物語の効用と童話の楽しみ方(後編)
2015.02.28 Saturday 01:34
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さて、物語の話後篇です。
二部構成にしてまでお話ししたかった内容は、前回も少し触れました、本とは違うもう一つの物語の楽しみ方〜朗読〜についてなんです。
もう一つと言っても本来はこっちが先なんですよね、物語の伝え方として。
お話というのはその名の通り元々は話して聞かせるためのものでした。
書き文字ではなく人の肉声で物を語ってストーリーを伝えたのが、本来の「物語り」なんですね。
昔のお話というものはいつも口伝えで伝わっていったものです。
この方法の力を借りつつ、本をあまり読まない方も含めて皆さんを空想の世界に引きずり込んでしまおう、というのがこの所考えていたモクロミです。ふふふ。
以前からアール座では、時々朗読者の方に朗読会イベント(この6月にも毎年恒例の春日玲さんの朗読会あります)を開催して頂いておりまして、その度に朗読と言うものの力にぶちのめされていたのですが、今回何人かの朗読者の方々にご協力頂き、触れてみて、改めてその可能性の高さにワクワクしております。
その表現方法の力を、まずは分りやすい所からお話しましょう。
前回もお話ししましたが、人の世はお話に溢れていますね。
本以外にも映画や舞台…ってもういいか(前篇参照)。
これら、お話の形態は大体文字メディアと映像メディアのどちらか(もしくはその複合)に分類されますが、どちらにも特有のメリットがありまして、例えば書物というものの良さは、想像が広がる、イメージを自由に描ける等の点が昔から良くあげられますよね。
「だから本の方が良い」と小学校の時から聞かされてきましたが、僕が思うにそのメリットの真意は自分の感覚にフィットした世界観を描ける、ということだと感じます。
例えばロケーションとして「路地裏」とか出て来ても、その印象に関して自分がずっと抱いてきた視覚的なイメージが作り手の提示するものとギャップを持ってしまう事がありません。
自分だけのイメージで視覚を構築出来ます。
一方、読み慣れてないと中々世界に入り込めないし、慣れていてもある程度の疲労(頭や目等)は伴うので、平たく言うと「とっつきにくい」という点は書物のデメリットかとも思います。
逆に言うと、映像メディアの大きな利点は何と言ってもその点〜入り込みやすさ〜でしょう。
論理的思考を介さず、視覚、聴覚といった感覚器からダイレクトに入るので、こちらから積極的に迎えに行かなくても、何にせよ入ってくる力が強いです。
良し悪しは別として、TVのように流しっ放しにして気楽に楽しむ、ということは、読書にはなかなか出来ません。
そして欠点の方も逆に、視界が固定され、従って世界観も大幅に限定されてしまう(作り方にもよりますが)という部分ですよね。
「どこが路地裏だよ」と自分のイメージと違う画像に限定されてしまう事もいた仕方ないのです。
よく原作の有名な映画が難しいと言われる所以ですよね。
さてそこで「朗読」ですが、賢明な皆様はもうお分かりでしょう。
そうです。両方の良い所をしっかり備えちゃってるんですね。
感覚からダイレクトにスッと入ってきて、こちらのイメージをもって世界を構築してしまいます。
非常に取っつきやすいので、脱力して入ってくるものに身を任せたまま、想像も膨らませられてしまうんです。
恐ろしい表現ですよね。
こんな所から、より多くの方を巻き込んでいく可能性を僕は強く感じております。
でもまぁこれは朗読の分かりやすいメリットの一つで、その醍醐味の真ん中ではありません。
僕は朗読に、何よりもその方法としての芸術性に大きなポテンシャルを感じています。
インプットが言語なので、イメージはこちらで自由に思い描けるかというと、そこはちょっと本とは違うんです。
声色やスピードなどの技術によって、アーティスト(朗読者)の解釈と表現が入って来るんですね。
だから一人で読むのと違って、ここが非常に面白いんです!
