日本人と本音の話

2016.07.28 Thursday 02:47

皆様、遅ればせながら…新年明けまして…いや、違う違う。
新年の挨拶は前回したんだ。
よかったぁ〜、年明けに一本更新しといて。
よくねえか。
 
初夏の頃、アール座の窓際に「モジズリ」という素晴らしく可愛い野花が咲いていたので、これを早くブログでお知らせしなければ、と思いつつも、中々手を付けられずにお花が終わってしまいました。
 
先日、ありがたくも朝日新聞さんに取材して頂く機会がありまして、新聞掲載の日ってブログのアクセス数が桁違いに跳ね上がるのですが、結果数千人の方々に最新のブログで「明けましておめでとうございます!」とかほざいてる有様を披露する羽目になってしまいました。
 
もう自業自得という他ありません。
 
改めまして、皆様お久しぶりでございます。
 
大好きな梅雨(雨の楽しみ方参照)が終わると、いよいよ夏ですね。
色鮮やかで空気の濃い、大変良い季節です。
 
窓際23番卓の窓の外に生えた「モジズリ」は思わず二度見してしまうほど目を引く可愛らしさだったのですが、スミマセン
 
でもこぼれ種で勝手に生えてきた奴なので、来年も咲いてくれるかもです(わかんないけど)。
 
この所の僕は相も変わらず上下の店での色々な展開を考えているワケなんですが、そんな中で最近とみに思うのは「発想出なくなったなぁ〜」という情けない思いです。
 
店作った頃って、やってみたいことや面白そうなことが、可能不可能を問わず、いくらでも出てきた気がするのですが、年なのかなぁ…とか考えてました。
 
でも、最近分かったんですね。
これ、多分年のせいじゃないんです。
 
まだ店が影も形もなかった時って、意識の中に発想を限定させるような要素が何もないからこそ、自由に何でも思い浮かべられたんです。
 
今、店が既に形を持って存在し、社会の中で機能し、お客さんやスタッフや多くの人にとっても存在しているという状況下では(もちろんとてもありがたい状況ですよね)、人目や評価を気にする気持ちが意識の中に入ってきて、自由な感覚の発想を止めてしまうんですね。
 
これ、完全に僕の欠点なんです。
つまり「社会性」というものが苦手で、マイナスに働いてしまうんです。
 
僕、子供の頃から、信頼できる仲間達と意見を出し合って喧嘩しながらも皆で力を合わせて何か一つのものを作り上げるということ…
大嫌いでした。
 
ゆがんでるでしょ〜。
い〜っつも一人で隠れるようにコツコツもの作ってました。
 
でも皆の中に入ると、本当に出来ないんです。
発想も技術も萎縮してしまって、一人の時の半分も力を出せない。
他にリーダー的な人なんかいたら、もう完全に諦めモードで、機械的にやるだけでした。
 
色んな要因があるんですが、まず一つは、僕のモノづくりっていつも途中の段階で認めてもらえない、というか、すごくバカにされるんです。
 
出来かけの状態を見せて「これをこうしてこうするとこうなると思うんだ」と話しても「何それ?」みたいな態度をされてしまう。
 
で、仕上げまで出来上がったもの見て始めて、結構みんなびっくりするんです。
「こうなるのか!」って。
 
でも僕、これを喜ぶどころか、心の中で腹立ててました。
「だからこうなるって言ったじゃん!」って。
 
発想の仕方が人とずれてるんでしょうね。
 
そんな経験からか、未だに僕は「皆で意見を出し合うと一人では思いつけないアイディアが…」みたいな考え方を信用できないんです(もちろん今はそれも事実だと知ってますが)。
 
モノを作るなら「一人で最初から最後まで」というのが一番と思っていて、皆で意見ぶつけ合うと、どうもそれぞれのクセのある飛び出した部分が削られ、平均化されて、普通っぽくなるような気しかしない(これもまた事実だと思います)。
 
でも本当の所はやはり、人目を意識すると萎縮してしまう僕の中の「社会性」の形に問題があるんだと思います。
 
だから大きな組織で奇抜な企画を立ち上げて沢山の人説得して使って、見た事無いもの作る人の能力って、僕ちょっと考えられません。
 
 
まぁ僕に限らず、社会性の意識って自分の本当の気持ちを閉じ込めてしまうものだなぁ、と最近つくづく感じます。
 
せっかく自分の心を持って生まれてきたのに、それで生きてくのってどうなんだろう?とか思います。
 
そう言えば「自分らしく生きる」みたいなワードって、昨今すごくよく耳にしますね。
 
僕思うんですが、この「自分らしく」と言う言葉が警鐘みたいに盛んに言われてるのって、この国だけなんじゃないかとか思うんです。
 
苦手そうですよね、日本人。
 
僕若いときは、日本人っぽさってあまり好きじゃなくて、自分の中のそれにあまり興味なかった(そう思いたくなかった)んですが、最近その辺の意識がすごく揺らいでいて、日本人のそんな気質にとても興味を持っているんです。
 
自分の気持ちが自分で分からないのって、日本人特有の他者への意識や人との付き合い方が決定的に影響を与えているんじゃないか、という気がしてなりません。
 
だから、今日はそんなお話です。
 
店と関係ないのはいつものことですが、それでも最後は見事にアール座の宣伝につなげてみせます。
 
先に言っておきますが、今回も長いっすよ。
 
 
「もっと自分らしく」とか言われると、現代の日本ような社会って、人間関係や社会的なプレッシャーから生じるストレスが強くて、皆、微妙な空気を慎重に読み取りながら気持ちを押し殺し、仮面被って自分を守って暮らしているように思えてしまいます。
 
特に東京に暮らしているとそれを強く感じます。
 
沖縄に遊びに行くと面食らってしまうのは、とても親切な人がすごく無愛想だったりするんですね。
 
もちろんイメージ通りのニコニコのおばあとかもいるけど、そうでない人がとても多い。
 
例えばどこかの待合ベンチで若い男の子が扇風機一人占めしてる所の向かいに腰掛けると、こちらを怖い顔でジロッと睨みつけた後、扇風機を首振りにしてこちらにも風を回してくれるとか、僕なんかはこういうの、ちょっと驚いてしまいます。
 
向こうにしてみたら、誰かに親切したって別に可笑しいこともないから笑うこともしないというだけのことなんでしょう。
 
が、東京育ちの僕などは、逆に無愛想で性格も素っ気ない人なんかには何も驚くことないのですが、シマんちゅのこんなパターンって、いちいち新鮮に感じます。
 
東京では普通、良い人が見知らぬ人に優しくするとき笑顔でいるものです。
 
 
外国だとさらに強烈な差異を体験することがありますが、若い頃インド旅行に言ったときの話です。
 
ああいう国ってタクシーでも何でも金額が言い値なので事前交渉で決めておくのが基本(いくらでもボられる)なんですが、三輪タクシーで事後に最初の金額よりはるかに高い額を言って来た人がいて、払え払わないの言い合いになり(結構声張るくらいの)、しまいに僕は最初言った額のお金だけ押しつけてその場を去ったのですが(こんなの多かった)、そのあと彼がしつこく追いかけてきて僕の肩に手をかけ大声で何か叫んだので、その腕を払って振り向きざまに睨みつけると、彼は僕が被ってた帽子を手にしていて「帽子忘れたよ」と、さっきと別人のようにケロッとした顔で言いました。
 
「あ、や…サ、サ、サンキュー…」となって、バツ悪くその場を去り「心がイガイガしてしまってるのかな」などと反省したものです。
 
でも、今考えればムリもないことです。
だってそんなの日本では絶対にないパターンですもん。
 
とにかく、人と言い争うといったことに対するテンションの高さが圧倒的に違う。
 
こっちは初対面の人とあんな風に怒鳴り合うって、そうそうやったこともないのでちょっとした興奮状態ですが、向こうにしてみたら「この人もっと取れるかな」「もうダメか」「あ、帽子忘れてる…」というくらいのごく日常的なテンションなんですね。
 
大して怒ってもないのに、あれだけ怒鳴れちゃう。
 
例えば中国とかも、町ナカで知らない人同士が普通に怒鳴り合ってるイメージ(スミマセン、あくまでイメージ、行ったことない)ありますが、あれってどれくらい怒ってるんですかね。
 
