幻想芸術と死生観
2011.05.09 Monday 01:42
最近やっと水槽環境が復活しました。
地震の時の事故でしばらく寂しくなってしまった水槽内でしたが、お会計の時に「お魚さん達は?」と心配そうに聞いて下さる方が思いのほか多くいらして、沢山の方にかわいがってもらっていたんだなぁと知りました。
水草を植え直してから、魚がいない間に若干CO2と肥料を強めた所、ぐんぐんと緑は濃くなり、少し赤系の水草を足して、今や以前の環境を凌駕する勢いです。
そこで魚の方も、先日思い切って新しい子達を大量に入れました。
皆まだチビ達ですが、元気よく泳いでいてとてもかわいいです。
思えば、この前までいた子達だって、4年前に入荷したときはこんなサイズでした。
ここで時間をかけて育ってくれたんですね。
新しい子達も、負けずに大きく育ってくれたらと思います。
最近また、室内のシルクジャスミンが花を香らせているのですが、先日開店前に窓を全開にして換気をしていたら、花の香につられてか、突然立派なアゲハ蝶がはたはたと室内に迷い込んできて室内を舞ったので、しばらく夢のような気持ちでボーッと眺めていました。
次第に慌てふためいてきたので、疲れないウチに窓口に追いやって逃がしましたが、いやぁ、ずっと見ていたかった。
僕が言うのもなんですが、かなり映えますよ。アール座にアゲハ。
このまま店内で離し飼いに出来たらどんなに良いかと思いました。
たかだか虫一匹飛ぶだけで、空間の雰囲気が随分と幻想的になるものなんですね。
実はこの所、期せずしてアール座に幻想的な匂いのアイテムが集まってきている気がするので、今回はそんな雰囲気のお話をしつつ、おすすめとして幻想的な気分に浸れる書籍(黄色の文字で表記)を選んでゆこうと思います。
蝶と言えばウチには蝶の標本がいくつか飾ってありますね。
蝶のデザインというのは本当に幻惑的で、特に見慣れぬ外国産種の美しい柄は、どう見てもこの世のものとは思えませんよね(おすすめ書籍→BUTTERFLIES AND MOTHS他)。
近頃ふいにまた作りたくなって、おすすめコーナー上の壁面に二つフレームを増やしましたので、お好きな方はご覧頂けると嬉しいです。
そもそもが異空間を意識して作られたアール座ですが、その守り神をしてくれている鷹(サシバ)の剥製は、実はこの店が入る前、この部屋がお寿司屋さんだった(!)時にガラスケース入りで飾られていたもので、経営されていた今の大家さんが置き場がなくてここに置いていたのを譲ってもらったものですが、室内を幻想的に演出する上でかなり重要な役割を担ってくれていると思います。
近頃は節電で店内が薄暗い状態にサティなんかかかって、この鷹のシルエットが後ろの壁に写ってたりすると、ふいにこの空間だけ時が止まったような、「今外に出たら違う世界に出てしまうんじゃないか」とか考えちゃうような、なんともヘンな気分に襲われることがあります。
剥製もまた、幻想的な空気を強くかもし出すアイテムですね。
宮沢賢治の「黄色いトマト」(→新編銀河鉄道の夜)に出て来る田舎町の古い博物館に展示された鉢雀(ハチドリ?)の剥製と少年の会話の描写風景は幻想的で大変美しく、僕の大好きなシーンで、アール座空間を作る際の原型イメージになった情景でもあります。
剥製や標本のようにインパクトのあるものを飲食店のインテリアに使うことには、最初、懸念の声(普通の喫茶店を開業すると思っていた人達から)もありましたが、まぁ嫌いな人も多いですよね。
一般に気味が悪いと疎まれたりもする剥製や標本ですが、逆に惹かれる人も少なくないです。
パリ郊外にあるデロール(→好奇心の部屋デロール)という名の剥製標本専門店は、知る人ぞ知るマニアックな観光スポットらしいですが、写真で見ても確かにある種の人々を引きつける魅力的な空間のようです。
