虫の声と季節感のすすめ
こんばんは。
4か月ぶりでございます。
やっと涼しくなりました。
今年の夏は沢山汗かきましたね。
毎日必死に飲み物ばっか飲んでた気がします。
皆さま大変お疲れ様でした。
酷暑を通り抜けて、やっとという感じですね。
アール座のメインシーズン!秋!
街中でも最近になってやっと虫の声が聞こえてくるようになりました。
でも、なんかいつもよりタイミング遅い気がします。
実は秋の虫が鳴く条件に気温というものもあって、大体15〜30℃位なんだそうです。
そう。30度以下なんですって。
例年ですと、東京なら虫達は八月下旬にはもう鳴き始めて、10月に入ると寿命を迎えていく感じなので、大体2か月以上は虫の声が楽しめるのですが…何せ、この気候…
秋、短くなっちゃうじゃん!
以前よりこのブログで季節、特に「秋」や「春」を感じることの大切さを訴えてきた僕ですが、温暖化と共にどんどんこの季節が短くなっていってしまったら寂しいですね。
感覚が自然の季節感から切り離されて、人間がまともに生きていけるはずがないのだ、とまで考えるアール座にとってはなかなか痛いことです。
…という訳で、今年も始まっております、恒例(?)「秋の虫の音楽鑑賞会」。
管理がなかなか大変なもので、忙しい年は見送られてしまいがちなこの企画ですが、今年は久々にしっかりしたメンバーを揃えましたよ〜。
勿体ぶるようですが、お伝えしたいのはその価値です!
こんな室内空間ってナカナカ存在しないのです。
童謡の「虫の声」ってありますよね。
「あ〜れ〜ま〜つ〜む〜し〜が〜♪」ってやつ。
でも実際、野生のスズムシとマツムシが同時に鳴いてるような自然環境って、今どき山間部でもそうそう無いみたいです。
ましてや秋の虫の中でも上質な音色の種ばかりを集め、その生音を聞きながらお茶をすすれる環境と言うのはもう太陽系のどこにもないでしょう(多分)。もちろん大自然の雑多な音色が混じるオーケストラは圧巻ですけどね。
虫の声イベントについては恒例行事なので、例年、過去ログにリンクを貼っていちいちの説明を省いてきましたが、今年は久しぶりに改めてご紹介したいと思います(過去の文章の引用や重複アリ)。
日常を離れ心を遊ばせるに最適な季節「秋」はそれを目的に作られたアール座読書館のベストシーズンでもあるのですが、これをより色濃く演出するために行っているのがこの「虫の声イベント」なんですね。
日によってはうるさいくらい鳴くこともあるんですが、そこは「静寂には音が必要」と考えるアール座なりのコンセプトもあります。参照→「無音と静寂」
皆さんは虫の鳴き声を本気で聞いたことがありますでしょうか?
何かをしながらちょっと耳を傾けるとかじゃないですよ。
交響楽団のコンサート聞くみたいにしっかりと「鑑賞」するんです。
聞きながら、短くも儚いこの人生を思ったり、世の憂いを感じたり、鳴いてる子の気持ちとか想像しながらその音色に思いをはせるということなんですが…まぁナカナカしないですよねぇ、そんなヒマなことねぇ…。
ヒマなこととはなんだ!
そりゃ人気ミュージシャンの音楽に比べたら地味だし、刺激少ないし、お金もかからないしね。
きっとそんなことからあまり相手にもされない虫の声ですが、人の世ではとかくこうした希少性や経済感覚と言うものが、美的感覚やその価値観と複雑に交ざってしまいます。
僕よく思うんですが、シジミの味噌汁って、フカヒレなんかよりも余程品が良くて奥深くて上質な味がすると思いません?
シジミ貝が希少種でなかなか採れないものだったり、汁に煮出すのに何段階もの手間がかかるものだったら、きっと高級食材になってたと思うんです。
でも沢山採れて簡単に作れちゃうから、平気で椀に残されるようなポジションにあまんじてるんです。きっと。
アール座店内の硝子ショーケースに面白い中国土器があるんです。
一番下の段の向かって左側の二つ。黒と赤の。
よーく鑑賞すると、弥生土器や土偶に迫るような力と趣きを持ったなかなか面白い逸品なんです。
骨董の専門家をしている親戚の叔父さんからの頂き物なんですが、実はこれ、どちらも先史時代(紀元前2000年!)の中国土器(発掘品)で、かつては百万の値が付いた物らしいです。
でも、なんでそんなものがこんな店にあるのかというと、現在その価値は数百分の一に下がってるらしいんですね。
後年、ある遺跡から同じものが大量に出土しちゃったんだそうです。
まぁだからこそウチのような店に並んでるんてすけども、でもね、関係ないですよね。
それ自体が大変な力を持った素晴らしい品であることには全く変わりないんです。
僕、店でこれ見ると思うのは人間の価値感なんて本当にいい加減なものだな、とか結局モノの価値って…え?虫の声の話?