あまり後に残らない感じもするんですが、そんなことないのかな。
 
東京の人の怒り方って、駅で大荷物置いて邪魔になってる人がいると男の子がすれ違いざまに舌打ちしたりするイメージですが、あれはお互いにイヤな感じ残りそうですよね。
 
日本人の大人が知らない人に対して声を上げて怒るといったらもう喧嘩です。
 
酔っ払うとか車に乗って気が大きくなるとか、本当にブチ切れるとか、とにかくそんな距離感が壊れて、普段閉じ込めてるものが飛び出してしまうような感じですよね。
 
そう言えば昔、どこかのビルで扉が締まりかけのエレベーターに駆け込もうとした時に、中でスーツを着た西洋人の男性がすごい形相で「閉」のボタンを連打しているのが見えて、僕が「開」を押して扉が開くと、「ンー!!」と叫んで、思い切り壁を殴りつけた時、僕もう泣きそうでした(その後中で二人きり…)。
 
この人は母国でも平均的な性格の人じゃないかもですが、僕に対して激怒しているというよりは、ただ上手くいかない出来事に対して一人で癇癪を起こしてる(やはり相手のことはあまり気にしていない)ように見えて、日本人の怒り方とかなり違うようにも感じました。
 
昔レストランで働いてた時も、こういう風に強引に無理を通そうとしたり、自分の意思が通らないことに対してストレートに怒りを表現する西洋人のお客さん(普通は西洋の人は皆とても優しくてフレンドリーでした)を時々見たことがあります(日本人は自分がないがしろにされたと感じて怒る人が多い)。
 
比べてみると、とにかく日本人は親切にするにせよ苛立つにせよ、人と距離を取って相手の顔色を伺い、自分の気持ちを制御しようとしますね。
 
また、自分の気持ちは制御するのが大人として正しい、という意識が高いように思えます。
 
最近の叱り言葉でよく聞く「空気読め」というのは、とりもなおさず、「周りに調子を合わせろ」ということですよね。
 
でも逆にこんな意識って外国人に「日本人は優しい」と思われる所以にも通じている気がします。
 
最近はTV番組がオリンピックに向けて色々と特集を組んでるようですが、アスリートの人達が話すエピソードで、日本のチームが海外に遠征して試合するとき、審判が向こうの人だと必ずこちらに不利な判定をするものだけど、世界中でも日本人の審判だけはホームの試合でそれをしないとか、海外のチームに移籍した日本人選手は、最初、露骨な差別(パスが来ないとか)に合うものなので頑張って関係性を築く必要があるけど、日本のチームは外国人選手を気遣うくらい優しく受け入れてあげる、とかいう話をよく耳にします。
 
平均的な性格の日本人ならその日本人側の感覚、普通に分かる気がしますよね。
 
プレイヤーが何人であろうと公平に審判するとか、当たり前のように思いますし、バイト先に勝手が分からなそうな外国人の新人が入ってきたら、最初は普段よりちょっと優しくなっちゃいそうですよね。
 
でも、これ世界基準では特別なことなんでしょうか。
 
なんだか不思議。
 
最近は東京にも外国の人多いので、もっと日常的なことでも、人との距離感の違いに触れる機会があったりします。
 
以前本屋さんで書棚に向かって立ち読みをしている時、左隣にいた男性がこちらに手を伸ばし、無言で僕が持って読んでいる本をぐいっと押しのけてから、僕と書棚の間に腕を入れて奥(僕の右側)の棚の本を取り出した時とか「お?何?」って驚きました。
 
向こうにしたら何でもない仕草なんでしょうけど、日本人はこういうコンタクトはまずしませんよね。
 
電車のシートで3人座れるスペースの真ん中に一人座ってる人がいて、そこに二人連れの外国人が入ってきて、真ん中に座ってる人に無言で(目を合わせてたのかも)シッシッてやるときみたいに(日本だとね)手を振ってその人を端に追いやってスペース作って二人で座るとか(中東っぽい人で2度見たことある)もへぇ〜と思ってしまいます。
 
電車でドア口に立っていた大人っぽいカップルの彼氏が彼女に後ろからすごい勢いでヒザカックン(連打バージョン)やってて、ケタケタ笑い合ってるの見たときも「嫌がらないの?」と驚いたのですが、外国語を話し出したので「ああ、何だ」と思ったこともあります(日本人の女の人にやったら殺されますね)。
 
