秋の虫の音楽会2011とギャラリーのお知らせ

2011.09.10 Saturday 00:32
こんにちは。

次第に暑さも和らいで、ヒグラシの鳴く寂しげな夏の終わりです。
先日まで(初夏から夏にかけて)店内で元気よく鳴いていた去年のJr.の鈴虫達ですが、みな交尾を終え…無事全滅しました。

世間の鈴虫たちと比べると、卵のふ化から全てのタイミングが少し早くなってしまいたみたいですね( ̄_ ̄ i)

室内飼育で季節感がズレてしまったことが大きいのですが、実は彼らには悲しい性(さが)もあって、美しい歌声に引かれて無事にカップルが成立し後尾を終えた後には、そのままメスがオスを補食してしまうんですね。

カマキリのそんな話が有名ですが、きっとそれと同じ様に産卵前のメスがスペシャルな栄養素を取り込むということなのでしょう。

なので鈴虫飼育では、普通タイミングを見てオスとメスを分けたりするのですが、僕はそれよりも来年に向けて元気な卵を産んで欲しいので、オス達には自然の摂理に任せて潔く食われてもらうという方針(つまり分けない)で毎年行かせて頂いております。

結果、8月の後半に鳴き声は止んでしまい、ケースを開けるとメスばかりがワラワラと歩き回っているような状態でした。
何とも勇ましい肉食系女子達です。

オスの最期の一匹とか、普通ならハーレムと言える状態なんですが、彼らの場合はどんな心境になるんでしょうね。
せめて「自分の最期はどの娘に食われよう」という位の選択権はあるんでしょうか。
そんな状態でも、必死に鳴いてメスを呼ぶのだからこちらもスゴい男気です。
命がけの恋ですね。

まぁ全て僕が仕向けたようなもんですが、また来年に向けて丈夫な卵を産んでくれていればと願っております。

そんな訳で、Jr.スズムシ達は結局当初の予想通り例年の「虫の声イベント」シーズンにまではもたなかったので、スズムシ第2陣を新たに仕入れました。

同時におなじみのマツムシ、エンマコオロギも入荷しましたが、今年はそれに加えてさらにカンタンやカネタタキといった種類の虫も加えた豪華バージョンでいこうともくろんでいます。

今(9/9)もうすでに、夜の店内は数種類の虫の声に包まれています。
僕などはかなり幸せな気持ちになりますが、それにしたって秋の虫の声程気持ちを和ませてくれる音色が他にあるでしょうか。

もちろん、沢のせせらぎ、木々の葉擦れの音、森林の雨音など自然界の音には人の心を落ち着かせてくれるものが多くありますが、鑑賞に値する癒しの音色という意味で秋の虫の声に勝るモノはないでしょう。
また、一年の内のほんのひと時しか聞けない、という所もそれに価値を加えていますね。

秋が大好きな僕には、一年の季節の流れを最も実感させてくれるのが晩夏から秋にかけての時節の様に思えます。

その時自分の人生にどんなことが起こっていようとも、それとは全く関わりなく夜空が回り季節が巡ってゆくことは、何だか寂しいような無常観と心安らぐ不思議な安堵感を与えてくれますが、これをより強く感じさせてくれる秋を演出してくれるのが、儚くも優しい虫の声です。

日常を離れ心を休める絶好の季節である秋は、元々それを目的に作られたアール座読書館にとってもベストシーズンと言って良さそうですが、これを色付けるために毎年行っている「虫の声イベント」なんですね。

ちなみに虫の声は、日本ではきっと有史以前から人々の心を和ませて来た秋の風物詩ですが、実はこれを楽しめる(右脳で聞ける)のは日本人と中国人だけで、他の地域の人はあの美しいコオロギの鳴き声もノイズと感じてしまう(左脳で聞く)のだそうです。
感性の違いなのでしょうか、とにかく日本人独特の文化なんですね。

さて、今年で4回目となる「アール座 秋の音楽会」(今名付けた!)にて、素敵な音色を奏でてくれる楽団の小さなミュージシャン達をご紹介しましょう。

言わずもがなのスズムシは、やはり音色が絶品ですね。
誰もが知っている「リイィィィン…」という音色は単体ではもちろん、こうして多くの音色を同時に合わせる時にも、まとめ役として全体を美しく繋いでくれます。

マツムシは、一瞬小鳥かと思うような大きな声で鋭く「ピンッ ピリリッ」と鳴きます。毎年、この子達が断然目立ちますね。
アンサンブル全体を引き締め、緊張感を与えてくれます。

コオロギで最も美しい声と言われるエンマコオロギが発する、見た目に似合わぬ大変柔らかい「ヒョロロロ〜」という声は、僕の大好きな声です。
彼らとスズムシの二重奏が、このオーケストラの骨格になります。
特に今年のコオロギ達は非常に元気が良く、いつもより張りがあるし、数も多いのでサラウンドに配置してみました。

そして今年の目玉は、鳴く虫の女王とも呼ばれるカンタンという虫でしょうか。
虫達はそれぞれに声量が違うので、ケースの置き位置や防音措置などでそれを同レベルにそろえるのですが、今年はこのカンタンの儚げな声をフロントに配置出来たらとも考えています。
「リューリュー…」と、「幽玄を感じさせる音色」とまで言われる侘びの効いた繊細な声をお楽しみ下さい。

また小刻みな声で「キンッ キンッ」とアクセントを加えてくれるカネタタキは、毎年いらして頂いているお客様がご自宅の近所でわざわざ採集して持って来て頂いた、これも今年初登場のありがたい参加者です。
とても神経質な子達で、ずっと鳴き続けてる訳ではありませんが、ノッて来るととてもいい感じで鋭く音を刻んできます。

いずれにせよ今年は種類も多く、音量の調整も悩まされそうですが、きっと素敵な音楽を奏でてくれると思います。
そして彼らが特にノリの良い時間は、例のごとくBGMを切ってしまいます。

ちなみに、彼らが最も力強い音色で夢のような幻想的な音楽を奏でている時間帯は、悲しいかな照明の消えた閉店後なんです。
まぁ、自然の美しさですから人間が都合良く所有出来ないのは当たり前ですね。

皆がフルパワーで演奏出来るのはおそらく9月いっぱい位でしょうか。
やはり日暮れ以降の遅い時間の方が鳴き声は盛んで、日が進むにつれオスが食われて、音の厚みは少しづつ減って行きます(何というオーケストラ…)。

各お座席にはいつも通り、手作りの「虫の声鑑賞ガイドブック」を置いておきます。
種類ごとの解説や、秋の虫に関する日本の古い風習などまとめてありますので、興味のある方はこちらもご覧下さい。

これだけ美しい声の種だけを集めて一緒に聞ける機会というのは、自然環境でもかなり難しいでしょう。
ぜひお茶を飲みながら、ゆっくりと耳を傾けて様々に思いを巡らせて頂けたらと思います。

さて、9月のギャラリーのお知らせです。
秋の展示は彫刻家の春山恵美さんです。

春山恵美 個展
9月13日(火)〜25日(日)  

作家さんブログ→http://d.hatena.ne.jp/haru19870421/

アール座の展示スペースギリギリの大型オブジェやエッチングなど実にインパクトのある作品群は毒々しくも哲学的で、胎児のようで樹木のようで妖怪のようで女体のようで…何というか不思議な生命感の溢れる作品展です。

環境にも人体にも有害とされるFRPをメイン素材に制作された有機的で無機質な物体(生命体?)が、環境と生命の謎にダイナミックに迫ります。
何とも説明しづらいので、とにかくご覧下さい(笑)。
※ご観覧の方にはドリンクのご注文を頂く形になります。

カンタン
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夏、妖怪と日本の自然

2011.08.13 Saturday 00:52
こんにちは。

今お盆ですが、これから暑くなるんでしょうか。
いつもここで書く時候の話がそれ以降の天気とことごとく外れるので、何かもう、思い切ったことが書けません。

別の話をしましょう。
いま、店内の窓際前から2番目と3番目のお席に座って窓の外を見やると、プランターから黄緑色の蔓植物が縦横に蔓草を伸ばし、その先に白い小さな花と風船みたいな中空の実をつけている様子が目に入ります。

ホオズキにも似ていますが、もっと小振りの可愛らしいこの植物は「風船葛」といって、この春先に種を植えたものです。
これと言って目立つ所もない地味な子なので気にしないと見過ごしてしまいますが、ぜひ気にして見てやって下さい。
風船のような実も小さな花も、くるりと巻いた蔓の先も、よく見ると本当にかわいらしいやつです。

そしてさらに、夏が終わりこの袋が破けると、中からは小さなハートのマークが刻印された種が出てきてびっくりします。
どんなの?と思う方のために、その2番目3番目のお席の引出しのどこかに入れておきましょう(今年も植える予定なので水に濡らさないでね)。

さて、夏真っ盛りですね。

冷たい飲み物と稲川淳二が恋しくなってくる季節ですが、昔から日本で怪談といえば夏、というのはどうしてなんでしょうね。
体がヒンヤリして納涼の効果があるから、といような話は何だかこじつけっぽいですよね。
霊達が行き来する「お盆」があるからということもあるでしょう。

でも、日本の夏が妖怪シーズン(?)ということも無関係ではないでしょう。

実際、妖怪と言えばなぜか夏のイメージですよね。
確かに映画のトトロに出て来たような、あの森の濃厚でうっそうとした異様な雰囲気って日本では夏場に特有のものだし、そんな季節にはきっと精霊だの妖怪だのの自然霊も動植物と同じように活発になる気もします。

ということで、何だかこじつけっぽいですが日本の夏は妖怪のシーズンということに決まりました。
8月末にはお店が夏休みを頂いてしまう(スミマセン)ので、すぐに9月になってしまいますが、夏の後半に向けて妖怪本をオススメして見ようと思います。

さて皆さん、いると思いますか?
今、霊を信じるかと聞かれて肯定する人はおそらく過半数を軽く超えるでしょうが、妖怪となるとどうでしょうね。

人の魂由来のいわゆる幽霊に比べ、動物や自然霊のようなモノの擬人化であるキャラっぽい姿は、何だか見た目にもコミカルだし、科学がなかった時代の人々の迷信というニュアンスが強いですよね。

僕なんかはその手の話を大抵何でも信じてしまう方で、人の噂話や詐欺の臭いがなければ、かなりうさん臭い話でも大抵は鵜呑みにするようにしています。

小人を見た知人の話や大きな竜が空を横切っていくのを見たというおばあちゃんの話はもちろん、子供の頃自宅の裏山で体長2mの巨大アリを見た、と言って皆にバカにされていた西村知美の話も、きっと真実だろうと思っています。

宇宙人にさらわれた人の話だって、「宇宙人誘拐は一種の睡眠障害で自己催眠の様なもの」という説明だって、それぞれに、それはそれで信じてしまうので、何だか信念と言うものがないようですが、唯一嫌いなのは「そうに決まっている」「そんなことあるはずがない」と決めつけることで、この姿勢は何の得もないばかりか生活を味気なくするので極力避けるようにしています。

だから僕は、妖怪なんて余裕で現存生物(?)に数えています。
でも、昔の人々って普通の生活がそんな魅力(恐怖)に囲まれて生きていたんでしょうね。

科学的常識が圧倒的な信憑性を得ている現代社会と違い、神様やもののけなど、沢山の得体の知れない何かに囲まれての暮らしでは、きっと自然の中に置ける人間の位置を現代よりも正確に捉えられていたのでしょう。

霊体験の話は成仏出来ない霊魂の恨みつらみから発したネガティブな話が多いですが、比べて妖怪の怪談は万物の霊長とか言ってる人間が自然物にコケにされるシニカルな話が多くて面白いですね。

特に我が国特有の、狐や狸が人を化かす話には本当にとんちの利いた素敵な話が多いです。

また、個々のキャラクター性においての面白さも、日本の妖怪は群を抜いている気がします。
皆容姿、性質共々に独特で素晴らしい個性を持っていますよね。

柿の実を取らずにおいた柿の木は重みで枝がしなってだるくなり、やがては「たんころりん」という名の大入道になって村をさまよい歩く様になる、という何とも味わい深い話なんて日本人ならではの想像力です。

他にも「マクラガエシ」というヤツは寝ている間に枕をひっくり返すというどうでもいいことをする妖怪ですが、こういうのが魅力的ですよね。

僕は個人的に「油スマシ」というのが好きで、何の取り柄も必殺技もないヤツなのですが、そのいかにも妖怪然とした風貌が愛らしく、子供の頃、流行っていたガンプラには目もくれずにこれのプラモデルを夢中で作ったりしました。

独自の塗装を施し、戸棚の中にその背景となる田舎道のセットを作り、戸を開けると薄暗い空間に点滅球がチカチカと光って、その姿を闇の中に断続的に浮かび上がらせるという、自分で言いますが素晴らしい出来映えのセットを作り上げ、部屋の灯りを消して一人ニヤつきながらこれを眺め続ける小学生でした(今と何一つ変わっていません)。

アール座にはいるんでしょうかね。
室内中央の地球儀が置いてあるお席の前方にぐにっと生えている木は、かの有名な絞め殺し植物「ガジュマル」ですが、沖縄ではこの樹にはキジムナーなる妖怪が住んでいると言います。
本当はもっと大きな古木に住み着く赤髪のカッパみたいなヤツらしいのですが、見かけた方は教えて下さいね。

キジムナーはカッパの一族らしいですが、妖怪の代表格である河童や天狗の一族は、土地ごとにそれぞれの呼び名とエピソードで語り継がれているようで、河童ならキジムナーの他にも奄美から北海道に至るまで、ガラッパ、カワタロウ、カワンタロウ、ガータロ、ケンムン、シバテン、カワザル、スイコ、クセンボウ、ミンツチなどなど、性格も友好的だったり恐ろしかったりと、バリエーションにとんでいます。

でも同じような幻獣が違う呼び名でそれだけ広範囲に認識されていた、というのがスゴいことですよね。
やはり、全土に生息していたんでしょうね。

そういえば西洋にはゴーストはいても、へんてこな自然の妖怪みたいのはいるんでしょうかね。
アジアやアフリカにはそれっぽい話を聞きますが、ヨーロッパで有名なモンスターと言えば小説がオリジナルの都会的な連中か、後は神話時代にまで遡ってしまう大型の怪物みたいなイメージですよね。

北欧やスコットランドなど山岳、森林地域の妖精みたいなのが出て来る民間伝承は妖怪に比較的近いでしょうか。
やはり性格もイタズラっぽかったり、害の少なそうな所が似ています。
アール座の数少ないお茶請けの一つ「ブラウニー」の名は、スコットランド伝承の小人らしいですよ。