普段動いてる印象のものがピタリと静止した姿の剥製や標本は、それだけでも静止した時間と空間を意識させ、薄暗い中ではシュルレアリスム的な非現実感をにじませて、周囲の空気を幻想的にしてくれます。
ただ、僕なんかはそれだけではない、より深く心落ち着かせてくれる何か安堵感に近いものを感じてしまうのですが、ヘンなんでしょうかね。
カルト趣味的なものとも違う感覚で、昔から自分でも不思議な感覚でしたが、皆さんはどうでしょう。
まぁ僕自身は蛙のホルマリン漬け解剖標本にすらアルファ波を出してしまうヘンタイですが、もっと繊細な人達〜古いガラスの実験器具や標本、鉱石、古い天文学の図版なんかを見ると呼吸が荒くなってしまう(笑)理科的趣味の方や、幻想的な装飾のビクトリア調、ロココ調の雰囲気に心引かれる耽美趣味の方など〜のアンテナにも引っかかる所ですよね。
剥製以外にもこの手の幻想的なものには、恐さと心安らぐ感情が同居したようなパラドキシカルな魅力がありますが、一体何なんでしょうね。
死んでいる皮や骨、生命の出て行った抜け殻のようなものを人が気持ち悪がるのは、死への恐怖感として普通に理解出来る所です。
恐怖感そのものが好きなオカルト趣味も、その裏返しという感じで分かる気がしますが、こうしたエグいモノがそんなセンシティブな感覚を癒してしまうのはなぜか考えてしまいます。
そんな人達に共通の好みで「鉱物」という趣味もありますが、これに通ずる所のような気がします。
地中で、我々には考えられないような長い時間を経て蓄えられた力を持っているのでしょうか、まぎれもないこの世の物質ですが、なかなかに非現実的、幻想的な匂いが強いですよね。
鉱物の美しさは、悠久の時→閉じ込められた時間→異空間といった連想につながり、何だかこの世と異なる次元の空間に置いてあるような妙な存在感を感じさせませんか?
所でこの前、新たな仕掛けがまた一つ完成しました。
名付けて「R座鉱石博物館」。
まぁ博物館と言っても、例のごとく引出しの中です(出た)。
窓際前から3番目、柱の奥のお席の左下の引出しです。
お好きな方は、他の引出しにある拡大鏡や書棚の「岩石と宝石の大図鑑」も合わせて一緒に楽しんでみて下さいね(夜の方が比較的見やすいかも)。
話を戻しますが、剥製や標本、化石なんかは、かつて生命として動き回っていたものがそれを終え、鉱石のように永遠で無機質な世界に迎えられた象徴としてイメージされている気がします。
この、やがては自分も移ってゆく静寂の世界を感じることが、本能的な安らぎにつながるのではないでしょうか。
特に生命感溢れる躍動的な気や軽薄な現実世界がふいにまぶしくうとましく感じられ、心乱されるような気分の時には、無機質な異世界に憧れてしまいますよね。
そんな世界の住人に対する畏敬と親近感のようなものもあるのかも知れません。
逆に、もともと向こう側にいるのに、静かな生命感を持って語りかけて来る球体間接人形(→KATAN Doll他)なんかも、両方の世界に二股かけている存在特有の幻想的な魅力がありますね。
感覚を同じくする人にしか伝わらない表現かも知れませんが、こんな風に我々の意識している世界に隣り合わせた空間があると思うことや、自分もいつかは自然に死んで化石や鉱石のようにそこに帰れるという事実は、本能的な恐怖を伴いはしても、実は意識の根底で人に安心感を与えてもいる気がします。
死を静寂、神聖、永遠なものとして受け入れる姿勢は、決してニヒリスティックともネガティブとも違う、死を含めた人生観につながる腰を据えた態度だと思います。
美術において死と異次元的な幻想世界を合わせたような表現は、宗教が死生観を画一的に支配していた古い時代よりも、近代のシュルレアリスムや形而上派(キリコとかの)、象徴主義辺りから意識されてきたものでしょう。