僕、こういうの見ると性格的にすごく考えてしまうんですね。
 
「これ日本人やらないよな」「人との関わり方がゼンゼン違う」「日本の方が珍しいのかな」「日本人だと、一声かけてからならあるか(ヒザカックンじゃないよ)」「いや、田舎のお爺ちゃんとかならいきなりやるかも」「昔は日本でもあれくらいアリだったのかな」等考え込んで、立ち読みどころじゃなくなっちゃうんです。
 
まぁ考えてみてやはり、通常時の距離感が違うんですよね。
 
多分、声がけもせず、相手の顔も見ないで人をどかしたりする(どかされる方もなんとも思わない)所が大きな違いで、日本人はとにかく相手がどう思うか確認してからもっと慎重に意思表示をしようとしますね。
 
 
あとその他にも考えてしまうのは、本屋さんの男性はアジア系の人だったので、よく顔見るまで外国人と分からず、最初は「何だよ…」とも思ったのですが、顔見て「ああ何だ、外国の人か」と不快感が消えたのも、何だかヘンな気がしました。
 
電車の座席の話だって、その人の国ではきっと「ちょっとごめんね〜」位の仕草だと思うのですが、同じことをスーツ着た日本人がやったらヤクザかと思っちゃいますね。
 
相手を外国人でなく、チャラい感じの若者とか、いつも怒ったような顔した女の人とか、おじいちゃんとかヤクザとか見たこともないような変わった人とかで想像してみると、各々で感情の動き方が違って来るのが分かります。
 
どうも我々の場合、相手の行為そのものよりも「ナメられてるのか?」みたいな、こちら側のアイデンティティーの意識が不快感の元になってそうですね。
 
 
話を戻しますが、日本人がこういう風に距離をとって様子を見たり、少しずつ接触をはかったり、笑顔を浮かべてみせたりって、一体これ何なんでしょう?
 
別に難しい話じゃないですね。
人の気持ちが怖いんですよね。
 
よその国の人より怖がりなんだと思います。
 
だからでしょうか、優しいと言われる日本人ですが、自分の意思を通してゆく気質の民族に比べると、相手に意思を通されることも大嫌いです(遠慮してる分ね)。
 
これは言い換えれば人間関係に「繊細」になってるということですね。
 
だからタテマエとかソトヅラとか駆使しつつ特有の距離の取り方でそんな恐怖や面倒を凌いでると思うんですね。
 
東京の優しい人が人に親切にするときに笑顔なのは、多分都会って、つい最近各地から集まった土地に慣れてない人ばかりで出来たような街だから、歴史的にコミュニケーションのベースに何となく不安感や緊張感が薄―くあって、だから「自分はあなたに敵意がないですよ」ということをはっきり示す必要があったから無意識の内にそうなっていったんじゃないか、と勝手に思います。
 
だから僕は、こんな笑顔や態度をあざといとかイヤらしいと考えるのは違うと思うんです。
 
いつものように、あてずっぽう論理が突っ走りますよ〜、このブログ。
 
 
本音とタテマエを使い分ける日本人のこうした特性って、昔から色々と言及されてきました。
 
定住型の農耕民族は集団の中での微妙なコミュニケーションが非常に重要だったとか、直接的な表現を避け、曖昧さや間接表現を好む文化的な気質を要因とする話とか、上のような都市型ならではの理由付けも、体感的にすごく頷ける所です。
 
近年では、こういう引っ込み思案な対人姿勢が日本人の欠点のようにも言われていて、石原氏の「Noと言えない…」辺りから長年批判されて来てもいますが、まぁ無くならないですよね。
 
こういう大きな流れって自然現象みたいなもので、本人にそんな意識なくても、人が環境や気質に合わせて自然と変化して来たものです。
 
そもそもタテマエというもの自体、世の中でツマラナイもののように言われていますが、実際には人が人と人間的に接する以上、人格に内側と外側は必ず必要で、日本人に限らずヤノマミ族だって社会はそれで成り立ってるはずです。
 
初対面の人に「あ、どうも はじめまして うわぁこいつホクロから毛ぇ伸びてるぅ」というのを全部口に出して言ってしまう人は、どこの国でも通常の社会生活は営めないんですね。
 
そうなると、じゃあどこまで?というややこしい話にもなってきます。
 
なのでここでは、こういう態度の良し悪しとか日本人が変わるべきかとか、簡単な話じゃない話は置いときます。 
 
 
ただ、僕個人的に、こんな習慣が今時の日本社会が抱えるストレスの大きな要因の一つになっていることを自覚しておいた方がいいと思うんです。
 
だってこれ、どう考えても溜まるものがありそうですよね。
 
子供の頃から裏表を意識して使い分けてきた我々は、もう自分の気持ちなんて閉じ込めっぱなしですが、その閉じ込めた気持ちってどこに行っちゃうんでしょう?
 
よく子供が責められて泣くときに、泣きながらその気持ちの詳細を全部言葉にして訴えたりします(多い?子供の話)。
 
「○○ちゃんが何かやろうと思ったのに…それと違うことしなさいって言われると…すっごい嫌な気持ちになって…涙が出てきちゃうんだもん!」とか「他の子におもちゃ貸したくなくて…全部自分だけで遊びたいから…貸してって言われると…すっごい苦しくなって…どうしていいか分かんなくなるの!」とか、しゃくりあげながら、ものすごい正直な気持ちを出してくるので、ビックリして、こちらまで泣きそうになります。
 
こんな小さな内から社会と自分の気持ちとの葛藤に追い詰められている姿を見ると、我々って、実はものすごい沢山の気持ちを押さえつけ、我慢しながら生きてるんだなぁと感じます。
 
そんなこと日常的に続けていれば、不満や本当の気持ちなんて、もう意識に上がってくることも無くなりますよね。
 
意識される前に消えてしまうんでしょうか?
 
でも、消えて無くなるわけはないと思うんです、感情って。
 
この押し込められた感情って、日本人特有のストレスや気持ちの見えにくさにつながってると思いません?
 
放っておくのはよくない気がするんです。何だか無性に
 
無意識の我慢は内側に何かしらを溜めてしまうものですが、他者に対する恐怖感も結局これで作り出してるような気がしてなりません。
 
人が怖くて距離を取るために自分の気持ちを抑え、それが見えなくなって余計に怖くなる、という悪循環みたいなものをこの社会から感じることも少なくないです。
 
例えば「世の人々も同じ条件で損してるなら平気だけど自分だけが損してるとなると許せない」というような社会的な心理って、自分が本当に何をしたいのかが見えてないことにつながってるように感じますが、現代の日本人ってコレ強い気がします。
 
自分が本当に欲することや嫌なことが良く分かっていないと、とにかく何でも侵害されることや損すること全てに漠然と怯えてしまって、ちょっと何かされるだけでもイライラ怒りっぽくなっちゃう、という人の性ってのもあると思います。
 
見えないものって不安をあおいで、恐怖にも転じさせるものです。
 
 
争いを避けるための知恵という見方をすれば、僕は日本人が日本人っぽくこういう距離とった接し方を続けていくことがそう悪いことでもない気がするんです。
 
が、それをするには、同時に感情を押し出す形のガス抜きを自分でしていく過程が不可欠だと思うんですね。
 
閉じ込めて無視してきた「自分の気持ち」を見直してあげることって、とても大事なことなんじゃないかと思います。
 
自分はずっと我慢してきたけど、本当はどうしたかったのか、ということを見てあげて、これとつながると、心ってとても安定するはずです。
 
逆に気持ちを抑え込むことがクセになっている我々はいちいちこういうことをしないと、心の奥に自動的に報われない思いが積み重なってていくような心理構造になっているように思えます。
 
実際「自分は本当はこれもこれもイヤだけどずっと我慢してるんだ」という所がはっきり見えてる大人って少ないと思います。
 
例えば、誰かにちょっと嫌なこと言われたりした時、普通まともな人は「ムカつくけどまぁあんなしょーもない奴の言うことだし…」とフタをしておさめようとしますよね。
 
でももしその時「最悪な奴!土下座してるあいつの後頭部思いっきり踏んづけたい!どっかのベランダから落ちてきた植木鉢に当たって死ねばいい!そしたらすごく気分が晴れる!あたしすっごいかわいそう!もっと同情されたい!」という極めて反道徳的で動物的な怒りが心の奥底で起きていたら、どうでしょう。
 
こんなヒステリーキャラみたいな殺伐とした思いって、自分でも自覚したくないし、多分意識にも上げず封印しそうですよね。
 
でも僕、こういう感情って生きるために必要な基本的な欲求として、必ず人に備わっているものだと思うんです。
 
誰かと言い争った後「もしかしたらこちらにも非があるかも」と思った時に「でも、向こうだって悪い所あるし…」というのは、自分をフォローしているようで、実は根幹にある思いを閉じ込めています。
 
「イヤなこと言われるのやだ!ホントはこっちはワガママいっぱい言って、あっちが全部受け入れてくれるのがいい!俺が王様なのがいい!」というみっともない気持ちの方がさっきのフォローよりずっと奥側にあると思います。
 
場所が深すぎて認識出来ないだけだと思うんです。
 
「あいつ何で人のことを考えないで自分勝手なことばかり言ってるんだ!」みたいなタイプの憤りって、思えば思うほど不満が溜まりますよね。
 
その手の怒りって、社会的なモラルにつなげて相手の非を責める要素が入れられていると思うんです。
 
もし自分の奥底にあるのが「本当はこっちが自分勝手に振る舞いたいのに、自分じゃなくてアイツがやってるのがムカつく〜!」という思いだったりすると、そこにズレが生じて、上のような怒り方が釈然としないのかも知れませんね。
 
先程のエレベーターの話の彼は、少なくともこの部分がはっきり認識されているように感じます(他の部分に心理的なトラブルありそうですが)。
 
「あいつ港の倉庫に追い詰めて背中からマシンガン射撃浴びせたい」とか「もっとみんなにチヤホヤされてすごい人です尊敬してますって言われたいー」とか「周りの全員に、かわいそうに、いい子いい子ってされたい」とか、人前で言えないような感情には心の中でもストッパーかかるので、もっと体裁の良い形(腹立つ相手が悪者になる形とか)にすり替えられて意識に上がってくるのかな、とも思います。
 
よく心理学で「超自我」とかいうワードを聞きますよね。
 
ものすご〜く雑に言うと心の中で「良心」を司る部位みたいに想定されているものですが、
大人にはコレが発達していて、自分の中の本能的でワガママな意識を許しません。
 
また、人の心理はバランス取るためにもっと複雑な作用をしたりもします。
 
自分が嫌な目に会うと「自分にも非があるから仕方ないんだ」とか「本当は自分も少しそれを望んでたんだ」とか考えて辛さを緩和しようとしたりもしますね。
 
とにかく本当の気持ちって閉じ込められやすいものなんですが、こういう心理作用はしかし応急処置的なもので、放っておくとやっぱり閉じ込められたそれがストレスの元となります。
 
こんな人間の心理構造があって、さらに社会性を気にする日本人はこれに輪をかける形で自分の感情に疎くなってしまうんじゃないでしょうか。
 
 
別にこれをオススメするワケではないんですが、自分の気持ちを意図的にこうした非道徳的な意識に持っていって奥底の思いを探るようなことを僕、以前よくやってました。
 
最初はなかなか難しいんです。
 
何せ押さえ込まれてますから、自問自答したくらいでそんな思いは上がってこない。
 
だから自分で迎えに行きます。
 
嫌なことがあったとき、なるべく非道でワガママでみっともなくて自分本位な思いを描いてみて「もっと○○したい〜!」とか「みんなが○○してくれればいい〜!」とか、ムリにでも本気で思ってみたりします。
 
さっきのマシンガン…とかチヤホヤされたいみたいな歯止めをかけない類の思いですね。
 
全然しっくり来ない時もありますが、それで少しでも気分が軽くなった時なんかはちょっとつながれたかなと思って、「でもそうもいかないから俺様はそこを我慢してやっているのだ」と強く意識して手放してやる、といった具合です。
 
ここで体裁整えることをしてはダメなんです。
 
いつものクセで、最後に「これからはもうそんなこと忘れて頑張るぞ」なんてのも、ここでは間違っても思っちゃダメで、それは気持ちではなく理性的な意思なんですね。
 
「なーんも頑張りたくない〜!それでほめられたい!」とか「自分はこういうの嫌いなの〜」という気持ちの方がもっと奥側なんです。
 
よく漫画で心の中に天使ちゃんと悪魔ちゃんが出てくると、大抵自我が天使ちゃんに共鳴し悪魔ちゃんがくた〜ってなってハッピーエンドになりますが、ホントはあの悪魔ちゃんだって自分自身ですからね。
 
思い切り意識して共感してあげてもバチ当たらないと思うんですよね。
自分がひどいこと思ってること認めたからって本当に非道い人間になるわけじゃないし。
 
ただそう願ってることを、先ずそのままの形で認めてあげることが出来ると、心って意外と安定すると思うんです。
 
実際僕も何度かそんな感覚を体感しました。
 
例えばどんなこと思い浮かべたかというと…とか言えるわけないような話です
 
もちろん変わらず嫌な思いはするしストレスだって溜まるのですが、それが無視されずに、ちゃんと「こういう風に嫌な出来事」として意識されると、漠然とした不安感として残りりにくい。
 
すると結構変化があるんです、色んな所で(体験談)。
 
奥底の気持ちを味方につけると、何といっても他人の感情が気にならない(上手くいけばね)。
 
「自分はこんな風に思っているんだ」「それに対してこの人はそう思うんだ」という事実が、それ以上のこととして意識されないんです。
 
人は周りを見れば見る程不安になって、心の安定を他者からの承認に求めてしまったりもしますが、これは自分の外側にあるものなので、これで安定するのってちょっと危うい…というか、本当の意味でこれで安定するワケがない。
 
 
繰り返しますが、別にこの「やり方」をおすすめしてるんじゃないですよ。
テキトーな方法だし、皆さんにハマるか分からないし。
 
ただ何でもいいから、自分の奥底を意識してつながろうとすること、実は自分にすごく子供じみた本音があることを認めてやることが大事だと思うんです。
 
実際さっきの方法だって、やるのは結局最初の内だけでよかったんです。
 
今まで見て来なかった心の奥に目を向け始めるきっかけにしていただけで、それが習慣化して慣れてくると、わざわざ気持ちを思い返さなくとも、普段から頭の考えが奥底の欲求をうっすら意識(推測?)出来るようになったりします。
 
自然な状態で自分の心の深層が何を思っているのかを感じるクセが出来ると「なぜ自分はいつもこう考えてしまうのか」「なぜあの時あの人にあんな風に言ってしまったのか」とか色々どんどんつながってきて、何というか自分という人間の全容が見えてくる(つまり頭と心がつながれる)んですね。
 
現代人、都会人、日本人って、ここが弱い気がしません?
 
よく、人に自分の気持ちを説明している途中で「あれ、オレってこんな風に考えてたんだ」と気付いて驚くことありますよね。
 
あれを一人でやる感じです。
 
これで完全につながれると、多分人は相当強くなれます。
 

多分ね(未体験)。
 
 
子供の頃の僕が人に創作能力を認めてもらえなかったのって、きっとこの部分が弱くて自信がなかったからなんです。
 
作り途中の作品を「これをこうやってこうするんだ」と説明されて鼻で笑われた時に、「ンー!!」って壁殴りつけてから「ばか!お前ちゃんと想像出来てるか?!もっとすごいんだからしっかり思い描け!こうなるんだぞ!」と言えてればよかったんですね。
 
そこでムカつかれても、その後に出来上がりで驚かせられたら、次に同じことがあった時は「こいつの言うことだからもしかしたら…」と一目置かせることも出来たかも知れない。
 
今だってそうです。
 
そんな意識でいられたら、どれだけの人が見ていようと、それを全く気にせずに、非常識でとんでもない発想がガンガン出るはずなんです。
 
ということで、皆様と自分自身に本当にオススメしたい部分はこの「自分との対話」です。
 
自分を奥の方まで見て感じること。
誰かの追っかけになるみたいに、自分の心理に興味をもって追求してください。
 
で、そのために絶対必要なのが「一人の時間」というものを持つことです。
時々じゃなく、日常的に。
 
これを多く持って、日頃から自分との対話を頻繁にしておくと、普通にそんな結果につながってきます。
 
これ絶対そう。

 


ここからテレビCM風に 
「え?でもそんなことをゆっくり出来る場所って、都会にはないよぉ」
 
「そんなあなたに アール座読書館」
 
はいキマッた!
 
ね!来て来て!
 
でも、実を言うと、家でやっても出来ちゃいますね(汗)。
 
なんて話でした。
やっとおしまい。

何文字いったかな?
 

 
最期まで読んで下さった人、本当にありがとうございます。
 
ぶっちゃけ、僕こんな話が通じて聞いてもらえるような友達、ほとんどいません!
 
ありがたいことですね。
 
そんな皆様に次はお店でお会い出来たら嬉しいです。
 
ではでは今日はこの辺で!

 

 

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