ヨーロッパの都会では中世には既に科学が力を持っていたということや、彼らのもともとの合理主義的な気質と合わないということもあったのでしょうが、やはりその暮らしと自然が切り離されていることが関係しているでしょう。

普通、自然と深く関わって暮らす民族は何かしらのアニミズム的な信仰を持っているものですが、日本もついこの前まではそんな地域の一つでしたね。
神道やアイヌ、琉球の信仰は、いずれも豊かな日本の自然に育まれたからこその思想で、そうした大きな信仰から派生的に起こる土地土地の民間信仰には特に精霊やもののけのようなのが沢山登場します。
妖怪たちの伝承は古い自然が色濃く残る土地と人間の関係に付随して生じやすいのでしょうね。

霊感のない僕は妖怪も幽霊も見たことはありませんが、昔一度だけそんな空気をたっぷり味わったことがあります。

学生の頃僕は放浪癖があって、知らない土地をうろつくのが好きでしたが、ある夏、紀伊半島にある日本屈指の歴史を持つ修験道「熊野古道」の中辺路と呼ばれる山道を制覇しようと訪れました。

ほぼ半島の先端を横切るくらいの距離の山道で、その日の内に制覇するのは無理そうでしたが、テントを持っていたので日が暮れたら山中で野営(ホントはやっちゃダメ)でもするかと、軽く考えていました。
当時は、熊野が神々の住む霊山でとても神聖な場所だという意識もあまりありませんでした。

キャンプ場でもない山の中で一人夜を越す(ホントはダメ)のは結構恐いのですが、恐怖感のネジが足りなかったのか、僕はその頃特にそういう所が鈍くて、山中のビバークも平気でよくやってました。

所がその山はいつもと違っていて、日が暮れてくるにつれて、それまでに感じたことのない異様な恐ろしさが漂い始めました。
大体山も田舎も、清らかな空気で昼間には気持ちがイイくらいの所程、夜になると寂しく恐い感じになるものなのですが、ここのはそんなのと次元が違っていました。
稲川氏が言う所の「やだなやだなー」って感じの空気の強烈なやつと言えばいいでしょうか。

闇が増すにつれて体が感じる意味不明の恐怖はどんどん濃くなり、次第にワケも分からず本当に身の毛がよだち始め、鼓動は激しくなり「これはヤバい」「とにかく早く抜けないとシャレにならない」という尋常じゃない切迫感に包まれていきました。

「いやいや、今さらこんな山の中で焦ってもしょうがない、どこかに場所を見つけてテントを貼ろう」と気持ちを落ち着かせようとした矢先に、山の上からドッドドドッと地響きのような足音が近づき、暗闇でフリーズしている僕の鼻先を、巨大な獣(多分鹿)の黒い体が横切ってふもとの方に走り抜けて行きました。

アニメの昔話で鬼に出くわした村人が「あれぇー」とか言いながら、死にものぐるいで両手両足をバラバラに動かすアホ丸出しのオモロい走り方をしますが、あんなのはマンガだけです…と思っていたのですが、その時の僕も気がつくとその動きで走ってましたね。

鹿か何かだと頭では分かっていましたが、体がいうことを聞かず、どこへ向かうためでもなくただビックリして足が回るだけ、という全く意味のない逃走というものを実行したのは後にも先にもあれだけです。

結局その後は息が切れ、地べたに座り込みながらも懐中電灯と地図を出し、少し先に山道と並走する国道との接点を見つけ、何とかそこまでたどり着くも、地図では接している様に見えた国道のガードレールが遥か高い崖の上に見え、必死の思いでロッククライミングをして国道まで這い上がり、通りかかった地元の車をヒッチハイクして町まで連れて行ってもらうと言う、かなりダメな旅行者をやってしまいました。

車に載せてくれた人が話してくれたのは「この山で夜を明かしたりしちゃダメだ。ここらは普通の山ではないから。地元の林業の者でも絶対に夜は森に入らない。夜この山に泊まってアタマおかしくなったもんの話とか怖い話が昔からいっぱいあるよ」というような内容のものでした。

それを聞くまでは、何だか神聖な森に「出て行け」と拒まれたような気持ちでいましたが、今思えば、森の危険を僕の体が察知して走らせたのかなとも思えてきます。

長い上に恥さらしな話で何を言いたかったかと言うと、その時森が僕に向けた(にせよ、こちらが感じ取ったにせよ)あの身の毛もよだつ感覚が、まさに自然霊そのものだったんだと思います。

僕は霊感がないので、それを映像として捉えることが出来なかっただけで、きっとあれが昔の人々が体験した妖怪の感覚そのものだったのでしょう(熊野は有名な天狗の山でもあったんです)。

幽霊の怪談聞いた時みたいに、冷や〜っとする感じじゃないんです。
何というか、怪物ににらまれているみたいな動物的な恐怖感です。
いやぁ、本物の妖怪はコミカルなんてもんじゃないんですね(汗)。

そしてあそこまで強烈でないなら、あの同じ感覚は高尾山にだってありますし都心の緑地にはないのが分かります。

沖縄県には「御獄」(うたき、おん)と呼ばれる琉球式の神社が各地に点在しているのですが、ある時訪れた竹富島の古いそれは、村はずれの一角が突然深い森の様になっていて、その周囲も木々が茂っているにも関わらず、そこだけ異様に緑が濃く様々な野鳥の鳴き声が集まっている不思議な所でした。

鳥居をくぐって奥に進むほど、何だか違う世界につながっていそうな、簡単に踏み込んではいけないような感じの異様な気が漂っていて「うわわ…」となりました。
昔これに似た所あったなぁと思ったのですが、それが熊野で感じたのと同じ種類のあの空気でした。

僕には区別がつかないので、何だか神様も妖怪もごちゃ混ぜの話になっていますが、とにかく普通に目に見えるものが持つ空気と違うんです。
そしてそんな体験は大抵いつも夏でした。

はい、ウマくこじつけられた所で、この夏後半は店のおすすめコーナーには妖怪関係書籍を並べておきますね。

以下蔵書から抜粋してのご紹介です。

遠野物語 妖怪談義 /柳田國男
いわずと知れた妖怪本のバイブルですね。
このジャンルをはじめて学術的に研究した柳田ですが、あくまで調査報告として淡々と綴られるそれらの話にはドキュメンタリーのタッチがあり、かえって非常に引き込まれます。
僕の好きな狐や狸の化かし話も、各地に伝わる質の良い伝承が多数紹介されていて嬉しいです。

日本民俗学全集 民間信仰、妖怪編 / 藤沢衛邦
民俗学の研究者である著者は有名な人ではないと思うのですが、その道では名の知れた人物なのでしょうか。
そう思わせる内容の濃さがあります。
見た目もタイトルも昔の地味な学術書の体をしてはいるのですが、内容はかなり濃いめのサブカル雑学本といった所です。

いわゆるマニアの人がその専門の話を始めると話題があちこちに飛び火しつつも話が止まらない、というあの迫力があり、書名と照らし合わせても、「その話いる?」と思える飛び火エピソードがふんだんに盛り込まれていてかなりの読み応えがあります。
このジャンルに興味のある方は必見でしょう。

水木しげるの妖怪事典 他/ 水木しげる 
現代で妖怪のスペシャリストと言えばこの人ですよね。
前にこの人の書いた妖怪図鑑を店に仕入れようとして、アマゾンで「水木しげる 妖怪」と入れて検索したら、あまりにも大量の著作がヒットして、探す気にならずあきらめたことがありますが、まさに第一人者と言って良いでしょう。

この人の妖怪本にはピンキリがあるというのが通説のようですが(あれだけあればそうでしょう)、何といっても素晴らしいのは挿絵ですよね。
緻密に書き込まれたタッチの中に怪しさ、面白さ、恐ろしさ、愛らしさが見事に調和した、モチーフをよく知る(見たことがある)描き手ならではのリアルな迫力があります。

日本妖怪大図鑑
妖怪図鑑は数ありますが、どうしたって図版はまぁイラストの想像図ですよね。
当たり前のようですが、そんな中で「実写の妖怪図鑑が見たい」と言う無茶な願望を満たしてくれる希有な本がこれです。
非常に出来が良いし、妖怪の代表格を上手に網羅してあります。
実は映画が元になった企画本ですが、古本屋で見て即買いでした。
監修の水木、荒俣、京極氏らも妖怪の姿で登場。

陰陽師 シリーズ /夢枕獏
ご存知、人気のベストセラーシリーズですね。
まぁ読み物なので、小気味よい流暢な文体とカッコいいストーリーで気軽に楽しめます。
ただ、全編を通して語られる「呪」というテーマについてのやりとりは思想的でなかなか深いです。

ほとんどが読みやすい本ばかりですので、奥深い日本妖怪の世界に軽く触れてみるには良いと思います。

あらかじめ妖怪の知識があれば、もしも自分の部屋の片隅に見たこともない小さな人が座っていた時に、塩を撒いて追い払うべき奴なのか、話しかけて友達になっても良いのか、その場で判断がつきますよ。



フウセンカズラ
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節電、鈴虫、ギャラリーのお知らせ

2011.07.09 Saturday 01:03
こんにちは!
前回のブログでは梅雨入りに合わせて雨の日のアール座をおすすめした途端に、雨がパタリと止まってしまってびっくりでした。
「少しづつ梅雨の空気が濃くなって…」などと小粋な書き出しをしただけに、店主の恥ずかしさもひとしおです。

うってかわって、今度は梅雨らしからぬ猛暑日が続いていますね。

何だか夏が来る度に暑さがキツくなってく気がして、毎年のことながら気候の変動に体がついていきません。
これから夏場にかけては更なる猛暑日が続くと見込まれている上に、今年は「節電」という課題も課せられているので、少々の覚悟がいるのかも知れませんね。

取り敢えずこの場を借りて、節電に関してのご説明とお詫びを申し上げます。

先ずは、こんな事態の昨今ですが、お代を頂いてひと時を過ごして頂く飲食店としましては、夏場はどうしてもエアコンに頼らざるをえない状況が出て来てしまいますことを、どうかご容赦頂ければと思います。
一般のご家庭でクーラーを極力使わずに頑張っている方には、頭も上がりません。

また一方では、こうした事態の中ではエアコンの使用も最低限に限られてしまうため、これからの夏、特に平日の猛暑日や電力使用のピークタイムなどには最も快適な室温には至らない時間帯もあるかも知れません。
こちらもご利用の方には、何卒ご容赦頂けたらと思います。

例年ですと夏場はエアコン2台をフル稼働させるのですが、今年は様子を見つつ極力一台で、設定は出来るだけ27〜29度(実際の室温ではありません)位で行けないかと、今の所は考えております。

尚、床に置いてある扇風機はいつでもご自由にスイッチを入れてお使い下さい。
周囲にお客様がいらっしゃる時は首振り設定にさせて下さいね。
また、風が寒い方もお申し出下さい。

夏場熱を持ってしまう照明電球のワット数を下げてありますので、店内は少々暗めになっています。
照明を切ってあるお席もありますが、こちらはご利用の方がいらっしゃれば点灯させますので、遠慮なくお座り下さい。

すみませんが、エアコンがついている時は窓を閉めておいて下さい(ついていない時の開閉はご自由にどうぞ)。

あと、お水のおかわりはいつでも言って下さいね。
あまり店主が客席をうろつくべき店ではないと思い、基本的にウチではこちらからのウォーターサービスを行っていないのですが、お水が欲しい方は我慢せずにお声をかけて下さいね。

色々と不自由をおかけしてスミマセン。m(_ _)m

もちろん居づらい程暑くなることはありませんが、少しでもお役に立つかと思い、今度試しにお手洗いに市販の制汗スプレーを置いてみようと思っています。
胸元にシュッとやるとヒンヤリ感じるアレです。

使い切るペースがあまりに早かったりすると置き続けるのは難しいかもですが、意外に体感温度を下げてくれるので、置いてある時は試しに使ってみてね。

元々アール座では、昔よくあった飲食店のクーラーをフル稼働してキンキンに冷やすやり方をあまりせずに来ました。
ヒンヤリする程の不自然な冷気を提供するのはあまり好きじゃないんです。
町を暑くするし、体に良いワケないし、回転上げ作戦(入った時気持ち良くて長く居ると冷える)だし。

でも「やっぱり入った時気持ちイイ方がイイ!」という方はどうかご容赦下さいね。

所で最近は、店の向かいの建物が取り壊されたため(騒音によるご迷惑をおかけしました)、北西部分がとても風が通る様になり、さらに向こう側がお寺さんの敷地なためか、何だか気の通りまで良くなった気がします。

この後あの場所はお寺への通用口になるそうなので、きれいなお庭の緑がずっと見えているのでしょうか。
だといいなぁ。
もう少し涼しい季節になったら窓を開けて風を入れようと思っております。


さて、今年もそろそろ店の鈴虫が鳴き始めています…て、ちょっと早いですよね。

例年は虫の声を晩夏〜秋のイベントにしようと、8月末に成虫を仕入れていたのですが、毎年のことになって来たので今年は去年の卵を孵して育てようということにしたんです。
で、育ててみると、実際には成長の早い奴がもう6月から羽をそろえて鳴き始めてしまうんですね。

鈴虫の飼育には普通、植物性(野菜など)と動物性の餌を与えます。
後者の餌としていつもはカツオ節や煮干しを与えていたのですが、今年は用意がなかったので、いつも熱帯魚にやっているフレーク状の乾燥餌をくれてやった所爆発的な食い付きを見せ、そのせいでしょうか、みるみる内に大きくなってしまいました。

やはり自然物とは食いつきの良さが違うのでしょう。
「スズムシのエサ」として開発されたモノですらないのに、ペット産業メーカーの開発努力は恐るべしですね。

昔実家で猫を飼っていた時、ウチの二番目の姉が猫に与えていたキャットフードをふいに一口食べて「あ、美味しい…」とつぶやいてから止まらなくなり、それからしばらくの間はいつも家の中で、猫の顔が印刷された徳用サイズの紙袋(缶詰とかでない乾燥固形フードです)を抱えつつ、それをバリボリと口いっぱいにほおばりながらTVなんか見てました。

子供心に「このままではお姉ちゃんが猫になってしまう」と、とても恐かったのを覚えています。
幸いある時から急にパタッと食べなくなりましたが、恐いのは、今その時の話をしても本人に全くその記憶がなく「そんなもの食べる訳ないじゃん」と、笑って真に受けてくれないことです。

メーカーの開発努力の話をしようとしたのですが、今読み返してみると動物霊に取り憑かれた話にしか聞こえない内容ですね。

店のスズムシ達はまだ小さいのも沢山いますが、この分だと9月までもつかどうかも微妙です。
虫の声イベントは夏の終わりのちょっと寂しい時期に侘びた虫の声を、という演出でもあったのですが、でも本来は夏に鳴くヒト達なんですよね。

