薄暗い場所と現実逃避のおすすめ
こんにちは。寒いすね。
先日、秋の虫最後の一匹のエンマコオロギが鳴き終わって、また静けさのアール座が戻って参りました。
外はようやっと冬の空気です。
前回は秋がアール座のメインシーズンなんて書きましたが、なんのなんの、本当は冬こそアール座に一番ふさわしい季節なんです(ずるい?こういうの)。
冬の使い方としてよくオススメしているのはですね、ずばり「おこもり」です。
冬ごもりするクマとかヤマネみたいな気持ちでご利用下さいね。
食料とか全部溜め込んでおいて、暗い穴ぐらの中で枯葉のお布団にくるまって何か月もムニャムニャと過ごす、あのスタイルの冬眠(仮死状態になる変温動物のそれと区別して冬ごもりと言ったりします)って、僕は本当に憧れてましまいます。
日々の現実的な事柄を忘れて、ひととき本の世界に入り浸ったり、空想妄想の世界に身を置いてみたりという現実逃避的な使い方はアール座が常におすすめする所ですが、実際冬の店内はこの「こもり」と「現実逃避」がかなりしやすい空気になるんですよ〜。
所で、アール座のコンセプトを説明する時にいつも使わせてもらうこの「現実逃避」というワードですが、よくよく考えてみるとこれって一体何なのだろうとか自分でも時々思っちゃいます。
文字通りの意味で現実からの逃避って実際には出来ないんですよね。
逃避している間だって現実の時間なわけだし…。
日常会話レベルの意味合いとしては、今やるべきことや直面している(すべき)事柄をおいといて、それと関係ない楽なことに目を向けちゃう、という位の所でしょうかね。
でもそう言われてもね。
それって何やってんでしょうね?
何から逃避して何を見てるんすかね。
というわけで、今回はそんなアール座のメインテーマ「現実逃避」とその必要性についてお話をしようと思います。
所でこの現実逃避って、いつでも自在に出来るようになるには意外とスキルが必要なんですよね。
試験前日みたいに強いプレッシャーかかったりすれば、誰でも自然と部屋にある、絶対に今読まなくてもいい漫画本を読破してしまうというような心理作用が起こったりしますが、何でもない時に意図的にやろうとすると、これがなかなか難しいものだったりします。
何が言いたいのかというと、実はアール座読書館のマスターってこの「現実逃避力」超絶ハンパないんです!…だめだ、ストレートに自慢したらすげえバカっぽくなった。
まぁ得意なんです、僕は。
自慢じゃないけど昔からこればっかやってきましたから、のび太の居眠りみたいにいつでもすぐに素敵な世界に逃げることが出来ます。
幼い頃から薄暗い場所にこもってファンタジーに浸るのが大好きでした。
子どもの頃はドラえもんに憧れて、部屋の押し入れに布団や電気スタンドや色々の道具を持ち込んでは小さな部屋を作り、戸を締め切ってひたすらその中で過ごしたり、近所のボロボロの空き家に一人で忍び込んでは中で昼寝したり空想したり食事(!)したりしてました。
今、自分の子供が日常的にこれをやってたら心療内科に連れて行きますが、幸い僕の親はなかなかのレベルの放任主義でした。
空き地に秘密基地というのをよくやってましたね。
子供の遊びの定番ですが、僕のはちょっと本格的で、近所の資材置き場から失敬してきたコンパネや角材に釘も使ったDIY級のやつでした。
内部には、世界制服を企む悪の組織が近所に攻めてきた際に、しばらく潜伏出来るだけの食料と生活用具、建物の中から反撃出来る装備や兵器が常備され、その戦術や戦闘計画に至るまでも厳密に練られていました。
普段友達とグループで遊ぶとき、僕はあまり目立つ子でもありませんでしたが、この時ばかりは皆に一目置かれて、場を仕切ってました…大きな体の巡査がやって来て、取り上げた隊員名簿を読み上げつつ全員整列させられ、こっぴどく叱られるまでの短い間でしたが…。
もっと成長して思春期に入ると、さすがの僕も現実を意識せざるを得ませんでしたが、そんな狭間でモヤモヤと重苦しい毎日から逃げ込むようにやはり薄暗い喫茶店に逃げ込んでは現実逃避に浸っておりました。
はい。筋金入りのネクラ少年(イケてない方)でした。
特に辛いことがあったわけでもないのですが、どうしてか学校や人の集まる場所が苦手なキライがあり、通学電車に乗ると、ついつい降りる駅を飛ばしてよそに向かいがちな不登校児でした。
もちろんマンガ喫茶やネットカフェなんて存在してませんので、昼間にお金もかからず一人で時間をつぶせるような場所と言ったら喫茶店か図書館くらいのもんだったのですが、今思えばこの二つって完全にアール座のルーツになってそうですね(不登校の賜物だったとは…汗)。
