アール座の植物
2012.03.26 Monday 01:34
さすがにもう「やっと暖かくなって来ました」と言ってもいいでしょう。
春です。やっとです。
すぐにまた暑くなっちゃうので、この貴重な過ごしやすい季節を大事にしたいですね。
今年もシルクジャスミンが小さなレモンのような実をつけ始めました。
こんな季節に実がなるのは室内栽培で季節感がバカになってるんだろうと思って、以前ブログでそんなことを書きましたが、調べてみたらなんとこの子は3月に実をつける樹なんだそうです。
ジャスミンさん何も知らずにバカとか言ってごめんなさい。
熱帯の植物だからこちらと違うのでしょうか、毎年冬頃に白い花を咲かせ、部屋一杯にとても品のいいジャスミンのような香りを漂わせてくれます(あのジャスミンとは全く別種です)。
で、その時期にウマく受粉出来ると3月頃に小さな青い実をつけてくれて、それが次第に真っ赤に色づいてゆき、5月くらいまで楽しめます。
一応自家受粉もするらしいのですが、室内のそれではほとんど実らないので、落ちたばかりの花を拾ってはその花粉を別の樹の花のめしべに無理やりぐりぐりと押し付けたり(人工授粉ですね)していますと、次の春には沢山の実を実らせてくれます。
アール座の植物達は、この空間を癒してくれている最も重要な立役者といっても過言どころじゃありません。
暗い北側窓の密閉空間の中で、よくまぁ育ってくれているものだといとおしくもなります。
なので今回は植物の話でもしてみましょう。
所で、植物って気にしているとどんどん元気に育ってくれますよね。
この辺が栽培のコツと言っても良いんじゃないでしょうか。
何かしら育てられたことのある方ならお分かりかと思いますが、毎日気にして可愛がっているのと機械的に世話だけしてるのとでは明らかに違うんです。
最低限の環境条件下であれば、思い入れのある植物は簡単には死にません。
不思議です。
僕なんかそれを逆手に取って、多少世話を怠った時なんかにも「立派に育ってるなぁ」などと声をかけてゴマ化したりします。
一時、世話が要らないという説明でチランジア(エアープランツ)が雑貨屋に並んだりしてましたが、あれも本当に放っておいたら普通に枯れてしまいますね。
ウサギみたいですが、正しい水やりと愛情を込めて育てるとすごい立派になったりもするんです。
アール座の植物はその点で強みがあって、毎日沢山のお客様に見て頂いて「わぁー緑がいっぱい」とか「大きくなったなぁ」とか気にして感じて頂けることが、彼らの成長の促進剤になっている気がしてしょうがないです。
さすがにこの部屋の窓の光だけでは光量が足りないので、毎晩閉店後に植物達を一カ所に集め、タイマーで早朝前から開店までの間、大光量の強力な照明(室内菜園などに用いられているヤツ)を四方から当てるのですが、それにしたってこの暗い室内でここまで茂ってくれるのは偉いですよね。
中央通路に左右からアーチを作っている大きな2本がベンジャミン(ベンジャミナ)です。
観葉植物として最もポピュラーな品種で、販売しているものはよく幹を編み込まれたりしちゃってますが、普通に育つと当然ですがこんなにカッコいい樹木になります。丈夫で育てやすいです。
大プランターの窓際と中央のソファの後には2本のガジュマルが生えています。
よく沖縄の砂浜にお化けのようなこれの巨木が生えていますが、あんなのにはキジムナーという可愛らしい妖怪が1匹づつ住んでいるそうです。
ジャングルでは他の樹木に巻き付いて締め上げて殺してしまうというなかなかおぞましいヤツです。
そして窓際の座席それぞれに、左からかぶさるように生えているのが柑橘系のシルクジャスミン(ゲッキツ)です。
検索してみると、この樹の赤い実でジャムが出来るというような情報があるのですが、実際食してみると強い苦みと渋みがあります。
砂糖だけでごまかせるのかなぁ。時間かけて灰汁抜きをするんでしょうか。
今年は沢山実ったので試してみて、ウマく行ったらお知らせしますね。
何も言わなかったら「ああ、ダメだったんだな」と思って下さい。
さらにそれぞれのプランターの低層部分には、豆の木、クワズイモ、数種のシダ類やカタバミ等、窓際の小さなプランターにはジャカランダやアイビー他、テラリウム水槽にはシダやモス、ポトス、ワイヤープランツなどなど所構わず植えまくっております。
さらには窓の外の欄干に、ツタ類やアサガオ、フウセンカズラ、ヘビイチゴだのドクダミだの、その他ハーブ類苔類と、もう何でもありで、正直全部覚えてません。
園芸店で購入したものから近所の空き地で引っこ抜いて来た雑草まで様々です。