そんな店主のあざとい思惑をよそに、一心不乱に鳴いている虫達の声は鳴き始めの頃よりもずっと上達して、より美しく澄んだ声に磨かれて来ています。

羽が生えた直後は「ジ、ジリ…」とか「フィリフィフィ…」とか「テレレ…」とか不細工な感じに鳴き始め、「ちゃんと鳴けない子達なのか?」と思わせるつたなさなのですが、こんな声でも恥ずかしがることなく一生懸命鳴き続けます。

でもそれを来る日も来る日もひたすら繰り返していく内に、いつの間にか鈴虫らしい「リリリ…」という音を奏で始め、「お、鈴虫…」と思えるような声になってきます。

で、彼らが偉いのはそこで満足せずに、さらにさらに無心に鳴き続けるんです。

すると音はどんどんと広がりを見せ、音色はますます美しく澄み、ついにはあの不思議なコーラスが効いた鈴虫特有の「リイィィィィィィィン…」と心の奥に響く幻想的な鳴き声に到達するんですね。

あのつたない鳴き声の子達がひたすら鳴き続けてこの声を造ったのかと思いながら聞くと軽く泣けてきます。

鳴き始めの頃に「よし、6つある虫かごの内の一つに、特に音楽性の高いエリートばかりを集めてアール座聖歌隊を作ろう」「ああだめだ。近くに寄ると鳴きやんでしまうので、どれがどの声の主なのか分からない…」などとやっていた自分のアホさと俗っぽい能力主義がイタいです。

なので、今年は自然の成り行きに任せて夏の夜を虫の声で飾ってみようかと思っています。
8月になったら、他の種類の虫も投入予定ですので、楽しみにしていて下さいね。

さて、ギャラリー展のお知らせです。

最近お問い合わせを多く頂いているアール座ギャラリーですが、現在の所はっきり確定しているのは、7月下旬から絵画と人形展、9月中旬からはオブジェと絵画展、11月下旬から年末までのコレクション展の3つです。

震災の影響でキャンセルが続いたため、年内は結構空きがありますので、お考え中の方はお気軽にご相談下さいねー。

先ずは7月

清彰子個展「ルック アット ミー展」 
7月23日(土)〜8月5日(金) ※29日(金) 午後4時〜7時は貸切

幻想的な童画と人形の作品展です。
アール座ギャラリーにはクラウンやイタリア喜劇系の作品の出品が多く、空間にもよく似合うと思うのですが、今回もそんな雰囲気たっぷりの作品達が店内を幻想的に飾ってくれます。

「人は誰でもずっと、だれかに自分を知っていてほしい。だから私も作品を作りつづけてきた。絵も人形も、私の代わりに叫んでるの。ルックアットミー!ってね」と語るのは、今年86歳になるアーティスト・清彰子さん。

86年分のルックアットミー!ぜひご覧下さい。

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古代美術と民俗美術

2011.06.13 Monday 15:31
少しづつ梅雨の匂いが濃くなってきましたね。
店の虫カゴでは、去年の秋に鳴いていた鈴虫のジュニア達が卵から孵って夏を待ちわびています。

アール座は雨の週末に混んだりするヘンな店ですが、「晴働雨読」といって、日本人は昔から野良仕事が出来ない雨の日には家で本を読んできたんです。
何だか宮沢賢治みたいでカッコいい生き方ですよね。

外にいる時に突然降られると困ってしまう雨ですが、室内から窓越しに眺める雨はとても心地良いものですね。
そんな日には雨音や濡れた草や葉、窓ガラスをつたう雫が楽しめる窓際のお席が特におすすめです。
店内で夕立に降り込められるのも悪くないですよ。

さて、今月は「古代美術と民俗美術」の本をご紹介です。
なぜ今?という理由が何もない、ただの思いつきです。

意味合いの違う二つのジャンルを強引にひとくくりにしてしまいましたが、時代のモードや経済の影響が少ないプリミティブな感覚から生まれた美術は、貴族趣味や近現代の文化的な美術とは違った、強い生命力と豊かな霊感の魅力に溢れていて素敵です。

なかなか触れてみようと考える機会の少ないジャンルだと思いますので、どこかでおすすめ出来たらとは思っていたんです。

よく雑誌の方がお店を取材して下さる時に「この本全部の中で一番読んで欲しい一冊は?」というなかなかハードなご質問を頂くことがあり、あわあわしながら幾つもあるフェイバリットを思い浮かべ、ムリヤリに一冊上げさせてもらったりしてますが、そういうケースで苦し紛れにも最多登場しているのが、あろうことか「縄文土器文化」なるぼろぼろの図鑑だったりします(大概掲載されません)。

こういう所、アール座っぽいですよね。
おしゃれなブックカフェオーナーのカッコいいセレクションとはひと味違います。

しかし侮るなかれ。じっくり見てみて下さい、縄文土器。
ヘンな言い方ですが、ちょっと日本人離れした凄まじい力強さがあります。

かの岡本太郎を唸らせたのは有名で「何千年も昔に俺のマネをした奴らがいた」とか「この文様は深海魚だな。奴らめ、深海を知っていたな」などの素敵な名言を残させていますが、確かに図版の拡大写真(また出来れば各地の民俗資料館などで実物を)をじっくり見ると、恐い程の生命力があります。

日本人離れと言いましたが、有史以降の日本人は土着の縄文人と大陸から入ってきた弥生人のハイブリットと言われていますので、純粋な縄文人の美的感覚はそれと少し違うということなのかも知れません。

日本列島の両端に住むアイヌと琉球ルーツの人々がそれに近い(本州に大陸系民族が入り、南北に勢力を拡げたため)とも言われますが、その文化は確かに日本文化特有の「わび」の感性や女性的な繊細さよりも、海洋の島々の民族文化やアイヌ、琉球の文化に通じる野性的で躍動的な美意識が見て取れます。

乱暴に言うと土偶と埴輪の違いの感じでしょうか、文様も複雑でしつこい位のアクの強さがあります。

それにしても世界最古と言われる土器文化にこのクオリティの芸術性が備わっているというのはスゴいです。
人間て元来芸術家なんですね。

一方の弥生土器は、縄文好きな人には面白くないと言われたりしますが、これはこれで非常に詫びた美しさを持つ名器揃いの文化で、縄文とは赴きが違う感性の芸術です。

こちらは文様よりも印象的なフォルムで勝負している感がありますが、非常にシンプルで繊細かつ大胆なデザインには、大和時代以降の日本文化の根底に流れる、いわゆる「和風」の感性が既に現れていて、侘び好みの美しい土器だと思います。

アール座のショーケース最下段には中国土器が飾られていますが、実はこれも紀元前の先史時代(殷以前)にまでさかのぼる相当に古いものです。
骨董商を営む叔父から開店祝いとしてもらったもので、かつては数百万程の値がついたものらしいですが、その後どこからか大量に出土し、その価値が百分の一に下がったという悲しい代物らしいです。

骨董の価格にはこういう所がありますので、あまり振り回されなくても良いんですね。

関係ないですが、僕はシジミの味噌汁って、旨味ばかり強いフカヒレや燕の巣のスープよりもずっと味が深くて質が高い味なんじゃないかと思ったりします(本当に美味しいの頂いてないからかな?)。
もし珍しいモノだったら高値がついて注目されそうなのに、ありふれてるから見向きもされないものって沢山ありますよね。

骨董価値は希少性と人気(美術的価値など)が重なると跳ね上がりますね。

よく「まんだらけ」とかで、自分が子供の頃遊んでいたおもちゃに信じられない値がついていて驚きますが、ウチにもあるんじゃないかと考えてみると、大抵は残っていたとしてもボロボロで原形をとどめておらず、コレクター趣味の薄い時代に子供の玩具があんな状態で残っているのは奇跡に近いよなぁと思ったりします。

古いものが現代のものより質が高い骨董価値は美術品、工芸品に多いですね。
専門家は「古い時代に作られた物は本当に良いんだ」とよく言いますし、現代工芸において匠と呼ばれるような名人達が口を揃えて「昔の職人の技にはどうやっても追いつけない」と嘆息するのを良く耳にします。

趣味や情報も便利な道具も少ないからでしょうか、職人さんの技術も精神性も、時代が下る程レベルが上がるのだという認識が、職人の世界にはあるようです。

ショーケースにも置いてあるガンダーラ仏像がそんな古代の魂を垣間見せる品々なのですが、こちらは文化的な仏教美術ですので、別の機会に仏像特集かなんか設けてスポットを当てたいと思います。

で、確かにウチの中国土器(やっと話が戻りました)も大変力のある独特のフォルムと何とも美しい風合いを持っていて、大ぶりで色の強い花なんか生けると、素晴らしく映えます。

日本の縄文とも弥生とも違う独特の造形ですが、先史時代の感性って本当に野性的で、現代人がなかなかまね出来ない所があります。

以前僕は何も知らずにこの壷に直接水を入れて花を生けていたのですが、何だか表面が湿っぽく柔らかい粘土のような質感になってきたので、あわてて水を抜いて叔父に尋ねると「土器に直接水を入れたらダメだよぉ!」と笑われました。

土器は陶器の様な高温で焼き締められてはいないので、水に弱く、花を飾る時は壷の中にガラス瓶を入れてそこに生けるのだそうです。(;^_^A

それにしても、数千年も前に遠い異国の見知らぬ職人さんに作られたこんなヤワな物が、よくもまぁ形を保ったまま現代のこの店までやって来たものだと思うと、何だかかわいく思えてきます。

中国で土器、陶磁器と並ぶ文化に青銅器がありますが、これも僕の大好きなジャンルです。
縄文土器の力強さにとても近い印象を受けますが、中国青銅器は複雑な装飾を施した銅器の文化で、先史時代から中国史に連綿と受け継がれる、縄文に匹敵する力強い芸術です。

特徴的なのはその表面に施される、迷路のように細かく複雑な渦巻き状のトウテツ文様でしょう。
饕餮(トウテツ)とは中国に伝わる伝説の怪物で、呪術や祭事に使われることの多かった銅器に魔除けの意味で刻まれたこの羊の角のデザインが複雑に進化した様式です。

我々が中国をイメージする時についてまわる、あのラーメン屋ののれんや丼の縁にある四角い渦巻き模様もこれがルーツらしいのですが、見ていると目が回るような吸い込まれるような魔術的な力があります。
それに加え、青銅器は重厚に鈍く光る黒鉄色とエメラルドに輝く銅錆びの色合いも魅力的ですね。
青山の根津美術館なんかにはコレクションが充実していますので、興味のある方はおすすめです(常設展示されているかご確認を)。

さて、人類の絵画史において太古のものが現存するのは壁画ですよね。
教科書で習ったラスコー洞窟、アルタミラ洞窟の壁画が、いわば人類芸術文化のルーツを垣間見せてくれます。

描かれる動物たちの美しいフォルムと素晴らしい躍動感は、発見以来、現代の世界中のアーティストを驚かせてきました。

どんな人が描いたのかと考えてしまいますね。
専門の絵描きがいたんでしょうか。
毛皮を羽織った毛むくじゃらの原始人(イメージ)があんな繊細なセンスの絵を一心に描いている光景を思い浮かべると、何だかカッコいいですね。

今回は話がひどく脱線するので、どんどん外れていきましょう。

人が作った道具でウチの店にある一番古いモノは、間違いなく書棚中央最下段の図鑑コーナーに何気なく置いてある石器でしょう。

レプリカと思っている方も多いと思いますが、実は石の部分は太古の原始人が作った実物です(後から糸で持ち手を付けたモノ)。
どこから出土したものかは聞いてませんが、黒曜石で出来た石斧で、かつてはもっと鋭く尖っていたのでしょう。

実は先日、例の鉱石標本に黒曜石も加えようとして、入手した大き目の塊を標本箱のサイズに砕こうと試みたのですが、結局あきらめてしまいました。
めちゃくちゃ固いんです。
石の真ん中にクサビを立ててハンマーで力一杯打ち付けるのですが、薄い破片がとんで手がしびれるだけで、滅多に砕けません。

その破片が余りにも薄くて硬いので「鉛筆削れるじゃろか…」と思ってやってみると、見事に削れてしまいます。

黒曜石が太古の打製石器に使われたのは有名ですよね。
確かにこんな硬質で鋭い石片が手に入ったら原始人だって「鹿の皮剥げるじゃろか…」とやってみたくなるでしょう。

この打製石器がその後、石を削り出して作る磨製石器に発展したと昔学校で習いましたが、打製石器の使用を経ることなくいきなり素材を研磨するという発想は生まれないでしょうから、この黒曜石の割れ方の性質が人類の文明を産み出したと言っても過言じゃないかも知れませんね。

さて、太古の壁画の話でしたっけね。

現代のアフリカンアートやアボリジニにも近いモノがありますが、野生に近い所に住んでいる民族のアーチストは動物たちをとてもしなやかに描きますよね。

我々は普通大型動物にもう少し荒々しく力強いイメージを持っていて、大きな体躯や皮膚、毛並を細かく描写してその迫力を表現する方が好きだったりしますが、この人達はのびのびと走り回る野生の獣たちを遠目で眺めるからでしょうか、非常に美しい流線型のスマートなフォルムを獣の姿に見て取るようですね。

デザイン的に大変完成されていますが、にもかかわらず軽薄な感じにならないのは、何だか霊的な魂がこめられている雰囲気も同時に感じられるからでしょう。

プリミティブな民俗美術最大の魅力は、何と言ってもアニミズム信仰に基づく強い霊的な表現につきるのではないでしょうか。

そう言えば、窓際前から4番目のお席(ベタの席)の本立てにアフリカ土産の人形の置物があるのですが、この人は先日の地震の時、他の置物が皆倒され散らばっている中でたった一人、何と頭を下にして逆さまに立っていました。

(再現画像)
容姿や雰囲気からして何かただ者じゃないとは思っていたのですが、やはりなかなかのクセ者です。

あの日はその他にも、どう考えても落ちる様な位置の食器達が驚愕の踏ん張りをみせてくれたり、落下していたらきっと割れてるだろうと思っていた机上の薄手の硝子ビンが見当たらず、その下の引出しを開けたら、中に横倒しになって収まっていたり(揺れで引出しが開いて閉まるタイミングに自力で飛び込んで避難?!)して、常々感じていた「アール座の小物は生きてる」感を強めた次第です。

そうそう、美術の話でしたっけね。

ウチにある「民俗美術」の古い図鑑に掲載されている、世界各地のあらゆる民族の美術品は皆、粒子の粗い写真からでさえ十分に伝わって来る、恐いくらいの霊的な気を吹き出しているように見えます。

特に祭事や呪術に使う彫り物や仮面などはド肝を抜くデザインのものも多く、見るものを引きつけます。

しかしこの手の神が宿る、魂が籠る系(?)で世界一強力なソウルアートこそは(ネイティブなアートとは少し違いますが)我が国の伝統芸能、能に使用される面ではないかと僕は思います。

ウチにある「能面」という作品集に載っている「孫次郎」などの中世の名作は、写真で見てもスゴいオーラを放っていますよ。
「〜能面展」として実物を展示する催しは都内でも時々開催されますが、見応え十分の世界ですので、興味ある方にはおすすめです。

他に、民俗美術として優れているものに刺繍や手織り、キルトなどの生地の文化がありますが、「インド 砂漠の民と美」という写真集には、インドはクジャラート周辺のド田舎の村の日常風景で、水汲みするおばちゃん達が普段着として信じられないような美しい刺繍や手染めの衣服をまとっている光景が見モノです。

今月は随分と渋い路線をオススメしてしまいましたので、おすすめコーナーには年季の入った古本が並ぶ古書店のような感じになってしまいますが、まぁそんなのも悪くないでしょう。

美術というと、まるで中世〜近代のヨーロッパの美術のことを指す様に我々は教わってきましたね(アートといえば現代の商業美術)。
生活につながった土着のアートを見ていると、美術という言葉ににアカデミックな専門分野の匂いがついているのが、何だかバカバカしくなってきて楽しいです。

自分でも粘土とかこねくり回したくなってきますよ。



縄文式土器/弥生式土器/中国青銅器
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幻想芸術と死生観

2011.05.09 Monday 01:42
最近やっと水槽環境が復活しました。

地震の時の事故でしばらく寂しくなってしまった水槽内でしたが、お会計の時に「お魚さん達は?」と心配そうに聞いて下さる方が思いのほか多くいらして、沢山の方にかわいがってもらっていたんだなぁと知りました。

水草を植え直してから、魚がいない間に若干CO2と肥料を強めた所、ぐんぐんと緑は濃くなり、少し赤系の水草を足して、今や以前の環境を凌駕する勢いです。

そこで魚の方も、先日思い切って新しい子達を大量に入れました。
皆まだチビ達ですが、元気よく泳いでいてとてもかわいいです。

思えば、この前までいた子達だって、4年前に入荷したときはこんなサイズでした。
ここで時間をかけて育ってくれたんですね。
新しい子達も、負けずに大きく育ってくれたらと思います。

最近また、室内のシルクジャスミンが花を香らせているのですが、先日開店前に窓を全開にして換気をしていたら、花の香につられてか、突然立派なアゲハ蝶がはたはたと室内に迷い込んできて室内を舞ったので、しばらく夢のような気持ちでボーッと眺めていました。

次第に慌てふためいてきたので、疲れないウチに窓口に追いやって逃がしましたが、いやぁ、ずっと見ていたかった。
僕が言うのもなんですが、かなり映えますよ。アール座にアゲハ。
このまま店内で離し飼いに出来たらどんなに良いかと思いました。

たかだか虫一匹飛ぶだけで、空間の雰囲気が随分と幻想的になるものなんですね。

実はこの所、期せずしてアール座に幻想的な匂いのアイテムが集まってきている気がするので、今回はそんな雰囲気のお話をしつつ、おすすめとして幻想的な気分に浸れる書籍(黄色の文字で表記)を選んでゆこうと思います。

蝶と言えばウチには蝶の標本がいくつか飾ってありますね。
蝶のデザインというのは本当に幻惑的で、特に見慣れぬ外国産種の美しい柄は、どう見てもこの世のものとは思えませんよね(おすすめ書籍→BUTTERFLIES AND MOTHS他)。
近頃ふいにまた作りたくなって、おすすめコーナー上の壁面に二つフレームを増やしましたので、お好きな方はご覧頂けると嬉しいです。

そもそもが異空間を意識して作られたアール座ですが、その守り神をしてくれている鷹(サシバ)の剥製は、実はこの店が入る前、この部屋がお寿司屋さんだった(!)時にガラスケース入りで飾られていたもので、経営されていた今の大家さんが置き場がなくてここに置いていたのを譲ってもらったものですが、室内を幻想的に演出する上でかなり重要な役割を担ってくれていると思います。

近頃は節電で店内が薄暗い状態にサティなんかかかって、この鷹のシルエットが後ろの壁に写ってたりすると、ふいにこの空間だけ時が止まったような、「今外に出たら違う世界に出てしまうんじゃないか」とか考えちゃうような、なんともヘンな気分に襲われることがあります。

剥製もまた、幻想的な空気を強くかもし出すアイテムですね。
宮沢賢治の「黄色いトマト」(→新編銀河鉄道の夜)に出て来る田舎町の古い博物館に展示された鉢雀(ハチドリ?)の剥製と少年の会話の描写風景は幻想的で大変美しく、僕の大好きなシーンで、アール座空間を作る際の原型イメージになった情景でもあります。

剥製や標本のようにインパクトのあるものを飲食店のインテリアに使うことには、最初、懸念の声(普通の喫茶店を開業すると思っていた人達から)もありましたが、まぁ嫌いな人も多いですよね。

一般に気味が悪いと疎まれたりもする剥製や標本ですが、逆に惹かれる人も少なくないです。

パリ郊外にあるデロール(→好奇心の部屋デロール)という名の剥製標本専門店は、知る人ぞ知るマニアックな観光スポットらしいですが、写真で見ても確かにある種の人々を引きつける魅力的な空間のようです。

普段動いてる印象のものがピタリと静止した姿の剥製や標本は、それだけでも静止した時間と空間を意識させ、薄暗い中ではシュルレアリスム的な非現実感をにじませて、周囲の空気を幻想的にしてくれます。

ただ、僕なんかはそれだけではない、より深く心落ち着かせてくれる何か安堵感に近いものを感じてしまうのですが、ヘンなんでしょうかね。
カルト趣味的なものとも違う感覚で、昔から自分でも不思議な感覚でしたが、皆さんはどうでしょう。

まぁ僕自身は蛙のホルマリン漬け解剖標本にすらアルファ波を出してしまうヘンタイですが、もっと繊細な人達〜古いガラスの実験器具や標本、鉱石、古い天文学の図版なんかを見ると呼吸が荒くなってしまう(笑)理科的趣味の方や、幻想的な装飾のビクトリア調、ロココ調の雰囲気に心引かれる耽美趣味の方など〜のアンテナにも引っかかる所ですよね。

剥製以外にもこの手の幻想的なものには、恐さと心安らぐ感情が同居したようなパラドキシカルな魅力がありますが、一体何なんでしょうね。

死んでいる皮や骨、生命の出て行った抜け殻のようなものを人が気持ち悪がるのは、死への恐怖感として普通に理解出来る所です。
恐怖感そのものが好きなオカルト趣味も、その裏返しという感じで分かる気がしますが、こうしたエグいモノがそんなセンシティブな感覚を癒してしまうのはなぜか考えてしまいます。

そんな人達に共通の好みで「鉱物」という趣味もありますが、これに通ずる所のような気がします。

地中で、我々には考えられないような長い時間を経て蓄えられた力を持っているのでしょうか、まぎれもないこの世の物質ですが、なかなかに非現実的、幻想的な匂いが強いですよね。

鉱物の美しさは、悠久の時→閉じ込められた時間→異空間といった連想につながり、何だかこの世と異なる次元の空間に置いてあるような妙な存在感を感じさせませんか?

所でこの前、新たな仕掛けがまた一つ完成しました。
名付けて「R座鉱石博物館」。

まぁ博物館と言っても、例のごとく引出しの中です(出た)。
窓際前から3番目、柱の奥のお席の左下の引出しです。
お好きな方は、他の引出しにある拡大鏡や書棚の「岩石と宝石の大図鑑」も合わせて一緒に楽しんでみて下さいね(夜の方が比較的見やすいかも)。

話を戻しますが、剥製や標本、化石なんかは、かつて生命として動き回っていたものがそれを終え、鉱石のように永遠で無機質な世界に迎えられた象徴としてイメージされている気がします。

この、やがては自分も移ってゆく静寂の世界を感じることが、本能的な安らぎにつながるのではないでしょうか。

特に生命感溢れる躍動的な気や軽薄な現実世界がふいにまぶしくうとましく感じられ、心乱されるような気分の時には、無機質な異世界に憧れてしまいますよね。
そんな世界の住人に対する畏敬と親近感のようなものもあるのかも知れません。

逆に、もともと向こう側にいるのに、静かな生命感を持って語りかけて来る球体間接人形(→KATAN Doll他)なんかも、両方の世界に二股かけている存在特有の幻想的な魅力がありますね。

感覚を同じくする人にしか伝わらない表現かも知れませんが、こんな風に我々の意識している世界に隣り合わせた空間があると思うことや、自分もいつかは自然に死んで化石や鉱石のようにそこに帰れるという事実は、本能的な恐怖を伴いはしても、実は意識の根底で人に安心感を与えてもいる気がします。

死を静寂、神聖、永遠なものとして受け入れる姿勢は、決してニヒリスティックともネガティブとも違う、死を含めた人生観につながる腰を据えた態度だと思います。

美術において死と異次元的な幻想世界を合わせたような表現は、宗教が死生観を画一的に支配していた古い時代よりも、近代のシュルレアリスムや形而上派(キリコとかの)、象徴主義辺りから意識されてきたものでしょう。

どちらかと言うと、ダリ(→SALVADOR DALI他)やキリコの方は「永遠」や「静寂」の空間を憂鬱で気だるい心理描写として描くことが多いですね。
逆にベックリンなんかの象徴主義(→Symbolism)は不安感をたっぷり出しながらも、それを美しく描き出します。
ムンクになると幻想よりも不安で画面が塗りつぶされてしまいますが、死をどうとらえるかは、思想よりもその人の性格や精神状態から来る「趣味」に左右されるものなのでしょう。

人間には生き抜くために死を嫌う本能が備わっていて、これが死を生と分けて「忌まわしいもの」と考えさせるのだと思います。
ただ本来は、生と死は分かつことの出来ない一続きの出来事ですから、生命が終わることは生まれ出ることと同じように、とても自然で大事な出来事です。

どことなく死を祝福するような空気感すら漂う象徴主義なども、きっと死をそんな大切な節目のようにとらえているのかも知れません。

そんな風に「生」には始めから「死」が含まれていますが、逆に「不死」というものが存在したら、これはもはや「生」ですらない単純な「存在」で、意識があったらそれこそ悲劇的な不幸ですよね。
永遠というものを憂鬱に表現するダリやキリコが感じる世界観に、それは近いように感じます。

美術史における無人の廃墟の絵画ばかりを集めた画集「死都」も、そんな風に見ると大変見応えがあります。

現代アートでは思想よりも感覚の方が前に出ますが、ジョセフコーネル(→Joseph Cornell Master of Dreams)や桑原弘明(→scope他)などの作品に、そんな異次元的な静寂と永遠の空間が、より感覚的に表現されています。

魅力的なような憂鬱なような不思議な空間ですが、いづれにしろ我々には外から覗き見ることしか許されていません。
そしてどちらも、閉ざされた世界を現実から隔離するのに「箱」というアイテムが用いられているのが面白いですね。

箱と言えば、近頃店内のお座席で背後から見つめる少年と少女の視線を感じた方はおられますでしょうか?
別に恐い話じゃないですよ。
最近新たに、イラストレーター七戸優氏の絵本「箱少年」などの原画(身内が所有していたものを借り受けました)を壁面に飾らせてもらいました。
これが不思議と、気づかぬ内にもアール座の空気を一層色濃くしてくれているように感じます。

絵本は素敵な詩画集のようで、シュールで哲学的な内容をポップで幻想的に仕上げた詩的な世界観のお話です(何のこっちゃ)。

現代はそんなジャンルも随分と充実してきましたが、僕がはじめてそんな世界に触れたのは「扉の国」という絵本でした。
やはりシュルレアリスム的な画風と、日常の隣りにある不思議な部屋という設定が魅力的で、子供の頃何度も読みました。

いつもと何かが違う日、家の中でふいに話始めた飼い猫に導かれて扉を開くと…と言うと、ちょっとありきたりな感じもしますが、そこは王道と言いましょう。
僕にとって幻想アートの原点になったお話です。

文学で言うと、先程の宮沢賢治が言わずと知れた幻想文学の神様ですが、宮沢文学は何よりも色彩感覚が飛び抜けていますね。
ラリってたんじゃないか(!?)と思う程イメージ力が人間離れしていて、常軌を逸した色鮮やかなイメージは、僕にはちょっと恐いくらいに感じます。

個人的で勝手な解釈ですが、日本語で「幻想文学」と言うのと、平たく「ファンタジー」と言ってしまう時のニュアンスの違いは、この恐いくらいの理科室的な薄暗さの有無に集約される気もします。

稲垣足穂(→一千一秒物語他)はもう少し都会的でノスタルジックな風合いが強く、理科趣味のマニアックな魅力が散りばめられていますね。
宮沢などの童話と違って、稲垣はリアルな近代小説の中に唐突に異空間を感じさせる出来事が起こる所がロマンティックです。

しばしばお客様からアール座を評して「長野まゆみの世界のよう」と、ありがたいお言葉を頂き、メニューに碧瑠璃の曹達水(へきるりのソーダ水)とか入れようかな、とか思ったりしますが、現代においてその精神を受け継ぐ長野まゆみや鳩山郁子の世界観にも、そんな幻想的な死生観が流れているように感じます。

通常ファンタジーは幻想世界の中の物語か、現実世界から何らかの手段で境界を超えて幻想世界に入って行き、その世界でのルールが明示されますが、長野作品(→天体議会他)に様々な形で登場する異世界は、得体が知れず、大抵現実世界すれすれに存在(夜更けには更に接近したり)していて、ある時はその片鱗が現れるだけだったり、ある時は幻想と現実が境目なく混沌としていたり、そもそも現実側に少しSFが入っていたりSFそのものだったり、とにかく全体的に境目が夢のようにぼやけた設定の中で不思議な事が起こったりしますね。

そんな中で目の前に起こる美しい出来事〜不思議な色の飲み物から幻のような現象まで〜は、周囲のぼやけた世界から際立つ、恐いくらいの色鮮やかさで映ります。

思えば、我々の認識世界の内のどれがリアルかなんて、こちらの意識のウェイトの置き方一つで好きなように変えられることで、ヘタに「これは本当これはウソ」と区別せず全体をぼやかしておくと、より多くの美しい出来事を日常の中に感じ取れる気がします。