都内の図書館も随分行きましたが、大好きだったのは戦後からタイムスリップしたような古めかしい造りの薄暗い(リスペクト表現)喫茶店でした。
当時東京には昭和初期中期に開業したような古い喫茶店がまだ沢山残っていて、僕がよく行ったのは今やご近所になったネルケンさん(今や本当に貴重な存在!)や中野のクラッシックをはじめ、ライオン、ダンテ、物豆奇、邪宗門、穂高、李白、エリカ、もか、昔すいてたくぐつ草、一軒家だったカフェド・パルファン、その向かいで雰囲気がもの凄かったイカール館やべぇとまらねえ…懐かしい…(泣)。
今でも健在のお店なんかは、もはや先輩と呼ぶのも恐れ多い老舗ばかりですが、大抵は白壁が煙草のヤニで茶色く焦げていて、元から焦げ茶色であったろう柱や梁はもう黒光りしてたりして、埃のかかった絵画の額縁や彫刻の入った建材や革張りの古い椅子が何とも格好良く、クラシックの古いレコードがブチブチ言いながら回っていて、人も少なく(平日午前中!)、そして照明は飴色の電笠を透かす暗い電灯だったりするんです(最高…書いてるだけでワクワクする)。
こういうタイプの昭和の古い喫茶店(レトロとかモダンとまた違う)って、どこも決まって物凄い雰囲気(年季)が濃くて、最初はアール座なんか比較にならないくらい入りづらいし、意を決して扉を開けても店主さんとか大抵無愛想で口数も少ないし(上の店全部じゃないですよ)、迷い込んだような気持のまま座席を探し、一大決心をしてオーダーしたものです。
もちろん当時だってサービスの徹底した企業系のカフェとかは沢山あって、そういう所は扉からしてオープンな造りになっていて、フワッと入店すると笑顔の店員さんが最初から丁寧に案内してくれて、何一つ迷うこともつまずくことなく自然な流れでお会計まで行ける仕組みになってたりしますが、そういうお店は往々にして異空間で現実を忘れるというコンセプトを…持ってませんよね、そりゃ。
でも、昨今の日本のサービス業はこの部分がさらに加速しててすごいですね。
我々の生活って全てが完璧に合理化、マニュアル化されていて、大概の用事(買出しから料理とか)は音楽聴きながらやってても、当然のようにスムーズに事が流れます。
ちょっとお菓子のパッケージが空きにくいとか、引っかかりがあるような時って、決まって輸入品だったりしますよね。
間違えず、つまずかず、考えずに出来ることが当たり前のこととして徹底される環境では、人々がこれを妨げられることを非常に嫌うようになっていて、昭和のおじさんには何だか世の中全体が利便性のオバケみたいに感じられて恐くなります。
駅で人と待ち合わせようとして、結局行き違ったままその日は会えなかったりした時代が懐かしいなぁ…(後で家の電話で「北口じゃないの?」「南口って言ったよ!」とかやる 笑)。
話がそれましたが、とにかく僕にとって深く質の良い現実逃避が出来るのは「お決まりの頃にお伺いしまーす❤」というタイプのカフェではなく、店の奥で頑固そうなオヤジさんが新聞読んでる(上の店全部じゃないです 汗)、ちょっとドキドキするタイプの昭和の喫茶店でした。
外界と切り離されてるとか、迷いつつ自分で決めて進むとか、放って置かれるみたいな非現実的、非社会的な要素が効いていたのかも知れません。
そんな空間で空想やら妄想やら果ては自分の内面やらを旅した後、お代を払って薄暗い店内から外に出るとまだ昼間で、空がとてもまぶしく、現実に圧倒されて驚いたものです。
入りづらさで思い出した話ですが、3階の「エセルの中庭」というお店は今でこそ皆様に認知して頂いて、ありがたくも沢山の方にご来店頂いていますが、以前まだ無名だったオープン当初は3階まで上がって来られた方が、内装を見てその異様な雰囲気に不安を感じ「え…ごめんなさい、やっぱり…」と踵を反してしまうケースが続出していたんです(先客がない時ね…混んでる時にはありません)。
オープン当初のそうした反応は経営していて精神的にこたえる部分もあるのですが、アール座の方である程度経験済みだったこともあり、「認知されてしまえば裏返って強みになるはずの部分」ととらえ、悪くない反応として信じ続けることが出来ました(ここで折れて路線変えちゃうとダメなんです)。
ただ、エセルは外国人のお客様の比率がとても高いお店なのですが、外国の方にそれをされたという記憶は一度もありません。
僕自身、独特の空気の強さに尻込みしてしまう日本人気質も分かる方なのですが、こういう気持ちの揺らがなさというか、自分の選択を疑わない気質を拝見すると民族性の違いというものを考えずにはいられませんでした。
聞いた話では、日本人って自己肯定感の低さがシャレにならないレベルなんですってね。
アンケート結果がもうブッチギリらしいんです。
でもこれ、自分も含めて何か分かる気します。
うーん、どうしても話がそれますね。
でも意外と後で回収されたりします。
思春期を過ぎ、もっと趣味が広がってからは、博物館(昔の科博も良かった)や公開されている洋館等、さらに沢山の非現実薄暗スポットを見つけていくことになりますが、結局そんな所で繰り返しやっていた現実逃避の時間は間違いなく僕のメンタルを支えてくれていました。
今思えば、もし当時あんな風に逃げこんで心を休める特別な空間が何処にも無かったら、あの気弱い少年は一体どうなっていたんだろうと、昭和の喫茶店への感謝を超えた思いがこみ上げます。
こんな風に四歳の頃から既に意図的な現実逃避を始めていた僕は、キャリアからしてもう筋金入りの…と言いたい所ですが、実を言うと子供というものは皆例外なくこれのエキスパートだったりするんですね。
以前「中間領域」というテーマでお話したことがあるのですが、子供は誰でもこの現実とファンタジーの合い間のような世界を作って自由に遊ぶことが出来るし、またそれがその後の精神の成長や意識の形成においても大変重要な役割を持つのだそうです。
さらに僕はこれが大人のアイデンティティーの安定においても、とても大切な過程だと信じていますが、この「大人の中間領域」というものこそ、言ってみれば「現実逃避」という行為とほとんど同義なんじゃないかと思えるんです。
現実逃避の対極にあるものを考えてみると、その象徴として「to doリスト」なんてものが思い浮かんだりもします。
僕もずっと多用している、物事を計画的に運ぶために、目標に一歩一歩迫るために無くてはならない重要なものです。
アール座の僕の仕事なんかは実のところ、会社で言う総務みたいな仕事がメインだったりします。
何処かの機器や器具什器が故障したり、何かしらが消耗してそのシステムの動きが滞ったりと、絶え間なく交互に訪れる管理、補修業務が仕事の大半だったりするんですが、もうこのリストがそれでひたすら埋め尽くされ続けます。
でも世の中の数ある職種のほとんどにはこれが必要だったりするんじゃないでしょうか。
無数のタスクを処理し続けていく要素が少なからず必要なお仕事の方が現代では普通なんだと思います。
僕なんかはスマホや手帳の上で永遠に続くとも思われるそれに、ヘタをすると人生そのものを持っていかれるような恐さを時々感じたりすることがあります。
本当の自分は何がしたいのか、最終的にはどうなりたいのか、自分は何のために生まれて来たのか、みたいな大きな視点がto doリストに埋もれてぼやけて分からなくなったまま人生が終わっちゃったらどうしよう…みたいな恐怖感が随分前からあって、それがこの店を作った動機の一つにもなっています。
間違いや迷いを許さないマニュアル化された社会環境が強要してくるこの「やるべきこと」という意識こそ「現実逃避」という言葉に使われている「現実」の部分のような気がしてなりません。
何をやるにも「正しい筋道」や「まっとうな方法」というものが「現実」であるとして、目の前に突きつけられている気がしちゃうんです。特にこの国は。
例えば自分で思いついたような「変なこと」って、あえてやろうとすると凄い力で何かと抵抗がかかったりするのを、僕はイヤというほど経験してきました。
例えば昔「エセル」でハンバーガーメニューをやっていたとき、そのバンズを四角くしようと考えたことがありました。
どう考えてもその方が美味しそうだし食べやすそうだし個性的にも見えると思えたからです。
所がやってみると、これがなかなか上手く行かない。
角バンズの仕入れ先なんてそうそうない(そもそもそんなものがない)し、何かで代用するには価格的に問題があったり、焼成を考えてもそれをオペレーション化出来るような器具が見つからないとかあって一向に計画が進まないんです。
とにかく世の中にそういうラインというものが出来上がっていないので、手段も道具も色々な要素を応用し、自分で一から考えて組み合わせるしかないのですが、これがとても困難で、何かを取れば何かが失われるみたいな状況に陥ってしまうんです。
これを従来通り「丸」にしてしまう方を選びさえすれば、全ての問題がキレイに解決されて全部スムーズに、かんったんに!事が運ぶんですよね。
そこで困った僕が一体どんな手を打ったかというと…
断念しました。せめてもの抵抗でチャバタという不定形のパンを使ったりしましたがね…
社会はこんな作りになってますから、そうやって我々は文字通り「角」が取れていくんですね〜(ウマい例え話になった)。
「まっとうなこと」「正しいこと」とつながった「やるべきこと」こそが「現実」で、そこに向かわないことが「逃避」だとする意識は、いつの間にか自然な形で我々の中に植えつけられ、すっかり共有されています。
これって日本人の自己肯定感が低いという事実と、絶対に無関係じゃないという気がしませんか。
でもそんなことを踏まえて、その「現実」というものを改めて見つめてみると、それこそ本当は頭で作り上げた妄想のようなものなんじゃないか、ただまともな方厳しい方を「現実」と言い聞かせているだけなんじゃないかという風にも思えてきます。
考えてみれば本当は現実って、今目前に存在している光景のことでしかないんです。
更に言えばそれだって次々に絶え間なく過去になっていく幻のようなものなんです。
ましてやまだ決定されていないこれからの事柄なんて、現実のはずがないんですよね。
でも現実という概念って、そんな風に考えるいとまも与えてくれませんね。
今の僕は喫茶店経営者なので「カフェと言うものはこうじゃなきゃいけない」という正当性のようなものと、ここ数年さかんに闘ってきた気がします。
これが、変なやり方やマトモでない方法を凄い力で否定してくるように感じられるんです。
ただでさえ迷いの中に溺れそうなメンタルに「自己満足だ」「恥ずかしくないのか」「そんなんでいいわけないだろう」と容赦なく牙をむいて来ます。
そんな僕にとって、自分の価値観だけで物事を考えようとする現実逃避の時間(ありえない方法や現実には出来そうもない手段に片っ端から思いを馳せます)はこれへのささやかな抵抗の時間だったりします。
そして抵抗するうちに少しづつ分ってくることがあります。
若い頃はそれがずっと社会の側から来るものだと思ってたんですね。
学校サボってほっつき歩いている自分に「何で学校行かないんだ」「もっと皆と楽しく過ごさなきゃダメだろう」と何か外部から自分を責めてくる世論のようなものがあるように感じてました。
でも、あらがい続ける内に次第に姿を見せてくるそれはよく見ると、紛うことなく自分の中にいる奴なんですよね。
自分の中に、逃げるな間違うなごまかすなと、世間のフリをしてさかんに自分を責めてくる意識があって、またそれは本当に外から責められることを何よりも恐れる意識と一体だったりするんです。
目下の所、僕はこの最終形態のラスボスとの闘いの場にまで辿り着いてはいるものの、為す術もなくボコボコにやられまくっている毎日です。
自己肯定とか、ほど遠い毎日です(泣)。
でもふとした時に「別にいいじゃん」とか思えて、ちょっとだけ気分が変わる瞬間があります。
捨てゼリフのようなその一言には必死の抵抗とある思いが込められています。
「本当はこうじゃなきゃいけないなんてことは一つもないのかもしれない」
「やるべきことなんて一つもないのかもしれない」
「自分は何がやりたいのかということだけが、唯一の大切なことかもしれない」
いつも忘れてしまうけど、昔から何度となく浮かんできた思いです。
迷い悩んだ挙句にそれは思い浮かび、その度に、いつも必ず自分を守ってくれました。
断言出来るのは、今の自分を自分らしく形作っている要素は全てこっちから生じたものです。
厳しく現実的な態度やto doリストから生まれたものは一つもありません。
そしてそんなことを思えたのは、いーっつも!あの薄暗がりの下の時間でした。
ビルが立ち並び、自動車やスーツ姿の人々がせわしく行き交う現実的な光景の中では絶対に無理なんです。
そんな場所では、全ての視覚要素が自分の内面にブロックをかけてきます。
「現実」らしきものから離れて遮断して初めて、そこから逃避出来ると同時に、逆に普段見えていなかった内なる思いがはっきりと実感出来たりするんです。
あの頃いつもお代を払って店を出ると、外はまだ昼で、空がとてもまぶしくて驚かされるのですが、でも今さっき感じたその「思い」を携えて、またここでやってやろうというような気分にもなったものでした。
秘密基地に籠って、頭の中の悪の軍団をにらみつけていたあのちびと、あまりにも変わっていないのがちょっと心配ですね。
中二メンタルを自覚しているおっさんですが、これはヘタをすると小二…。
こんなとこまで読んでしまった皆さん、小二病の世界へようこそ…
と言うわけで皆さん!現実逃避したくなったでしょ!
逃げまくりましょう。
辛い現実なんて見なければ存在しないも同然です。
社会が許さなくても、貴方自身が許さなくても、アール座読書館が全部許して差し上げますよ〜。