人物、性格、生き方色々

2011.04.11 Monday 01:50
いつの間にか春になってましたね。

季節を感じると思うのですが、どんなに都会的な暮らしを続けていても、ふいに体の感覚に気を向けると、すぐにその感度が戻ってきて、ちゃんと体がその季節の食物を欲したりするから人間の体ってえらいですね。

かくいう私の現在の食生活もヒドいものですが、それでも昔から冬には濃い味のホットドリンク、春先にはハーブティー、秋には中国茶を飲みたくなります。

というワケで、春に飲みたくなるフレッシュハーブのミントティー始めました

ハーブティーと言うとドライハーブがイメージされますが、香りも神経作用も瑞々しい生ハーブの威力の比ではないです。

ペパーミント、スペアミント、レモンバームなどの爽やかな香りが気分を落ち着かせつつ、メントールが頭を目覚めさせ集中力を高めます。
抗菌作用、抗ウィルス作用もあり、風邪の予防や花粉症に効果があるそうです。

生ハーブは日持ちしないのでロスの可能性が高くメニューとして出せるか思案していたのですが、是非味わって欲しい爽快感なので、とりあえず実験的に春の期間限定でやってみます(なので、これっきりかもです)。

いつもの春と同じように桜が咲き誇っていますが、近頃は何だか街も人も静かですね。
かつて東京がこれだけ長いこと大人しくなっていた時期というのは、東京育ちの僕にも覚えがありません。

直接的な被害は少ないにせよ、多くの人が精神的もしくは状況の変化など何らかの影響で生活を乱され、気落ちするTV映像を長時間見続けてしまった影響や自粛ムードもあいまって、全体的にひっそりと羽を休めたい心持ちになっているのでしょう。
気分の波がある人が一番敏感になる春の季節でもありますしね。

周囲の空気と自分のバイオリズムが共感してしまう人や恵まれた状況に罪悪感まで感じてウツっぽくなる人、常に抱えていた心労からこれを機に立ち止まってみた人、逆に今こそ自分が何かしなきゃと奮い立つ人もいるでしょう。

ただ、今動き始める人も一旦ここで充電期間を取る人も、これを機に進路変更というか岐路と言うか、今後新たな何かを目指し始めそうな人が、今かなりの割合でいらっしゃるのではないでしょうか。

これだけ大きなアクシデントとその影響が日本全土に及ぶ今回の出来事は、今後この国の方向性に大きな影響を与える、大阪万博や東京オリンピック以来の一大転換期になりそうな気がしてなりません。

大げさかも知れませんが、日本はこれからどこに向かうのかなぁと考えてしまうのは僕だけでしょうか。

とにかく今までひたすら走ってきた日本人には、こうして照明とテンションを落として自分のことや世の中のこととか色々考えてみることは、不謹慎かもですが、絶対に良い機会だし、そうすべきなんだと思います。


所で、先のことを憂いて気落ちするのは人間だけなんだそうです。

将来を絶望視される様なひどい重傷を負った動物園のチンパンジーでも、病院で痛みさえ取り除いてやると、精神的にはすぐに明るくなって、体の不自由とは関係なく飼育員にいたずらをして喜んだりするそうです。

これはチンパンジー(人間以外の動物)は、将来を思い描いて悲観したりする知能がなく、常に今を生きているからですね。
よく大怪我をした野生動物が飢えの中ひたすらうずくまって回復を待ったりする様子に、人間は深刻な精神状態を投影してしまいますが、案外何も考えてないのかも知れませんね。
逆に人間のような心理だったら耐えられない状況なのでしょう。

これを野性的なタフさと言えるかも知れませんが、では人間は弱いばかりなのかと言うとそうでもなくて、未来に希望を見いだして、持っている以上の力と意思を発揮するのも人間にしか出来ない強みなのだそうです。

また別の話では「人間の精神は基本的にはネガティブな傾向が強い」と言う話を聞いたことがあります。
生死の厳しい太古の暮らしにおいては、例えば新しい水場が見つかることと、今使っている水場が干上がることでは問題の深刻さが違います。
考えて行動する人間は、生き残るために有利な「悪い問題を重く捉える方向」に進化したのかも知れません。

災害時にあらゆるデマが広がるのも、TVのコメンテーターが批判的な話ばかりする(それが求められる)のも、週刊誌の中吊り広告についつい目がいくのも、悪い情報に強く注目してしまう人間心理が反映されたものでしょう。

こう見るとポジティブな人とネガティブな人と、生きてゆく上でどちらがトクなんでしょうね。
心理学的には例のごとく「一概に言えない」というような見解が多いようですが、イメージとしては「ポジ=長所/ネガ=短所」と言う認識がありますね。

でも実際に人よりポジティブな考え方をするとバカにされたり反感を買ったりするのも世の常で、特に日本ではネガティブな方に厳しさとか賢さのイメージが付随しているので、特に公の場では「自分なんてまだまだ」とか「油断は禁物」とか、恵まれた点より悪い点に注目する考えの方が現状に甘んじない厳しく賢明な印象を与え、逆に「大丈夫、大丈夫〜」とか言ってると何だかバカっぽく見られてしまいます。

今の社会をどう思うかとインタビューされて「良い社会」なんて答えたら、何だか怒られそうな気がしてしまいます。

それを受けてか、近年の自己啓発系の本ではポジティブに考えることの有効性を唱える内容が非常に多くなってきている気がします。

アール座の蔵書には、うーん、やはりネガティブな匂いの本が多い印象ですね。
僕の趣味なんでしょう。どうしてもそっちに面白さを感じてしまいます。

自宅には体育会系な幕末モノとかもあるのですが、アール座だと浮くので置いてません。

ウチにはいわゆる伝記物は少ないのですが、それでも書棚を探してみると、ネガポジかかわらず結構様々なタイプの人物がいるなぁと思えます。

この所個人的にも、人の考え方と行動、性格と生き方の関連性に興味がわいてしまうので、こんな時期だからというワケでもないですが、アール座に住まう様々なタイプの偉人の生き様に注目しておすすめをピックアップしてみました。

置いてる本の中では「岡本太郎」や「浮谷東次郎」関連なんかが非常に前向きな人物の本です。

今年生誕100年で湧いている太郎さんは僕が若い頃にはアヤシいおじさん扱いで皆に笑われてましたが、きっと時代が早すぎたのでしょう。今や若い世代のカリスマですね。

ひたすら感性を信じる迷いのないストレートな言葉は切実で純粋でぐっと来ますし、読む人を勢いよく引っ張ってくれます。

あれだけ攻撃的なことを言って温かみが感じられるという不思議な人柄は、生まれつき天衣無縫の人かと思ってしまいますが、実は結構思考型でくよくよ悩むことも多かったようで、「岡本太郎は自分で岡本太郎になったのよ」というのが相方の敏子さんの口癖でした。
ネガティブに挑んで裏返したような積極性だからこそ悩める人々を勇気づける力を持つのでしょう。
生まれつきポジティブな人が持っていないタイプの強さですね。

「浮谷東次郎」はあまり知られていませんが、創成期の日本グランプリを賑わしつつ23歳でサーキットに散った伝説のレーシングドライバーで、その手記や記録が出版されています。

とはいえ、影のあるカリスマキャラからはほど遠い坊主頭に丸眼鏡の若者で、ものおじしない大変に奔放で前向きな性格と日本人離れした行動直結型の性格と、生き方を写したようなダイナミックな走りで人気を博した非常に魅力的な人物、それこそ天衣無縫の人です。

破天荒な行動型なら「南方熊楠」なども面白いです。
天性の研究者に特有の常軌を逸した集中力と行動力ゆえ、ひたすら関心のあることに向かうあまり行動が世間的な枠から大きく外れてしまうタイプの人で、普通に居たらアタマのオカしい男なのですが、水木しげるの伝記漫画ではその辺がよく表現されています。

意図的に破天荒に振る舞った人としては、伝説の坊主「一休和尚」がいます。
酒を呑み女遊びにふけりお地蔵さんに小便かけるめちゃくちゃな宗教姿勢は形骸化した寺社会や時代悪を批判する「偽悪」的な態度だったと言われています。

とんち小僧的なアニメの一休さんをイメージして読むと、かなりショックを受けますが…。

こうした人達の魅力は、何といっても、社会的な常識をへとも思っていない爽やかさに尽きると思いますが、その流れで、もう少し呑気なマイペース型には俳人「山頭火」や書が有名な禅僧「良寛」などがいます。 

俳句人は、とにかく気構えを解いて、精神を風のように自然に遊ばせるのが大変得意な人達です。
自分の考えやこだわりから解放されもう何もいらない羨ましい人、というイメージがありますが、山頭火の句と一緒に手記を読むと、なかなか自分の中の色々なものとも戦っていて、ぜんぜん人間臭く面白いです。

我が敬愛する良寛さんは呑気マイペース型の内気なタイプの人です。
おっちょこちょいでトボケたお爺さんなのですが、不世出の書の達人で、盗るものもない貧しい住まいに空き巣が入ったおりには、寝たフリしながら寝返りを打って体に巻いていた毛布を持っていかせた、という逸話を持つかなり超越的な人物です。

この人を「トボケたふるまいでみなに笑い者にされつつ本当の思慮深さを隠している」と見るのが研究者による一般的な見解ですが、どうも僕には、ただバカのフリをしているのではなく、悟った末に本当の天然キャラに辿り着いている人の様に思えてなりません。

この方面に来ると、つげ義春の「無能の人」に登場する、とにかく自分の存在をなきがごときにトボトボ生きる「井月」なる俳人も気になります。

仏教の悟った人物は、あらゆる能動的な働きかけを止めて自分を無為の方向に持っていこうとしたりするので、一般にはちょっと理解しづらいかも知れません。
ネガ、ポジで言ったらネガティブの極みで、先の岡本や浮谷の対極に位置する生き方ですね。

こうした禅的思想の基になっているのは中国の「老子」や「荘子」の「道」という考え方ですが、乱暴に言うと、議論や思考、判断をやめ、感覚のままに自然と一体化し、欲を捨て、争わず、とにかく努力や頑張りをやめ、役に立たず、人に見下され、空気のような存在でいなさいというような教え(ちょっと雑かな?)で、もはやネガティブをも超越しています。

老子と言うと、岩山の上に一人霞を食って暮らす仙人のイメージですが、実際には人間社会の中での在り方について理念を語っています。

が、ここまで来ると、努力を惜しまず自己実現をはかること、善悪をはっきり見極めることこそを美徳とする現代社会には、到底受け入れがたい思想に思えます。

昔の宮崎アニメの主人公(ナウシカやアシタカ/個人的に好きなキャラ達ですが)のような、勇敢で利発で逞しくて心優しい、欠点の見当たらないような前向きな人間性こそ、社会が理想とする立派な人間像でした(ラピュタのシータなんて小学生位で牧場経営したりしててビビります)。