みな子供の時は普通にそうしてました。

そう言えば「6歳頃までは霊的なものが見れた」とか言う人もよくいますね。
長野作品にも霊的な少年が頻繁に現れますが、があの頃の夢のような意識の方が、そっちの世界にも近いんでしょうかね。
そっちから来たばかりだからかも知れませんね。

以前この店でサイン会を催して頂いた鳩山郁子先生の短編「リモネア」(→スパングル)という物語は、まさに隣の時空の出来事が恐いくらい儚く危うい情景として繊細に描かれ、読後に永遠の空間に住む憂鬱な穏やかさ、切なさが入り交じった複雑な心持ちまで体感させてもらえる希有な作品です。

こうしたジャンルに触れ、また昔を振り返ると、確かに少年というものは基本的にみな夢側の世界に立っていて、多分夢見がちな少女よりも現実社会や将来の問題を感じていない気がしてきます。
どんなにやんちゃでも狡猾でも大人びて冷めたタイプの子でも「あの空き家に魔女が住んでいる」という噂が立てば、全員が「いるんだ」という方向に考えていましたね。

あとクラフトエヴィング商会の名作「どこかにいってしまったものたち」も並べておきましょう。
失われてしまった、幻想的な道具たちを紹介してゆく本で、読んで思い描くうちに現実と非現実の間を行ったり来たりと、楽しくお散歩出来ます。

さて、相も変わらず長くて重苦しいブログです(笑)。
読んでくれる人いなくなってしまうんじゃないでしょうか。

どうも最近は考え深げな気分が続いた上、この所鉱石標本なんぞの作成に関わっていた勢いで、またもやこんなの書いてしまいました。
いつも付き合わせてしまってスミマセン。

毎回ワケの分からないカフェブログを最期まで読んで下さる有り難くも奇特な皆様に、お礼という程のものでもありませんが、オマケ企画です。

お会計の際に「最期まで読んだよ」と一言申告して下さると…というのはお互い恥ずかしいのでやめにして、店内の書棚の向かい、大水槽の裏側に本を選ぶ時用の木製ベンチがありますが、その座面の下の棚段に青色と絵柄が施された小さな四角い缶ケースを置いておきます。

缶の中にLEDライトと拡大鏡と鉱石の小さなカケラがジャラジャラ入っておりますので、お席の方で記念に(何のだ?)一粒(一度のご来店につき)選んでお持ち帰り下さい(何という人見知りな企画でしょう)。

実は標本を作る際に鉱石のクラスターを砕いたのですが、その破片がキラキラと散らばって美しかったんです。
アメシストやシトリンなどの小さな欠片で、価値のあるものではありませんが、光を当てて拡大鏡で見ると結構キレイなので、選ぶ過程が案外楽しめると思います。
缶は元の場所に戻しておいて下さいね。

繰り返しますが 大したものではありません。
こんなことやってみたかっただけです。

GWも終わってこれからしばらく、特に平日の人の少ない時分なんかには、アール座で幻想的な本でも読んで異空間を味わえるんじゃないかと思います。
ただ、うっかり幻想的な気持ちのままお店を出ると、少しだけ違う異世界に出てしまうかもなので、どうぞご注意下さい。

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人物、性格、生き方色々

2011.04.11 Monday 01:50
いつの間にか春になってましたね。

季節を感じると思うのですが、どんなに都会的な暮らしを続けていても、ふいに体の感覚に気を向けると、すぐにその感度が戻ってきて、ちゃんと体がその季節の食物を欲したりするから人間の体ってえらいですね。

かくいう私の現在の食生活もヒドいものですが、それでも昔から冬には濃い味のホットドリンク、春先にはハーブティー、秋には中国茶を飲みたくなります。

というワケで、春に飲みたくなるフレッシュハーブのミントティー始めました

ハーブティーと言うとドライハーブがイメージされますが、香りも神経作用も瑞々しい生ハーブの威力の比ではないです。

ペパーミント、スペアミント、レモンバームなどの爽やかな香りが気分を落ち着かせつつ、メントールが頭を目覚めさせ集中力を高めます。
抗菌作用、抗ウィルス作用もあり、風邪の予防や花粉症に効果があるそうです。

生ハーブは日持ちしないのでロスの可能性が高くメニューとして出せるか思案していたのですが、是非味わって欲しい爽快感なので、とりあえず実験的に春の期間限定でやってみます(なので、これっきりかもです)。

いつもの春と同じように桜が咲き誇っていますが、近頃は何だか街も人も静かですね。
かつて東京がこれだけ長いこと大人しくなっていた時期というのは、東京育ちの僕にも覚えがありません。

直接的な被害は少ないにせよ、多くの人が精神的もしくは状況の変化など何らかの影響で生活を乱され、気落ちするTV映像を長時間見続けてしまった影響や自粛ムードもあいまって、全体的にひっそりと羽を休めたい心持ちになっているのでしょう。
気分の波がある人が一番敏感になる春の季節でもありますしね。

周囲の空気と自分のバイオリズムが共感してしまう人や恵まれた状況に罪悪感まで感じてウツっぽくなる人、常に抱えていた心労からこれを機に立ち止まってみた人、逆に今こそ自分が何かしなきゃと奮い立つ人もいるでしょう。

ただ、今動き始める人も一旦ここで充電期間を取る人も、これを機に進路変更というか岐路と言うか、今後新たな何かを目指し始めそうな人が、今かなりの割合でいらっしゃるのではないでしょうか。

これだけ大きなアクシデントとその影響が日本全土に及ぶ今回の出来事は、今後この国の方向性に大きな影響を与える、大阪万博や東京オリンピック以来の一大転換期になりそうな気がしてなりません。

大げさかも知れませんが、日本はこれからどこに向かうのかなぁと考えてしまうのは僕だけでしょうか。

とにかく今までひたすら走ってきた日本人には、こうして照明とテンションを落として自分のことや世の中のこととか色々考えてみることは、不謹慎かもですが、絶対に良い機会だし、そうすべきなんだと思います。


所で、先のことを憂いて気落ちするのは人間だけなんだそうです。

将来を絶望視される様なひどい重傷を負った動物園のチンパンジーでも、病院で痛みさえ取り除いてやると、精神的にはすぐに明るくなって、体の不自由とは関係なく飼育員にいたずらをして喜んだりするそうです。

これはチンパンジー(人間以外の動物)は、将来を思い描いて悲観したりする知能がなく、常に今を生きているからですね。
よく大怪我をした野生動物が飢えの中ひたすらうずくまって回復を待ったりする様子に、人間は深刻な精神状態を投影してしまいますが、案外何も考えてないのかも知れませんね。
逆に人間のような心理だったら耐えられない状況なのでしょう。

これを野性的なタフさと言えるかも知れませんが、では人間は弱いばかりなのかと言うとそうでもなくて、未来に希望を見いだして、持っている以上の力と意思を発揮するのも人間にしか出来ない強みなのだそうです。

また別の話では「人間の精神は基本的にはネガティブな傾向が強い」と言う話を聞いたことがあります。
生死の厳しい太古の暮らしにおいては、例えば新しい水場が見つかることと、今使っている水場が干上がることでは問題の深刻さが違います。
考えて行動する人間は、生き残るために有利な「悪い問題を重く捉える方向」に進化したのかも知れません。

災害時にあらゆるデマが広がるのも、TVのコメンテーターが批判的な話ばかりする(それが求められる)のも、週刊誌の中吊り広告についつい目がいくのも、悪い情報に強く注目してしまう人間心理が反映されたものでしょう。

こう見るとポジティブな人とネガティブな人と、生きてゆく上でどちらがトクなんでしょうね。
心理学的には例のごとく「一概に言えない」というような見解が多いようですが、イメージとしては「ポジ=長所/ネガ=短所」と言う認識がありますね。

でも実際に人よりポジティブな考え方をするとバカにされたり反感を買ったりするのも世の常で、特に日本ではネガティブな方に厳しさとか賢さのイメージが付随しているので、特に公の場では「自分なんてまだまだ」とか「油断は禁物」とか、恵まれた点より悪い点に注目する考えの方が現状に甘んじない厳しく賢明な印象を与え、逆に「大丈夫、大丈夫〜」とか言ってると何だかバカっぽく見られてしまいます。

今の社会をどう思うかとインタビューされて「良い社会」なんて答えたら、何だか怒られそうな気がしてしまいます。

それを受けてか、近年の自己啓発系の本ではポジティブに考えることの有効性を唱える内容が非常に多くなってきている気がします。

アール座の蔵書には、うーん、やはりネガティブな匂いの本が多い印象ですね。
僕の趣味なんでしょう。どうしてもそっちに面白さを感じてしまいます。

自宅には体育会系な幕末モノとかもあるのですが、アール座だと浮くので置いてません。

ウチにはいわゆる伝記物は少ないのですが、それでも書棚を探してみると、ネガポジかかわらず結構様々なタイプの人物がいるなぁと思えます。

この所個人的にも、人の考え方と行動、性格と生き方の関連性に興味がわいてしまうので、こんな時期だからというワケでもないですが、アール座に住まう様々なタイプの偉人の生き様に注目しておすすめをピックアップしてみました。

置いてる本の中では「岡本太郎」や「浮谷東次郎」関連なんかが非常に前向きな人物の本です。

今年生誕100年で湧いている太郎さんは僕が若い頃にはアヤシいおじさん扱いで皆に笑われてましたが、きっと時代が早すぎたのでしょう。今や若い世代のカリスマですね。

ひたすら感性を信じる迷いのないストレートな言葉は切実で純粋でぐっと来ますし、読む人を勢いよく引っ張ってくれます。

あれだけ攻撃的なことを言って温かみが感じられるという不思議な人柄は、生まれつき天衣無縫の人かと思ってしまいますが、実は結構思考型でくよくよ悩むことも多かったようで、「岡本太郎は自分で岡本太郎になったのよ」というのが相方の敏子さんの口癖でした。
ネガティブに挑んで裏返したような積極性だからこそ悩める人々を勇気づける力を持つのでしょう。
生まれつきポジティブな人が持っていないタイプの強さですね。

「浮谷東次郎」はあまり知られていませんが、創成期の日本グランプリを賑わしつつ23歳でサーキットに散った伝説のレーシングドライバーで、その手記や記録が出版されています。

とはいえ、影のあるカリスマキャラからはほど遠い坊主頭に丸眼鏡の若者で、ものおじしない大変に奔放で前向きな性格と日本人離れした行動直結型の性格と、生き方を写したようなダイナミックな走りで人気を博した非常に魅力的な人物、それこそ天衣無縫の人です。

破天荒な行動型なら「南方熊楠」なども面白いです。
天性の研究者に特有の常軌を逸した集中力と行動力ゆえ、ひたすら関心のあることに向かうあまり行動が世間的な枠から大きく外れてしまうタイプの人で、普通に居たらアタマのオカしい男なのですが、水木しげるの伝記漫画ではその辺がよく表現されています。

意図的に破天荒に振る舞った人としては、伝説の坊主「一休和尚」がいます。
酒を呑み女遊びにふけりお地蔵さんに小便かけるめちゃくちゃな宗教姿勢は形骸化した寺社会や時代悪を批判する「偽悪」的な態度だったと言われています。

とんち小僧的なアニメの一休さんをイメージして読むと、かなりショックを受けますが…。

こうした人達の魅力は、何といっても、社会的な常識をへとも思っていない爽やかさに尽きると思いますが、その流れで、もう少し呑気なマイペース型には俳人「山頭火」や書が有名な禅僧「良寛」などがいます。 

俳句人は、とにかく気構えを解いて、精神を風のように自然に遊ばせるのが大変得意な人達です。
自分の考えやこだわりから解放されもう何もいらない羨ましい人、というイメージがありますが、山頭火の句と一緒に手記を読むと、なかなか自分の中の色々なものとも戦っていて、ぜんぜん人間臭く面白いです。

我が敬愛する良寛さんは呑気マイペース型の内気なタイプの人です。
おっちょこちょいでトボケたお爺さんなのですが、不世出の書の達人で、盗るものもない貧しい住まいに空き巣が入ったおりには、寝たフリしながら寝返りを打って体に巻いていた毛布を持っていかせた、という逸話を持つかなり超越的な人物です。

この人を「トボケたふるまいでみなに笑い者にされつつ本当の思慮深さを隠している」と見るのが研究者による一般的な見解ですが、どうも僕には、ただバカのフリをしているのではなく、悟った末に本当の天然キャラに辿り着いている人の様に思えてなりません。

この方面に来ると、つげ義春の「無能の人」に登場する、とにかく自分の存在をなきがごときにトボトボ生きる「井月」なる俳人も気になります。

仏教の悟った人物は、あらゆる能動的な働きかけを止めて自分を無為の方向に持っていこうとしたりするので、一般にはちょっと理解しづらいかも知れません。
ネガ、ポジで言ったらネガティブの極みで、先の岡本や浮谷の対極に位置する生き方ですね。

こうした禅的思想の基になっているのは中国の「老子」や「荘子」の「道」という考え方ですが、乱暴に言うと、議論や思考、判断をやめ、感覚のままに自然と一体化し、欲を捨て、争わず、とにかく努力や頑張りをやめ、役に立たず、人に見下され、空気のような存在でいなさいというような教え(ちょっと雑かな?)で、もはやネガティブをも超越しています。

老子と言うと、岩山の上に一人霞を食って暮らす仙人のイメージですが、実際には人間社会の中での在り方について理念を語っています。

が、ここまで来ると、努力を惜しまず自己実現をはかること、善悪をはっきり見極めることこそを美徳とする現代社会には、到底受け入れがたい思想に思えます。

昔の宮崎アニメの主人公(ナウシカやアシタカ/個人的に好きなキャラ達ですが)のような、勇敢で利発で逞しくて心優しい、欠点の見当たらないような前向きな人間性こそ、社会が理想とする立派な人間像でした(ラピュタのシータなんて小学生位で牧場経営したりしててビビります)。

所が近年この「道」の思想を分かりやすく砕いた、加島祥三の「求めない」がベストセラーになったのには正直驚きました。
一筋縄じゃないんですね、世の中は。
ひたすら豊かさを目指し続けて、来る所まで来た今の時代こそ、こうした思想が見直されるべきタイミングなのかも知れません。
確かに意味を理解すれば、こんな今こそ強烈なパンチ力を持つ思想でしょう。

「ダライラマ」も意志が強く利発で勤勉で心優しいナウシカのような人ですが、それにも増して、悲劇的な境遇を生き抜くその明るさが特筆すべき人だと思います。
数奇な運命の偉人としては珍しく、まだ生きてますね。

仏教とキリスト教が折衷された「宮沢賢治」はどうでしょう。
僕は子供の頃「雨ニモ負ケズ…」なんて、説教くさい感じで嫌でしたが、大人になってから読み返して、その美しさが染みました。

「皆の幸いのためならこの身を百ぺん焼かれても…」とか、人々に対する自己犠牲をこれほど切に願い、ここまで堂々と主張した人は珍しいですが、この人の思想の源はきっと思考よりも繊細な感受性だと思います。
だからこそ、文学にも生きる姿勢にも森の中のような清涼感があり、下手な思想文学とは一線を画した正直さがあります。

あと著名な人ではありませんが、アイヌに伝承される産婆術、イコインカルクルという職の最期の継承者と言われたおばあちゃんの大変興味深いインタビュー記録「ウパシクマ」という本があります。

アイヌ古来の役職で、自然と通じ、伝承技術と霊的な力でもって産婆から医者、薬剤師、占師、巫女のような仕事まで併せ持つ、まるで梨木果歩の「西の魔女…」に出て来る魔女みたいな感じの職業とその不思議な療法についての話が中心です。

ちょっとスネた田舎の婆ちゃんみたいなキャラですが、自然分娩で500人を超える助産を一例の失敗もなく取り上げた名助産婦で、自然に対してとても誠実に生きていた日本古代人の姿を垣間見れるような貴重な存在の人です(H7年没)。
現代文明に迷うことなく、強い精神性と豊かな感性で自然や神と語りながら経験主義的に現代を生き抜いた姿勢を伺わせます。

サイゴに、最近入荷した「空飛ぶ機械にかけた男達」という本ですが、飛行を夢見た多くの挑戦者達の話です。

これまた「道」の対極的な生き方ですが、自分の直感を信じ、周囲にバカにされながら(ココが要です。周囲の理解を超えた所で生きてるんです)もひたすら何かを作り続ける人が僕は大好きでして、近代の有人飛行を目指した人達はその象徴的な存在です。

こうした仕事は、とても出来そうにないとも思えることを「絶対出来るはずだ」と信じなければ出来ないワケで、ポジティブの極みと言えましょう。

古い科学を元にしているし、結局その理論では飛べなかったことを知っている我々が読むと、ついつい稚拙な理論と思って面白く読んでしまいますが、考えたらこの人達全員の夢の様な思いは結局実現するんですよね。
彼らの努力と積み上げてくれた理論の蓄積のおかげで、我々は海外に旅したり外国の旨いもの食べたり出来るんです。

アール座の天井に飾られている、ライト兄弟に勇気を与えたその先人、オットー・リリエンタールの飛行機模型と、その後に兄弟が飛ばしたライトフライヤーの模型には、そんな敬意も込められています。

さて、思いつきで始めた今月のオススメなので何だかジャンルもバラバラで、脈絡というものがありませんが、まぁ例のごとく並べておきます。
気になるものがあったら見て下さいね。

こうした本を読んだり、TVで「プロフェッショナル」とか見たりすると、僕はすぐ「あーもう決めた。オレ今日からこういう風に生きよう」などと容易く感化されてしまいますが、こうして様々な生き方を並べてみると、「どれにするんだよ」と迫られているようで、あまり無責任な決意もしづらくなります。

でもまぁいいや。おっきくなったら考えよう。
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震災義援金と「寄付」の概念について

2011.03.18 Friday 02:22
こんにちは。

いつもこのブログを読んで下さっているのは都内近郊の方と思いますが、皆様お怪我などありませんでしたでしょうか。

まず当店に関して、この地震直後2、3日営業が不安定になってしまったことをお詫び申し上げます。

現在は節電のため店内が多少暗めながらも、通常営業をしております。
ただ、しばらくは営業中の停電、及びそれに伴う臨時閉店の可能性が続きますことをご了承頂けると幸いです(万が一停電になっても非常灯が点灯しますので、動けないようなまっ暗闇になることはありません)。

アール座は店内にモノが多いので、ご心配をおかけした方も少なからずいらしたようで、誠にすみませんでした。

一応転倒、落下の恐れがある大きな家具、什器は全て壁面その他に固定してありましたので、高い位置から倒れたものはなく、大量の書物と幾つかの食器、机の花瓶や電気スタンドが落下したのみで、幸い大事には至りませんでした。

災害対策というのは、ことが起こる前にはモチベーションが上がらず、非常に面倒くさく感じる作業ですが、揺れの最中に僕が一番思っていたのは「うわーやっといてよかったー」という感慨です。
まだの方にはおすすめしておきますね。

そんな中でも比較的悲しいのが水槽のダメージです。

気に入って下さっていた方も多く大変残念でしたが、小さい方(60cm)の水槽に割れが入り、大きい方はタンクは無事だったものの、水槽内で岩などが倒れ込んで水質が悪化したためか、残念ながら、どちらもほとんどのお魚達が被害を受け、中の環境はリセットすることになってしまいました(ベタの鉢は無事です)。

一応現在はどちらも植え替えを終えておりますが、60cmの方は底砂から全ての植え替えになってしまったため、今は荒れ野のような寂しい光景になってしまっております。
が!この水草たちは開店の頃からこれまで何度もこうした危機(大抵僕の不手際 汗)を乗り越え繁殖してきた、巧ましい遺伝子を持つ子たちです。
まぁ見ていて下さい。
3ヶ月もすればすっかり育って、また我々を癒してくれる美しい草原を復活させてくれるに違いありません。
 
幸い今回水槽のお席はどちらも無人で、お客様が水を被られることはありませんでしたが、もし今後、水槽のお席で大きな揺れに襲われた際には可能ならお席から離れて下さいますよう、お願い申し上げます。

心配される方の多かった食器類は奇跡的な程ダメージが少なく、破損は数点ですみました。
皆あんな置き方でよく踏ん張ってくれたと感謝しつつ、残念ながら割れてしまったものは「お疲れさまでした」と、やはり感謝を込めてカチャカチャと集めました。

お店に関しては、被害と言ってもこの程度の話ですが、今この国はそれどころではないですね。

被災地の方がご覧になることはないと思いますが、先ずは避難されている方のご健康と不明な方のご無事、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

このブログはあくまでアール座読書館に関するお知らせやおすすめをする場なので、店に関係のない個人的な考えはなるべく控えているのですが、今回だけこの場をお借りして、そんな話もしてみようかと思っています。

近頃は被災のほとんどない都内でも何だか人々が慌ただしく、買い占めに走ったり色々な恐怖にあおられたりと興奮気味です。
今は怒りの矛先が東電の職員にも向いていますが、本当は我々は電力がなければ普通に暮らすことも出来ないという事実を突きつけられた気もします。

情報や管理が徹底した社会では皆不測の事態に弱くなっていて、少しでも安全にかげりを感じると簡単に不安に襲われてしまうのかなぁとも感じました。

TVで災害の地を見ていつも思うのは、人間の小ささ無力さと、こんな目に会ってまで人は何を希望に生きてゆくべきなんだろうということです。

軽々しく言えることではないですが、これまで積み上げてきた財産を一度に全て失ったり、大切な人と突然の別れを強いられたりしながらも、這い上がり這い上がり生き続ける人々は、一体どこを目指すんだろうと言う哲学的な疑問です。

今全国で、あの人達のために自分に何が出来るんだろうと考えている人が本当に多くいらっしゃると思います。
部屋で温かい布団で寝る時にも、そんな考えがよぎりますよね。

僕は無宗教ですが「祈ること」は効果のあることだと思っています。
特に多くの人の願いは大きなエネルギーになる気がします。
色々な考え方があると思いますが、東北方面に向けて手を合わせたり、神社でお賽銭して幸いをお願いするのも、きっと意味があると僕は考えます。

逆に「賽銭する位ならその金を…」と反論したくなる人も思いつく簡潔な答えが「義援金」ですよね。
もうかなりの人が実行されているんじゃないでしょうか。

個人的に物資を配送するのが困難な現状では、お金を寄付して一番有効な手段に使ってもらうというのが、誰にでも出来る最も確実な手段だと僕も思います。

「別にお前に言われなくても…」と思われる方、すみません。全くその通りですが、以後はそんな話です。

日本では今の所「寄付」という概念があまり浸透していないどころか、どこかうさんクサいイメージすら付けられていますね。
慈善やチャリティは「自己満足だ」とか「何か違う気がする」とか、何かと難クセをつけては遠ざけられがちです。

僕は買い物は安物ですませる方だし、特に理由がなければ年下や女性との食事もワリ勘だし、お金に関して割とケチな方だと思いますが、ボランティア機関への毎月定額の寄付だけは生計がキツかった移動販売の時もこの店が赤字の時(小さな額でしたが)も何とか続けてきました。

偉いでしょ…と自慢したいのではありませんよ(逆に結構反感買いやすいんです)。
寄付って別にうさん臭くもなければ、立派な人がするというものでもない、割と軽く考えて良い行為だと思うんです。

考え方として、僕がよくイメージする情景があります。

広い草原に流れの激しい川が一本流れていて、こちらの川辺には立派な木が生えていて次々に美味しい果実を実らせているため、そこに住んでいる猿達はこれを好きなだけもいで食べることが出来ます。が、川向こうには木が生えておらず、こちらに渡れない多くの猿が飢えているという情景です。

こちらでは果実が余って腐っているにも関わらず、向こうではやせ細った猿達がどんどん飢えて死んでゆきます。

猿や他の生物ならそうなるでしょうが、もしこれが人間だったら、果実をもいで川向こうに投げてやることで、気持ちの悪いアンバランスを多少なりとも解消出来るし、きっとそうするはずです。

で、これは架空の話ではなく今の世界の現実そのものですよね。
ましてや東北地方なんて、例えれば川も挟んでない近所の出来事です。

現実的には、向こう岸のように直接見えない現状を情報(映像)だけでリアルに認識出来るか、苦労して自分でもいだ実を「恵まれたもの」と思えるか、本当は必要以上に手にしている果実を「余っているもの」ととらえられるか、という辺りのイマジネーションが難しく、ネックになる所です。

でも、それだけのことなんです。寄付なんて。
知らん顔して木の実をかじってるより、いや、かじりながらでも、もう一つを投げてやりたくなるというだけのことです。

日本人は直接触れ合うと、本当に思いやりにあふれた優しい民族です。
ただ、こうした直接触れてない相手のことを情報を元に共感するためには、感情よりも「理性的な想像力」が必要で、これが日本人は苦手な気がします。
あと、皆がしていないことに自分一人の主義で手を出すのもきっと苦手です。

僕は「寄付」と言う概念がもっとポピュラーになって、社会内や国家間の経済格差にまで影響を与える程の規模になれば、格差を生む一国の経済発展や景気回復が、より豊かなものになるんじゃないかと思っています。

別に「自己満足」でも「善い人アピール」でも、企業がイメージアップのために営利目的でする(実際は意外に少ないと思います)のでもいいから、色々含めて「寄付」という行為がもっと普通のことになって、それでカッコつけたり見栄はったり出来る社会の方が、「ボランティアやチャリティは全くの美しい心から行われる行為でなければならない」と考えて何もしない世の中よりずっと良いと思います。

そして、寄付は困っている人のため以上に自分のためにもなります。

僕は人が幸せになるためには、今幸せである所に気づく以外に方法はないと思っています。

被災していない我々は、この状況では大変申し訳ないけれども、今こうして食事に困らず、暖かい室内で暮らしていけることのありがたみを感じてしまいますね。

家があること。手が使えること。目が見えること。日差しを浴びれること。暴力に脅かされていないこと。封建的でない時代に生まれたこと。飢餓の無い国に生まれたこと。
恵まれているものはそれぞれに違うと思いますが、どんな人だって本当は無数の幸せに包まれて生きているはずなのですが、そこに目が向かないのも人の常で、誰でも持っているものを見ずに無いものを求めてしまいます。

こんな欲にはキリがなく、いくら手に入れてもそれを超えてエスカレートしながら不満ばかりを生み出します。
持つ程に執着の強くなる財産がいい例ですが、僕は富を増やすことだけで幸せになるのはどこまで行っても不可能なんじゃないかとも思っています。

実際、明日の糧に困らず自宅にTVやPCを所有する平均的な日本人だって、世界の人々を大雑把に分ければアラブの石油王やハリウッドスターと同じ、一番上のランクのお金持ち(書籍「もしも世界が100人の村だったら」によると50人に1人)に入る程で、貧しい国の人々から見れば「あれだけあったら何もいらない」と思われるレベルの富裕層だと思いますが、それでも実際は「もっとお金があれば…」と思ってたりしますよね。

でも、結局この生涯の全ての財産はあの世にも来世にも持っていけない、言わば借り物で、後は何にどう使って死んでゆくかだけです。

僕はお金そのものに一定の価値があるとは思いません。
お金は様々な価値と交換する力を持っているだけであって、大事なものにも下らないものにも変わりうる金額を価値の基準にしてはいけないと思っています(世の中がスゴく勘違いしている所です)。

そして、概して財産は財力が大きくなる程執着心が強まって、その価値は小さくなってゆく(下らないものに交換される)気がしてなりません。

チャリティという意識からはかなり離れてしまいますが、自分が自由に使えるお金(出来ればちょっとキツい位の額)を手放すことは、そんな気持ちに歯止めをかけ「まぁこのくらいで暮らして行ければイイんじゃないかな」という気持ちにしてくれる効用があり、何というかちょっと人生をスッキリさせてくれる感もあります。

さらに言えば「寄付」のようにお金が大きな価値に変わる使い道は中々ありません(これもケチな僕を満足させてくれます)。

この手の考え方が不純だと反感を買いやすい所ですが、これは仏教にある「お布施」と言う概念に似た考え方だと思います。
今ではお布施と言うと「お寺に寄付(これも必要なシステムです)」というイメージになっていますが、本来は「財を自ら手放すことで欲から解放される」ことを目的とした自分のための行為で、例えばそう言う思想に基づいてどこかに寄付をするのだって「布施」と同じですよね。

そうして自分の幸せを確信出来た人が、今度は他の人の力になることが出来るんだと思います。

不謹慎かも知れませんが、かなりの寄付が集まるこの試練を経て、この国の人々の価値観がもっと富や恵みを皆で共有する方向に向かえばいいのにと本当に願います。

今は僕も稼ぎが生活費程度なので寄付金額も知れてますが、もっと規模を大きくしてアール座がより高い割合で協力させてもらえるようになれば「お客さんがお茶飲んでくつろぐと、その支払いの何割かが自然に誰かの助けに…」みたいな店になったりしても面白そうだなとか思っています(結構マジ)。