お話が変わるんですね、読む人によって。
例えば絵画ってそういうことですよね。
ただの町の星空を、頭のおかしくなったフィンセントおじさんが絵で描くと、彼が頭の中で見た星空を我々も見ることが出来ます。
が、それを受け取る段階で我々の元々持ってるイメージもそこに重なって(合わさって)さらなるイメージの広がりを呼ぶんですよね。
こういう表現者と観覧者の重なり合いって、言語芸術だと詩が近いですかね。
バロウズのカットアップ(アール座に「裸のランチ」あります)とかも幅が広がりますが、これは偶然性の介入ですね。
でも物語りにこういう表現者の感覚的な芸術性が介入する方法で、朗読ほどの手段を僕は思いつきません。
文字のなかった太古の人は、当たり前にこの表現をやっていたんですね。
子供に絵本を読み聞かせるのも、何だか責任感じちゃいます。
では、その朗読を店でどうしようというのかと言うとですね…流れます。
スピーカーから、BGMみたいに。
いつでも店内に普通に流れています。
おもしろいでしょ、そんなカフェ。
朗読の「入ってくる」という威力を最大限に使った、気構えなしに楽しめるシステムで、よくあるカフェの朗読ライブとはまた違った楽しみ方ですね。
で、先ずは先日おすすめした童話作品(著作権切れ)から攻めていこうと思っております。
うまく進めば春先から実施予定で、今の所は夜間だけの予定ですが、お仕事帰りなんかに気軽にいらして、喫茶しつつ物語もいくつか味わって、お好きなお話を心にしまってお持ち帰り下さい。
…という計画をただ今準備中でございます!
これにあたり、身辺の朗読者の方々の多大なるご協力を頂いておりますが、皆さん才能ある方ばかりでこれっきりでは勿体無いので、もっと違う方向でも何か出来ないかと色々な可能性を考えてしまいます。
実を言いますと、僕も挑戦しました。
朗読に。
少し読んでみて「うん、なかなか良い声出てるな」と思ったんです。
そして、本気で読んで録音もしてみたんです。
よく誰かと自分の録音した声聞いて「えー!おれこんな変な声なのー!」「お前そんな声だよ」という会話ありますよね。
で、録音聞いて、やめました(ちゃんちゃん)。
へたくそな奴がすごいカッコつけて読んでるイケ好かない朗読でした(T-T)
凄いんだな…朗読出来る人って。
でも実は今少しずつ練習してます。
というわけで、春先をメドに、エセルは物語のお店になります。
もちろん今まで通り、お話も普通に出来ますよ。
意外と双方邪魔にならずに出来ます。
専用スピーカーのある席もあります。
大騒ぎのみご遠慮ください(しないか)。
まだもう少しかかりそうなので、やはり多分春先ですかね。
完成しましたら又お知らせしますね。
がんばった!二部構成!
さて、仕事仕事。
星月夜/フィンセント・ファン・ゴッホ
さて、物語の話後篇です。
二部構成にしてまでお話ししたかった内容は、前回も少し触れました、本とは違うもう一つの物語の楽しみ方〜朗読〜についてなんです。
もう一つと言っても本来はこっちが先なんですよね、物語の伝え方として。
お話というのはその名の通り元々は話して聞かせるためのものでした。
書き文字ではなく人の肉声で物を語ってストーリーを伝えたのが、本来の「物語り」なんですね。
昔のお話というものはいつも口伝えで伝わっていったものです。
この方法の力を借りつつ、本をあまり読まない方も含めて皆さんを空想の世界に引きずり込んでしまおう、というのがこの所考えていたモクロミです。ふふふ。
以前からアール座では、時々朗読者の方に朗読会イベント(この6月にも毎年恒例の春日玲さんの朗読会あります)を開催して頂いておりまして、その度に朗読と言うものの力にぶちのめされていたのですが、今回何人かの朗読者の方々にご協力頂き、触れてみて、改めてその可能性の高さにワクワクしております。
その表現方法の力を、まずは分りやすい所からお話しましょう。
前回もお話ししましたが、人の世はお話に溢れていますね。
本以外にも映画や舞台…ってもういいか(前篇参照)。
これら、お話の形態は大体文字メディアと映像メディアのどちらか(もしくはその複合)に分類されますが、どちらにも特有のメリットがありまして、例えば書物というものの良さは、想像が広がる、イメージを自由に描ける等の点が昔から良くあげられますよね。
「だから本の方が良い」と小学校の時から聞かされてきましたが、僕が思うにそのメリットの真意は自分の感覚にフィットした世界観を描ける、ということだと感じます。
例えばロケーションとして「路地裏」とか出て来ても、その印象に関して自分がずっと抱いてきた視覚的なイメージが作り手の提示するものとギャップを持ってしまう事がありません。
自分だけのイメージで視覚を構築出来ます。