所が近年この「道」の思想を分かりやすく砕いた、加島祥三の「求めない」がベストセラーになったのには正直驚きました。
一筋縄じゃないんですね、世の中は。
ひたすら豊かさを目指し続けて、来る所まで来た今の時代こそ、こうした思想が見直されるべきタイミングなのかも知れません。
確かに意味を理解すれば、こんな今こそ強烈なパンチ力を持つ思想でしょう。

「ダライラマ」も意志が強く利発で勤勉で心優しいナウシカのような人ですが、それにも増して、悲劇的な境遇を生き抜くその明るさが特筆すべき人だと思います。
数奇な運命の偉人としては珍しく、まだ生きてますね。

仏教とキリスト教が折衷された「宮沢賢治」はどうでしょう。
僕は子供の頃「雨ニモ負ケズ…」なんて、説教くさい感じで嫌でしたが、大人になってから読み返して、その美しさが染みました。

「皆の幸いのためならこの身を百ぺん焼かれても…」とか、人々に対する自己犠牲をこれほど切に願い、ここまで堂々と主張した人は珍しいですが、この人の思想の源はきっと思考よりも繊細な感受性だと思います。
だからこそ、文学にも生きる姿勢にも森の中のような清涼感があり、下手な思想文学とは一線を画した正直さがあります。

あと著名な人ではありませんが、アイヌに伝承される産婆術、イコインカルクルという職の最期の継承者と言われたおばあちゃんの大変興味深いインタビュー記録「ウパシクマ」という本があります。

アイヌ古来の役職で、自然と通じ、伝承技術と霊的な力でもって産婆から医者、薬剤師、占師、巫女のような仕事まで併せ持つ、まるで梨木果歩の「西の魔女…」に出て来る魔女みたいな感じの職業とその不思議な療法についての話が中心です。

ちょっとスネた田舎の婆ちゃんみたいなキャラですが、自然分娩で500人を超える助産を一例の失敗もなく取り上げた名助産婦で、自然に対してとても誠実に生きていた日本古代人の姿を垣間見れるような貴重な存在の人です(H7年没)。
現代文明に迷うことなく、強い精神性と豊かな感性で自然や神と語りながら経験主義的に現代を生き抜いた姿勢を伺わせます。

サイゴに、最近入荷した「空飛ぶ機械にかけた男達」という本ですが、飛行を夢見た多くの挑戦者達の話です。

これまた「道」の対極的な生き方ですが、自分の直感を信じ、周囲にバカにされながら(ココが要です。周囲の理解を超えた所で生きてるんです)もひたすら何かを作り続ける人が僕は大好きでして、近代の有人飛行を目指した人達はその象徴的な存在です。

こうした仕事は、とても出来そうにないとも思えることを「絶対出来るはずだ」と信じなければ出来ないワケで、ポジティブの極みと言えましょう。

古い科学を元にしているし、結局その理論では飛べなかったことを知っている我々が読むと、ついつい稚拙な理論と思って面白く読んでしまいますが、考えたらこの人達全員の夢の様な思いは結局実現するんですよね。
彼らの努力と積み上げてくれた理論の蓄積のおかげで、我々は海外に旅したり外国の旨いもの食べたり出来るんです。

アール座の天井に飾られている、ライト兄弟に勇気を与えたその先人、オットー・リリエンタールの飛行機模型と、その後に兄弟が飛ばしたライトフライヤーの模型には、そんな敬意も込められています。

さて、思いつきで始めた今月のオススメなので何だかジャンルもバラバラで、脈絡というものがありませんが、まぁ例のごとく並べておきます。
気になるものがあったら見て下さいね。

こうした本を読んだり、TVで「プロフェッショナル」とか見たりすると、僕はすぐ「あーもう決めた。オレ今日からこういう風に生きよう」などと容易く感化されてしまいますが、こうして様々な生き方を並べてみると、「どれにするんだよ」と迫られているようで、あまり無責任な決意もしづらくなります。

でもまぁいいや。おっきくなったら考えよう。
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震災義援金と「寄付」の概念について

2011.03.18 Friday 02:22
こんにちは。

いつもこのブログを読んで下さっているのは都内近郊の方と思いますが、皆様お怪我などありませんでしたでしょうか。

まず当店に関して、この地震直後2、3日営業が不安定になってしまったことをお詫び申し上げます。

現在は節電のため店内が多少暗めながらも、通常営業をしております。
ただ、しばらくは営業中の停電、及びそれに伴う臨時閉店の可能性が続きますことをご了承頂けると幸いです(万が一停電になっても非常灯が点灯しますので、動けないようなまっ暗闇になることはありません)。

アール座は店内にモノが多いので、ご心配をおかけした方も少なからずいらしたようで、誠にすみませんでした。

一応転倒、落下の恐れがある大きな家具、什器は全て壁面その他に固定してありましたので、高い位置から倒れたものはなく、大量の書物と幾つかの食器、机の花瓶や電気スタンドが落下したのみで、幸い大事には至りませんでした。

災害対策というのは、ことが起こる前にはモチベーションが上がらず、非常に面倒くさく感じる作業ですが、揺れの最中に僕が一番思っていたのは「うわーやっといてよかったー」という感慨です。
まだの方にはおすすめしておきますね。

そんな中でも比較的悲しいのが水槽のダメージです。

気に入って下さっていた方も多く大変残念でしたが、小さい方(60cm)の水槽に割れが入り、大きい方はタンクは無事だったものの、水槽内で岩などが倒れ込んで水質が悪化したためか、残念ながら、どちらもほとんどのお魚達が被害を受け、中の環境はリセットすることになってしまいました(ベタの鉢は無事です)。

一応現在はどちらも植え替えを終えておりますが、60cmの方は底砂から全ての植え替えになってしまったため、今は荒れ野のような寂しい光景になってしまっております。
が!この水草たちは開店の頃からこれまで何度もこうした危機(大抵僕の不手際 汗)を乗り越え繁殖してきた、巧ましい遺伝子を持つ子たちです。
まぁ見ていて下さい。
3ヶ月もすればすっかり育って、また我々を癒してくれる美しい草原を復活させてくれるに違いありません。
 
幸い今回水槽のお席はどちらも無人で、お客様が水を被られることはありませんでしたが、もし今後、水槽のお席で大きな揺れに襲われた際には可能ならお席から離れて下さいますよう、お願い申し上げます。

心配される方の多かった食器類は奇跡的な程ダメージが少なく、破損は数点ですみました。
皆あんな置き方でよく踏ん張ってくれたと感謝しつつ、残念ながら割れてしまったものは「お疲れさまでした」と、やはり感謝を込めてカチャカチャと集めました。

お店に関しては、被害と言ってもこの程度の話ですが、今この国はそれどころではないですね。

被災地の方がご覧になることはないと思いますが、先ずは避難されている方のご健康と不明な方のご無事、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

このブログはあくまでアール座読書館に関するお知らせやおすすめをする場なので、店に関係のない個人的な考えはなるべく控えているのですが、今回だけこの場をお借りして、そんな話もしてみようかと思っています。

近頃は被災のほとんどない都内でも何だか人々が慌ただしく、買い占めに走ったり色々な恐怖にあおられたりと興奮気味です。
今は怒りの矛先が東電の職員にも向いていますが、本当は我々は電力がなければ普通に暮らすことも出来ないという事実を突きつけられた気もします。

情報や管理が徹底した社会では皆不測の事態に弱くなっていて、少しでも安全にかげりを感じると簡単に不安に襲われてしまうのかなぁとも感じました。

TVで災害の地を見ていつも思うのは、人間の小ささ無力さと、こんな目に会ってまで人は何を希望に生きてゆくべきなんだろうということです。

軽々しく言えることではないですが、これまで積み上げてきた財産を一度に全て失ったり、大切な人と突然の別れを強いられたりしながらも、這い上がり這い上がり生き続ける人々は、一体どこを目指すんだろうと言う哲学的な疑問です。

今全国で、あの人達のために自分に何が出来るんだろうと考えている人が本当に多くいらっしゃると思います。
部屋で温かい布団で寝る時にも、そんな考えがよぎりますよね。

僕は無宗教ですが「祈ること」は効果のあることだと思っています。
特に多くの人の願いは大きなエネルギーになる気がします。
色々な考え方があると思いますが、東北方面に向けて手を合わせたり、神社でお賽銭して幸いをお願いするのも、きっと意味があると僕は考えます。

逆に「賽銭する位ならその金を…」と反論したくなる人も思いつく簡潔な答えが「義援金」ですよね。
もうかなりの人が実行されているんじゃないでしょうか。

個人的に物資を配送するのが困難な現状では、お金を寄付して一番有効な手段に使ってもらうというのが、誰にでも出来る最も確実な手段だと僕も思います。

「別にお前に言われなくても…」と思われる方、すみません。全くその通りですが、以後はそんな話です。

日本では今の所「寄付」という概念があまり浸透していないどころか、どこかうさんクサいイメージすら付けられていますね。
慈善やチャリティは「自己満足だ」とか「何か違う気がする」とか、何かと難クセをつけては遠ざけられがちです。

僕は買い物は安物ですませる方だし、特に理由がなければ年下や女性との食事もワリ勘だし、お金に関して割とケチな方だと思いますが、ボランティア機関への毎月定額の寄付だけは生計がキツかった移動販売の時もこの店が赤字の時(小さな額でしたが)も何とか続けてきました。

偉いでしょ…と自慢したいのではありませんよ(逆に結構反感買いやすいんです)。
寄付って別にうさん臭くもなければ、立派な人がするというものでもない、割と軽く考えて良い行為だと思うんです。

考え方として、僕がよくイメージする情景があります。

広い草原に流れの激しい川が一本流れていて、こちらの川辺には立派な木が生えていて次々に美味しい果実を実らせているため、そこに住んでいる猿達はこれを好きなだけもいで食べることが出来ます。が、川向こうには木が生えておらず、こちらに渡れない多くの猿が飢えているという情景です。

こちらでは果実が余って腐っているにも関わらず、向こうではやせ細った猿達がどんどん飢えて死んでゆきます。

猿や他の生物ならそうなるでしょうが、もしこれが人間だったら、果実をもいで川向こうに投げてやることで、気持ちの悪いアンバランスを多少なりとも解消出来るし、きっとそうするはずです。

で、これは架空の話ではなく今の世界の現実そのものですよね。
ましてや東北地方なんて、例えれば川も挟んでない近所の出来事です。

現実的には、向こう岸のように直接見えない現状を情報(映像)だけでリアルに認識出来るか、苦労して自分でもいだ実を「恵まれたもの」と思えるか、本当は必要以上に手にしている果実を「余っているもの」ととらえられるか、という辺りのイマジネーションが難しく、ネックになる所です。

でも、それだけのことなんです。寄付なんて。
知らん顔して木の実をかじってるより、いや、かじりながらでも、もう一つを投げてやりたくなるというだけのことです。

日本人は直接触れ合うと、本当に思いやりにあふれた優しい民族です。
ただ、こうした直接触れてない相手のことを情報を元に共感するためには、感情よりも「理性的な想像力」が必要で、これが日本人は苦手な気がします。
あと、皆がしていないことに自分一人の主義で手を出すのもきっと苦手です。

僕は「寄付」と言う概念がもっとポピュラーになって、社会内や国家間の経済格差にまで影響を与える程の規模になれば、格差を生む一国の経済発展や景気回復が、より豊かなものになるんじゃないかと思っています。

別に「自己満足」でも「善い人アピール」でも、企業がイメージアップのために営利目的でする(実際は意外に少ないと思います)のでもいいから、色々含めて「寄付」という行為がもっと普通のことになって、それでカッコつけたり見栄はったり出来る社会の方が、「ボランティアやチャリティは全くの美しい心から行われる行為でなければならない」と考えて何もしない世の中よりずっと良いと思います。

そして、寄付は困っている人のため以上に自分のためにもなります。

僕は人が幸せになるためには、今幸せである所に気づく以外に方法はないと思っています。

被災していない我々は、この状況では大変申し訳ないけれども、今こうして食事に困らず、暖かい室内で暮らしていけることのありがたみを感じてしまいますね。

家があること。手が使えること。目が見えること。日差しを浴びれること。暴力に脅かされていないこと。封建的でない時代に生まれたこと。飢餓の無い国に生まれたこと。
恵まれているものはそれぞれに違うと思いますが、どんな人だって本当は無数の幸せに包まれて生きているはずなのですが、そこに目が向かないのも人の常で、誰でも持っているものを見ずに無いものを求めてしまいます。

こんな欲にはキリがなく、いくら手に入れてもそれを超えてエスカレートしながら不満ばかりを生み出します。
持つ程に執着の強くなる財産がいい例ですが、僕は富を増やすことだけで幸せになるのはどこまで行っても不可能なんじゃないかとも思っています。

実際、明日の糧に困らず自宅にTVやPCを所有する平均的な日本人だって、世界の人々を大雑把に分ければアラブの石油王やハリウッドスターと同じ、一番上のランクのお金持ち(書籍「もしも世界が100人の村だったら」によると50人に1人)に入る程で、貧しい国の人々から見れば「あれだけあったら何もいらない」と思われるレベルの富裕層だと思いますが、それでも実際は「もっとお金があれば…」と思ってたりしますよね。

でも、結局この生涯の全ての財産はあの世にも来世にも持っていけない、言わば借り物で、後は何にどう使って死んでゆくかだけです。

僕はお金そのものに一定の価値があるとは思いません。
お金は様々な価値と交換する力を持っているだけであって、大事なものにも下らないものにも変わりうる金額を価値の基準にしてはいけないと思っています(世の中がスゴく勘違いしている所です)。

そして、概して財産は財力が大きくなる程執着心が強まって、その価値は小さくなってゆく(下らないものに交換される)気がしてなりません。

チャリティという意識からはかなり離れてしまいますが、自分が自由に使えるお金(出来ればちょっとキツい位の額)を手放すことは、そんな気持ちに歯止めをかけ「まぁこのくらいで暮らして行ければイイんじゃないかな」という気持ちにしてくれる効用があり、何というかちょっと人生をスッキリさせてくれる感もあります。

さらに言えば「寄付」のようにお金が大きな価値に変わる使い道は中々ありません(これもケチな僕を満足させてくれます)。

この手の考え方が不純だと反感を買いやすい所ですが、これは仏教にある「お布施」と言う概念に似た考え方だと思います。
今ではお布施と言うと「お寺に寄付(これも必要なシステムです)」というイメージになっていますが、本来は「財を自ら手放すことで欲から解放される」ことを目的とした自分のための行為で、例えばそう言う思想に基づいてどこかに寄付をするのだって「布施」と同じですよね。

そうして自分の幸せを確信出来た人が、今度は他の人の力になることが出来るんだと思います。

不謹慎かも知れませんが、かなりの寄付が集まるこの試練を経て、この国の人々の価値観がもっと富や恵みを皆で共有する方向に向かえばいいのにと本当に願います。

今は僕も稼ぎが生活費程度なので寄付金額も知れてますが、もっと規模を大きくしてアール座がより高い割合で協力させてもらえるようになれば「お客さんがお茶飲んでくつろぐと、その支払いの何割かが自然に誰かの助けに…」みたいな店になったりしても面白そうだなとか思っています(結構マジ)。

残念ながら、今回はまだアール座でそれを集めるシステムは作れませんが、今随分沢山の機関で被災地への寄付金を募っていますね。

詐欺まがいの話もあるようなのですが、各銀行の窓口で開設されているものやTV局で伝えている番号、百貨店の募金箱なんかは安全でしょう。

募金の集め方使われ方も色々あるようですが日本赤十字社は義援金配分委員会が立てた配分計画に基づいて被災者に届くそうです。

僕が日頃利用させてもらっているのは「国境なき医師団」「日本ユニセフ協会」ですが、こちらは団体の支援活動への援助がメインのようです。

一番手軽なのは携帯やPCから出来る募金もあるみたいで、TV見て辛い気持ちになる度に使えちゃいますね。

あまり店と関係ない話をべらべらとしてしまいましたが、こういう場で一方的に自分の考えを表現してゆくのは、考えの違う方などは不快にさせてしまったりするので控えるべき、とは思っているんです。本当に。

予定では、今回民俗美術と原始美術についてのお知らせをしようと思っていたのですが、あんなことの後でそんな話をする気にならなかったので、僕みたいのがする話でもないのですが、まぁしちゃいました。

以後はソコソコ気をつけますね(笑)。



結構美しかったガラス食器達の最期
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心理学の勧め2 〜性格形成とインナーチャイルド〜

2011.03.02 Wednesday 01:16
春までもう一息という所ですが、そんな今頃になって店内のシルクジャスミンがまた実をつけました。
室内栽培なので季節感がかなりとんちんかんなことになっていますが、それでもやっぱり嬉しいです。

去年一つだけ実がなった時にもブログでご報告したのですが、その時「蝶も蜂もいない室内で実がなるのはきっと閉店後に光合成ライトの下に鉢を集める際に、偶然花同士が触れて受粉したんじゃないか」という勝手な推測を立て、それ以降花が咲く時期には鉢を集める度に花のついた枝を無理矢理引っ張って来て他の花と強引にチュッチュとくっつけてました。

非常に乱暴な人工授粉ですが、そしたら今年なった実は何と6つ。やった。

一番見やすいのは窓際前から4番目の席(ベタがいるとこ)の木の先端にまとめて3つなっている部分でしょうか。
その木に他に2つ、前から2番目の席の木にも一つ見つかっております。

最初は緑色の小さなレモンの様な実がなるのですが、これが熟して段々と赤くなって来ると、サクランボのようでとても可愛らしいんです。
「柑橘系植物なので甘い味がするらしいっすよ」とのお客様からのタレ込み情報もありましたので、この春には検証してみようかと思っております。

さてさて、今月のおすすめ図書も前回に引き続き心理学関係です。

先月は性格分類についてたらたらと綴りましたが、そんな風に自分がどんな奴なのかを考えていると、次には「ならどうして自分はそんな奴になったんだろう」という疑問にぶつかってゆきます。
心理学はこの性格形成についての研究を軸に発展して来たと言っても良いでしょう。

これには先ず「自分がこんなんなのは生まれつきなのか育ち方のせいか」という疑問が根本的にありますが、心理学においてこの「生まれもっての気質と後天的に得られる性質はどちらが優勢か」という問題は非常に難しく、昔から「生得説」「経験説」として意見が分かれるそうです。
ただ常識的に「両者が影響し合って形作られる」と考えられていて「どちらか一方によって決定される」と言う見解は今はあまりないようです。

心理学で「気質」というと、生まれつき備わっている性格的要素のことで、つまり遺伝で決定される部分になりますね。
よく「こんな所は母親譲り」とか「おばあちゃんの若い時にそっくりだ」とか言われる話ですよね。

この店の内装をやっていた時、叔父に「利助はんのやり方によう似とる」と言われました。
「利助はん」は父方4代前のご先祖(ひいひいお爺さん)で、行商で材料費を稼ぎ本家の家屋をセルフビルドした時の話が一族の間に言い伝わっています。
姿も知らない嘉永時代の人物の個性が自分の中に脈打っていると聞かされると、DNA情報の不思議なつながりを感じてしまいます。

ちなみに仏教では「前世」の因縁が「カルマ」として生まれつきの性格(気質)まで形作ると考えられていて、最近は占いなんかでもこんな話をよく耳にしますよね。

僕はアンティークショップなんかで絶対に自分が知らない時代の高価な品に強烈な懐かしさを感じたりすると、すぐに「オレの前世はドイツの貴族だな」とか思って一人うなずいたりしてます。
また、旅先の風景や建物を見てそんな感覚を抱く度に「ホームレスかな」とか「坊主に違いない」とか思います。

そんな経験や根強い趣味、好き嫌い、覚えのないトラウマレベルの恐怖感や執着心なども合わせて総合的にプロファイルしてみると、どうやら僕の前世は、明治か大正時代の比較的高貴な家柄の大きな庭と池のある洋館造りの家に生まれ、不自由なく育つも、自己顕示の強い社交会になじめず、ノイローゼになって逃げるように出家し、大きな寺に入るが政治の渦巻く寺社会にも馴染めず、結局人里近くの山中の湖が見渡せる草庵に一人暮らして悟りを求めた禅僧で、晩年は町で物乞いや拾い物をしながら自然の風景を見ては絵を描いたり詩を詠んだりして気ままに暮らし、最後は桜が咲く頃に伝染病に蝕まれて寂しく亡くなったという逃避型の人物だったようです。

ちなみに僕には霊感の類いは全くありませんが、この手の話は言ったもん勝ちで、誰にも迷惑はかかりませんので、ヒマな人はやってみると楽しいです。
ただ、人格を疑われるのであまり人に話さない方が良いです(ブログに書くなどもっての他です)。

後天的に得られる面に関しては、手がかりが自分の記憶に残っていたりするので考えやすいですよね。
家族構成やその第何子であるかとか親の教育方針の影響なんかは分かりやすい所でしょうか。

僕も昔よく「年の離れた姉が二人いる末っ子」というと、女の子に「あぁ〜、ぽいぽい」とか言われてカチンと来たりしてましたが、とはいえこの影響はどうあがいても否定出来ません。

特に性格は幼い時期の条件程影響力が大きいとする見方が強いようで、幼児期(6歳くらいまで)にはほぼ決まってしまうという話もある位なので、家庭環境は絶対的なのでしょう。

おそらくそれより後は、考え方や趣味や価値観の話になって来るのではないでしょうか。
自分が周囲からどう評価されて来たかが自我意識や対人態度を、何で評価されて来たかがその趣味や価値観に影響するようにも思えます。

逆に、幼い頃の記憶にも残らない様な出来事が本人の知らない内に今の精神に影響を与えている、という「抑圧された無意識」の存在に注目したのが、有名なフロイトの精神分析学ですね。
後に批判もされた点も多いですが、心理学を飛躍的に進歩させました。
夢とか潜在意識とか、我々が心理学というジャンルに持っている何となく非現実的で神秘的なイメージは、この学派がもたらしたものでしょう。

こうした潜在的な性格形成について、もっと進めると「インナーチャイルド」と言う概念が出てきます。
簡単に言うと、成人の心の奥に存在する幼児期の人格が傷ついていることが、その精神や行動に様々な問題を生じさせるとする考え方ですが、この話も大変興味深い所です。

ハワイのヒーリング技術「ホ・オポノポノ」はもう少しスピリチュアルに寄った思想で、前世や霊感的な話にまで広がりますが、やはり意識の奥にある幼児の人格とその癒しを支柱とする思想です。

全く分野の違う2つの思想が共通して、大人の精神の中核にある傷ついた子供の人格をケアする事の重要性を解いているのは興味深いですね。
基本的にはどちらも、子供時代の人格がその頃のまんま今でも心の奥に閉じ込められているという考え方をします。

大人は理性的にモノを考え、正しい理念やモラルに基づいてその行動や言動を選択しているフリをしますが、本当は、感情と欲と立場と都合の駆け引きで選んだ行動に、理性でそれらしく体裁を整えているだけの様に思えることもしばしばですよね。

僕も、根源的に人は子供の心が先にものを考えていると思っています。
子供時代の人格が少しづつ大人のそれに変化して行くのではなく、きっとその欲求や感情は昔のままそこにあって、それを抑制する殻を上から何重にも被せていったのが大人の精神状態なんじゃないでしょうか。

ばりっとスーツを着た知性的なビジネスマンやOLさんだって、もし許されるのならダダをこねる子供のようにオフィスの床に仰向けに寝転がって「だあぁぁー!うああぁー!」と泣き叫びたい時はあると思います。
それをやると後々さらに面倒なことになるのを知っているからやらない様になっているだけで、それはつまり感情を抑さえ込むことが出来る様になっているのであって、抑さえ込まれる感情自体はきっと成長なんかしてません。

誰にでもあったあどけない子供時代の人格が、今もその人の心のセンターにちんまりと座っていて、人間関係やら社会的プレッシャーやら、大人レベルの様々なストレスに傷つけられているとしたらと思うと、ちょっといたたまれないですよね。

これを本当に実感したのが昨年の出来事で、ちょっと重い話題で恐縮なのですが、姉を病気で亡くしまして、その最後の一日の話です。

会社を経営し、バリバリ仕事をこなしてきた聡明な姉は、病床でも誰よりもしっかりしていたのですが、最後の日だけは少し意識がとんで、意識障害のような状態になっていました。
かなり年が離れているため姉の幼少時代など何も知らない僕ですが、小さな子供の様な言葉を発してベッドの上でむずがる様子や訴えかける目を見て、これは姉の幼い頃の人格だと直感しました。

幾重にも被っていた理性的な意識が薄れて、中核にあるそれが現れたのでしょうか。
その時は悲しいよりも、普通は会えるはずのない幼い頃の姉に出会えてちょっと感動した位なのですが、今思うとやはり複雑な気持ちにもなります。

非常に厳しい状況下で会社を経営しつつも、いつも人のことばかり考えていた彼女は、立場上かなりの過労に加えて尋常ではないストレスを長期間抱えていた(病気発症の引き金にもなりました)はずなのですが、それをこんなに無邪気な人格が一番底で受け止めていたのかと思うと心が痛みます。

でも程度の差はあれ、現代人は大抵皆こんな状況にありますよね。

自分を厳しく責めるのが立派な姿勢とされている社会で、我々は心の中に自らを責める社会的な意識を強く作り上げるように教育されます。
もちろんこれは必要なことなのですが、社会から個人にかかるプレッシャーが尋常じゃなく強くなっている現代は、比例するように心の傷つき方が深くなっている気がします。

店のおすすめコーナーにある「インナーチャイルド」は成人が受ける傷についての本ではありません(幼い頃に受けた心の傷がテーマ)が、読み進めて行くと、この「責められる方の自分」がインナーチャイルドにあたる気がしてなりません。

誰でも、周囲の圧迫感から身を守るように自分を責めたり、辛さから逃れようと自分を否定てしまうことがあると思いますが、人格形成や心理療法の本を読むと、本当は世界中に反感を持たれても、自分の意識だけはインナーチャイルドの側に立っていてあげないといけないのかなと思えてきます。
精神が社会的な意識ばかりに捕われてしまうと、どうも殺伐としてしまいます。

もちろん姉はそう言う人ではありませんでしたよ。
重い役職と多忙な生活の中でも常に感受性を開き続け、道端の植物とか小さな出来事をきちんと見つけて誰よりも楽しめる、スゴい人でした。

「インナーチャイルド」は多少心理療法よりの本なので、症例なども病理的側面が強く、あまり一般的な話ではありません。
専門家によっては「潜在意識は意識されない方が良いから潜在しているのであって、むやみに引っ張り出すべきではない」とする人もいるので、この本の催眠療法的な手法は「シロウトが簡単にやって良いのかな?」と思える所もちょっとありますが、インナーチャイルド的な心理構造や過去に起きた全てのことが今の自分を形作っているという事実を十分に理解させてくれます。

「インナーチャイルド」の他にも、店内のおすすめ書籍コーナーには今回触れた「性格はいかにしてつくられるか」「精神分析入門」、前回の性格分類に関する本やアイデンティティーに関する本が並んでいます。

心身のバランスを崩しやすい春先ですが、あえて精神の成り立ちを理解しつつ自分の意識下を探ってみるのはいかがでしょうか。
もちろん本気で不安定な人はやめときましょうね。


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心理学のすすめ ー性格ー

2011.02.02 Wednesday 00:16
皆様、新年明けましておめでとうございます。

今年最初のブログですが…そうですね、もう2月ですね。
スミマセン…今年もこんなペースです。
皆様どうぞ見捨てないで下さい。

寒いですが、風邪は引いてないですか?
冬は疲れを溜めるとロクなことがないので、野生動物のように栄養を蓄えて活動を抑え、出来るだけゆったり過ごせるといいですね。
またそんな話を言い訳に、春まで極力ナマケるのもアリでしょう。

さて今月は、そんな冬とは何の関係もない「心理学」の本をおすすめしようと思います。
特に今やる理由もないのですが、それでも内省的になるには一番いい時期なんじゃないでしょうか。

先ずは「性格」についての話です。

世の中には本当に色々な人がいて、生きることはそれに翻弄されることと言っても過言ではないと思うのですが、心理学で最もポピュラーな関心を集めるのは、この「性格」についての話じゃないでしょうか。

血液型や星座を基にした性格占いも昔から馴染みの深いものですよね。
性格を大雑把に決めつけられることに対しての抵抗感もあるためか、「単なる統計だ」と嫌う人も少なくありませんが、この分野に関してより学術的にアプローチしているのが心理学の「性格論」です。

もっとも最近では、血液型はそのルーツとなる各民族が暮らしていた大昔の環境条件(A型民族→寒冷地、集団生活…など)に、星座の方は、誕生月の季節が人格の基礎に与える影響に関連づけて研究されてもいるそうです。

類型と法則付けを本分とする学者が放っておくはずもないこのテーマの研究はギリシア時代からあり、近代以降では「気質類型論」「タイプ論」などと呼ばれ、精神科医クレッチマーや心理学者ユングによる性格分類が有名です。

クレッチマーの類型論は病理的分類とも呼ばれ、性格と精神病理の関係性に注目し、さらに痩せ型や肥満型などの体質的特性との関連性をも見いだした類型論で、気質のタイプを躁鬱(そううつ)気質、分裂(統合失調)気質、粘着気質などに分類します。

少し乱暴な説明ですが、躁鬱型(調子を崩すと躁鬱病になりやすい)気質の人は社交的で温和、妥協的で素直な性格、体型は丸みを帯びる傾向が強く、分裂型はやせ形で、思慮深く内省的、かたくなで美意識が強い…といった感じの話です。

体質と気質を統合的にとらえるこのタイプ論は東洋の陰陽説による体質分類にも似ている所が面白いです。
根拠付けや実証が難しい心理学は、自然科学に比べて経験主義的な面が強く、特にこの人は多くの症例データを基にしたのでそんなことにもなるのでしょう。

我々素人は、気質の病理的側面に関して「精神病になるタイプとならないタイプ」という風に線を引いて考えてしまいがちですが、この法則で見ると誰でも病気になる可能性を持っていて、「自分は〜病に近いタイプなんだ」という見方になってきます。

ユングの場合は、人の性格に、客観性や社会の価値観に重きをおいた思考、行動をしがちな「外向型気質」と、あくまで自分の内面にある主観的要因に基準を求める「内向型気質」という2タイプの傾向があることに注目し、これを発展させた性格分類を展開しました。

これも雑に言うと「外向型」の人は「現実的で社会性が強く行動的で世間の動向を重視する」というような性格で、「空想好きで社会的価値よりも自分の価値観を大事にし、思考的で独創的な内向型」の人とは対称的。
さらに、その二大気質を思考型、直感型、感情型、感覚型といった、その人が頼る精神作用のタイプも分けも加えて8種類に分類した理論です。

まぁ、どちらも一昔前の研究ですし、数十億の個性を数パターンに分類する多少強引な理論でもあるので、「中間型や移行型が無視されやすい」「類型特有の特性ばかり注目される」等々、大いに批判も受けている研究で、実際には特定のタイプにピタリとハマる人の方がむしろ少なそうな位の印象はありす。
大事なのは「外向型と内向型という2タイプの人間がいる」という認識よりも「人間の心理にその2つの方向性がある」と、とらえる方がリアルで、つまり一人の人格の中にも大なり小なり外向と内向両方の心理がある、ということを理解した方がいい気がします。

ただ、人間のパーソナリティに関心を持ち、考えて行く上で、この手の理論が指標になるという実感はあります。
「自分はどういう奴なんだろう」ということを考える時に、何の方向性もない雑然とした意識で、中々取りかかれるものではありません。
こうした類型に照らし合わせて「このタイプが近い」とか「どれも違うじゃん」とかやってる内に少しづつ自分や社会が見えて来たりもします。

ちなみにクレッチマーで言うと、こんな風に自分について考えてしまう人(僕もです)は分裂型の様ですね。
統合失調はアイデンティティーの障害なので、自分は何者?という疑問を持ちやすく、調子が悪くなって来ると鏡を見て「誰だコイツ」という気持ちになったり、かなり混乱が進んでしまうと「自分は神だ」とか「俺が本物のジョン・レノンだ」とか言い出してしまうこともあるそうです。

逆に躁鬱型の人はこの手の疑問を感じないので、自分のことや哲学的思考に走るより社会的責任感など、外から来るプレッシャーの方が天敵になって来るようです。

ユング論なら分裂型に近いのは内向型気質で、一般に言う「内向的な性格」という意味と少し違い「流行や決まり事よりも自分の価値観を基準に動く人」という感じの性格になります(日本人の多くは内向的ですが、気質は外向型)。
心理的には「客体を尊重し、自分をこれと関係付けようとする外向型に対して、内向型は客体の感覚を抑圧しようとしている」と説明されます。

僕などは元々強力な内向型で、特に思春期の頃はハヤリものや社会的慣習が本当に嫌いでした。
この理論で内向型気質というものを知った時には、ただヘンな奴なのかと思っていた自分の性格の要が分かった様な気がして、何だか安心したものです。
お陰で、その辺が開き直ったまま成長してしまい、結局こんな店を作る大人になってしまいました。

そんなアール座はよく「高円寺っぽい店」とも「高円寺っぽくない店」とも言われます。
おそらく前者は「独創的」「我が道を行く風」という印象で、後者は「俗っぽさやユルさがない雰囲気」「誰でもなじみやすい庶民派でない」という位の意味合いなんだと思っています。
内向、外向両者を有する高円寺という街の複雑さも見えて来ますが、ウチの評価はやはりどちらも内向型の特徴ですね。

内向型の店と言うと、いわゆる開かれた店ではなさそうですが、お客様はどんな方が多いのでしょう。
この流れだと内向型の方が多い様に感じますが、多くの方を対象にする場合はそう簡単に分かりませんね。

いくつかの飲食店で働いてきて、ひいき目ではなくアール座のお客様は感受性のアベレージが並でないことを感じますし、独自の世界観をお持ちで神秘的なものやファンタジックなもの、ヘンなもの(笑)に引かれる方が、リピーターの方には多い様に思えます。
一見すると内向感覚型的要素とも思えますが、ただ厳密にそれがどのタイプの気質に起因するものかは中々一概に言えませんし、そもそもが単なる全体的な印象なので個人を見る時の正確なデータになりませんね。

難しいのは、大人になると最も発達した性格(主機能)を補う様にそれと対立する性格(補助機能)が強く現れて来たりすることです。
特に人間関係が複雑で自分の立ち位置や自己表現が重要な現代においては、この辺りの関係がより複雑になっているように思えます。

一時代前なら「周囲に認められようと考える人は社交的で現実的で新し物好きでミーハーで…」などと、多少大雑把な言い方をしても、そこそこ的を得ていたんじゃないでしょうか。
僕が知っている昔でも、外向型か内向型かをある程度見た目だけでも判断出来た様に思えます。

所が現代はあらゆる趣味趣向が様々に細分化されて「外向型好み=周囲に認められやすいジャンル=マジョリティ」と一言で片付かなくなってきたので「こういうタイプが外向型」と簡単に割り切れません。
趣味の指向性やジャンルも非常に複雑に入り組んできて、マジョリティと呼ばれる文化が一通りでなく、サブカルチャーと呼ばれて来たジャンルも、もはやサブではないし、今どきは「音楽好き」な人同士といっても先ず趣味が合いませんもんね。

途上国や戦後の日本(ひばり、裕次郎の時代)の様に皆が同じ対象を求める社会から考えると、経済発展には「ニーズの多様化→供給の細分化→更なるニーズの複雑化」というサイクルがあって、発展する程人々は内向型に移行してゆくのかなと考えてしまいます。
ただ、こんな現代は自分らしく生きる上では非常に恵まれた時代でもありますね。

そんな多様な価値観の現代社会では多様なタイプの共存関係が複雑な問題になってきますが、「タイプ論」を知っていると、若干余裕を持ってこの手の問題を俯瞰からとらえられる気がします。

ユングの学説に「外向型と内向型は基本的に相性が悪く、お互いを偏見で見ようとする」という見解がありますが、確かにこれは実感します。

理解出来ない考え方、趣味の違う人に対するイラ立ちや侮蔑の裏には、自分が否定されるという恐怖感がありそうですよね。
人は皆いつも自分に不安を抱えていて、自分と反対の価値観や趣味を堂々と遂行している人がいるだけで、無意識にそんな危機感を感じてしまうのでしょう。

世の中で白熱する様々な論議、論争においても、この外向×内向の感情的な対立が根幹にあるケースがとても多い様な気がします。

人が意見を持つ時は、その根拠としてもっともらしい理論を築いてみせるものですが、その主張を選ぶ根っこには大抵立場上の理由だったり生理的、感情的な理由があったりします。
で、気質はこの「何となくこう思いたい」という心理を強く決定し、他方を否定してしまいます。
タイプの違う人同士が出会いやすいネット上でのいがみ合いとかも、結構この形多いですよね。

全く理解出来ない考え方や文化が存在することを何でもなく受け入れられる姿勢があると、その分余計な心配をせずに自分の道を行けそうな気がしますが、「性格論」の知識はこれも助けてくれそうです。

高いコミュニケーション能力が要求される現代では、気質の違いから生じる人間関係に悩まされることが茶飯事ですね。
うんざりするようなことが続くと「何で自分はこんななんだろう」と、つい自分の性格を恨んだりもしてしまいます。

でもですよ、自分の性格を自覚しつつ長い目で見てみると、恥かかされ苦しめられることはあっても、結局最後には必ず自分を守り、味方になってくれるのが、この自分にあつらえられた気質であり、自ら育んだ性格なんだなぁと最近になって思えて来るんです。

日本人は自分の短所をカタキの様に考えるような教育を受けますが、僕は、社会的な意識に助長される「長所」と呼ばれる性格よりも、それで矯正することが出来なかった「短所」の部分に、真にその人らしい気質がある様に感じます。
確かに放っておくとただの欠点ですが、何と言うか、これをつぶすのではなく、裏返して味方につけた場合には、とてつもない力を発揮してくれる気がします。

自分を変える努力には大きな意味もありますが、別に自分を嫌わなくてもいいんだなぁと、若い時より思える様になりました。
それにそう思えると、今度は他人に対する気持ちも変わって来ますしね。

そう考えてゆくと、世の中に様々な気質の人間が同居していることや、その中を自分の性格で生きてゆくということにも、きっと何かただならぬ意義があるように思えて来ます。

何だか随分イイ話になってきましたが「心理学のおすすめ」の話でしたっけね。
実は今、もう1トピックくらい行けるかなと文章を見直してみた所、思っていた量の3倍程書いていたのでびっくりです。

心理学の色々なジャンルについてざっとご紹介しようと書き始めたのですが、「先ずは性格について…」とか言って、最初のジャンルだけでこの有様です。
文章が長くなるのは分裂型気質の特徴なんだそうですが、ここまでだとヤバいんじゃないでしょうか。
ちょっと心配ですね(知るか)。

一応関連書籍は全てコーナーに置いておきますが、これ以降の心理学の話はまた次回にしようと思います。
はい、まだ続きます。
乞うご期待!?

しつこいようですが性格類型論はあくまで目安です。
自分や社会全体をとらえるならまだしも、「誰々は何型だろうから…」と特定の個人に当てはめてかかると中々うまく行かないのです。

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2010年御礼とこれからの抱負

2010.12.30 Thursday 01:23
この所少々慌ただしく過ごしてしまい、久しぶりの更新が年末のご挨拶になってしまいました。
月イチ更新というだけも残念なブログなのに…皆様ごめんなさい。

何だか今年は色々なことがあり、色々なことを考えてしまう年でした。
元々が考えてしまうタチなので、特にこの2、3ヶ月は「これからアール座で何が出来るんだろう」とか「結局自分は今生何をして死んでゆくんだろう」とか、そんなことにまで思いを巡らせてしまう始末でした。 
私は大丈夫なんでしょうか?(知るか)

3年続くかなぁと始めたアール座読書館も、本当に皆様のお陰をもちまして4年目に突入です。

「皆様のお陰…」と言うと何だか決まり文句の様ですが、ウチの様な店の場合はその重みが違ってきます。
こういう特殊な業態でも、何とか経営を続けて行けるのは本当にお客様方のご理解とご協力なしにはあり得ないことなんです。

開業前や開業直後は周囲の人達から「そういう業態は成り立たない」「金にならない」「人が集まる形ではない」という内容のことを言われまくって、僕も随分と不安でした。

会話や単価の話から、果ては新しいマンガやグラビアの写真集を入れなきゃとか酒飲ますんだとか、言われ放題でしたが(やらなくてよかった…)、決して多数派ではなくてもこういう場所が好きな人は絶対いてくれるはずだー、とヘンな日本語で思っていました。

今、店でそんな人達にお会いする度に、これを信じ通してよかったとつくづく感じます。
ビジネス面だけを重視して業態を考えていたら、きっとお会い出来なかった方々だと思うからです。

何度も心に浮かんで来るやりたいことはやっておいた方が良いということと、そのためには不安要素を羅列するよりも膨らむイメージを育て続ける姿勢の方が余程大事なんだろうと確信した次第です。

きっと、今生の僕がするべきことはそんな類いのことなんだろうなとも感じています。

そして今改めて思えるのは、人の関わり、影響し合うことと、それがもたらしてくれる変化の大切さです。

「話も出来ない店を経営しておいて何言ってんだコイツ」と思う人もいるかも知れませんが、こんな店にも知らない間に起こっている無数の小さなコミュニケーションがあるんです。
そしてこういう空間に起こるコミュニケーションが、実は結構スゴいことなんではないかと最近考えているんです。

例えば「店で僕が何となく机の引出しに入れておいた小物を見つけたお客様が、それで少しだけ気分が変わって何となく軽やかにお帰りになるのを僕が感じて、次のお客様に…」とか、そんな些細なことでさえ果てしなく続いてゆく、人同士の関わりについてです。

些細なことですが、感覚的な状態の中ではこんなちょっとしたことがその人生を変えてしまう場合だってあります。
別に人生を変えなくても良いのですが、そんな風に敏感に感じ取った、周囲のささいなことや自分の内側にある小さなものが、自然と人の生活を前に進めるきっかけや変化を起こす様に感じます。

もちろんこれはどこにいても起こることですが、人が集まる割に会話が少なく感覚的になりやすいアール座の店内では、より強いレベルでこういう連鎖が意識出来る様に思えるんです。

元々は「人が幸せになれる店にしよう」と意気込んで始めた店ですが、最近ではそれも少々おこがましいのではないかと言う気になりつつあります。

お座席のらくがき帳を見て、多くの方がそれぞれの事情や条件に挟まれて悩んだり迷ったりしながらも、何かを見いだそうとして、ちゃんとモノを見て何かを感じ考えていることを垣間見させて頂くと、ほんのひとときの小さなことにも、人はそれぞれの感受性の力で小さな「気づき」を得て、その繰り返しで前に進むんだなぁという感慨を頂きます。
またその内容が更にそれを読んだ次の人に変化を与えている様子も垣間見えます。

そんな風に皆さんが思い思いに感覚を開いてこの場所と関わって下さるということには、決して小さくはない意義がある様に感じられ、アール座が目指す場所としてこれに勝るモノははないなぁと思わせてくれます。

あまりお客様ともお話出来ない店ですが、本でもお茶でも水槽でも植物でも静けさでもヒマつぶしでも、もっと些細なことででも、そんなレベルで皆さんの日常に関わっていける店であれたらいい、という気持ちが今の僕の目指す所です。

ずっと部屋に引きこもっていたい気分の方が、少し外に出てみようかなと言う時にだって、気軽にご利用頂きやすい空間ではないかと思います(最初の入り辛さはありますが…)。

袖触り合うも…」と言いますが、お会計の時なんかに「自分とこの人との間に、前世で何があったのかなぁ」とかつい思ったりしてしまいます。
人と関わること、影響し合うことに、人間(じんかん)に生まれて来た意味があるのかなとか思ったりします。

若い頃から結構ヒトが苦手だった僕ですが、お陰様でそんな風に感じられるまでになりました。
もうこのこと自体が、皆様と関わらせて頂いた恩恵そのものですよね。

今年ご利用頂いた全ての方に心より申し上げます。

アール座に関わって下さり、本当にありがとうございました。

何だか閉店の挨拶みたいですが、もちろん違いますよ。
来年も再来年も、アール座読書館をどうぞよろしくお願い致します。

それでは皆様よいお年を


5年程前に「こんな店作りたいなぁ」と案を練っていた頃に3Dソフトで描いた構想図です。
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子供の感性

2010.10.25 Monday 20:33
涼しい季節になりましたね。
今度はすぐに寒くなりそうなので、今の内に夜のお散歩など楽しんでおくと良いかもです.

この夏の凄まじい猛暑で窓の外の植物をあらかた枯らしてしまったダメな私ですが、そんな中でいつもは夏に咲く朝顔も当然一緒にダメにしてしまったと思い、あきらめて完全に忘れておりました。
所が、人知れず乾いた土の中でタイミングを見計らっていたのでしょうか、十月に入り暑さが終わった最初の雨で勢い良く発芽し、溜めていた生命力を爆発させて遅れを取り戻すかの様なスピードでにょきにょきと蔓を伸ばし、あっという間に大輪の花を咲かせてしまったのには驚きました。

種は水分を吸って発芽さえしなければいつまでも乾燥に耐えてくれるので、しばらく水をやらなかったのがかえって良かったのかも知れませんが、飼育栽培下であっても生物は全く自分の力で育っているんだなということを思い知らされた感じでした。

窓際の前から2番目のお席からよく見える、かわいらしい藤色の朝顔で、姉が米国から取り寄せた種を分けてもらって蒔いたのが毎年こぼれ種で勝手に生えてきます。
残念ながら今年の花はもう少なくなってしまいましたが、もしまたお店の花を見かけたら「がんばったねぇ」とか「よく咲いたなぁ」と心の中ででも褒めてやって頂けると嬉しいです。

さて、いきなりですが今月は子供の感性というものに触れてみたいと思います。

昔、岡本太郎の「太陽の塔」をモチーフにした子供の絵画コンクールで、審査委員長に任命された岡本が優秀作の選考を依頼された際、床に並べられた子供たちの作品を見ている内に興奮し鼻息が荒くなり「素晴らしい!みんないい!何が優秀作品だ!そんなもの選べるか!」と怒りだして収拾がつかなくなった、という話を聞いたことがあります。

さすがという感じのタロウさん的エピソードですが、確かに子供が表現する絵や文章は、どこか神々しいと思える程素直でのびやかなモノが多く、大人の創作とは異なるルートからひねり出された様に思えてしまいますよね。

人気絵本作家の荒井良二は大人ですが、あの人の作品と本物の子供の絵と、何が違うんでしょうかね?
僕はそこまで絵を見極められないのですが、TV番組で荒井さんの創作風景が映された時の「うーんだめだ!今考えちゃった!」などと言いながら描いたものにバッテンをつけていく様子からは、創作の過程から理性的な手順を排除してゆこうとする姿勢が見られ、やはり大なり小なり子供をお手本にしているようでした。

確かに、自分が子供の時に描いた絵を前にして「これと同じ感じの絵を描け」と今言われても難しいですよね。
他人の作品に感心するように「良い絵だなぁ」とか思ったりしますが、一体どうやってこんな風に描いたのかは見当もつきません。
感じ方も表現の仕方も全く覚えていないのが普通だと思います。

よく、3〜4歳児の半数位(だったかな?)の子は胎児の時や出産の時の記憶を割とはっきり持っていて「お腹の外からお父さんの声が聞こえてた」とか「外に出たらまぶしくて白い服の人にお湯に入れられた」とか説明出来ると言われます。
それ以降、その記憶が失われて行くそうですが、感覚を頼りに生きていた時期から自我を中心に理性でモノを考える様になる変わり目で多くの記憶が閉じられて行くんじゃないかな、と思ったりもします。

子供の頃の記憶、特に幼児期のものが思い出せないのは、夢のない例えですが、幼い頃と今とでは世界を感知して記憶するアプリケーションソフトが異なっているため、かつての感覚的なソフトで作られた記憶のデータは今の理性的なソフトでは開く事が出来ないからではないかという風にも感じられるのですが、どうなんでしょう。

思えば自分が幼い頃って、もっと世界が匂いとか濃い雰囲気に満ちていた気がするし、時々過去の記憶が蘇る時は決まってそんな懐かしい空気感ごと蘇ってくるのは、使われなくなったソフトが久しぶりに機能したからなんじゃないだろうか、という風にも思えます。

人は大人になると、生活の中でより多くの情報を処理してゆく能力を強いられるため、どうしても合理的な思想や言語的感覚に意識の前面を支配されてしまいますよね。
そこでは匂いや雰囲気よりも物事の意味が圧倒的に重要になってきます。
子供や他の動物の様に世界を肌で感じつつ暮らしていくような生き方はしていられなくなるのでしょうか。

しかし、そんな言語化出来ない肌身の感覚は意外に正しい方角を指し示す力を持っている様に感じることもあります。
アタマで原因と結果をこねくり回す考え方は、概して保守的で一人よがりで、視野も狭く慣習にとらわれがちになりますね。
物事を間違いなく組み立てなければいけないとついついしかめ面になってしまう時には、足下をアホ面して走り回るチビ達の奔放な感性に触れてみるのも良いかも知れません。

アール座所蔵の子供の作品を取り扱った書籍や幼児感覚向けの本などを、例によっておすすめコーナーに陳列しておきますので、興味のある方はお手に取ってみて下さい。
3点程ご紹介しておきますね。

「神様への手紙」
子供たちが神様に向けてこっそり書いた、涙が出るほどかわいらしい手紙集。

「ねむの木子ども美術館 他」 
30年前、施設で絵の具をウマく使えない脳性マヒの子供たちに、使い易いサインペンで絵を描かせて見たら大変な事になった。かつて世界を沸かせたねむの木学園の芸術家たちの感性が爆発しています。

「たいようのおなら」
ご存知、児童詩の大傑作。
人生の中でもずば抜けた感受性を発揮する6〜7才児達の文豪を軽く凌ぐ表現力。

どの作品も有名ですが、何と言うかハッとさせられるモノを持っていますよね。
僕なんかは普段どれだけ発想が固まっているのか思い知らされます。
皆さんもぜひぜひアール座のお席で感覚を開いた上で、快い衝撃を受けて見てはいかがでしょうか。


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虫の声

2010.09.15 Wednesday 00:27
ようやく涼しさが感じられる様になってきました。
と言ってもまだ毎日30℃あるのですが、これだけの夏をやり過ごした後だと十分に涼しく感じてしまいますね。
これから平均気温24℃位の過ごしやすい季節が本当に来たりするんでしょうか。
この夏の後だと、そんな素敵な気候がなんだか信じられないというか、バチがあたってしまいそうな感じです。

さて、アール座では毎年ご好評を頂いている虫の声イベントが今年も始まっています。

「リィィィン」と鳴く鈴虫や「ピンッピリリッ」と鳴く松虫、「ヒョロロロ…」と鳴くエンマコオロギが店の欄干や店内で心地よい音楽を奏でてくれています。
毎日、日暮れ頃になると「ピッ…」とか「リン…」とか澄んだ声で切れ切れに鳴き始めたかと思うと、次第に声が重なりやがて美しい波音の様な合唱になってゆく様子は幻想的ですらあります。
よく鳴いてくれる日はBGMも消しちゃいます。
机の上に小冊子がございますので、一緒にお楽しみ下さい(少し数が足りないので、机にない場合はお知らせ下さい)。
大昔から日本人の心を和ませて来た秋の風物詩をお楽しみ下さい。

なんか今年のアール座はやたらと昆虫のお世話になりますね。
所で、日本ほど虫が文化の中に入って来ている国はないんだそうです。
例えば、子供が昆虫を捕まえて来て虫かごに入れて家で飼う、と言う当たり前に思える行為は、外国(西洋?)に行くと全く見られないんだそうです。
なので、当然大人の昆虫マニアと言う存在も世界的に見ると特殊で、美しい蝶を求めて熱帯の地域に赴き網を振る人々の内、業者や研究者ではないアマチュアの採集家は日本人ばかりだと聞いたことがあります。

またアメリカでは、セミが沢山鳴いている地域の人でも、結構「セミ(cicada)」と言う単語を知らないらしいです。説明すると「ああ、いるいる。あのうるさく鳴いてる虫ね」と、まるで眼中にないコメントが返って来るそうです。

この辺の話は全て僕が人づてに聞いただけの話なので信憑性の程は分かりませんが、外国人が虫の声に耳を貸さないと言う話は有名ですよね。
コオロギのリリリーと言うあの声もやかましいノイズでしかないんだそうです。

もちろんこれは民族的な感受性の優劣などの話ではなく、きっと文化の違いなんでしょうね。
虫の声がすると「ああ良い声ねぇ」と大人が言うのを聞いて育つから、子供はそれを良い声として聞ける様になるのかも知れません。

日本は自然が豊かで比較的和やかだったから文化がそれに親しみ、取り入れる方向に発展した、と言う話は建築の話なんかでよく耳にしますね。
お花見やお月見、新緑、紅葉、虫の声、水音、蛍、苔、雪等々、古来から日本の文化がこんな風に繊細な自然の風物詩を楽しむ趣味を持っているのは、我々にとって、とても幸運なことだと感じます。
近頃はトシのせいか「今身近にある幸せに気づく以外に幸せになる術はないのだろう」などと腕組みしつつ感じている僕は、この手の穏やかでジジむさい趣味は大好きです。

でも現代の日本では自然美を味わう楽しみがすっかりマイノリティになってしまいましたね。
お花見とかやっても、花見ないですからね(笑)。

それでも最近はそういうものが一昔前より見直されている様にも感じます。
強い刺激の好きな経済が猛威を振るっていたバブル期には、刺激にうかされた大人達が子供達のさめた目線からアホみたいに写っていたのかも知れません。
そんな世代が世間の価値観の担い手になる年齢になって来たのかな、とかも思っています。
それに、何よりこんな時代にこそ重要性を増す価値観だからかも知れませんね。

当時の僕はてっきり、自然の風物詩のように地味でお金にもならない楽しみは、時代が進めばこの国から消えてしまうものとばかり思っていました。

でも最近では、長い時間をかけて培われて来た日本人の感受性がそう簡単に失われるはずないか、と考える様になりました。
特にアール座のお客様には、当たり前の様にそんな感性を大切に日々を過ごされている様子の方がとても多く、ここを営む様になってから、僕のそんな思いは確信に変わりました。

まぁ見方によっては、こういう穏やかな楽しみがマイノリティなのも悪くないですよね。
本当に良いものに大衆が殺到しない状況は、良さを知る人にとってはそれを静かに楽しめる絶好の環境ですもんね。
時々アール座のお客様に「好きな人、分かる人にしか教えたくないお店」と言って頂けることがありますが、これはとても嬉しいお声の一つです。

最初の話から大分それて行きましたが、虫の寿命は長くないので、例年は十月に入ると虫の声は減ってきます。
虫達が全滅するまでの企画なので、しっかりとしたアンサンブルで聞いてみたい方はぜひお早めに(遅いお時間に)遊びに来て下さいね。

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星空観察のすすめ

2010.09.06 Monday 22:34
僕は幼い頃、一度でいいから本物の星座というものを見てみたいと思っていました。
けれども、いくら星空を見上げても僕には星座が見つけられませんでした。
大人達は、あれがオリオン座だとか白鳥座だとか指差して教えてくれるのですが、いくらその方角を見てもそこに星座はありませんでした。
一体どうしたことでしょう?

実は幼い僕は、書物等で紹介されている星座の図に必ず描かれている「星と星をつなぐ光の線」が実際の夜空にも輝いているものとばかり思っていたんですね。
その線と星をひっくるめて星座と呼ぶものだと信じていました。
だから星座はとても珍しいものだという意識があって、一度でいいから見てみたいと思いながらいつも星空を見上げていました。

小2の夏休みに姉と満天の星空を見ながら「どこにも星座が無い」「星座だらけだ」と口論になり、結局「あれは本だけだよ」という一言で僕の長い勘違いが終わるのですが、今でもその頃想像した「夜空に妖しく輝く光の線」の印象は覚えていて、「一度でいいからそんなの見てみたい」という願望だけがそのまま残っています。

僕が幼い頃にはまだ都内でもかなりの星が見えていた気がしますが、最近では天気が良くても一等星がやっとなくらいでしょうか。
夜空が味気ないのは寂しいですが、それでも旅先等で満天の星空に出会うと、それだけで気絶する程(?)感動出来るのは東京育ちの特権だと思って、僕は必ず時間をかけて眺める様にしています。

今、店内エアコン下の机上展示コーナーでは謎の宇宙研究所オリオンラボ(→http://d.hatena.ne.jp/halujion)による、天文、星座と神話、古代の世界観等に関する不思議な研究報告会が催されており、それに合わせて天文、神話関係の書籍をその脇に集めてあります。
何かの機会で満天の星の下に立った時のために、あらかじめこの辺の情報が入っていると、いつもより数倍夜空を楽しめると思います。
そこで今回は星空観察のおすすめをしてみようかと思います。

望遠鏡による観測の方は近年宇宙望遠鏡なんかも打ち上げられ、天体画像の精度も格段に上がって来ましたね。→「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」参照
こうなると遠い宇宙が身近に思える様になるのかと思ったら、気の遠くなる様な宇宙の奥行きが見えて来て、かえって宇宙が奥まで広がった感じもします。
それに対して肉眼宇宙観測は迫ってくる宇宙を実感するのが醍醐味です。

星空を見る時は、どこかに焦点を合わせるのではなく、ぼーっと全体を眺めるのがコツだそうです。
時間をかけて見ていると次第に目が慣れて来て、見始めよりもかなり沢山の星が見えてきます。

先ず目を慣らすために、僕は決まって星座を探します。
今となっては星座に線がないこともよく知っているので、明るい星を見ながらオリオンとかカシオペアとか分かりやすいのを見つけ、その位置関係から他の知っている星座を見つけて遊びます。

星にまつわる神話を知っておくと、そんな時さらに楽しめます。→オリオンラボ「夏の星座」(国語のノート)、「星のギリシア神話」他 参照
これからの季節ならエチオピア王家と英雄ペルセウスにまつわる話だけでも覚えていれば、大きな星座を7つほど巻き込んで展開する一大スペクタクルの物語を夜空に見いだすことが出来ます。→「オリオンラボ月報」「ギリシア・ローマ神話」他参照
若い男子なら女の子に語り聞かせてロマンチックなムードに…などと考えるかもしれませんが、意外にひかれてしまうのでやめておきましょう。
僕は二度とやりません。

それに飽きたら、星の奥行きを見るのも楽しいです。

星座として見ている時は星々がドーム状の天空にへばりついている様なイメージで見ていますが、もっと空間的なイメージを持ち「宇宙を、その中から見ている」という意識を強めます。
適当でいいから星を手前や奥に配置したり、お決まりの「あの光は数千〜数億年前の星の姿なんだ」という事実を思ったりして、とにかく奥行き空間を感覚するよう努めると、突然信じられないような距離感が実感出来て吸い込まれそうな恐怖感を味わえたりします。
地球上で、自分が想像を超える広大な世界に生きていることを体感する唯一の方法ではないでしょうか。
満天の星空の下でこれが出来ると、宇宙船に乗らずとも地上から十分に宇宙観測が楽しめますよ。

またそれとは逆にドーム状イメージのまま、天動説をリアルに想像して見るのも楽しいです。
サイズ的にも見た目も意外に地動説宇宙より想像しやすい気がしますが、現代ではそれが事実ではないということが我々の頭に根付いているので、とてもファンタジックな気分になれます。
天動説は時代、民族により様々なタイプの世界観があり、非常に想像力豊かな注目すべき分野ですよ。→オリオンラボ「人の数だけある宇宙!」(算数のノート)参照

現代の科学的宇宙像がお好きな方は、天文学的な数値や理論物理学の話と一緒に星空を楽しむのも良いでしょう。→「学研ニューワイド図鑑科学」「ホーキングの最新宇宙論」他参照
書物を読むだけでは実感を伴わない文字情報を、星空の下では体感的にイメージ出来るのが楽しいです。

銀河系の円盤部分である天の川を見ながらテキトーに銀河系の大きさを思い浮かべて、「一つの銀河には数十億の恒星が含まれていて、その銀河がこの宇宙に500億あって、泡状の構造に分布してるらしいぞ…」とか思いましょう。

星までの距離が何光年と言うのもあまりピンと来ませんよね。
地球から月の少し手前位まで1秒間で行くスピードが光速ですので、その距離のイメージを10秒、1分、1時間と、夜空に向かって伸ばしていきます。
必死で頑張って4年まで持っていければ、それが地球から一番近い星までの距離の実感です。

銀河系の直径はこのスピードで10万年、それが集まる「銀河団」が更に大集団を作る「超銀河団」は1億年分進んだサイズと言うことです。
うーん、やっぱりピンとは来ませんが、それでも少しだけ凄まじさが感じられませんか?

他に「星々の光は数年前から数億年前まで様々な異なる時間を同時に映している」とか「この宇宙は我々の感じられない方角に歪んでいて、空間がボールの裏面の様にぐるっと一周して閉じている」とか時空に関する話題も星空観察にぐっと深みを加えてくれるでしょう。

星空の下で考え事をしていると、結局最後には哲学的な思索や人生を引きで捉えらる視点まで行けるので、良く言う「ちっぽけな自分の悩みがバカらしくなって来る」という思いにもなりますが、これは朝になると必ず嘘の様に覚めていますね。
それでもその覚めた現実的な感覚の中に、何か号泣した後の爽やかさの様な、昨日までとほんのわずかに変わっている部分が感じられたりもします。
日常生活で疲弊している時には、こんなリフレッシュ効果が期待出来るのかも知れませんね。


ギャラリー情報
9/1(水)〜9/15(水)
「奏でよ宇宙展」 ORION LABO 

昨年もご好評を頂いた、謎のいんちき科学研究所「オリオンラボ」の学会発表リポート第2弾です。
天文学、星座、神話、音楽とあらゆるジャンルを独自の視点から研究する、読み物あり展示ありの不思議な個展です。
感性豊かな所長さんの、妖しくもロマンティックな世界観を是非ご堪能下さい。

作家さんブログ→http://d.hatena.ne.jp/halujion/20100825#1282754961
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神話のススメ(また長くなってしまいました…)

2010.07.17 Saturday 23:30
最近、店内中央の3本柱の上にある半円形の枠にイラストボードが入りました。
あの半円、欄間のデザインの様なフリをしていましたが、実は絵窓の様にアクリル板を入れるための枠だったんです。
ずーっと作業が止まったままだったんですね。(;^_^A
素人作成でアラが目立つので、見る時は遠くから目の焦点をボヤーッとさせて見て下さい。
近くでじっくり見てはいけません。