残念ながら、今回はまだアール座でそれを集めるシステムは作れませんが、今随分沢山の機関で被災地への寄付金を募っていますね。

詐欺まがいの話もあるようなのですが、各銀行の窓口で開設されているものやTV局で伝えている番号、百貨店の募金箱なんかは安全でしょう。

募金の集め方使われ方も色々あるようですが日本赤十字社は義援金配分委員会が立てた配分計画に基づいて被災者に届くそうです。

僕が日頃利用させてもらっているのは「国境なき医師団」「日本ユニセフ協会」ですが、こちらは団体の支援活動への援助がメインのようです。

一番手軽なのは携帯やPCから出来る募金もあるみたいで、TV見て辛い気持ちになる度に使えちゃいますね。

あまり店と関係ない話をべらべらとしてしまいましたが、こういう場で一方的に自分の考えを表現してゆくのは、考えの違う方などは不快にさせてしまったりするので控えるべき、とは思っているんです。本当に。

予定では、今回民俗美術と原始美術についてのお知らせをしようと思っていたのですが、あんなことの後でそんな話をする気にならなかったので、僕みたいのがする話でもないのですが、まぁしちゃいました。

以後はソコソコ気をつけますね(笑)。



結構美しかったガラス食器達の最期
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心理学の勧め2 〜性格形成とインナーチャイルド〜

2011.03.02 Wednesday 01:16
春までもう一息という所ですが、そんな今頃になって店内のシルクジャスミンがまた実をつけました。
室内栽培なので季節感がかなりとんちんかんなことになっていますが、それでもやっぱり嬉しいです。

去年一つだけ実がなった時にもブログでご報告したのですが、その時「蝶も蜂もいない室内で実がなるのはきっと閉店後に光合成ライトの下に鉢を集める際に、偶然花同士が触れて受粉したんじゃないか」という勝手な推測を立て、それ以降花が咲く時期には鉢を集める度に花のついた枝を無理矢理引っ張って来て他の花と強引にチュッチュとくっつけてました。

非常に乱暴な人工授粉ですが、そしたら今年なった実は何と6つ。やった。

一番見やすいのは窓際前から4番目の席(ベタがいるとこ)の木の先端にまとめて3つなっている部分でしょうか。
その木に他に2つ、前から2番目の席の木にも一つ見つかっております。

最初は緑色の小さなレモンの様な実がなるのですが、これが熟して段々と赤くなって来ると、サクランボのようでとても可愛らしいんです。
「柑橘系植物なので甘い味がするらしいっすよ」とのお客様からのタレ込み情報もありましたので、この春には検証してみようかと思っております。

さてさて、今月のおすすめ図書も前回に引き続き心理学関係です。

先月は性格分類についてたらたらと綴りましたが、そんな風に自分がどんな奴なのかを考えていると、次には「ならどうして自分はそんな奴になったんだろう」という疑問にぶつかってゆきます。
心理学はこの性格形成についての研究を軸に発展して来たと言っても良いでしょう。

これには先ず「自分がこんなんなのは生まれつきなのか育ち方のせいか」という疑問が根本的にありますが、心理学においてこの「生まれもっての気質と後天的に得られる性質はどちらが優勢か」という問題は非常に難しく、昔から「生得説」「経験説」として意見が分かれるそうです。
ただ常識的に「両者が影響し合って形作られる」と考えられていて「どちらか一方によって決定される」と言う見解は今はあまりないようです。

心理学で「気質」というと、生まれつき備わっている性格的要素のことで、つまり遺伝で決定される部分になりますね。
よく「こんな所は母親譲り」とか「おばあちゃんの若い時にそっくりだ」とか言われる話ですよね。

この店の内装をやっていた時、叔父に「利助はんのやり方によう似とる」と言われました。
「利助はん」は父方4代前のご先祖(ひいひいお爺さん)で、行商で材料費を稼ぎ本家の家屋をセルフビルドした時の話が一族の間に言い伝わっています。
姿も知らない嘉永時代の人物の個性が自分の中に脈打っていると聞かされると、DNA情報の不思議なつながりを感じてしまいます。

ちなみに仏教では「前世」の因縁が「カルマ」として生まれつきの性格(気質)まで形作ると考えられていて、最近は占いなんかでもこんな話をよく耳にしますよね。

僕はアンティークショップなんかで絶対に自分が知らない時代の高価な品に強烈な懐かしさを感じたりすると、すぐに「オレの前世はドイツの貴族だな」とか思って一人うなずいたりしてます。
また、旅先の風景や建物を見てそんな感覚を抱く度に「ホームレスかな」とか「坊主に違いない」とか思います。

そんな経験や根強い趣味、好き嫌い、覚えのないトラウマレベルの恐怖感や執着心なども合わせて総合的にプロファイルしてみると、どうやら僕の前世は、明治か大正時代の比較的高貴な家柄の大きな庭と池のある洋館造りの家に生まれ、不自由なく育つも、自己顕示の強い社交会になじめず、ノイローゼになって逃げるように出家し、大きな寺に入るが政治の渦巻く寺社会にも馴染めず、結局人里近くの山中の湖が見渡せる草庵に一人暮らして悟りを求めた禅僧で、晩年は町で物乞いや拾い物をしながら自然の風景を見ては絵を描いたり詩を詠んだりして気ままに暮らし、最後は桜が咲く頃に伝染病に蝕まれて寂しく亡くなったという逃避型の人物だったようです。

ちなみに僕には霊感の類いは全くありませんが、この手の話は言ったもん勝ちで、誰にも迷惑はかかりませんので、ヒマな人はやってみると楽しいです。
ただ、人格を疑われるのであまり人に話さない方が良いです(ブログに書くなどもっての他です)。

後天的に得られる面に関しては、手がかりが自分の記憶に残っていたりするので考えやすいですよね。
家族構成やその第何子であるかとか親の教育方針の影響なんかは分かりやすい所でしょうか。

僕も昔よく「年の離れた姉が二人いる末っ子」というと、女の子に「あぁ〜、ぽいぽい」とか言われてカチンと来たりしてましたが、とはいえこの影響はどうあがいても否定出来ません。

特に性格は幼い時期の条件程影響力が大きいとする見方が強いようで、幼児期(6歳くらいまで)にはほぼ決まってしまうという話もある位なので、家庭環境は絶対的なのでしょう。

おそらくそれより後は、考え方や趣味や価値観の話になって来るのではないでしょうか。
自分が周囲からどう評価されて来たかが自我意識や対人態度を、何で評価されて来たかがその趣味や価値観に影響するようにも思えます。

逆に、幼い頃の記憶にも残らない様な出来事が本人の知らない内に今の精神に影響を与えている、という「抑圧された無意識」の存在に注目したのが、有名なフロイトの精神分析学ですね。
後に批判もされた点も多いですが、心理学を飛躍的に進歩させました。
夢とか潜在意識とか、我々が心理学というジャンルに持っている何となく非現実的で神秘的なイメージは、この学派がもたらしたものでしょう。

こうした潜在的な性格形成について、もっと進めると「インナーチャイルド」と言う概念が出てきます。
簡単に言うと、成人の心の奥に存在する幼児期の人格が傷ついていることが、その精神や行動に様々な問題を生じさせるとする考え方ですが、この話も大変興味深い所です。

ハワイのヒーリング技術「ホ・オポノポノ」はもう少しスピリチュアルに寄った思想で、前世や霊感的な話にまで広がりますが、やはり意識の奥にある幼児の人格とその癒しを支柱とする思想です。

全く分野の違う2つの思想が共通して、大人の精神の中核にある傷ついた子供の人格をケアする事の重要性を解いているのは興味深いですね。
基本的にはどちらも、子供時代の人格がその頃のまんま今でも心の奥に閉じ込められているという考え方をします。

大人は理性的にモノを考え、正しい理念やモラルに基づいてその行動や言動を選択しているフリをしますが、本当は、感情と欲と立場と都合の駆け引きで選んだ行動に、理性でそれらしく体裁を整えているだけの様に思えることもしばしばですよね。

僕も、根源的に人は子供の心が先にものを考えていると思っています。
子供時代の人格が少しづつ大人のそれに変化して行くのではなく、きっとその欲求や感情は昔のままそこにあって、それを抑制する殻を上から何重にも被せていったのが大人の精神状態なんじゃないでしょうか。

ばりっとスーツを着た知性的なビジネスマンやOLさんだって、もし許されるのならダダをこねる子供のようにオフィスの床に仰向けに寝転がって「だあぁぁー!うああぁー!」と泣き叫びたい時はあると思います。
それをやると後々さらに面倒なことになるのを知っているからやらない様になっているだけで、それはつまり感情を抑さえ込むことが出来る様になっているのであって、抑さえ込まれる感情自体はきっと成長なんかしてません。

誰にでもあったあどけない子供時代の人格が、今もその人の心のセンターにちんまりと座っていて、人間関係やら社会的プレッシャーやら、大人レベルの様々なストレスに傷つけられているとしたらと思うと、ちょっといたたまれないですよね。

これを本当に実感したのが昨年の出来事で、ちょっと重い話題で恐縮なのですが、姉を病気で亡くしまして、その最後の一日の話です。

会社を経営し、バリバリ仕事をこなしてきた聡明な姉は、病床でも誰よりもしっかりしていたのですが、最後の日だけは少し意識がとんで、意識障害のような状態になっていました。
かなり年が離れているため姉の幼少時代など何も知らない僕ですが、小さな子供の様な言葉を発してベッドの上でむずがる様子や訴えかける目を見て、これは姉の幼い頃の人格だと直感しました。

幾重にも被っていた理性的な意識が薄れて、中核にあるそれが現れたのでしょうか。
その時は悲しいよりも、普通は会えるはずのない幼い頃の姉に出会えてちょっと感動した位なのですが、今思うとやはり複雑な気持ちにもなります。

非常に厳しい状況下で会社を経営しつつも、いつも人のことばかり考えていた彼女は、立場上かなりの過労に加えて尋常ではないストレスを長期間抱えていた(病気発症の引き金にもなりました)はずなのですが、それをこんなに無邪気な人格が一番底で受け止めていたのかと思うと心が痛みます。

でも程度の差はあれ、現代人は大抵皆こんな状況にありますよね。

自分を厳しく責めるのが立派な姿勢とされている社会で、我々は心の中に自らを責める社会的な意識を強く作り上げるように教育されます。
もちろんこれは必要なことなのですが、社会から個人にかかるプレッシャーが尋常じゃなく強くなっている現代は、比例するように心の傷つき方が深くなっている気がします。

店のおすすめコーナーにある「インナーチャイルド」は成人が受ける傷についての本ではありません(幼い頃に受けた心の傷がテーマ)が、読み進めて行くと、この「責められる方の自分」がインナーチャイルドにあたる気がしてなりません。

誰でも、周囲の圧迫感から身を守るように自分を責めたり、辛さから逃れようと自分を否定てしまうことがあると思いますが、人格形成や心理療法の本を読むと、本当は世界中に反感を持たれても、自分の意識だけはインナーチャイルドの側に立っていてあげないといけないのかなと思えてきます。
精神が社会的な意識ばかりに捕われてしまうと、どうも殺伐としてしまいます。

もちろん姉はそう言う人ではありませんでしたよ。
重い役職と多忙な生活の中でも常に感受性を開き続け、道端の植物とか小さな出来事をきちんと見つけて誰よりも楽しめる、スゴい人でした。

「インナーチャイルド」は多少心理療法よりの本なので、症例なども病理的側面が強く、あまり一般的な話ではありません。
専門家によっては「潜在意識は意識されない方が良いから潜在しているのであって、むやみに引っ張り出すべきではない」とする人もいるので、この本の催眠療法的な手法は「シロウトが簡単にやって良いのかな?」と思える所もちょっとありますが、インナーチャイルド的な心理構造や過去に起きた全てのことが今の自分を形作っているという事実を十分に理解させてくれます。

「インナーチャイルド」の他にも、店内のおすすめ書籍コーナーには今回触れた「性格はいかにしてつくられるか」「精神分析入門」、前回の性格分類に関する本やアイデンティティーに関する本が並んでいます。

心身のバランスを崩しやすい春先ですが、あえて精神の成り立ちを理解しつつ自分の意識下を探ってみるのはいかがでしょうか。
もちろん本気で不安定な人はやめときましょうね。


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心理学のすすめ ー性格ー

2011.02.02 Wednesday 00:16
皆様、新年明けましておめでとうございます。

今年最初のブログですが…そうですね、もう2月ですね。
スミマセン…今年もこんなペースです。
皆様どうぞ見捨てないで下さい。

寒いですが、風邪は引いてないですか?
冬は疲れを溜めるとロクなことがないので、野生動物のように栄養を蓄えて活動を抑え、出来るだけゆったり過ごせるといいですね。
またそんな話を言い訳に、春まで極力ナマケるのもアリでしょう。

さて今月は、そんな冬とは何の関係もない「心理学」の本をおすすめしようと思います。
特に今やる理由もないのですが、それでも内省的になるには一番いい時期なんじゃないでしょうか。

先ずは「性格」についての話です。

世の中には本当に色々な人がいて、生きることはそれに翻弄されることと言っても過言ではないと思うのですが、心理学で最もポピュラーな関心を集めるのは、この「性格」についての話じゃないでしょうか。

血液型や星座を基にした性格占いも昔から馴染みの深いものですよね。
性格を大雑把に決めつけられることに対しての抵抗感もあるためか、「単なる統計だ」と嫌う人も少なくありませんが、この分野に関してより学術的にアプローチしているのが心理学の「性格論」です。

もっとも最近では、血液型はそのルーツとなる各民族が暮らしていた大昔の環境条件(A型民族→寒冷地、集団生活…など)に、星座の方は、誕生月の季節が人格の基礎に与える影響に関連づけて研究されてもいるそうです。

類型と法則付けを本分とする学者が放っておくはずもないこのテーマの研究はギリシア時代からあり、近代以降では「気質類型論」「タイプ論」などと呼ばれ、精神科医クレッチマーや心理学者ユングによる性格分類が有名です。

クレッチマーの類型論は病理的分類とも呼ばれ、性格と精神病理の関係性に注目し、さらに痩せ型や肥満型などの体質的特性との関連性をも見いだした類型論で、気質のタイプを躁鬱(そううつ)気質、分裂(統合失調)気質、粘着気質などに分類します。

少し乱暴な説明ですが、躁鬱型(調子を崩すと躁鬱病になりやすい)気質の人は社交的で温和、妥協的で素直な性格、体型は丸みを帯びる傾向が強く、分裂型はやせ形で、思慮深く内省的、かたくなで美意識が強い…といった感じの話です。

体質と気質を統合的にとらえるこのタイプ論は東洋の陰陽説による体質分類にも似ている所が面白いです。
根拠付けや実証が難しい心理学は、自然科学に比べて経験主義的な面が強く、特にこの人は多くの症例データを基にしたのでそんなことにもなるのでしょう。

我々素人は、気質の病理的側面に関して「精神病になるタイプとならないタイプ」という風に線を引いて考えてしまいがちですが、この法則で見ると誰でも病気になる可能性を持っていて、「自分は〜病に近いタイプなんだ」という見方になってきます。

ユングの場合は、人の性格に、客観性や社会の価値観に重きをおいた思考、行動をしがちな「外向型気質」と、あくまで自分の内面にある主観的要因に基準を求める「内向型気質」という2タイプの傾向があることに注目し、これを発展させた性格分類を展開しました。

これも雑に言うと「外向型」の人は「現実的で社会性が強く行動的で世間の動向を重視する」というような性格で、「空想好きで社会的価値よりも自分の価値観を大事にし、思考的で独創的な内向型」の人とは対称的。
さらに、その二大気質を思考型、直感型、感情型、感覚型といった、その人が頼る精神作用のタイプも分けも加えて8種類に分類した理論です。

まぁ、どちらも一昔前の研究ですし、数十億の個性を数パターンに分類する多少強引な理論でもあるので、「中間型や移行型が無視されやすい」「類型特有の特性ばかり注目される」等々、大いに批判も受けている研究で、実際には特定のタイプにピタリとハマる人の方がむしろ少なそうな位の印象はありす。
大事なのは「外向型と内向型という2タイプの人間がいる」という認識よりも「人間の心理にその2つの方向性がある」と、とらえる方がリアルで、つまり一人の人格の中にも大なり小なり外向と内向両方の心理がある、ということを理解した方がいい気がします。

ただ、人間のパーソナリティに関心を持ち、考えて行く上で、この手の理論が指標になるという実感はあります。
「自分はどういう奴なんだろう」ということを考える時に、何の方向性もない雑然とした意識で、中々取りかかれるものではありません。
こうした類型に照らし合わせて「このタイプが近い」とか「どれも違うじゃん」とかやってる内に少しづつ自分や社会が見えて来たりもします。

ちなみにクレッチマーで言うと、こんな風に自分について考えてしまう人(僕もです)は分裂型の様ですね。
統合失調はアイデンティティーの障害なので、自分は何者?という疑問を持ちやすく、調子が悪くなって来ると鏡を見て「誰だコイツ」という気持ちになったり、かなり混乱が進んでしまうと「自分は神だ」とか「俺が本物のジョン・レノンだ」とか言い出してしまうこともあるそうです。

逆に躁鬱型の人はこの手の疑問を感じないので、自分のことや哲学的思考に走るより社会的責任感など、外から来るプレッシャーの方が天敵になって来るようです。

ユング論なら分裂型に近いのは内向型気質で、一般に言う「内向的な性格」という意味と少し違い「流行や決まり事よりも自分の価値観を基準に動く人」という感じの性格になります(日本人の多くは内向的ですが、気質は外向型)。
心理的には「客体を尊重し、自分をこれと関係付けようとする外向型に対して、内向型は客体の感覚を抑圧しようとしている」と説明されます。

僕などは元々強力な内向型で、特に思春期の頃はハヤリものや社会的慣習が本当に嫌いでした。
この理論で内向型気質というものを知った時には、ただヘンな奴なのかと思っていた自分の性格の要が分かった様な気がして、何だか安心したものです。
お陰で、その辺が開き直ったまま成長してしまい、結局こんな店を作る大人になってしまいました。

そんなアール座はよく「高円寺っぽい店」とも「高円寺っぽくない店」とも言われます。
おそらく前者は「独創的」「我が道を行く風」という印象で、後者は「俗っぽさやユルさがない雰囲気」「誰でもなじみやすい庶民派でない」という位の意味合いなんだと思っています。
内向、外向両者を有する高円寺という街の複雑さも見えて来ますが、ウチの評価はやはりどちらも内向型の特徴ですね。

内向型の店と言うと、いわゆる開かれた店ではなさそうですが、お客様はどんな方が多いのでしょう。
この流れだと内向型の方が多い様に感じますが、多くの方を対象にする場合はそう簡単に分かりませんね。

いくつかの飲食店で働いてきて、ひいき目ではなくアール座のお客様は感受性のアベレージが並でないことを感じますし、独自の世界観をお持ちで神秘的なものやファンタジックなもの、ヘンなもの(笑)に引かれる方が、リピーターの方には多い様に思えます。
一見すると内向感覚型的要素とも思えますが、ただ厳密にそれがどのタイプの気質に起因するものかは中々一概に言えませんし、そもそもが単なる全体的な印象なので個人を見る時の正確なデータになりませんね。

難しいのは、大人になると最も発達した性格(主機能)を補う様にそれと対立する性格(補助機能)が強く現れて来たりすることです。
特に人間関係が複雑で自分の立ち位置や自己表現が重要な現代においては、この辺りの関係がより複雑になっているように思えます。

一時代前なら「周囲に認められようと考える人は社交的で現実的で新し物好きでミーハーで…」などと、多少大雑把な言い方をしても、そこそこ的を得ていたんじゃないでしょうか。
僕が知っている昔でも、外向型か内向型かをある程度見た目だけでも判断出来た様に思えます。

所が現代はあらゆる趣味趣向が様々に細分化されて「外向型好み=周囲に認められやすいジャンル=マジョリティ」と一言で片付かなくなってきたので「こういうタイプが外向型」と簡単に割り切れません。
趣味の指向性やジャンルも非常に複雑に入り組んできて、マジョリティと呼ばれる文化が一通りでなく、サブカルチャーと呼ばれて来たジャンルも、もはやサブではないし、今どきは「音楽好き」な人同士といっても先ず趣味が合いませんもんね。

途上国や戦後の日本(ひばり、裕次郎の時代)の様に皆が同じ対象を求める社会から考えると、経済発展には「ニーズの多様化→供給の細分化→更なるニーズの複雑化」というサイクルがあって、発展する程人々は内向型に移行してゆくのかなと考えてしまいます。
ただ、こんな現代は自分らしく生きる上では非常に恵まれた時代でもありますね。

そんな多様な価値観の現代社会では多様なタイプの共存関係が複雑な問題になってきますが、「タイプ論」を知っていると、若干余裕を持ってこの手の問題を俯瞰からとらえられる気がします。

ユングの学説に「外向型と内向型は基本的に相性が悪く、お互いを偏見で見ようとする」という見解がありますが、確かにこれは実感します。

理解出来ない考え方、趣味の違う人に対するイラ立ちや侮蔑の裏には、自分が否定されるという恐怖感がありそうですよね。
人は皆いつも自分に不安を抱えていて、自分と反対の価値観や趣味を堂々と遂行している人がいるだけで、無意識にそんな危機感を感じてしまうのでしょう。

世の中で白熱する様々な論議、論争においても、この外向×内向の感情的な対立が根幹にあるケースがとても多い様な気がします。

人が意見を持つ時は、その根拠としてもっともらしい理論を築いてみせるものですが、その主張を選ぶ根っこには大抵立場上の理由だったり生理的、感情的な理由があったりします。
で、気質はこの「何となくこう思いたい」という心理を強く決定し、他方を否定してしまいます。
タイプの違う人同士が出会いやすいネット上でのいがみ合いとかも、結構この形多いですよね。

全く理解出来ない考え方や文化が存在することを何でもなく受け入れられる姿勢があると、その分余計な心配をせずに自分の道を行けそうな気がしますが、「性格論」の知識はこれも助けてくれそうです。

高いコミュニケーション能力が要求される現代では、気質の違いから生じる人間関係に悩まされることが茶飯事ですね。
うんざりするようなことが続くと「何で自分はこんななんだろう」と、つい自分の性格を恨んだりもしてしまいます。

でもですよ、自分の性格を自覚しつつ長い目で見てみると、恥かかされ苦しめられることはあっても、結局最後には必ず自分を守り、味方になってくれるのが、この自分にあつらえられた気質であり、自ら育んだ性格なんだなぁと最近になって思えて来るんです。

日本人は自分の短所をカタキの様に考えるような教育を受けますが、僕は、社会的な意識に助長される「長所」と呼ばれる性格よりも、それで矯正することが出来なかった「短所」の部分に、真にその人らしい気質がある様に感じます。
確かに放っておくとただの欠点ですが、何と言うか、これをつぶすのではなく、裏返して味方につけた場合には、とてつもない力を発揮してくれる気がします。

自分を変える努力には大きな意味もありますが、別に自分を嫌わなくてもいいんだなぁと、若い時より思える様になりました。
それにそう思えると、今度は他人に対する気持ちも変わって来ますしね。

そう考えてゆくと、世の中に様々な気質の人間が同居していることや、その中を自分の性格で生きてゆくということにも、きっと何かただならぬ意義があるように思えて来ます。

何だか随分イイ話になってきましたが「心理学のおすすめ」の話でしたっけね。
実は今、もう1トピックくらい行けるかなと文章を見直してみた所、思っていた量の3倍程書いていたのでびっくりです。

心理学の色々なジャンルについてざっとご紹介しようと書き始めたのですが、「先ずは性格について…」とか言って、最初のジャンルだけでこの有様です。
文章が長くなるのは分裂型気質の特徴なんだそうですが、ここまでだとヤバいんじゃないでしょうか。
ちょっと心配ですね(知るか)。

一応関連書籍は全てコーナーに置いておきますが、これ以降の心理学の話はまた次回にしようと思います。
はい、まだ続きます。
乞うご期待!?

しつこいようですが性格類型論はあくまで目安です。
自分や社会全体をとらえるならまだしも、「誰々は何型だろうから…」と特定の個人に当てはめてかかると中々うまく行かないのです。

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2010年御礼とこれからの抱負

2010.12.30 Thursday 01:23
この所少々慌ただしく過ごしてしまい、久しぶりの更新が年末のご挨拶になってしまいました。
月イチ更新というだけも残念なブログなのに…皆様ごめんなさい。

何だか今年は色々なことがあり、色々なことを考えてしまう年でした。
元々が考えてしまうタチなので、特にこの2、3ヶ月は「これからアール座で何が出来るんだろう」とか「結局自分は今生何をして死んでゆくんだろう」とか、そんなことにまで思いを巡らせてしまう始末でした。 
私は大丈夫なんでしょうか?(知るか)

3年続くかなぁと始めたアール座読書館も、本当に皆様のお陰をもちまして4年目に突入です。

「皆様のお陰…」と言うと何だか決まり文句の様ですが、ウチの様な店の場合はその重みが違ってきます。
こういう特殊な業態でも、何とか経営を続けて行けるのは本当にお客様方のご理解とご協力なしにはあり得ないことなんです。

開業前や開業直後は周囲の人達から「そういう業態は成り立たない」「金にならない」「人が集まる形ではない」という内容のことを言われまくって、僕も随分と不安でした。

会話や単価の話から、果ては新しいマンガやグラビアの写真集を入れなきゃとか酒飲ますんだとか、言われ放題でしたが(やらなくてよかった…)、決して多数派ではなくてもこういう場所が好きな人は絶対いてくれるはずだー、とヘンな日本語で思っていました。

今、店でそんな人達にお会いする度に、これを信じ通してよかったとつくづく感じます。
ビジネス面だけを重視して業態を考えていたら、きっとお会い出来なかった方々だと思うからです。

何度も心に浮かんで来るやりたいことはやっておいた方が良いということと、そのためには不安要素を羅列するよりも膨らむイメージを育て続ける姿勢の方が余程大事なんだろうと確信した次第です。

きっと、今生の僕がするべきことはそんな類いのことなんだろうなとも感じています。

そして今改めて思えるのは、人の関わり、影響し合うことと、それがもたらしてくれる変化の大切さです。

「話も出来ない店を経営しておいて何言ってんだコイツ」と思う人もいるかも知れませんが、こんな店にも知らない間に起こっている無数の小さなコミュニケーションがあるんです。
そしてこういう空間に起こるコミュニケーションが、実は結構スゴいことなんではないかと最近考えているんです。

例えば「店で僕が何となく机の引出しに入れておいた小物を見つけたお客様が、それで少しだけ気分が変わって何となく軽やかにお帰りになるのを僕が感じて、次のお客様に…」とか、そんな些細なことでさえ果てしなく続いてゆく、人同士の関わりについてです。

些細なことですが、感覚的な状態の中ではこんなちょっとしたことがその人生を変えてしまう場合だってあります。
別に人生を変えなくても良いのですが、そんな風に敏感に感じ取った、周囲のささいなことや自分の内側にある小さなものが、自然と人の生活を前に進めるきっかけや変化を起こす様に感じます。

もちろんこれはどこにいても起こることですが、人が集まる割に会話が少なく感覚的になりやすいアール座の店内では、より強いレベルでこういう連鎖が意識出来る様に思えるんです。

元々は「人が幸せになれる店にしよう」と意気込んで始めた店ですが、最近ではそれも少々おこがましいのではないかと言う気になりつつあります。

お座席のらくがき帳を見て、多くの方がそれぞれの事情や条件に挟まれて悩んだり迷ったりしながらも、何かを見いだそうとして、ちゃんとモノを見て何かを感じ考えていることを垣間見させて頂くと、ほんのひとときの小さなことにも、人はそれぞれの感受性の力で小さな「気づき」を得て、その繰り返しで前に進むんだなぁという感慨を頂きます。
またその内容が更にそれを読んだ次の人に変化を与えている様子も垣間見えます。

そんな風に皆さんが思い思いに感覚を開いてこの場所と関わって下さるということには、決して小さくはない意義がある様に感じられ、アール座が目指す場所としてこれに勝るモノははないなぁと思わせてくれます。

あまりお客様ともお話出来ない店ですが、本でもお茶でも水槽でも植物でも静けさでもヒマつぶしでも、もっと些細なことででも、そんなレベルで皆さんの日常に関わっていける店であれたらいい、という気持ちが今の僕の目指す所です。

ずっと部屋に引きこもっていたい気分の方が、少し外に出てみようかなと言う時にだって、気軽にご利用頂きやすい空間ではないかと思います(最初の入り辛さはありますが…)。

袖触り合うも…」と言いますが、お会計の時なんかに「自分とこの人との間に、前世で何があったのかなぁ」とかつい思ったりしてしまいます。
人と関わること、影響し合うことに、人間(じんかん)に生まれて来た意味があるのかなとか思ったりします。

若い頃から結構ヒトが苦手だった僕ですが、お陰様でそんな風に感じられるまでになりました。
もうこのこと自体が、皆様と関わらせて頂いた恩恵そのものですよね。

今年ご利用頂いた全ての方に心より申し上げます。

アール座に関わって下さり、本当にありがとうございました。

何だか閉店の挨拶みたいですが、もちろん違いますよ。
来年も再来年も、アール座読書館をどうぞよろしくお願い致します。

それでは皆様よいお年を


5年程前に「こんな店作りたいなぁ」と案を練っていた頃に3Dソフトで描いた構想図です。
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