皆とても賢い人達で、自分で空間を考えてしかるべき方向に枝を伸ばします。
ベンジャミンは始めから幹が2m以上あり、オープン前、店に搬入した時点で天井まであまり距離がなく、見た人が「このままでは天井に当たってしまう」と心配することも多かったのですが、僕は植物ってそんなにバカじゃないから大丈夫だろうと思っていました。
案の定最初に小さな枝が一本だけ、まるで触手の様ににょきにょきと天井に触れるくらいまで伸びて、それで計ったかどうかは知りませんが、それっきり後は横方向にばかり広がる様になりました。
ウチではほとんど剪定をしないにも関わらず、5年経った今でもご覧の通りです。
そればかりか、ちゃんと通路部分を避けて隣のベンジャミンと共にアーチを作っているから驚きです。
行き交う人の空気の流れを読むのでしょうか、座席方向に伸びて来ることも先ずありません。
くどいようですが、生きている枝にはほとんど手を加えていないんです。
そういえば森の樹木も、大型動物が通る獣道をよけて伸びるのだと言います。
それだけではなく、森の植物って生態の違う無数の種類が、信じられない程複雑な住み分けを見事に実現していますよね。
トレッキングに出かけると、僕はこれを見る度に感動してしまいます。
水槽の水草をレイアウトするときはどんなに細かく気を遣って植えても、人の手が入った作り立てはバランスが悪くてすごい不自然なんです。
時間が経ち、自然の流れに従って水草自身がそれぞれのスペースを持って繁茂することでレイアウトされた水景というのは(もちろん種や個体同士の勢力争いというものはあるのですが)、全ての個体があるべき場所にあるという感じでやっぱり素晴らしいんです。
なんだか賢くてスマートな在り方ですよね。
他の生き物の生態を根こそぎさらって敷地を広げ、コンクリートで塞いだ上にワガモノ顔で暮らしている我々の暮らしを彼らの目線で見ると、きっと我がままな子供の様に見えてしまうのでしょうか。
そしてそんな人間にも木々達は優しいです。
風水なんかでよく聞くのは「部屋に観葉植物を置きなさい」というヤツですね。
西側に黄色いものを置くと…とかいうのはシロウトにはよく分かりませんが、植物で気が良くなるのは、僕が聞いても間違いない気がします。
植物の葉や枝に触れるだけでも人は浄化されると聞きます。
ご存知の様にウチの通路には左右から樹の枝がせり出して来ているので、通る際には枝をよけずにわさぁーって触れながら歩いてくれたらいいなと思います。
僕くらいの身長だと、ベンジャミンのアーチをくぐる時にはちょうど枝先がさらさらと頭のてっぺんをなでてくれるので、何だか気分も良くなります。
でも、背の高い人が行くと顔面にわさーっとなっちゃいますね。
まぁそれはそれで楽しいかもです?
生物学的にも動物と植物の間には互いに与え合い浄化し合う強い相互関係があります。
ウチの植物達には水槽で魚達が汚した古い水(アンモニアなんか含んだ酸性の水)をくみ出してやっていますが、この水が古くて魚にとって有害であればある程植物には栄養豊富ということになるんですね。
我々動物にとって汚いイメージの生ゴミや排泄物が彼らにとっての恵みで、我々がありがたがる酸素やイオンやはあの人達の排泄物みたいなもんです。
考えてみれば、このそれぞれが異なるものを求める相互関係の形が生態系の要であり、地球環境を著しく特徴づけているわけです。
森の住み分けだってこうした相互関係の一つですよね。
光を求めて高く伸びる者もあれば暗い湿った所が好きなのもいて、それらが相互に依存しあっているという所がすごいのです。
皆が同じものを良しとしてしまうだけだと、シンプルに競争が起こって負けたものが滅び、その影響でいずれ勝者も滅びて終わり、という感じでしょう。
人はすぐ自然界を弱肉強食の世界と表現しがちですが、これは競争好きの人間が好むドラマティックで偏った見方な気がします。
自然界に強い者が生き残るという側面があるのは間違いないことですが、その他にも、違う所を目指す独自性や厳しい環境になじむ順応性、個体数を増やしてしのぐ繁殖力など生き残りを決める選択肢はいくつもあり、強さで生き残るという方法はその一手段でしかなく、それを全体的に見た時に浮かび上がるのが、今見直されている「多様性」という姿なのでしょう。
自然のシステムや動物の本能には、相手を「食らう」というよりも「利用する」というクレバーな表現の方が似つかわしい気がします。
何となく人の世もそういう方向に行けば良いのになぁと思う今日この頃です。