一方、読み慣れてないと中々世界に入り込めないし、慣れていてもある程度の疲労(頭や目等)は伴うので、平たく言うと「とっつきにくい」という点は書物のデメリットかとも思います。
逆に言うと、映像メディアの大きな利点は何と言ってもその点〜入り込みやすさ〜でしょう。
論理的思考を介さず、視覚、聴覚といった感覚器からダイレクトに入るので、こちらから積極的に迎えに行かなくても、何にせよ入ってくる力が強いです。
良し悪しは別として、TVのように流しっ放しにして気楽に楽しむ、ということは、読書にはなかなか出来ません。
そして欠点の方も逆に、視界が固定され、従って世界観も大幅に限定されてしまう(作り方にもよりますが)という部分ですよね。
「どこが路地裏だよ」と自分のイメージと違う画像に限定されてしまう事もいた仕方ないのです。
よく原作の有名な映画が難しいと言われる所以ですよね。
さてそこで「朗読」ですが、賢明な皆様はもうお分かりでしょう。
そうです。両方の良い所をしっかり備えちゃってるんですね。
感覚からダイレクトにスッと入ってきて、こちらのイメージをもって世界を構築してしまいます。
非常に取っつきやすいので、脱力して入ってくるものに身を任せたまま、想像も膨らませられてしまうんです。
恐ろしい表現ですよね。
こんな所から、より多くの方を巻き込んでいく可能性を僕は強く感じております。
でもまぁこれは朗読の分かりやすいメリットの一つで、その醍醐味の真ん中ではありません。
僕は朗読に、何よりもその方法としての芸術性に大きなポテンシャルを感じています。
インプットが言語なので、イメージはこちらで自由に思い描けるかというと、そこはちょっと本とは違うんです。
声色やスピードなどの技術によって、アーティスト(朗読者)の解釈と表現が入って来るんですね。
だから一人で読むのと違って、ここが非常に面白いんです!
お話が変わるんですね、読む人によって。
例えば絵画ってそういうことですよね。
ただの町の星空を、頭のおかしくなったフィンセントおじさんが絵で描くと、彼が頭の中で見た星空を我々も見ることが出来ます。
が、それを受け取る段階で我々の元々持ってるイメージもそこに重なって(合わさって)さらなるイメージの広がりを呼ぶんですよね。
こういう表現者と観覧者の重なり合いって、言語芸術だと詩が近いですかね。
バロウズのカットアップ(アール座に「裸のランチ」あります)とかも幅が広がりますが、これは偶然性の介入ですね。
でも物語りにこういう表現者の感覚的な芸術性が介入する方法で、朗読ほどの手段を僕は思いつきません。
文字のなかった太古の人は、当たり前にこの表現をやっていたんですね。
子供に絵本を読み聞かせるのも、何だか責任感じちゃいます。
では、その朗読を店でどうしようというのかと言うとですね…流れます。
スピーカーから、BGMみたいに。
いつでも店内に普通に流れています。
おもしろいでしょ、そんなカフェ。
朗読の「入ってくる」という威力を最大限に使った、気構えなしに楽しめるシステムで、よくあるカフェの朗読ライブとはまた違った楽しみ方ですね。
で、先ずは先日おすすめした童話作品(著作権切れ)から攻めていこうと思っております。
うまく進めば春先から実施予定で、今の所は夜間だけの予定ですが、お仕事帰りなんかに気軽にいらして、喫茶しつつ物語もいくつか味わって、お好きなお話を心にしまってお持ち帰り下さい。
…という計画をただ今準備中でございます!
これにあたり、身辺の朗読者の方々の多大なるご協力を頂いておりますが、皆さん才能ある方ばかりでこれっきりでは勿体無いので、もっと違う方向でも何か出来ないかと色々な可能性を考えてしまいます。
実を言いますと、僕も挑戦しました。
朗読に。
少し読んでみて「うん、なかなか良い声出てるな」と思ったんです。
そして、本気で読んで録音もしてみたんです。
よく誰かと自分の録音した声聞いて「えー!おれこんな変な声なのー!」「お前そんな声だよ」という会話ありますよね。
で、録音聞いて、やめました(ちゃんちゃん)。
へたくそな奴がすごいカッコつけて読んでるイケ好かない朗読でした(T-T)
凄いんだな…朗読出来る人って。
でも実は今少しずつ練習してます。
というわけで、春先をメドに、エセルは物語のお店になります。
もちろん今まで通り、お話も普通に出来ますよ。
意外と双方邪魔にならずに出来ます。
専用スピーカーのある席もあります。
大騒ぎのみご遠慮ください(しないか)。
まだもう少しかかりそうなので、やはり多分春先ですかね。
完成しましたら又お知らせしますね。
がんばった!二部構成!
さて、仕事仕事。
星月夜/フィンセント・ファン・ゴッホ
category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -