物語の効用と童話の楽しみ方(前編)
皆様こんにちは。
新年の挨拶以来の更新ですが、まぁいつも通りのペースです(すっかり悪びれなくなりました)。
三寒四温の季節ですが、心身共にバランスに気をつけた方がいい時期ですね。
この時期になると、決まってバイオリズムを崩してしまう方も少なくないと思いますが、「毎年崩す」と決めてかかると体も心もそういう風に納得してしまいますのでね。
「今年は一つ、崩さずに乗り切ってやろう」という気概も大切かと思います。
そんな皆様の心の保養にも、アール座はやはり読書をおすすめします。
ただ、読書と言っても色々ありまして、タイミングを間違えると心の中をかき乱されてしまうような本もアール座には多いです(汗)。
繊細な季節なので、今回は童話というものを少しおすすめしてみようかと思います。
こんな店をやっている割に、僕は「人はもっと本を読むべきだ」とかあまり思わない方なのですが、童話や絵本に限ると話は別です。
大人が一番読むべき書物があるならこれだとさえ思います。
童話なんかとても読みそうにないタイプの大人の人については特にそう思っちゃいます。
無駄なく研ぎ澄まされた優れた童話を読んだ後って、児童文学以外の書物はもう読まなくていいのかなとすら思ってしまいますね(雲の本で感動した後は「雲以外の書物はもう…」と思うタチですが)。
読まれる方には周知のことですが「童話=子供向けの話」ではゼンゼンないですよね。
やさしい表現を使いながらも、大変奥深かい作品が多いです。
それに、何と言うか作りがとても丁寧で繊細です。
人格形成の時期の読者を対象にしているから作家さんも細心の心遣いがあるのでしょうか。
意図的にか無意識にか知りませんが、作り手の自己主張や自己満足につながるような表現(芸術性としては必要なものと思います)も極力削り取られているような気がします。
だから僕は童話というものは、装飾の少ない最低限の表現で、物語のエッセンスのようなものをシンプルにダイレクトに味わえる作品、という印象を持っています。
作品の対象年齢が低い程この感が高くなりますね。
1,2歳児向けの言葉数の少ない絵本なんかではこの傾向が特に強く、松谷みよ子や石井桃子クラスになると、言葉も何だか神がかってきます。
ウチには2歳の子供がいるのですが、これが眠る前に毎日のように読み聞かせている絵本を脇に抱えては今日も読んで読んでと激しくせがんでくる勢いは、甘いお菓子を欲しがる時以上ですし、しまいには文字も読めないくせにページをめくりながら正確にストーリーを読み上げていく(暗記してる)のには驚かされます。
こんな年端も行かない子供が、多分本能的に、これほど強くひきつけられる「物語」っていったい何なのでしょう?
思えば人間界ってお話に満ちています。
本以外にも映画や舞台、漫画やTVドラマだって歌だってお笑いだって、全てお話です。
純真無垢な幼児から暴力団員まで、みんな人はお話(ヤクザ映画含む)が好きですよね。
神話や昔話のない国や宗教ってのもないでしょう。
きっと人間は物語なしでは生きていけないんです(ラピュタのシータの声で)。
なぜ人はこんなにもお話を必要としているのでしょうか。
人間の心や暮らしと物語の関係性については昔から心理学などの研究対象としてよく取り上げられる題材ですが、個人的にも大変興味のある所なんです。
先ずは独断で語ってしまいますが、「物語性」というものを僕は「出来事を単なる事象の羅列としてではなく、全ての出来事が結末に向かう何らかの意味を持って(起承転結のように)その関連性を捉えられていくような、またそれがある感情や感慨を伴って体感されるような認識の仕方」という風に考えています。
一生懸命意味をまとめたら何だか大学生のレポートみたいな文章になってしまいました(汗)が、とにかく起こった(ピックアップされた)出来事が全てストーリーに関係しているというのが一つの分かりやすい特徴ですよね。
例えばドラマの中で、電車のシートにものすごい大男が座っていて「何あの人!大きい〜」という主人公の台詞と共にその体躯の足元から頭上までカメラを振っていくようなワンシーンがあったとして、この大男がそれっきり物語に登場しなかったらちょっと意味分かんないですよね。
物語の中では無駄な出来事って存在しないんです。
で、この「無駄な出来事って存在しない」という物語的な認識が、現実を生きる人に必要とされている気がします。
それはきっと「人が体験した出来事をその人生の中に意味づける」という大切な仕事が、この物語性という意識の中で行われ、またそういう認識方法が物語を楽しむ中でのみ自然と培われるものだからではないでしょうか。
人がふと何かを思いついて、その思いを巡らし、やがては夢を描くようになり、心を決めて動き始めたものの思うようには事が進まず、散々な目に遭いながらもどうにも諦める気になれず、もがいていく内に何かが変わり始めて…何ていう人生を続けて行けるのも、その全ての出来事を一貫した流れ(ストーリー)としての意味と感慨を持って感じられるからじゃないかと思います。
起承転結やストーリー性というものを全く知らず、人生に起きるアクシデントの一つ一つを、ただ偶発的な出来事の連続、もしくは単なる因果関係としてしかとらえられなければ、人は上のような人生を絶対に歩めない気がします。
だって、今味わっている苦しみの先にこういう結末があるはずだ、今の出来事がこの先の何かにつながるはずだという思いやワクワク感が多少なりとも感じられなければ、何と言うか正直もうやってらんないですよね…色々(笑)。
逆につらいことを「すごくつらい」と実感することも、それを乗り越えるために必要な精神の段階かと思いますが、こういうのも意識の中の物語性が担ってくれる仕事です。
現実の事象を物語として構成出来る力があるからこそ、人間は何かを目指して開拓をすることや自分の身に起こる出来事にどんな意味があるのかを見出すことが出来るし、またこれが文化を持たなかった他の動物との決定的な違いではないかとすら感じます。
こう理屈っぽく書くと何だか研究仮説のような話にも聞こえてしまいますが、現実にはこれ、間違いなく皆普通にやっていることですし、特に言いたいのは、お話が育む想像力って本当に生きる力になるということなんです。
そういう気質を幼児の内から備えている人間て、やっぱり自分の何かしらを切り開く宿命を持って生まれて来てるんでしょうかねぇ。
いずれにしろ、沢山の物語に触れれば触れるほど自分の身に起こる些細なことがより色鮮やかな意味を持って感じられ、人生もより深く見えるようになる、という事は本に触れていても頻繁に感じられることです。
だからファンタジーって意外と有意義なんですよね。
もちろん物語を読むのは楽しむためで、そんな勉強のようなことのためでは全くないのですが、昨今では、逃避してないでもっと現実を見ろみたいなことばかり言われる世の中で、幻想や物語に触れない分現実への意味づけが浅い人も何だか多い気がするので、ちょっと声を大にして言いたいところですね。
意外と有意義なんです。
想像力(=物語的構成力)って生きていくためにとても必要なもので、逆にこんな時代を生きる上でそこが欠けるのって、結構危険な気もします(そして結構欠けてる)。
もっと皆、物語に触れたらいいのにという思いもあって、今回は最も親しみやすく、物語性剥き出しの文学である童話作品をおすすめしたいのです。
まぁ、ウチのお客様方本当に感受性のアベレージが高いので、こういう進言じみた内容を伝えてもあまり意味がない気もします(ふつうにご存知)が、実はその他にもう一つ物語をおすすめしたい事情もあるんです。
この度進行中の企画についてで、これもまた3階(エセルの中庭)の話なんですけどね(汗)。
アール座読書館は開店当初から、一般的なブックカフェと区別するために「読書喫茶室」(造語)と名乗って(全く浸透しておりません涙)ファンタジーを楽しむ場所を目指してきましたが、今それとは違う、物語を楽しむもう一つの形と可能性に挑戦している最中です。
それはズバリ「朗読」という表現を使った企画で、エセルの中庭の新しい試みです!
今改めて感じさせられているのですが、本当に素晴らしいんです、この表現。
素晴らしいんです…が…もうさすがに長いので、これは次回にまわしましょう。
ブログ初の前後編仕立てです(すみません)。
さて、アール座の書棚には基本的に、難しい書物や大作よりもパッと手に取ってどこからでもいきなり読めるタイプの軽い読み物や眼で楽しむビジュアル系の書物を多く揃えておりますので、絵本、童話、児童文学の類は結構充実しています。
書棚で言いますと、向かって左から2列目の上から2段目にファンタジーや物語のコーナー、3列目の一番上段には大人に読ませたいタイプの幼児向けの本、2段目には絵本のコーナー、一番左の書棚の中段あたりには、ほるぷ出版による近代児童文学の復刻版シリーズが並んでおります。
そしておすすめ書棚に、その選り抜きを並べておきますね。
ファンタジーの神様、宮沢賢治の短編童話集は言わずもがなですね。
その表現の独創性と病的と言って良い程の想像力、そして何よりも色彩などの視覚的イメージがすごい人ですね。
「黄色いトマト」という作品に出てくる田舎の博物館の描写はアール座やエセルの空間作りにも大きく影響した僕の心の原型イメージの一つです。
もう一方の近代ファンタジーの雄、小川未明は芸術性が非常に高く、童話の域を超えています。
文章表現もちょっと怖いくらいに鋭敏で美しいですね。
それから、ほるぷ出版の復刻版シリーズからの抜粋です。
このシリーズ、フォントや紙質まで非常にマニアックに再現していて、その仕事ぶりには感心します。
一体いつ作ったんだろうと巻末の初版年度を見るも、そのページまで原典の完コピなので、復刻版がいつ刷られたのかすら分からず、すごく奥ゆかしい感じがします。
昔の童話って、子供に世の習いや善し悪しを示すための教訓ぽい話が多いのかと思いきや(そんなのも多いですが)、成人文学を凌駕する大変繊細な心理描写や情景が描かれているものも多く、昔の童話作家の真剣さを感じます。
その最たる例の新見南吉や塚原健二郎等も楽しんでみて下さい。
又、コーナーに並べてみて分かるのですが、装丁のグレードの高さも必見です。
さて、次回は朗読の話をさせてもらいますが、これはさすがに近々更新いたしますね。
すごくお話したい内容なんです。
だからマスターがんばります。