本当は人はそれぞれに違う所を目指しつつそれぞれのペースで生きてゆけばいいのですが、この社会で暮らしていると、いつしか皆と同じものを欲しがらないといけないような気にさせられ、気づいたら競争させられてるような所ありますよね。
まぁそれすら本能でもあるんですが、それのままに生きようとする人はすぐに人生をレースに例えたりします。
僕、嫌いですねー、これ。
多くの人が同じ時間を並んで生きてゆくということに関して僕が思い浮かべるのは、レース競技よりも日曜日に一般解放されている競技場のトラックみたいな状況です。
大会に向けて練習しているアスリートからダイエット目的の人、ただの気晴らしの人まで、それぞれが思い思いの目的を持ってそれぞれのペースで走っているような環境に、この現世は近いのではないでしょうか。
年収や学歴や知名度みたいに一律の軸で他人と比較して自分はどうだとか考えるのって、日曜日のトラックで、何を目指して何メートル走ろうとしているかも分からない隣のレーンの人に追い抜かれ、自分の目的を忘れて焦るのに似ていますね。
我々は皆一人で産まれて一人で死んでゆくので、最初から競争なんかしていないです。
店の樹の生え方からエラい所まで話を広げてしまいましたが、長くなるので(なってるわ!)このヘンにしておきましょう。
結論は、とにかく人が本当に癒されようと思ったら植物!ということです。
「人は土を離れては生きてゆけないの!」と、ラピュタの少女が半泣きで言ってましたが、確かその人々を支えていたのも植物だったという話でしたね。
コンクリートの上に住まう我々にとっての植物の存在も似たような所があります。
でも幸い我々は皆、まだ豊かな自然を持っていて、いつでもそれを楽しむことが出来ますね。
東京だって外に出れば、もう誰それの家の樹とか関係なく緑を楽しむことが出来ます。
誰でも地球を所有して大自然を持っているんですね。
「じゃあ、アール座に行かなくても良いじゃん」と言われてしまうと、うーん…そうか、そうですね…。
でも…まぁそうですね…まぁ、でも、遊びに来て下さい。
もう、何のブログだ…。
アール座開店直前の植物達
春です。やっとです。
すぐにまた暑くなっちゃうので、この貴重な過ごしやすい季節を大事にしたいですね。
今年もシルクジャスミンが小さなレモンのような実をつけ始めました。
こんな季節に実がなるのは室内栽培で季節感がバカになってるんだろうと思って、以前ブログでそんなことを書きましたが、調べてみたらなんとこの子は3月に実をつける樹なんだそうです。
ジャスミンさん何も知らずにバカとか言ってごめんなさい。
熱帯の植物だからこちらと違うのでしょうか、毎年冬頃に白い花を咲かせ、部屋一杯にとても品のいいジャスミンのような香りを漂わせてくれます(あのジャスミンとは全く別種です)。
で、その時期にウマく受粉出来ると3月頃に小さな青い実をつけてくれて、それが次第に真っ赤に色づいてゆき、5月くらいまで楽しめます。
一応自家受粉もするらしいのですが、室内のそれではほとんど実らないので、落ちたばかりの花を拾ってはその花粉を別の樹の花のめしべに無理やりぐりぐりと押し付けたり(人工授粉ですね)していますと、次の春には沢山の実を実らせてくれます。
アール座の植物達は、この空間を癒してくれている最も重要な立役者といっても過言どころじゃありません。
暗い北側窓の密閉空間の中で、よくまぁ育ってくれているものだといとおしくもなります。
なので今回は植物の話でもしてみましょう。
所で、植物って気にしているとどんどん元気に育ってくれますよね。
この辺が栽培のコツと言っても良いんじゃないでしょうか。
何かしら育てられたことのある方ならお分かりかと思いますが、毎日気にして可愛がっているのと機械的に世話だけしてるのとでは明らかに違うんです。
最低限の環境条件下であれば、思い入れのある植物は簡単には死にません。
不思議です。
僕なんかそれを逆手に取って、多少世話を怠った時なんかにも「立派に育ってるなぁ」などと声をかけてゴマ化したりします。
一時、世話が要らないという説明でチランジア(エアープランツ)が雑貨屋に並んだりしてましたが、あれも本当に放っておいたら普通に枯れてしまいますね。
ウサギみたいですが、正しい水やりと愛情を込めて育てるとすごい立派になったりもするんです。
アール座の植物はその点で強みがあって、毎日沢山のお客様に見て頂いて「わぁー緑がいっぱい」とか「大きくなったなぁ」とか気にして感じて頂けることが、彼らの成長の促進剤になっている気がしてしょうがないです。
さすがにこの部屋の窓の光だけでは光量が足りないので、毎晩閉店後に植物達を一カ所に集め、タイマーで早朝前から開店までの間、大光量の強力な照明(室内菜園などに用いられているヤツ)を四方から当てるのですが、それにしたってこの暗い室内でここまで茂ってくれるのは偉いですよね。
中央通路に左右からアーチを作っている大きな2本がベンジャミン(ベンジャミナ)です。
観葉植物として最もポピュラーな品種で、販売しているものはよく幹を編み込まれたりしちゃってますが、普通に育つと当然ですがこんなにカッコいい樹木になります。丈夫で育てやすいです。
大プランターの窓際と中央のソファの後には2本のガジュマルが生えています。
よく沖縄の砂浜にお化けのようなこれの巨木が生えていますが、あんなのにはキジムナーという可愛らしい妖怪が1匹づつ住んでいるそうです。
ジャングルでは他の樹木に巻き付いて締め上げて殺してしまうというなかなかおぞましいヤツです。
そして窓際の座席それぞれに、左からかぶさるように生えているのが柑橘系のシルクジャスミン(ゲッキツ)です。
検索してみると、この樹の赤い実でジャムが出来るというような情報があるのですが、実際食してみると強い苦みと渋みがあります。
砂糖だけでごまかせるのかなぁ。時間かけて灰汁抜きをするんでしょうか。
今年は沢山実ったので試してみて、ウマく行ったらお知らせしますね。
何も言わなかったら「ああ、ダメだったんだな」と思って下さい。
さらにそれぞれのプランターの低層部分には、豆の木、クワズイモ、数種のシダ類やカタバミ等、窓際の小さなプランターにはジャカランダやアイビー他、テラリウム水槽にはシダやモス、ポトス、ワイヤープランツなどなど所構わず植えまくっております。
さらには窓の外の欄干に、ツタ類やアサガオ、フウセンカズラ、ヘビイチゴだのドクダミだの、その他ハーブ類苔類と、もう何でもありで、正直全部覚えてません。
園芸店で購入したものから近所の空き地で引っこ抜いて来た雑草まで様々です。
皆とても賢い人達で、自分で空間を考えてしかるべき方向に枝を伸ばします。
ベンジャミンは始めから幹が2m以上あり、オープン前、店に搬入した時点で天井まであまり距離がなく、見た人が「このままでは天井に当たってしまう」と心配することも多かったのですが、僕は植物ってそんなにバカじゃないから大丈夫だろうと思っていました。
案の定最初に小さな枝が一本だけ、まるで触手の様ににょきにょきと天井に触れるくらいまで伸びて、それで計ったかどうかは知りませんが、それっきり後は横方向にばかり広がる様になりました。
ウチではほとんど剪定をしないにも関わらず、5年経った今でもご覧の通りです。
そればかりか、ちゃんと通路部分を避けて隣のベンジャミンと共にアーチを作っているから驚きです。
行き交う人の空気の流れを読むのでしょうか、座席方向に伸びて来ることも先ずありません。
くどいようですが、生きている枝にはほとんど手を加えていないんです。
そういえば森の樹木も、大型動物が通る獣道をよけて伸びるのだと言います。
それだけではなく、森の植物って生態の違う無数の種類が、信じられない程複雑な住み分けを見事に実現していますよね。
トレッキングに出かけると、僕はこれを見る度に感動してしまいます。
水槽の水草をレイアウトするときはどんなに細かく気を遣って植えても、人の手が入った作り立てはバランスが悪くてすごい不自然なんです。
時間が経ち、自然の流れに従って水草自身がそれぞれのスペースを持って繁茂することでレイアウトされた水景というのは(もちろん種や個体同士の勢力争いというものはあるのですが)、全ての個体があるべき場所にあるという感じでやっぱり素晴らしいんです。
なんだか賢くてスマートな在り方ですよね。
他の生き物の生態を根こそぎさらって敷地を広げ、コンクリートで塞いだ上にワガモノ顔で暮らしている我々の暮らしを彼らの目線で見ると、きっと我がままな子供の様に見えてしまうのでしょうか。
そしてそんな人間にも木々達は優しいです。
風水なんかでよく聞くのは「部屋に観葉植物を置きなさい」というヤツですね。
西側に黄色いものを置くと…とかいうのはシロウトにはよく分かりませんが、植物で気が良くなるのは、僕が聞いても間違いない気がします。
植物の葉や枝に触れるだけでも人は浄化されると聞きます。
ご存知の様にウチの通路には左右から樹の枝がせり出して来ているので、通る際には枝をよけずにわさぁーって触れながら歩いてくれたらいいなと思います。
僕くらいの身長だと、ベンジャミンのアーチをくぐる時にはちょうど枝先がさらさらと頭のてっぺんをなでてくれるので、何だか気分も良くなります。
でも、背の高い人が行くと顔面にわさーっとなっちゃいますね。
まぁそれはそれで楽しいかもです?