どちらかと言うと、ダリ(→SALVADOR DALI他)やキリコの方は「永遠」や「静寂」の空間を憂鬱で気だるい心理描写として描くことが多いですね。
逆にベックリンなんかの象徴主義(→Symbolism)は不安感をたっぷり出しながらも、それを美しく描き出します。
ムンクになると幻想よりも不安で画面が塗りつぶされてしまいますが、死をどうとらえるかは、思想よりもその人の性格や精神状態から来る「趣味」に左右されるものなのでしょう。
人間には生き抜くために死を嫌う本能が備わっていて、これが死を生と分けて「忌まわしいもの」と考えさせるのだと思います。
ただ本来は、生と死は分かつことの出来ない一続きの出来事ですから、生命が終わることは生まれ出ることと同じように、とても自然で大事な出来事です。
どことなく死を祝福するような空気感すら漂う象徴主義なども、きっと死をそんな大切な節目のようにとらえているのかも知れません。
そんな風に「生」には始めから「死」が含まれていますが、逆に「不死」というものが存在したら、これはもはや「生」ですらない単純な「存在」で、意識があったらそれこそ悲劇的な不幸ですよね。
永遠というものを憂鬱に表現するダリやキリコが感じる世界観に、それは近いように感じます。
美術史における無人の廃墟の絵画ばかりを集めた画集「死都」も、そんな風に見ると大変見応えがあります。
現代アートでは思想よりも感覚の方が前に出ますが、ジョセフコーネル(→Joseph Cornell Master of Dreams)や桑原弘明(→scope他)などの作品に、そんな異次元的な静寂と永遠の空間が、より感覚的に表現されています。
魅力的なような憂鬱なような不思議な空間ですが、いづれにしろ我々には外から覗き見ることしか許されていません。
そしてどちらも、閉ざされた世界を現実から隔離するのに「箱」というアイテムが用いられているのが面白いですね。
箱と言えば、近頃店内のお座席で背後から見つめる少年と少女の視線を感じた方はおられますでしょうか?
別に恐い話じゃないですよ。
最近新たに、イラストレーター七戸優氏の絵本「箱少年」などの原画(身内が所有していたものを借り受けました)を壁面に飾らせてもらいました。
これが不思議と、気づかぬ内にもアール座の空気を一層色濃くしてくれているように感じます。
絵本は素敵な詩画集のようで、シュールで哲学的な内容をポップで幻想的に仕上げた詩的な世界観のお話です(何のこっちゃ)。
現代はそんなジャンルも随分と充実してきましたが、僕がはじめてそんな世界に触れたのは「扉の国」という絵本でした。
やはりシュルレアリスム的な画風と、日常の隣りにある不思議な部屋という設定が魅力的で、子供の頃何度も読みました。
いつもと何かが違う日、家の中でふいに話始めた飼い猫に導かれて扉を開くと…と言うと、ちょっとありきたりな感じもしますが、そこは王道と言いましょう。
僕にとって幻想アートの原点になったお話です。
文学で言うと、先程の宮沢賢治が言わずと知れた幻想文学の神様ですが、宮沢文学は何よりも色彩感覚が飛び抜けていますね。
ラリってたんじゃないか(!?)と思う程イメージ力が人間離れしていて、常軌を逸した色鮮やかなイメージは、僕にはちょっと恐いくらいに感じます。
個人的で勝手な解釈ですが、日本語で「幻想文学」と言うのと、平たく「ファンタジー」と言ってしまう時のニュアンスの違いは、この恐いくらいの理科室的な薄暗さの有無に集約される気もします。
稲垣足穂(→一千一秒物語他)はもう少し都会的でノスタルジックな風合いが強く、理科趣味のマニアックな魅力が散りばめられていますね。
宮沢などの童話と違って、稲垣はリアルな近代小説の中に唐突に異空間を感じさせる出来事が起こる所がロマンティックです。