高い位置なので、何となく星空と幻獣のイメージでデザインしてみました。
元ネタは「脅威の部屋」と言うタイトルの本の中に見つけた中世の酒杯のデザインです。

中世の幻獣はカッコいいですね。
神話や伝説が権威を持っていた時代には人々の恐怖感や目撃談の興奮が折り重なって自然とあんな想像を超えるデザインが出来上がるのでしょうか。
現代の「こんなのいたらスゴイなあ…」というファンタジー的な空想と、当時の「本物の龍の姿はこんなんだろうか、はぁはぁ(興奮の吐息)」という恐怖を伴う想像とでは、イメージ力の質が違いそうですよね。

僕は昔、上野の科学博物館などに行くと、決まって恐竜の全身骨格を正面から見上げる位置に立ち「こんなのがホントに歩いていたんだ」という事実を強く思いつつ、想像力をフル回転させて骨格に肉付けをし、ここは古代のジャングルだと思い込み続けると、ある瞬間に想像が現実を凌駕してイメージを結び、その巨大な実在感が襲いかかるように実感されぞわわーっと鳥肌が立つ所までいく、という遊びをして喜んでいました。

こう書いてみると結構ヤバい子ですね。友達いなかったんでしょうか。
コツを覚えているので、今でも出来ると思います。

書棚にある「イスラム」というイスラム文化を紹介する書物の中に古い時代の動物図鑑が少し紹介されているのですが、そこでは当時の人々があまり目にする事の無かった異国のゾウやヒョウ等が科学的事実と伝承、呪術的な話のごちゃ混ぜで、かなり神秘的に紹介がされていて、興味深いです。
情報が少なく学問も整理されていない時代には、現存する生物にも神秘性を感じることが出来たのがとてもうらやましいです。

そこで、今月は神話や伝承の本をオススメしてみたいと思います。

現代、我々の常識には科学が根付いているので、幻想的な存在を本気で信じることが中々難しくなってきました。
我々の体験を超える多くの事柄が科学的に解明され、その背後に広がる広大な未知のスペース(不思議さが生じる曖昧なままの余地)の存在を感じさせなくなってしまったからでしょう。
そんな現代は、特に神話や言い伝えの面白さが際立つように感じます。

人がその認識を科学的根拠で固めようとする理由の一つに、世界全体を整理された形でスッキリと認識し、全て分かり切った心境(もしくは専門家に分かってもらって)で安心していたい、という願望があるのではないでしょうか。

我々が普通に教育されてきた論理的、分析的な認識方法は言ってみれば、事物に名前をつけて大きな分類の枠のどこかに入れることでそれを認証し(知っているとし)、そうして出来た分類棚が世界だ、とする見方と言えます。
事物そのものから受ける印象や感触よりも、その位置づけ、他の事物との関係性に重点を置く捉え方ですが、ここでは実感や印象、恐怖感など客観的事実でないものがあまり重要視されません。

また、この認識は知っているものだけで世界を構築するので、知らないものが覆い隠されてしまう所があります。
パソコンを前にして「コレが何か知っているか」と問われれば、その機能や機種についてその人が知っているわずかな情報のみを意識して「知っている」と感じることが出来ますが、その際にプログラミング言語や細部の構造、部品の一つ一つ、その素材、どこの工場でどんな人々の手によって作られたか、等背後に無限に広がる膨大な「知らない事」は全て認識されません。
この意識で周囲を見渡しても知らないものは見当たらない(意識に上らない)ので、世界が知っているものだけで構成されているような安心感を持ってしまいますね。
更に曖昧なままのスペースがないので、想像の幅も狭められてしまいます。

本当はその背後の分類すら出来ない膨大な未知の塊こそ世界そのものだと思うのですが、これの認識は生半可じゃないですね(禅や道などが体感的にアプローチする所でしょうか)。

体系的な世界観が無かった時代の人間は「自分達が混沌の中に理由もなく存在している」という感覚と供に生きていたのかも知れません。
自我を持つ人間にとってこれはちょっとしんどいので、世界や人間の成り立ちを説明してくれる物語が必要とされ、先ず神話が生まれたのではないでしょうか。
やがて世界観のマジョリティが宗教や科学に取って代わられるのは、やはり神話が人々に安心感を与えるタイプの話ではなかったからじゃないかと感じます。

しかし神話のポイントは、この本能的な恐怖感や不思議さを誤摩化す術もなくそのまま表現している所だと思います。

一見荒唐無稽なギリシア神話もあらゆる自然界の暗喩に満ちていて、自然に対する畏怖に貫かれた表現には科学にはないリアリティがあります。

自然の影響をもろに受けて生きていた時代の神話に見られる「我々の存在等気にもかけていない、強大で横暴でスケベでワガママな神々(自然)に、組み敷かれつつ守られつつ生きている人間」というような意識は、高い人格を持つ神様や安定した物理法則に守られた人間存在の理念よりも、ずっとリアルに感じます。
森や海を神話でとらえていた時代の人は、自分達を取り巻く広大な未知の部分を未知の部分として意識していたからでしょうか、翻弄される人間の立場、人間の無知と無力を良く理解していたということが神話や言い伝えからは伝わってきます。

また多くの神話には滅びの予言があり、人々はいつか世界がバランスを欠いて崩れてしまう、という恐怖に日々怯えながら暮らしていたそうですが「危なげなバランスの上に立っている」とか「生かされている」という感覚は今こそ必要な意識かも知れませんね。

もちろん科学は素晴らしい恩恵を与えてくれる、我々の生活とは切っても切れない大切なものです。
でも賢明な科学者程、掘り進む程に「人間なんて何一つ知らない」という事実を感じるというようなことを言いますね。
正しい認識の科学はテングのハナにならないのでしょう。

最近考えていた事まで、つい長々と書いてしまいましたが、もちろんこんな事は意識しなくても神話は十分楽しめますよ。
絵画のような美しい表現や詩的な展開と、現代では許されないようなエロスとグロテスク、残虐性と荒っぽさのダイナミックな表現に心を奪われます。
科学的常識に毒されていない時代ならではの驚きの発想力が大変魅力的です。
現代の文学のようにストーリー展開に期待するよりよりも、この発想と感覚を楽しむと良いと思います。

また、科学的常識は忘れ去って挑みましょう。
世界の始まりが「熱も音も無い暗闇からかすかな動揺が始まり、ささやきとうめき声が起こり、光明が現れ昼にまで成長した」と説明されれば、その様を思い浮かべ、それが発展して今にまでつながってるんだなぁ…と、本気で信じながら読みましょう。
太陽神の話なら「お日様は宇宙空間に浮かぶ恒星で地球の方が回っている」という固定観念を捨て「あの空の光は神様だったの?!」と思い込み、輝きながら毎日天空を旅する神の姿を太陽に見て読んだ方が楽しいです。
「昔の人はそう考えたんだ」という姿勢で読んでしまうと、面白さは半減します。

どうぞ全ての常識を忘れ去って、いにしえの世界観にどっぷり浸かって見て下さい。

果たしてこんなくどくどした長話に最後までつき合って下さる方はいるんでしょうか?
そんな奇特な方には感謝を込めて、大した話ではありませんが一つお教えします。
夜の時間帯に店内ガラスショーケースの前に立って入り口側のラン間を見上げると、その角度からだけ天井板に絵窓の星が写り込んだ様子が見えて、ちょっとキレイです。
ごめんなさい、それだけです…。


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例のヤツ出ました。

2010.07.08 Thursday 01:07
いよいよ暑くなってきましたが、時々降る雨が程よく熱を冷ましてくれますね。

先日開店前の掃除をしている時にぶーんぶーんという強い羽音が聞こえたので、もしやと思ってプランターを探してみると、一匹のカブトムシが植木にとまったまま羽ばたいておりました。
この前お話しした(→生き物の色と姿)例のヤツが、土の中から上がった直後で羽を乾かしていたようです。
女の子です。
取りあえずカゴに入れて、翌日樹液ゼリーをやりました所ちゅうちゅうと吸い始めたかと思うと、そのまま固まったように10時間以上も吸い続け、結局体程もあるゼリー1カップを一匹で空けてしまいました。
羽化後の摂食を後食というのだそうですが、長い断食生活の後で死ぬ程お腹が空いていたのでしょう。

子供の頃には目もくれませんでしたが、こうしてじっくり見るとメスカブトは丸っこくて中々かわいらしいです。
薄いビロードの様な毛に覆われていて、窓の光に当てるとキラキラします。
などと思っていると2日後にはバカ力でカゴの上蓋を開けて脱走し、昼間にお客様(女性)のいらっしゃるベンチの肘掛けに突然現れてしまったりするので、油断なりません(もうさせません<(_ _)>)。

しかしあんなイモムシみたいのを土に放り込んで水だけやってたら、ちゃんと自分で変態をして、立派な節を持った美しい甲虫が出てくるのだからスゴいシステムですよね。
実際目にすると、アレがコレになるって、ちょっと意味分かんないです。
そいつが、誰に教わるでも無くこれからの生活に備えてエネルギーで体を満たしている様子は感動すら覚えますし、無心でちゅうちゅうする姿を見ていると「自然てスゴいなあ」と思うことすら、傲慢なんじゃないかと思えて来ます。
文明は力とかスピードとか計算力とかいらないものばかりが大きくなって、それでヒトはついつい自然を克服したかの様な感覚を持ってしまいますが、とんちんかんもイイとこですね。
何だか、もしこのまま人類が滅んでも自然界はそのまま残ってたらいいのに…とか、ニヒリスティックなことまで考えてしまいます。

所で、もう一匹いた幼虫はどうしたのでしょうかね?
そのまま土になってしまったんでしょうか。
うーん…でしょうねぇ…。

さて、ギャラリー情報です。
アール座展示コーナーでは、7月後半から秋までギャラリー展が続きます。

一発目は、人形作家日野まきさんのpaperdoll展です。
「紙の上の空」7/16(金)〜/29(木)
立体も手がける作家さんですが、今回は不思議なお話のような世界観を放ちつつ、ひらひらと揺れる繊細な紙人形作品の展示です。
詳細→http://www.kitchen-kiki.org/information.html

ご観覧の方には、1ドリンク以上のご注文を頂いております。
店内では作家さんとの、またはお客様同士のお話が出来ませんので、ご了承下さい。

その後8月前半には去年もご好評を頂いた、脊髄の反射神経でシャッターを切る謎の写真家、知紅(トモコ)さんの新作写真展第2弾「ジョウケン反射」が控えております。

その後もバリエーションに富んだ展示が続きますので、乞うご期待です!

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