生物学的にも動物と植物の間には互いに与え合い浄化し合う強い相互関係があります。
ウチの植物達には水槽で魚達が汚した古い水(アンモニアなんか含んだ酸性の水)をくみ出してやっていますが、この水が古くて魚にとって有害であればある程植物には栄養豊富ということになるんですね。
我々動物にとって汚いイメージの生ゴミや排泄物が彼らにとっての恵みで、我々がありがたがる酸素やイオンやはあの人達の排泄物みたいなもんです。
考えてみれば、このそれぞれが異なるものを求める相互関係の形が生態系の要であり、地球環境を著しく特徴づけているわけです。
森の住み分けだってこうした相互関係の一つですよね。
光を求めて高く伸びる者もあれば暗い湿った所が好きなのもいて、それらが相互に依存しあっているという所がすごいのです。
皆が同じものを良しとしてしまうだけだと、シンプルに競争が起こって負けたものが滅び、その影響でいずれ勝者も滅びて終わり、という感じでしょう。
人はすぐ自然界を弱肉強食の世界と表現しがちですが、これは競争好きの人間が好むドラマティックで偏った見方な気がします。
自然界に強い者が生き残るという側面があるのは間違いないことですが、その他にも、違う所を目指す独自性や厳しい環境になじむ順応性、個体数を増やしてしのぐ繁殖力など生き残りを決める選択肢はいくつもあり、強さで生き残るという方法はその一手段でしかなく、それを全体的に見た時に浮かび上がるのが、今見直されている「多様性」という姿なのでしょう。
自然のシステムや動物の本能には、相手を「食らう」というよりも「利用する」というクレバーな表現の方が似つかわしい気がします。
何となく人の世もそういう方向に行けば良いのになぁと思う今日この頃です。
本当は人はそれぞれに違う所を目指しつつそれぞれのペースで生きてゆけばいいのですが、この社会で暮らしていると、いつしか皆と同じものを欲しがらないといけないような気にさせられ、気づいたら競争させられてるような所ありますよね。
まぁそれすら本能でもあるんですが、それのままに生きようとする人はすぐに人生をレースに例えたりします。
僕、嫌いですねー、これ。
多くの人が同じ時間を並んで生きてゆくということに関して僕が思い浮かべるのは、レース競技よりも日曜日に一般解放されている競技場のトラックみたいな状況です。
大会に向けて練習しているアスリートからダイエット目的の人、ただの気晴らしの人まで、それぞれが思い思いの目的を持ってそれぞれのペースで走っているような環境に、この現世は近いのではないでしょうか。
年収や学歴や知名度みたいに一律の軸で他人と比較して自分はどうだとか考えるのって、日曜日のトラックで、何を目指して何メートル走ろうとしているかも分からない隣のレーンの人に追い抜かれ、自分の目的を忘れて焦るのに似ていますね。
我々は皆一人で産まれて一人で死んでゆくので、最初から競争なんかしていないです。
店の樹の生え方からエラい所まで話を広げてしまいましたが、長くなるので(なってるわ!)このヘンにしておきましょう。
結論は、とにかく人が本当に癒されようと思ったら植物!ということです。
「人は土を離れては生きてゆけないの!」と、ラピュタの少女が半泣きで言ってましたが、確かその人々を支えていたのも植物だったという話でしたね。
コンクリートの上に住まう我々にとっての植物の存在も似たような所があります。
でも幸い我々は皆、まだ豊かな自然を持っていて、いつでもそれを楽しむことが出来ますね。
東京だって外に出れば、もう誰それの家の樹とか関係なく緑を楽しむことが出来ます。
誰でも地球を所有して大自然を持っているんですね。
「じゃあ、アール座に行かなくても良いじゃん」と言われてしまうと、うーん…そうか、そうですね…。
でも…まぁそうですね…まぁ、でも、遊びに来て下さい。
もう、何のブログだ…。
アール座開店直前の植物達