しばしばお客様からアール座を評して「長野まゆみの世界のよう」と、ありがたいお言葉を頂き、メニューに碧瑠璃の曹達水(へきるりのソーダ水)とか入れようかな、とか思ったりしますが、現代においてその精神を受け継ぐ長野まゆみや鳩山郁子の世界観にも、そんな幻想的な死生観が流れているように感じます。
通常ファンタジーは幻想世界の中の物語か、現実世界から何らかの手段で境界を超えて幻想世界に入って行き、その世界でのルールが明示されますが、長野作品(→天体議会他)に様々な形で登場する異世界は、得体が知れず、大抵現実世界すれすれに存在(夜更けには更に接近したり)していて、ある時はその片鱗が現れるだけだったり、ある時は幻想と現実が境目なく混沌としていたり、そもそも現実側に少しSFが入っていたりSFそのものだったり、とにかく全体的に境目が夢のようにぼやけた設定の中で不思議な事が起こったりしますね。
そんな中で目の前に起こる美しい出来事〜不思議な色の飲み物から幻のような現象まで〜は、周囲のぼやけた世界から際立つ、恐いくらいの色鮮やかさで映ります。
思えば、我々の認識世界の内のどれがリアルかなんて、こちらの意識のウェイトの置き方一つで好きなように変えられることで、ヘタに「これは本当これはウソ」と区別せず全体をぼやかしておくと、より多くの美しい出来事を日常の中に感じ取れる気がします。
みな子供の時は普通にそうしてました。
そう言えば「6歳頃までは霊的なものが見れた」とか言う人もよくいますね。
長野作品にも霊的な少年が頻繁に現れますが、があの頃の夢のような意識の方が、そっちの世界にも近いんでしょうかね。
そっちから来たばかりだからかも知れませんね。
以前この店でサイン会を催して頂いた鳩山郁子先生の短編「リモネア」(→スパングル)という物語は、まさに隣の時空の出来事が恐いくらい儚く危うい情景として繊細に描かれ、読後に永遠の空間に住む憂鬱な穏やかさ、切なさが入り交じった複雑な心持ちまで体感させてもらえる希有な作品です。
こうしたジャンルに触れ、また昔を振り返ると、確かに少年というものは基本的にみな夢側の世界に立っていて、多分夢見がちな少女よりも現実社会や将来の問題を感じていない気がしてきます。
どんなにやんちゃでも狡猾でも大人びて冷めたタイプの子でも「あの空き家に魔女が住んでいる」という噂が立てば、全員が「いるんだ」という方向に考えていましたね。
あとクラフトエヴィング商会の名作「どこかにいってしまったものたち」も並べておきましょう。
失われてしまった、幻想的な道具たちを紹介してゆく本で、読んで思い描くうちに現実と非現実の間を行ったり来たりと、楽しくお散歩出来ます。
さて、相も変わらず長くて重苦しいブログです(笑)。
読んでくれる人いなくなってしまうんじゃないでしょうか。
どうも最近は考え深げな気分が続いた上、この所鉱石標本なんぞの作成に関わっていた勢いで、またもやこんなの書いてしまいました。
いつも付き合わせてしまってスミマセン。
毎回ワケの分からないカフェブログを最期まで読んで下さる有り難くも奇特な皆様に、お礼という程のものでもありませんが、オマケ企画です。
お会計の際に「最期まで読んだよ」と一言申告して下さると…というのはお互い恥ずかしいのでやめにして、店内の書棚の向かい、大水槽の裏側に本を選ぶ時用の木製ベンチがありますが、その座面の下の棚段に青色と絵柄が施された小さな四角い缶ケースを置いておきます。
缶の中にLEDライトと拡大鏡と鉱石の小さなカケラがジャラジャラ入っておりますので、お席の方で記念に(何のだ?)一粒(一度のご来店につき)選んでお持ち帰り下さい(何という人見知りな企画でしょう)。
実は標本を作る際に鉱石のクラスターを砕いたのですが、その破片がキラキラと散らばって美しかったんです。
アメシストやシトリンなどの小さな欠片で、価値のあるものではありませんが、光を当てて拡大鏡で見ると結構キレイなので、選ぶ過程が案外楽しめると思います。
缶は元の場所に戻しておいて下さいね。
繰り返しますが 大したものではありません。
こんなことやってみたかっただけです。
GWも終わってこれからしばらく、特に平日の人の少ない時分なんかには、アール座で幻想的な本でも読んで異空間を味わえるんじゃないかと思います。
ただ、うっかり幻想的な気持ちのままお店を出ると、少しだけ違う異世界に出てしまうかもなので、どうぞご注意下さい。
地震の時の事故でしばらく寂しくなってしまった水槽内でしたが、お会計の時に「お魚さん達は?」と心配そうに聞いて下さる方が思いのほか多くいらして、沢山の方にかわいがってもらっていたんだなぁと知りました。
水草を植え直してから、魚がいない間に若干CO2と肥料を強めた所、ぐんぐんと緑は濃くなり、少し赤系の水草を足して、今や以前の環境を凌駕する勢いです。
そこで魚の方も、先日思い切って新しい子達を大量に入れました。
皆まだチビ達ですが、元気よく泳いでいてとてもかわいいです。
思えば、この前までいた子達だって、4年前に入荷したときはこんなサイズでした。
ここで時間をかけて育ってくれたんですね。
新しい子達も、負けずに大きく育ってくれたらと思います。
最近また、室内のシルクジャスミンが花を香らせているのですが、先日開店前に窓を全開にして換気をしていたら、花の香につられてか、突然立派なアゲハ蝶がはたはたと室内に迷い込んできて室内を舞ったので、しばらく夢のような気持ちでボーッと眺めていました。
次第に慌てふためいてきたので、疲れないウチに窓口に追いやって逃がしましたが、いやぁ、ずっと見ていたかった。
僕が言うのもなんですが、かなり映えますよ。アール座にアゲハ。
このまま店内で離し飼いに出来たらどんなに良いかと思いました。
たかだか虫一匹飛ぶだけで、空間の雰囲気が随分と幻想的になるものなんですね。
実はこの所、期せずしてアール座に幻想的な匂いのアイテムが集まってきている気がするので、今回はそんな雰囲気のお話をしつつ、おすすめとして幻想的な気分に浸れる書籍(黄色の文字で表記)を選んでゆこうと思います。
蝶と言えばウチには蝶の標本がいくつか飾ってありますね。
蝶のデザインというのは本当に幻惑的で、特に見慣れぬ外国産種の美しい柄は、どう見てもこの世のものとは思えませんよね(おすすめ書籍→BUTTERFLIES AND MOTHS他)。
近頃ふいにまた作りたくなって、おすすめコーナー上の壁面に二つフレームを増やしましたので、お好きな方はご覧頂けると嬉しいです。
そもそもが異空間を意識して作られたアール座ですが、その守り神をしてくれている鷹(サシバ)の剥製は、実はこの店が入る前、この部屋がお寿司屋さんだった(!)時にガラスケース入りで飾られていたもので、経営されていた今の大家さんが置き場がなくてここに置いていたのを譲ってもらったものですが、室内を幻想的に演出する上でかなり重要な役割を担ってくれていると思います。
近頃は節電で店内が薄暗い状態にサティなんかかかって、この鷹のシルエットが後ろの壁に写ってたりすると、ふいにこの空間だけ時が止まったような、「今外に出たら違う世界に出てしまうんじゃないか」とか考えちゃうような、なんともヘンな気分に襲われることがあります。
剥製もまた、幻想的な空気を強くかもし出すアイテムですね。
宮沢賢治の「黄色いトマト」(→新編銀河鉄道の夜)に出て来る田舎町の古い博物館に展示された鉢雀(ハチドリ?)の剥製と少年の会話の描写風景は幻想的で大変美しく、僕の大好きなシーンで、アール座空間を作る際の原型イメージになった情景でもあります。
