様々に細分化されて「外向型好み=周囲に認められやすいジャンル=マジョリティ」と一言で片付かなくなってきたので「こういうタイプが外向型」と簡単に割り切れません。
趣味の指向性やジャンルも非常に複雑に入り組んできて、マジョリティと呼ばれる文化が一通りでなく、サブカルチャーと呼ばれて来たジャンルも、もはやサブではないし、今どきは「音楽好き」な人同士といっても先ず趣味が合いませんもんね。

途上国や戦後の日本(ひばり、裕次郎の時代)の様に皆が同じ対象を求める社会から考えると、経済発展には「ニーズの多様化→供給の細分化→更なるニーズの複雑化」というサイクルがあって、発展する程人々は内向型に移行してゆくのかなと考えてしまいます。
ただ、こんな現代は自分らしく生きる上では非常に恵まれた時代でもありますね。

そんな多様な価値観の現代社会では多様なタイプの共存関係が複雑な問題になってきますが、「タイプ論」を知っていると、若干余裕を持ってこの手の問題を俯瞰からとらえられる気がします。

ユングの学説に「外向型と内向型は基本的に相性が悪く、お互いを偏見で見ようとする」という見解がありますが、確かにこれは実感します。

理解出来ない考え方、趣味の違う人に対するイラ立ちや侮蔑の裏には、自分が否定されるという恐怖感がありそうですよね。
人は皆いつも自分に不安を抱えていて、自分と反対の価値観や趣味を堂々と遂行している人がいるだけで、無意識にそんな危機感を感じてしまうのでしょう。

世の中で白熱する様々な論議、論争においても、この外向×内向の感情的な対立が根幹にあるケースがとても多い様な気がします。

人が意見を持つ時は、その根拠としてもっともらしい理論を築いてみせるものですが、その主張を選ぶ根っこには大抵立場上の理由だったり生理的、感情的な理由があったりします。
で、気質はこの「何となくこう思いたい」という心理を強く決定し、他方を否定してしまいます。
タイプの違う人同士が出会いやすいネット上でのいがみ合いとかも、結構この形多いですよね。

全く理解出来ない考え方や文化が存在することを何でもなく受け入れられる姿勢があると、その分余計な心配をせずに自分の道を行けそうな気がしますが、「性格論」の知識はこれも助けてくれそうです。

高いコミュニケーション能力が要求される現代では、気質の違いから生じる人間関係に悩まされることが茶飯事ですね。
うんざりするようなことが続くと「何で自分はこんななんだろう」と、つい自分の性格を恨んだりもしてしまいます。

でもですよ、自分の性格を自覚しつつ長い目で見てみると、恥かかされ苦しめられることはあっても、結局最後には必ず自分を守り、味方になってくれるのが、この自分にあつらえられた気質であり、自ら育んだ性格なんだなぁと最近になって思えて来るんです。

日本人は自分の短所をカタキの様に考えるような教育を受けますが、僕は、社会的な意識に助長される「長所」と呼ばれる性格よりも、それで矯正することが出来なかった「短所」の部分に、真にその人らしい気質がある様に感じます。
確かに放っておくとただの欠点ですが、何と言うか、これをつぶすのではなく、裏返して味方につけた場合には、とてつもない力を発揮してくれる気がします。

自分を変える努力には大きな意味もありますが、別に自分を嫌わなくてもいいんだなぁと、若い時より思える様になりました。
それにそう思えると、今度は他人に対する気持ちも変わって来ますしね。

そう考えてゆくと、世の中に様々な気質の人間が同居していることや、その中を自分の性格で生きてゆくということにも、きっと何かただならぬ意義があるように思えて来ます。

何だか随分イイ話になってきましたが「心理学のおすすめ」の話でしたっけね。
実は今、もう1トピックくらい行けるかなと文章を見直してみた所、思っていた量の3倍程書いていたのでびっくりです。

心理学の色々なジャンルについてざっとご紹介しようと書き始めたのですが、「先ずは性格について…」とか言って、最初のジャンルだけでこの有様です。
文章が長くなるのは分裂型気質の特徴なんだそうですが、ここまでだとヤバいんじゃないでしょうか。
ちょっと心配ですね(知るか)。

一応関連書籍は全てコーナーに置いておきますが、これ以降の心理学の話はまた次回にしようと思います。
はい、まだ続きます。
乞うご期待!?

しつこいようですが性格類型論はあくまで目安です。
自分や社会全体をとらえるならまだしも、「誰々は何型だろうから…」と特定の個人に当てはめてかかると中々うまく行かないのです。

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2010年御礼とこれからの抱負

2010.12.30 Thursday 01:23
この所少々慌ただしく過ごしてしまい、久しぶりの更新が年末のご挨拶になってしまいました。
月イチ更新というだけも残念なブログなのに…皆様ごめんなさい。

何だか今年は色々なことがあり、色々なことを考えてしまう年でした。
元々が考えてしまうタチなので、特にこの2、3ヶ月は「これからアール座で何が出来るんだろう」とか「結局自分は今生何をして死んでゆくんだろう」とか、そんなことにまで思いを巡らせてしまう始末でした。 
私は大丈夫なんでしょうか?(知るか)

3年続くかなぁと始めたアール座読書館も、本当に皆様のお陰をもちまして4年目に突入です。

「皆様のお陰…」と言うと何だか決まり文句の様ですが、ウチの様な店の場合はその重みが違ってきます。
こういう特殊な業態でも、何とか経営を続けて行けるのは本当にお客様方のご理解とご協力なしにはあり得ないことなんです。

開業前や開業直後は周囲の人達から「そういう業態は成り立たない」「金にならない」「人が集まる形ではない」という内容のことを言われまくって、僕も随分と不安でした。

会話や単価の話から、果ては新しいマンガやグラビアの写真集を入れなきゃとか酒飲ますんだとか、言われ放題でしたが(やらなくてよかった…)、決して多数派ではなくてもこういう場所が好きな人は絶対いてくれるはずだー、とヘンな日本語で思っていました。

今、店でそんな人達にお会いする度に、これを信じ通してよかったとつくづく感じます。
ビジネス面だけを重視して業態を考えていたら、きっとお会い出来なかった方々だと思うからです。

何度も心に浮かんで来るやりたいことはやっておいた方が良いということと、そのためには不安要素を羅列するよりも膨らむイメージを育て続ける姿勢の方が余程大事なんだろうと確信した次第です。

きっと、今生の僕がするべきことはそんな類いのことなんだろうなとも感じています。

そして今改めて思えるのは、人の関わり、影響し合うことと、それがもたらしてくれる変化の大切さです。

「話も出来ない店を経営しておいて何言ってんだコイツ」と思う人もいるかも知れませんが、こんな店にも知らない間に起こっている無数の小さなコミュニケーションがあるんです。
そしてこういう空間に起こるコミュニケーションが、実は結構スゴいことなんではないかと最近考えているんです。

例えば「店で僕が何となく机の引出しに入れておいた小物を見つけたお客様が、それで少しだけ気分が変わって何となく軽やかにお帰りになるのを僕が感じて、次のお客様に…」とか、そんな些細なことでさえ果てしなく続いてゆく、人同士の関わりについてです。

些細なことですが、感覚的な状態の中ではこんなちょっとしたことがその人生を変えてしまう場合だってあります。
別に人生を変えなくても良いのですが、そんな風に敏感に感じ取った、周囲のささいなことや自分の内側にある小さなものが、自然と人の生活を前に進めるきっかけや変化を起こす様に感じます。

もちろんこれはどこにいても起こることですが、人が集まる割に会話が少なく感覚的になりやすいアール座の店内では、より強いレベルでこういう連鎖が意識出来る様に思えるんです。

元々は「人が幸せになれる店にしよう」と意気込んで始めた店ですが、最近ではそれも少々おこがましいのではないかと言う気になりつつあります。

お座席のらくがき帳を見て、多くの方がそれぞれの事情や条件に挟まれて悩んだり迷ったりしながらも、何かを見いだそうとして、ちゃんとモノを見て何かを感じ考えていることを垣間見させて頂くと、ほんのひとときの小さなことにも、人はそれぞれの感受性の力で小さな「気づき」を得て、その繰り返しで前に進むんだなぁという感慨を頂きます。
またその内容が更にそれを読んだ次の人に変化を与えている様子も垣間見えます。

そんな風に皆さんが思い思いに感覚を開いてこの場所と関わって下さるということには、決して小さくはない意義がある様に感じられ、アール座が目指す場所としてこれに勝るモノははないなぁと思わせてくれます。

あまりお客様ともお話出来ない店ですが、本でもお茶でも水槽でも植物でも静けさでもヒマつぶしでも、もっと些細なことででも、そんなレベルで皆さんの日常に関わっていける店であれたらいい、という気持ちが今の僕の目指す所です。

ずっと部屋に引きこもっていたい気分の方が、少し外に出てみようかなと言う時にだって、気軽にご利用頂きやすい空間ではないかと思います(最初の入り辛さはありますが…)。

袖触り合うも…」と言いますが、お会計の時なんかに「自分とこの人との間に、前世で何があったのかなぁ」とかつい思ったりしてしまいます。
人と関わること、影響し合うことに、人間(じんかん)に生まれて来た意味があるのかなとか思ったりします。

若い頃から結構ヒトが苦手だった僕ですが、お陰様でそんな風に感じられるまでになりました。
もうこのこと自体が、皆様と関わらせて頂いた恩恵そのものですよね。

今年ご利用頂いた全ての方に心より申し上げます。

アール座に関わって下さり、本当にありがとうございました。

何だか閉店の挨拶みたいですが、もちろん違いますよ。
来年も再来年も、アール座読書館をどうぞよろしくお願い致します。

それでは皆様よいお年を


5年程前に「こんな店作りたいなぁ」と案を練っていた頃に3Dソフトで描いた構想図です。
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子供の感性

2010.10.25 Monday 20:33
涼しい季節になりましたね。
今度はすぐに寒くなりそうなので、今の内に夜のお散歩など楽しんでおくと良いかもです.

この夏の凄まじい猛暑で窓の外の植物をあらかた枯らしてしまったダメな私ですが、そんな中でいつもは夏に咲く朝顔も当然一緒にダメにしてしまったと思い、あきらめて完全に忘れておりました。
所が、人知れず乾いた土の中でタイミングを見計らっていたのでしょうか、十月に入り暑さが終わった最初の雨で勢い良く発芽し、溜めていた生命力を爆発させて遅れを取り戻すかの様なスピードでにょきにょきと蔓を伸ばし、あっという間に大輪の花を咲かせてしまったのには驚きました。

種は水分を吸って発芽さえしなければいつまでも乾燥に耐えてくれるので、しばらく水をやらなかったのがかえって良かったのかも知れませんが、飼育栽培下であっても生物は全く自分の力で育っているんだなということを思い知らされた感じでした。

窓際の前から2番目のお席からよく見える、かわいらしい藤色の朝顔で、姉が米国から取り寄せた種を分けてもらって蒔いたのが毎年こぼれ種で勝手に生えてきます。
残念ながら今年の花はもう少なくなってしまいましたが、もしまたお店の花を見かけたら「がんばったねぇ」とか「よく咲いたなぁ」と心の中ででも褒めてやって頂けると嬉しいです。

さて、いきなりですが今月は子供の感性というものに触れてみたいと思います。

昔、岡本太郎の「太陽の塔」をモチーフにした子供の絵画コンクールで、審査委員長に任命された岡本が優秀作の選考を依頼された際、床に並べられた子供たちの作品を見ている内に興奮し鼻息が荒くなり「素晴らしい!みんないい!何が優秀作品だ!そんなもの選べるか!」と怒りだして収拾がつかなくなった、という話を聞いたことがあります。

さすがという感じのタロウさん的エピソードですが、確かに子供が表現する絵や文章は、どこか神々しいと思える程素直でのびやかなモノが多く、大人の創作とは異なるルートからひねり出された様に思えてしまいますよね。

人気絵本作家の荒井良二は大人ですが、あの人の作品と本物の子供の絵と、何が違うんでしょうかね?
僕はそこまで絵を見極められないのですが、TV番組で荒井さんの創作風景が映された時の「うーんだめだ!今考えちゃった!」などと言いながら描いたものにバッテンをつけていく様子からは、創作の過程から理性的な手順を排除してゆこうとする姿勢が見られ、やはり大なり小なり子供をお手本にしているようでした。

確かに、自分が子供の時に描いた絵を前にして「これと同じ感じの絵を描け」と今言われても難しいですよね。
他人の作品に感心するように「良い絵だなぁ」とか思ったりしますが、一体どうやってこんな風に描いたのかは見当もつきません。
感じ方も表現の仕方も全く覚えていないのが普通だと思います。

よく、3〜4歳児の半数位(だったかな?)の子は胎児の時や出産の時の記憶を割とはっきり持っていて「お腹の外からお父さんの声が聞こえてた」とか「外に出たらまぶしくて白い服の人にお湯に入れられた」とか説明出来ると言われます。
それ以降、その記憶が失われて行くそうですが、感覚を頼りに生きていた時期から自我を中心に理性でモノを考える様になる変わり目で多くの記憶が閉じられて行くんじゃないかな、と思ったりもします。

子供の頃の記憶、特に幼児期のものが思い出せないのは、夢のない例えですが、幼い頃と今とでは世界を感知して記憶するアプリケーションソフトが異なっているため、かつての感覚的なソフトで作られた記憶のデータは今の理性的なソフトでは開く事が出来ないからではないかという風にも感じられるのですが、どうなんでしょう。

思えば自分が幼い頃って、もっと世界が匂いとか濃い雰囲気に満ちていた気がするし、時々過去の記憶が蘇る時は決まってそんな懐かしい空気感ごと蘇ってくるのは、使われなくなったソフトが久しぶりに機能したからなんじゃないだろうか、という風にも思えます。

人は大人になると、生活の中でより多くの情報を処理してゆく能力を強いられるため、どうしても合理的な思想や言語的感覚に意識の前面を支配されてしまいますよね。
そこでは匂いや雰囲気よりも物事の意味が圧倒的に重要になってきます。
子供や他の動物の様に世界を肌で感じつつ暮らしていくような生き方はしていられなくなるのでしょうか。

しかし、そんな言語化出来ない肌身の感覚は意外に正しい方角を指し示す力を持っている様に感じることもあります。
アタマで原因と結果をこねくり回す考え方は、概して保守的で一人よがりで、視野も狭く慣習にとらわれがちになりますね。
物事を間違いなく組み立てなければいけないとついついしかめ面になってしまう時には、足下をアホ面して走り回るチビ達の奔放な感性に触れてみるのも良いかも知れません。

アール座所蔵の子供の作品を取り扱った書籍や幼児感覚向けの本などを、例によっておすすめコーナーに陳列しておきますので、興味のある方はお手に取ってみて下さい。
3点程ご紹介しておきますね。

「神様への手紙」
子供たちが神様に向けてこっそり書いた、涙が出るほどかわいらしい手紙集。

「ねむの木子ども美術館 他」 
30年前、施設で絵の具をウマく使えない脳性マヒの子供たちに、使い易いサインペンで絵を描かせて見たら大変な事になった。かつて世界を沸かせたねむの木学園の芸術家たちの感性が爆発しています。

「たいようのおなら」
ご存知、児童詩の大傑作。
人生の中でもずば抜けた感受性を発揮する6〜7才児達の文豪を軽く凌ぐ表現力。

どの作品も有名ですが、何と言うかハッとさせられるモノを持っていますよね。
僕なんかは普段どれだけ発想が固まっているのか思い知らされます。
皆さんもぜひぜひアール座のお席で感覚を開いた上で、快い衝撃を受けて見てはいかがでしょうか。


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虫の声

2010.09.15 Wednesday 00:27
ようやく涼しさが感じられる様になってきました。
と言ってもまだ毎日30℃あるのですが、これだけの夏をやり過ごした後だと十分に涼しく感じてしまいますね。
これから平均気温24℃位の過ごしやすい季節が本当に来たりするんでしょうか。
この夏の後だと、そんな素敵な気候がなんだか信じられないというか、バチがあたってしまいそうな感じです。

さて、アール座では毎年ご好評を頂いている虫の声イベントが今年も始まっています。

「リィィィン」と鳴く鈴虫や「ピンッピリリッ」と鳴く松虫、「ヒョロロロ…」と鳴くエンマコオロギが店の欄干や店内で心地よい音楽を奏でてくれています。
毎日、日暮れ頃になると「ピッ…」とか「リン…」とか澄んだ声で切れ切れに鳴き始めたかと思うと、次第に声が重なりやがて美しい波音の様な合唱になってゆく様子は幻想的ですらあります。
よく鳴いてくれる日はBGMも消しちゃいます。
机の上に小冊子がございますので、一緒にお楽しみ下さい(少し数が足りないので、机にない場合はお知らせ下さい)。
大昔から日本人の心を和ませて来た秋の風物詩をお楽しみ下さい。

なんか今年のアール座はやたらと昆虫のお世話になりますね。
所で、日本ほど虫が文化の中に入って来ている国はないんだそうです。
例えば、子供が昆虫を捕まえて来て虫かごに入れて家で飼う、と言う当たり前に思える行為は、外国(西洋?)に行くと全く見られないんだそうです。
なので、当然大人の昆虫マニアと言う存在も世界的に見ると特殊で、美しい蝶を求めて熱帯の地域に赴き網を振る人々の内、業者や研究者ではないアマチュアの採集家は日本人ばかりだと聞いたことがあります。

またアメリカでは、セミが沢山鳴いている地域の人でも、結構「セミ(cicada)」と言う単語を知らないらしいです。説明すると「ああ、いるいる。あのうるさく鳴いてる虫ね」と、まるで眼中にないコメントが返って来るそうです。

この辺の話は全て僕が人づてに聞いただけの話なので信憑性の程は分かりませんが、外国人が虫の声に耳を貸さないと言う話は有名ですよね。
コオロギのリリリーと言うあの声もやかましいノイズでしかないんだそうです。

もちろんこれは民族的な感受性の優劣などの話ではなく、きっと文化の違いなんでしょうね。
虫の声がすると「ああ良い声ねぇ」と大人が言うのを聞いて育つから、子供はそれを良い声として聞ける様になるのかも知れません。

日本は自然が豊かで比較的和やかだったから文化がそれに親しみ、取り入れる方向に発展した、と言う話は建築の話なんかでよく耳にしますね。
お花見やお月見、新緑、紅葉、虫の声、水音、蛍、苔、雪等々、古来から日本の文化がこんな風に繊細な自然の風物詩を楽しむ趣味を持っているのは、我々にとって、とても幸運なことだと感じます。
近頃はトシのせいか「今身近にある幸せに気づく以外に幸せになる術はないのだろう」などと腕組みしつつ感じている僕は、この手の穏やかでジジむさい趣味は大好きです。

でも現代の日本では自然美を味わう楽しみがすっかりマイノリティになってしまいましたね。
お花見とかやっても、花見ないですからね(笑)。

それでも最近はそういうものが一昔前より見直されている様にも感じます。
強い刺激の好きな経済が猛威を振るっていたバブル期には、刺激にうかされた大人達が子供達のさめた目線からアホみたいに写っていたのかも知れません。
そんな世代が世間の価値観の担い手になる年齢になって来たのかな、とかも思っています。
それに、何よりこんな時代にこそ重要性を増す価値観だからかも知れませんね。

当時の僕はてっきり、自然の風物詩のように地味でお金にもならない楽しみは、時代が進めばこの国から消えてしまうものとばかり思っていました。

でも最近では、長い時間をかけて培われて来た日本人の感受性がそう簡単に失われるはずないか、と考える様になりました。
特にアール座のお客様には、当たり前の様にそんな感性を大切に日々を過ごされている様子の方がとても多く、ここを営む様になってから、僕のそんな思いは確信に変わりました。

まぁ見方によっては、こういう穏やかな楽しみがマイノリティなのも悪くないですよね。
本当に良いものに大衆が殺到しない状況は、良さを知る人にとってはそれを静かに楽しめる絶好の環境ですもんね。
時々アール座のお客様に「好きな人、分かる人にしか教えたくないお店」と言って頂けることがありますが、これはとても嬉しいお声の一つです。

最初の話から大分それて行きましたが、虫の寿命は長くないので、例年は十月に入ると虫の声は減ってきます。
虫達が全滅するまでの企画なので、しっかりとしたアンサンブルで聞いてみたい方はぜひお早めに(遅いお時間に)遊びに来て下さいね。

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星空観察のすすめ

2010.09.06 Monday 22:34
僕は幼い頃、一度でいいから本物の星座というものを見てみたいと思っていました。
けれども、いくら星空を見上げても僕には星座が見つけられませんでした。
大人達は、あれがオリオン座だとか白鳥座だとか指差して教えてくれるのですが、いくらその方角を見てもそこに星座はありませんでした。
一体どうしたことでしょう?

実は幼い僕は、書物等で紹介されている星座の図に必ず描かれている「星と星をつなぐ光の線」が実際の夜空にも輝いているものとばかり思っていたんですね。
その線と星をひっくるめて星座と呼ぶものだと信じていました。
だから星座はとても珍しいものだという意識があって、一度でいいから見てみたいと思いながらいつも星空を見上げていました。

小2の夏休みに姉と満天の星空を見ながら「どこにも星座が無い」「星座だらけだ」と口論になり、結局「あれは本だけだよ」という一言で僕の長い勘違いが終わるのですが、今でもその頃想像した「夜空に妖しく輝く光の線」の印象は覚えていて、「一度でいいからそんなの見てみたい」という願望だけがそのまま残っています。

僕が幼い頃にはまだ都内でもかなりの星が見えていた気がしますが、最近では天気が良くても一等星がやっとなくらいでしょうか。
夜空が味気ないのは寂しいですが、それでも旅先等で満天の星空に出会うと、それだけで気絶する程(?)感動出来るのは東京育ちの特権だと思って、僕は必ず時間をかけて眺める様にしています。

今、店内エアコン下の机上展示コーナーでは謎の宇宙研究所オリオンラボ(→http://d.hatena.ne.jp/halujion)による、天文、星座と神話、古代の世界観等に関する不思議な研究報告会が催されており、それに合わせて天文、神話関係の書籍をその脇に集めてあります。
何かの機会で満天の星の下に立った時のために、あらかじめこの辺の情報が入っていると、いつもより数倍夜空を楽しめると思います。
そこで今回は星空観察のおすすめをしてみようかと思います。

望遠鏡による観測の方は近年宇宙望遠鏡なんかも打ち上げられ、天体画像の精度も格段に上がって来ましたね。→「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」参照
こうなると遠い宇宙が身近に思える様になるのかと思ったら、気の遠くなる様な宇宙の奥行きが見えて来て、かえって宇宙が奥まで広がった感じもします。
それに対して肉眼宇宙観測は迫ってくる宇宙を実感するのが醍醐味です。

星空を見る時は、どこかに焦点を合わせるのではなく、ぼーっと全体を眺めるのがコツだそうです。
時間をかけて見ていると次第に目が慣れて来て、見始めよりもかなり沢山の星が見えてきます。

先ず目を慣らすために、僕は決まって星座を探します。
今となっては星座に線がないこともよく知っているので、明るい星を見ながらオリオンとかカシオペアとか分かりやすいのを見つけ、その位置関係から他の知っている星座を見つけて遊びます。

星にまつわる神話を知っておくと、そんな時さらに楽しめます。→オリオンラボ「夏の星座」(国語のノート)、「星のギリシア神話」他 参照
これからの季節ならエチオピア王家と英雄ペルセウスにまつわる話だけでも覚えていれば、大きな星座を7つほど巻き込んで展開する一大スペクタクルの物語を夜空に見いだすことが出来ます。→「オリオンラボ月報」「ギリシア・ローマ神話」他参照
若い男子なら女の子に語り聞かせてロマンチックなムードに…などと考えるかもしれませんが、意外にひかれてしまうのでやめておきましょう。
僕は二度とやりません。

それに飽きたら、星の奥行きを見るのも楽しいです。

星座として見ている時は星々がドーム状の天空にへばりついている様なイメージで見ていますが、もっと空間的なイメージを持ち「宇宙を、その中から見ている」という意識を強めます。
適当でいいから星を手前や奥に配置したり、お決まりの「あの光は数千〜数億年前の星の姿なんだ」という事実を思ったりして、とにかく奥行き空間を感覚するよう努めると、突然信じられないような距離感が実感出来て吸い込まれそうな恐怖感を味わえたりします。
地球上で、自分が想像を超える広大な世界に生きていることを体感する唯一の方法ではないでしょうか。
満天の星空の下でこれが出来ると、宇宙船に乗らずとも地上から十分に宇宙観測が楽しめますよ。

またそれとは逆にドーム状イメージのまま、天動説をリアルに想像して見るのも楽しいです。
サイズ的にも見た目も意外に地動説宇宙より想像しやすい気がしますが、現代ではそれが事実ではないということが我々の頭に根付いているので、とてもファンタジックな気分になれます。
天動説は時代、民族により様々なタイプの世界観があり、非常に想像力豊かな注目すべき分野ですよ。→オリオンラボ「人の数だけある宇宙!」(算数のノート)参照

現代の科学的宇宙像がお好きな方は、天文学的な数値や理論物理学の話と一緒に星空を楽しむのも良いでしょう。→「学研ニューワイド図鑑科学」「ホーキングの最新宇宙論」他参照
書物を読むだけでは実感を伴わない文字情報を、星空の下では体感的にイメージ出来るのが楽しいです。

銀河系の円盤部分である天の川を見ながらテキトーに銀河系の大きさを思い浮かべて、「一つの銀河には数十億の恒星が含まれていて、その銀河がこの宇宙に500億あって、泡状の構造に分布してるらしいぞ…」とか思いましょう。

星までの距離が何光年と言うのもあまりピンと来ませんよね。
地球から月の少し手前位まで1秒間で行くスピードが光速ですので、その距離のイメージを10秒、1分、1時間と、夜空に向かって伸ばしていきます。
必死で頑張って4年まで持っていければ、それが地球から一番近い星までの距離の実感です。

銀河系の直径はこのスピードで10万年、それが集まる「銀河団」が更に大集団を作る「超銀河団」は1億年分進んだサイズと言うことです。
うーん、やっぱりピンとは来ませんが、それでも少しだけ凄まじさが感じられませんか?

他に「星々の光は数年前から数億年前まで様々な異なる時間を同時に映している」とか「この宇宙は我々の感じられない方角に歪んでいて、空間がボールの裏面の様にぐるっと一周して閉じている」とか時空に関する話題も星空観察にぐっと深みを加えてくれるでしょう。

星空の下で考え事をしていると、結局最後には哲学的な思索や人生を引きで捉えらる視点まで行けるので、良く言う「ちっぽけな自分の悩みがバカらしくなって来る」という思いにもなりますが、これは朝になると必ず嘘の様に覚めていますね。
それでもその覚めた現実的な感覚の中に、何か号泣した後の爽やかさの様な、昨日までとほんのわずかに変わっている部分が感じられたりもします。
日常生活で疲弊している時には、こんなリフレッシュ効果が期待出来るのかも知れませんね。


ギャラリー情報
9/1(水)〜9/15(水)
「奏でよ宇宙展」 ORION LABO 

昨年もご好評を頂いた、謎のいんちき科学研究所「オリオンラボ」の学会発表リポート第2弾です。
天文学、星座、神話、音楽とあらゆるジャンルを独自の視点から研究する、読み物あり展示ありの不思議な個展です。
感性豊かな所長さんの、妖しくもロマンティックな世界観を是非ご堪能下さい。

作家さんブログ→http://d.hatena.ne.jp/halujion/20100825#1282754961
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神話のススメ(また長くなってしまいました…)

2010.07.17 Saturday 23:30
最近、店内中央の3本柱の上にある半円形の枠にイラストボードが入りました。
あの半円、欄間のデザインの様なフリをしていましたが、実は絵窓の様にアクリル板を入れるための枠だったんです。
ずーっと作業が止まったままだったんですね。(;^_^A
素人作成でアラが目立つので、見る時は遠くから目の焦点をボヤーッとさせて見て下さい。
近くでじっくり見てはいけません。

高い位置なので、何となく星空と幻獣のイメージでデザインしてみました。
元ネタは「脅威の部屋」と言うタイトルの本の中に見つけた中世の酒杯のデザインです。

中世の幻獣はカッコいいですね。
神話や伝説が権威を持っていた時代には人々の恐怖感や目撃談の興奮が折り重なって自然とあんな想像を超えるデザインが出来上がるのでしょうか。
現代の「こんなのいたらスゴイなあ…」というファンタジー的な空想と、当時の「本物の龍の姿はこんなんだろうか、はぁはぁ(興奮の吐息)」という恐怖を伴う想像とでは、イメージ力の質が違いそうですよね。

僕は昔、上野の科学博物館などに行くと、決まって恐竜の全身骨格を正面から見上げる位置に立ち「こんなのがホントに歩いていたんだ」という事実を強く思いつつ、想像力をフル回転させて骨格に肉付けをし、ここは古代のジャングルだと思い込み続けると、ある瞬間に想像が現実を凌駕してイメージを結び、その巨大な実在感が襲いかかるように実感されぞわわーっと鳥肌が立つ所までいく、という遊びをして喜んでいました。

こう書いてみると結構ヤバい子ですね。友達いなかったんでしょうか。
コツを覚えているので、今でも出来ると思います。

書棚にある「イスラム」というイスラム文化を紹介する書物の中に古い時代の動物図鑑が少し紹介されているのですが、そこでは当時の人々があまり目にする事の無かった異国のゾウやヒョウ等が科学的事実と伝承、呪術的な話のごちゃ混ぜで、かなり神秘的に紹介がされていて、興味深いです。
情報が少なく学問も整理されていない時代には、現存する生物にも神秘性を感じることが出来たのがとてもうらやましいです。

そこで、今月は神話や伝承の本をオススメしてみたいと思います。

現代、我々の常識には科学が根付いているので、幻想的な存在を本気で信じることが中々難しくなってきました。
我々の体験を超える多くの事柄が科学的に解明され、その背後に広がる広大な未知のスペース(不思議さが生じる曖昧なままの余地)の存在を感じさせなくなってしまったからでしょう。
そんな現代は、特に神話や言い伝えの面白さが際立つように感じます。

人がその認識を科学的根拠で固めようとする理由の一つに、世界全体を整理された形でスッキリと認識し、全て分かり切った心境(もしくは専門家に分かってもらって)で安心していたい、という願望があるのではないでしょうか。

我々が普通に教育されてきた論理的、分析的な認識方法は言ってみれば、事物に名前をつけて大きな分類の枠のどこかに入れることでそれを認証し(知っているとし)、そうして出来た分類棚が世界だ、とする見方と言えます。
事物そのものから受ける印象や感触よりも、その位置づけ、他の事物との関係性に重点を置く捉え方ですが、ここでは実感や印象、恐怖感など客観的事実でないものがあまり重要視されません。

また、この認識は知っているものだけで世界を構築するので、知らないものが覆い隠されてしまう所があります。
パソコンを前にして「コレが何か知っているか」と問われれば、その機能や機種についてその人が知っているわずかな情報のみを意識して「知っている」と感じることが出来ますが、その際にプログラミング言語や細部の構造、部品の一つ一つ、その素材、どこの工場でどんな人々の手によって作られたか、等背後に無限に広がる膨大な「知らない事」は全て認識されません。
この意識で周囲を見渡しても知らないものは見当たらない(意識に上らない)ので、世界が知っているものだけで構成されているような安心感を持ってしまいますね。
更に曖昧なままのスペースがないので、想像の幅も狭められてしまいます。

本当はその背後の分類すら出来ない膨大な未知の塊こそ世界そのものだと思うのですが、これの認識は生半可じゃないですね(禅や道などが体感的にアプローチする所でしょうか)。

体系的な世界観が無かった時代の人間は「自分達が混沌の中に理由もなく存在している」という感覚と供に生きていたのかも知れません。
自我を持つ人間にとってこれはちょっとしんどいので、世界や人間の成り立ちを説明してくれる物語が必要とされ、先ず神話が生まれたのではないでしょうか。
やがて世界観のマジョリティが宗教や科学に取って代わられるのは、やはり神話が人々に安心感を与えるタイプの話ではなかったからじゃないかと感じます。

しかし神話のポイントは、この本能的な恐怖感や不思議さを誤摩化す術もなくそのまま表現している所だと思います。

一見荒唐無稽なギリシア神話もあらゆる自然界の暗喩に満ちていて、自然に対する畏怖に貫かれた表現には科学にはないリアリティがあります。

自然の影響をもろに受けて生きていた時代の神話に見られる「我々の存在等気にもかけていない、強大で横暴でスケベでワガママな神々(自然)に、組み敷かれつつ守られつつ生きている人間」というような意識は、高い人格を持つ神様や安定した物理法則に守られた人間存在の理念よりも、ずっとリアルに感じます。
森や海を神話でとらえていた時代の人は、自分達を取り巻く広大な未知の部分を未知の部分として意識していたからでしょうか、翻弄される人間の立場、人間の無知と無力を良く理解していたということが神話や言い伝えからは伝わってきます。

また多くの神話には滅びの予言があり、人々はいつか世界がバランスを欠いて崩れてしまう、という恐怖に日々怯えながら暮らしていたそうですが「危なげなバランスの上に立っている」とか「生かされている」という感覚は今こそ必要な意識かも知れませんね。

もちろん科学は素晴らしい恩恵を与えてくれる、我々の生活とは切っても切れない大切なものです。
でも賢明な科学者程、掘り進む程に「人間なんて何一つ知らない」という事実を感じるというようなことを言いますね。
正しい認識の科学はテングのハナにならないのでしょう。

最近考えていた事まで、つい長々と書いてしまいましたが、もちろんこんな事は意識しなくても神話は十分楽しめますよ。
絵画のような美しい表現や詩的な展開と、現代では許されないようなエロスとグロテスク、残虐性と荒っぽさのダイナミックな表現に心を奪われます。
科学的常識に毒されていない時代ならではの驚きの発想力が大変魅力的です。
現代の文学のようにストーリー展開に期待するよりよりも、この発想と感覚を楽しむと良いと思います。

また、科学的常識は忘れ去って挑みましょう。
世界の始まりが「熱も音も無い暗闇からかすかな動揺が始まり、ささやきとうめき声が起こり、光明が現れ昼にまで成長した」と説明されれば、その様を思い浮かべ、それが発展して今にまでつながってるんだなぁ…と、本気で信じながら読みましょう。
太陽神の話なら「お日様は宇宙空間に浮かぶ恒星で地球の方が回っている」という固定観念を捨て「あの空の光は神様だったの?!」と思い込み、輝きながら毎日天空を旅する神の姿を太陽に見て読んだ方が楽しいです。
「昔の人はそう考えたんだ」という姿勢で読んでしまうと、面白さは半減します。

どうぞ全ての常識を忘れ去って、いにしえの世界観にどっぷり浸かって見て下さい。

果たしてこんなくどくどした長話に最後までつき合って下さる方はいるんでしょうか?
そんな奇特な方には感謝を込めて、大した話ではありませんが一つお教えします。
夜の時間帯に店内ガラスショーケースの前に立って入り口側のラン間を見上げると、その角度からだけ天井板に絵窓の星が写り込んだ様子が見えて、ちょっとキレイです。
ごめんなさい、それだけです…。


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例のヤツ出ました。

2010.07.08 Thursday 01:07
いよいよ暑くなってきましたが、時々降る雨が程よく熱を冷ましてくれますね。

先日開店前の掃除をしている時にぶーんぶーんという強い羽音が聞こえたので、もしやと思ってプランターを探してみると、一匹のカブトムシが植木にとまったまま羽ばたいておりました。
この前お話しした(→生き物の色と姿)例のヤツが、土の中から上がった直後で羽を乾かしていたようです。
女の子です。
取りあえずカゴに入れて、翌日樹液ゼリーをやりました所ちゅうちゅうと吸い始めたかと思うと、そのまま固まったように10時間以上も吸い続け、結局体程もあるゼリー1カップを一匹で空けてしまいました。
羽化後の摂食を後食というのだそうですが、長い断食生活の後で死ぬ程お腹が空いていたのでしょう。

子供の頃には目もくれませんでしたが、こうしてじっくり見るとメスカブトは丸っこくて中々かわいらしいです。
薄いビロードの様な毛に覆われていて、窓の光に当てるとキラキラします。
などと思っていると2日後にはバカ力でカゴの上蓋を開けて脱走し、昼間にお客様(女性)のいらっしゃるベンチの肘掛けに突然現れてしまったりするので、油断なりません(もうさせません<(_ _)>)。

しかしあんなイモムシみたいのを土に放り込んで水だけやってたら、ちゃんと自分で変態をして、立派な節を持った美しい甲虫が出てくるのだからスゴいシステムですよね。
実際目にすると、アレがコレになるって、ちょっと意味分かんないです。
そいつが、誰に教わるでも無くこれからの生活に備えてエネルギーで体を満たしている様子は感動すら覚えますし、無心でちゅうちゅうする姿を見ていると「自然てスゴいなあ」と思うことすら、傲慢なんじゃないかと思えて来ます。
文明は力とかスピードとか計算力とかいらないものばかりが大きくなって、それでヒトはついつい自然を克服したかの様な感覚を持ってしまいますが、とんちんかんもイイとこですね。
何だか、もしこのまま人類が滅んでも自然界はそのまま残ってたらいいのに…とか、ニヒリスティックなことまで考えてしまいます。

所で、もう一匹いた幼虫はどうしたのでしょうかね?
そのまま土になってしまったんでしょうか。
うーん…でしょうねぇ…。

さて、ギャラリー情報です。
アール座展示コーナーでは、7月後半から秋までギャラリー展が続きます。

一発目は、人形作家日野まきさんのpaperdoll展です。
「紙の上の空」7/16(金)〜/29(木)
立体も手がける作家さんですが、今回は不思議なお話のような世界観を放ちつつ、ひらひらと揺れる繊細な紙人形作品の展示です。
詳細→http://www.kitchen-kiki.org/information.html

ご観覧の方には、1ドリンク以上のご注文を頂いております。
店内では作家さんとの、またはお客様同士のお話が出来ませんので、ご了承下さい。

その後8月前半には去年もご好評を頂いた、脊髄の反射神経でシャッターを切る謎の写真家、知紅(トモコ)さんの新作写真展第2弾「ジョウケン反射」が控えております。

その後もバリエーションに富んだ展示が続きますので、乞うご期待です!

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詩の力

2010.06.08 Tuesday 23:02
次第に空気が湿って来ましたが、このまま梅雨入りするのでしょうか。
今年は雨音が鳴り出したら、室内にこもって(毎日こもってますが…)詩の世界に浸ってみるのもいいかな、とか思っています。
というのも、この前TVで詩人まどみちおのドキュメントを見て、現代にもこんなスゴい偉人がいたんだなぁと驚き、思わず詩集を買ってしまってからのことなんです。

御年100歳になるこの老詩人は、散歩中に出会うアリや枝先に芽吹く新緑、池の水面の波紋などにただならぬ好奇心を示し、何時間も眺め続けたりする素敵な人です。
身の周りに起こる全て出来事と真摯な姿勢で向かい合い、この世界の不思議さ、生命への畏敬の念を唱い続けています。

日本人なら誰でも知っている「ぞうさん」という童謡がありますが、作詞をされたまどさんが番組の中であの歌の真意について語っておられました。
「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね」という冒頭部分には、実は皆で仔ゾウをからかっているニュアンスがあるのだそうです。「お前ずいぶん鼻が長いなあ、鼻が長くてヘンなヤツだなぁ」と。
普通こんな風に言われたら「本当にボクだけ何でこんなに鼻が長いんだろう」と傷つき、自分を卑下してしまう所ですよね。

ところがあの歌のゾウ君は、皆とは違うその特徴を、悲しむどころか少しも恥じることなく「そうだよ!ボクは鼻が長いんだ」と堂々と肯定してみせます。
この世に持って生まれた自分らしさを恥じる気持ちなど、みじんもありません。
そしてさらには「ボクの大好きなお母さんも鼻が長いんだよ」と誇らしげに言ってのけます。
親から受け継ぎ、神様から頂いた個性を喜び、誇りに思う気持ちが歌われている詩なんだそうです。

ヤバいですよね、この歌。説明しながらも泣きそうです。
何も知らずにお遊戯で歌わされる歌ですが、場合によっては人生観を変えられてしまうような強いメッセージです。
ともすると人は他人の価値観で自分まで評価してしまいがちですが、このゾウ君を思うと、人と違うとか皆とズレてることって素晴らしいことなんだなぁと思えてきます。

詩の威力はすごいですね。
他の言語情報とは違って、作者がその時感じた情感が直接心に届く感覚は絵画や音楽に近い気がします。
色彩や音符を扱う様に、一つ一つ単語のイメージを配置してゆくからでしょうか。
文章を組み立ててしまう僕などは、直感的に言葉をつづる「詩」というものが中々書けないのですが、それでも時々無性に詩集などを読みたい気分になることがあります。

そこで今月は詩集をおすすめしてみたいと思います。

アール座の書棚にも、多くはないですが詩集を集めたボックスがあります。
そこから抜粋したものを例によって長机のおすすめコーナーに陳列致します。

僕が最初に詩に興味を持ったのは萩原朔太郎だったと思います。
感受性むき出しの深く傷ついた病的な表現がとても美しく、またカッコ良く感じました。
その時代はセンシティブな感覚がネクラと言う言葉で疎まれてもいましたが、その反面強いカリスマで、ある種の人々を惹き付けていました。
中原中也銀色夏生なんかも人気だったでしょうか。
僕もどうしてか暗いものに心が安らいでしまう質なので、迷わずどっぷり浸かっていました。
病める朔太郎が見た戦慄と恐怖の表現などは、今読んでもぐっと来ます。

他に歯切れ良いリズムで鮮やかに詠い上げる室生犀星や、感性豊かで深みのある高村光太郎などの詩も好きです。
どちらも美しい情景描写に透ける様に詩人の信仰や思想が写っていて心地よいです。

自然と哲学、この世界への尽きない興味、という視点において、まどみちおの先駆は宮沢賢治でしょう。
とにかく色彩感覚とビジュアル表現が鮮やかで、実在の色や光では再現出来ないと思えるような超越した美しさがありますが、美しい森の写真に賢治の言葉を添えた写真詩集「シーズン・オブ・イーハトーブ」は、そんな限界にも迫っています。

一つ一つのことばを丁寧に紡いで詠う岸田衿子の詩も良いです。
詩画集「ソナチネの木」では、安野光雅の柔らかくもエキゾチックなイラストと美しく溶け合い、何とも幻想的です。

有名な「たいようのおなら」は7、8歳以下の子供達の作品を集めた詩集ですが、その見事なリズム感と斬新な発想たるや職業詩人を凌駕する感があり、初めての方には必見です。

他に詩ではありませんが、さすらいの俳人山頭火の味わい深い句集も良いです。
僕が崇拝する乞食坊主良寛の漢詩は、是非、絶品の筆跡及びその解説と共にお楽しみ下さい。
道を切り開こうとする者には大変な力をくれる岡本太郎の言葉たちも、魂のこもり方が詩的ですらあるので(こじつけ)一緒に並べちゃいます。

詩というと繊細でロマンチックなイメージばかり強いですが、実際にはたくましさや力強さ、きっぱりとした潔さ、カラッとした心地よさに貫かれているポジティブなものの方が意外に多い様に感じます。

我々が当たり前に手にしているものの素晴らしさを教えてくれるまどみちおの詩の様に、ポジティブな感覚の言葉はうまく感性が合って内面にまで響いてくると、ただならぬ力を与えてもくれます。
言葉一つで人生が変わったと言うような話はよく聞きますよね。
場合によっては長い憂鬱の時期を切り替えるターニングポイントにもなるでしょう。

もちろん難しいことは考えずに、ただ単純に詩を楽しむ時間も素敵ですよね。

梅雨時は内面をチャージするのに絶好の季節ですので、喫茶店で詩にどっぷり浸かってみてはいかがでしょうか。

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生き物の色と姿

2010.05.12 Wednesday 00:05
こんにちは。
長い冬が終わって少し夏になって梅雨…と言う感じの分かりづらい季節の巡りに、野の花も「もうイイのかな」と戸惑いつつ咲いているように見えるのは気のせいでしょうか。
こうへんてこな季節だと、時候の挨拶も小難しくなってきます。

この春に、近所のホームセンターでカブトムシの幼虫を配っていたので、2匹程頂いて来て、店の一番大きなプランターの湿った土の中に腐葉土と共にぐりぐり埋めこんでおきました。
パック詰めで置かれていた時点でふにゃっと弱っていた感じだったので、そのまま土の養分になってしまう可能性も大ですが、この変な季節をやりすごして無事変体を遂げてくれるのか、水やりしつつも土の中が気になる今日この頃です。
この夏に金魚鉢の席の後の木に、黒光りする甲虫が這っているのを見つけた方はお知らせ下さいね。
  
そんな僕が最近ハマっているのは、生き物のデザインです。

力学的に洗練されムダがないからなのか、そもそも自然界の姿が我々の美的感覚の基準になっているからなのか、とにかくどれを取っても素晴らしいフォルムと色彩ですよね。
誰もが美しいと認める色鮮やかな連中から、ちょっと見には地味だったり気持ち悪いようなもの(蛾やクロゴキブリすら)でも、先入観を外してよく見てみると結局どれをとっても完璧なデザインだなあと感心してしまいます。

自然美と人間が作った美しさの根本的な差は、きっと作為の有無にあるような気がします。
どんなに悟った芸術家の作品も、純真な子供の作品も、アート(人間が作る美)からは「こんなのどうよ」という気持ちを完全に消し去ることは出来ないように感じます。
長所にも短所にもつながる所ですが、アートのモチベーションの根源にある「他者に伝えたい」と言う姿勢は、自然の美しさの中には存在しないものです。
異性にモテるための美しさというのは自然界にも存在しますが、それとて、長い時間をかけて自然と形作られたものであって、感情から意図的に作られたものではありません。

当たり前の事ですが、誰に褒められなくても山奥の谷間の絶景に静かに雪が降りつもったり、深い森の泉の水面に満天の星々が映し出されたりと、誰も見ていない所で世にも美しい情景が、美醜の概念も無く「ただ展開している」というような超然とした自然美には、何だか人間のアートとは次元の違うスゴミをも感じてしまいます。

そんな興味から生物写真関係の書籍を増やそうと、最近動植物や昆虫関係専門の書店に行ったりしました。

無数のジャンルに分類された生物学の専門書籍の棚を前にすると、「生物というものはよくもこれだけ無数のデザインに分化したものだなあ」などと感じてしまいます。

また、それにもかかわらず「種」という概念を進化全体でよくよく考えると、全ての種は微細な変化の繰り返しで分化してきたもので、必ず切れ目なく他の種と繋がっています。
進化史を早回しにて見ると、実際には種と種の境目など存在しないので、生物界全体は無数の生死を繰り返しつつ無数の姿に変形し続ける一種類の「不定形軟体生物」のようにも思えてきます。
「キノコからクジラまで全ての生物は区分出来ない一かたまりの一族なんだなぁ」などと、虚ろな目をしつつ書棚の隙間で考えたりしていました。
はた目に見たら怪しいですね。
マニアックな空間には人の思考を怪しい方向に向かわせる磁場があります。

アール座読書館では、専門書よりも写真集や図鑑のようなビジュアル的に見ごたえのある動植物本を中心に揃えてあります(中央、3、4段目)。
クジラや恐竜、クラゲ、馬、その他様々な生物の写真集、図鑑など、中々見ていて飽きないですよ。

特に今月はその中から、蝶と蛾、深海生物、動物の全身骨格(「EVOLUTION」 必見!)等の写真集をピックアップして、壁際の長机に陳列してありますが、どれもかなり見応えがあります。
お茶を飲みながら様々な生物のフォルムを楽しんでみてはいかがでしょうか。

昔、こんな風に様々な動物のフォルムを眺めた後に外に出た時、街を歩く人間達の姿体が、なんだかウネウネと動くへんてこな生物の群れに見えて、ちょっと「うわわっ」てなったことがあります。
僕は大丈夫なんでしょうか。

さて、6月に開催される朗読会のお知らせです。
6月4日(金) 20時〜
朗読「二十歳の原点」 原作:高野悦子 朗読:春日怜
昭和44年、二十歳で自殺した女性の日記が父親によって整理され、刊行後、ベストセラーとなった「二十歳の原点」。
まっすぐな意思に貫かれたセンシティブな心情の世界を、朗読者、春日怜さんが30分に編纂し朗読します。
春日さんが、ライフワークのように毎年幾つかの喫茶店で開催している本気度の高い企画で、僕もかなり楽しみにしています。

ご予約、詳細はこちらからどうぞ→http://plaza.rakuten.co.jp/yueerde/
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取留めもない話ですが…

2010.03.28 Sunday 23:46
前に,店内のシルクジャスミンの花が咲き始めた事をお知らせしましたが、この前掃除をしている最中にふと見ると、今度は何と真っ赤な実がついていました。

花はあれ以来、時々咲いては散っているのですが、実を付けたのはおそらく今回が初めてです。
虫も飛ばず風も吹かない店内で、どうやって受粉したんでしょうかねぇ。
室内で育てているので季節感はかなりイカレていますが、種が採れたら適当な時期に欄干のプランターにでも植えてみようかと思っています。

もう一段暖かくなるとこのプランターも花を付け始めるので楽しみです。
元々は入口看板の花が終わった時に移植していた宿根植物が根付いて毎年花をつける様になったものが多いですが、中には一度種を捲いた朝顔が毎年こぼれ種で勝手に発芽する様になったものや、いつの間にか生えていた野草もあります。
こういう意表をついた発芽や開花はちょっと嬉しいですね。

自分で土を配合して水やりや養分まで気を使って育てる植物は少し気を抜くと弱って死んでしまいますが、不思議な事に勝手に根付いて勝手に育った植物というものは本当にたくましくて、ほっといても丈夫なんですね。
逆に丈夫といわれる雑草も、引っこ抜いて、見た目には同じ様に見える場所に移しても、中々根付いてくれません。
自分で移動出来ない植物は、きっとその環境との相性が切実な問題なのでしょう。

僕の祖母は園芸の達人で、垣もない庭の地面のあちこちに雑草の様に花を咲かせていましたが、今生きていたらコツなど聞いてみたかったです。
ただ、植物の世話はとにかく時間をかけて行く事が大事で、思い付きで一気に状況を良くしようとしても上手くいかない所が、色々と勉強になります。

これからの季節は花が咲いて気持ちが前向きになるので、僕は楽しみです。
人が花を見るとこんなにも気持ちが和らぐのは、厳しい冬の暮らしを乗り越えた昔の人々の記憶が残っているからなのでしょうか。
ただ、花粉アレルギーの方はそれ所ではないのかも知れませんね。
一応アール座でも、花粉がヒドイと思われる日はなるべく開店前の換気を控える様にはしております。
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