そうだそうだ。
話を戻しますと、あんなに美しくて心和ませる音楽が大して人々に見向きもされないのは、きっと家の帰り道に普通に聞けちゃう(東京のはコオロギだけどね!)からなんじゃないかとも思うんです。
最近よく耳にする話ですが、実は虫の声をちゃんと聴くことが出来るのは日本人だけで、外国人はそれをノイズとみなして意識からカットしてしまっている(多分生活ノイズみたいに)から、コオロギはいても、鳴いていることにすらあまり気づいてないんだそうです。
日本では大昔から人々の心を和ませて来た秋の風物詩ですが、なんでも普通外国の人々はそれを右脳でただの「音声」として処理してしまうため、全く何も感じないという話です。
そこを日本人だけは左脳(言語脳)で「音楽」のように捉えることが出来るのだそうです。
でも僕思うのですが、日本では昔から文化としてそれが扱われてきたから、そんな意識で感覚出来るのであって、外国人でもその美しさに気づき、親しんで意識出来るようになれば左脳で聞くようになるんじゃないかなぁ。
つまり結局、興味や感受性の話だと思うと、現代の忙しい日本人だって怪しいもんですよね。
ヘタすると右脳で聞き流してる日本人の方が多いんじゃないかという気もします。
そんな時代でも、こんな店のブログ読んで下さるような皆さんにはきっとご理解いただけると思うので、是非おすすめしたいんです。
だって、秋の虫の声程気持ちを和ませてくれる音色が他にあるでしょうか!
もちろん、沢のせせらぎ、木々の葉擦れの音、森林の雨音など自然界の音には人の心を落ち着かせてくれるものが多くあります。
でも僕、これらと虫の声との間には決定的な違いがあると感じるんです。
同じ自然音でも鳥や虫の声というものはその主体の意思を担った、つまり「声」なんですね(羽擦って出すんですけどね)。
美しい小鳥のさえずりや虫の声には雑念や余計な感情なんてない純粋で崇高なものなのかと思いきや、実は異性への猛アピールだったり(綺麗な歌声はこちら)、雄同士の激しい怒鳴りあいだったりします。
え…そうなの?と失望されるかも知れませんが、でもね、彼ら必死なんです。
必死に唄ってるんですね。
何年か前、このイベントのためにコオロギを捕獲しようと、深夜に近所の緑地を鳴き声頼りに探し回っていたときの話です。
ひときわ大きな鳴き声に引かれて公園の石垣の方に行きますと、その石のとある狭い隙間からそれが響いているようでした。
ここで待っていれば出てきた所を捕まえらるんじゃないか、と思ったその矢先、すぐ横に全く同じことを考えている奴がどかりと座っていたのに気づいてドキッとしたんです。
石垣の手前に巨大なアズマヒキガエルが、岩のように微動だにせず、一心にその隙間を見つめていたんですね。
コオロギはもう絶体絶命の状況ですが、沢山食べなきゃいけない大ガエルの方だって命がけです。
呑気に昆虫採集なんかしてた僕は、命がけの弱肉強食の構図を前に、何だかバツが悪くなってその場から去ってしまいました。
で、それ以来、店で鳴く虫の声の聞こえ方もちょっと変わったりしました。
考えてみれば、一箇所にとどまってあんな大きな声で鳴き続けるのって、自然界の昆虫にとっては完全に自殺行為です。
明らかに生存競争に不利なはずなんですが、それでも彼らは鳴き続けて、何万年も命を繋いできたんですね。
短い期間内に子孫を残すための、命がけの歌声です。
どんなに美しくても「物音」と決定的に感慨が違うのは、やっぱり我々の中に、それが「小さな生き物が一生懸命鳴らしてる音」という意識があるからなんじゃないでしょうか。
小さなもの達の存在の切なさや必死な思いが胸を打つんだと思うんです(言い過ぎ?)。
最初に店で虫を鳴かせてみたのは2008年の秋でした。
何か季節感を出すアクセントになるかと思って、窓の外のプランターを網で囲ってスズムシを放してみたんです。
まだお客さん全然いなかった頃ですが、そんな空間に虫が鳴き始めて、うわわってなりました。
アクセントどころじゃないんですね。
予想を上回る影響力で室内の空気を一変させ、幽玄すら感じさせる何とも不思議な空気感を作り出してくれたんです。
まさにアール座の目指す静寂と同質のものを劇的に演出する力に驚いた僕は、次の年にはもっと本腰を入れて、他にも様々な種類も仕入れ、捕獲して、室内に飼育ケースを並べてアンサンブルを作りました。
もうBGMは必要なさそうだったので切ってしまいました。
そんな流れから、これがお馴染みの秋のアール座、定番企画となったわけです(今回は2年ぶりだけど)。
さて、今(9/13)すでに、夜の店内は沢山の虫の声に包まれています。
メンバー紹介です。
コールの後にそれぞれソロ演奏してるつもりで読んでみましょう。
主役はやはりこのヒト!スズムシ!音色が絶品。
「リイィィィン…」という音色は単体でも綺麗ですが、数匹同時に波のように起こる合唱が素晴らしく幻想的です。
また主役でありながら、こうして多くの音色を合わせる時には全体を美しくまとめて繋いでもくれます。
マツムシは、一瞬小鳥かと思うような大きな声で鋭く「ピンッ ピリリッ」と鳴きます。アンサンブル全体を引き締め、アクセントと緊張感を与えてくれます。
夕方頃になると、この音がちょっと鳴り始めて、次第に音が厚くなってくるのが演奏会の始まりです。
コオロギの中で最も声が美しいと言われるエンマコオロギが奏でる、ゴキブリチックな見た目からは想像もつかない柔らかい「ヒョロロロ〜」という声はスズムシ以上に「侘び感」を醸し出してくれます。
彼らとスズムシの二重奏がオーケストラの骨格になります。
それらレギュラーメンバーに加えて、他数種のコオロギ(よく聞くやつ)や、今年はアオマツムシというのも入れてみました。
実は昨今嫌われ者の外来種なのですが、美しい澄んだ高音をリリリリリリ…と強く長〜く引っ張ってくれるので、一声でなかなかのアクセントと厚みを足してくれます。
これら大小20程の飼育ケース(管理まじ大変)をショーケースの後やフライヤー台の下、後の物置などに各所にサラウンド配置してみました。
湿度の低い日、日暮れ時から鳴き声は始まりますが、その頃になると最初「ピッ…」とか「リン…」とか澄んだ声が切れ切れに出始め、次第に多くの声が重なり、やがて美しい波音の様な合唱になってゆく様子は大変に趣き深いものです。
ちなみに、彼らが最も力強い音色で夢のように幻想的な音楽を奏でている時間のピークは、悲しいかな照明の消えた閉店後なんですね。
でも自然の美しさってそんなもんですよね。
人間が全部所有出来ると思ったらいけません。
前人未踏のジャングルの奥に、想像を絶するような美しい絶景が誰一人見ることも無く広がってたりするのが大自然…あ、虫の話でしたね。
彼らがフルパワーで鳴くことが出来るのは例年ですと9月いっぱい位です。
実は彼らには悲しい性(さが)もあって、メスがオスの美しい歌声に引かれて無事にカップルが成立し交尾を終えた後には、そのままメスがオスを補食してしまうんですね。
子供の頃に鈴虫飼ったことある方はご存じかと思いますが、秋も終盤になると鳴き声はすっかり止んでしまい、ケースを開けると腹を膨らませたメスばかりがワラワラと歩き回っているような恐ろしい光景になります。
何とも勇ましい肉食系女子達ですが、男子最後の一匹とか、一体どんな心境になるんでしょうね。
せめて「自分の最期はどの娘に食われよう」という位の選択権はあるんでしょうか。
その状況でも最後の力で鳴いてメスを呼ぶのだから、こちらもスゴい男気です。
命がけの恋ですね。
なので、日が進むにつれオスが食われて、音の厚みは少しづつ減って行きます(何というオーケストラ…)。
なので、お早めにどうぞと言うわけです。
ほとんどのお座席には例年、手作りの「虫の声鑑賞ガイドブック」を置いております。
種類ごとの解説や、秋の虫に関する日本の古い風習などまとめてありますので、鑑賞のお供にご覧下さい(もしお座席に無かったらお知らせください)。
一年の季節の流れを最も実感させてくれる晩夏から秋にかけての時節(自論)、その一年のほんのひと時しか聞けない虫の声です。
僕はいつも、人が人らしく生きていくために季節を感じることが不可欠なことだと自戒も込めて思っているのですが、最近では実はそれが人の心を守ってくれているのではないかとさえ感じるようになりました。
その時、自分の人生にどんなことが起こっていようとも、それとは全く関わりなく同じスピードで夜空が回り季節が巡ってゆくことは、何だか冷たいような寂しいような無情な出来事にも思えます。
我々の身体だって、こちらの思いや悩みなど知らん顔で、淡々と呼吸し脈打っています。
でも実は、そのことが不思議と我々に安堵を与えます。
うんざるするような事態や時間のかかる難事に見舞われているときでも、そんな風にこちらの事情を無視してめぐり続ける自然の環境こそが、どんな状況でも我々を生かし、前に進めてくれることを我々は知っているからだと思います。
こちらの思いを無視してひたすら巡っていくこの世界の「時間」というものは、全ての生き物にとって全く平等に与えられた、最も暖かい出来事なんじゃないかとまで思えてきます。
というわけで、それを実感させてくれる虫の声です。
可能であれば、晴れた平日の夜とかおすすめです。
ちなみに個人的な話ですが、実は今年、僕は早番の日が多くて夜の演奏ほとんど聞けないんです(号泣)。
いいなー、お客さん!