剥製や標本のようにインパクトのあるものを飲食店のインテリアに使うことには、最初、懸念の声(普通の喫茶店を開業すると思っていた人達から)もありましたが、まぁ嫌いな人も多いですよね。
一般に気味が悪いと疎まれたりもする剥製や標本ですが、逆に惹かれる人も少なくないです。
パリ郊外にあるデロール(→好奇心の部屋デロール)という名の剥製標本専門店は、知る人ぞ知るマニアックな観光スポットらしいですが、写真で見ても確かにある種の人々を引きつける魅力的な空間のようです。
普段動いてる印象のものがピタリと静止した姿の剥製や標本は、それだけでも静止した時間と空間を意識させ、薄暗い中ではシュルレアリスム的な非現実感をにじませて、周囲の空気を幻想的にしてくれます。
ただ、僕なんかはそれだけではない、より深く心落ち着かせてくれる何か安堵感に近いものを感じてしまうのですが、ヘンなんでしょうかね。
カルト趣味的なものとも違う感覚で、昔から自分でも不思議な感覚でしたが、皆さんはどうでしょう。
まぁ僕自身は蛙のホルマリン漬け解剖標本にすらアルファ波を出してしまうヘンタイですが、もっと繊細な人達〜古いガラスの実験器具や標本、鉱石、古い天文学の図版なんかを見ると呼吸が荒くなってしまう(笑)理科的趣味の方や、幻想的な装飾のビクトリア調、ロココ調の雰囲気に心引かれる耽美趣味の方など〜のアンテナにも引っかかる所ですよね。
剥製以外にもこの手の幻想的なものには、恐さと心安らぐ感情が同居したようなパラドキシカルな魅力がありますが、一体何なんでしょうね。
死んでいる皮や骨、生命の出て行った抜け殻のようなものを人が気持ち悪がるのは、死への恐怖感として普通に理解出来る所です。
恐怖感そのものが好きなオカルト趣味も、その裏返しという感じで分かる気がしますが、こうしたエグいモノがそんなセンシティブな感覚を癒してしまうのはなぜか考えてしまいます。
そんな人達に共通の好みで「鉱物」という趣味もありますが、これに通ずる所のような気がします。
地中で、我々には考えられないような長い時間を経て蓄えられた力を持っているのでしょうか、まぎれもないこの世の物質ですが、なかなかに非現実的、幻想的な匂いが強いですよね。
鉱物の美しさは、悠久の時→閉じ込められた時間→異空間といった連想につながり、何だかこの世と異なる次元の空間に置いてあるような妙な存在感を感じさせませんか?
所でこの前、新たな仕掛けがまた一つ完成しました。
名付けて「R座鉱石博物館」。
まぁ博物館と言っても、例のごとく引出しの中です(出た)。
窓際前から3番目、柱の奥のお席の左下の引出しです。
お好きな方は、他の引出しにある拡大鏡や書棚の「岩石と宝石の大図鑑」も合わせて一緒に楽しんでみて下さいね(夜の方が比較的見やすいかも)。
話を戻しますが、剥製や標本、化石なんかは、かつて生命として動き回っていたものがそれを終え、鉱石のように永遠で無機質な世界に迎えられた象徴としてイメージされている気がします。
この、やがては自分も移ってゆく静寂の世界を感じることが、本能的な安らぎにつながるのではないでしょうか。
特に生命感溢れる躍動的な気や軽薄な現実世界がふいにまぶしくうとましく感じられ、心乱されるような気分の時には、無機質な異世界に憧れてしまいますよね。
そんな世界の住人に対する畏敬と親近感のようなものもあるのかも知れません。
逆に、もともと向こう側にいるのに、静かな生命感を持って語りかけて来る球体間接人形(→KATAN Doll他)なんかも、両方の世界に二股かけている存在特有の幻想的な魅力がありますね。
感覚を同じくする人にしか伝わらない表現かも知れませんが、こんな風に我々の意識している世界に隣り合わせた空間があると思うことや、自分もいつかは自然に死んで化石や鉱石のようにそこに帰れるという事実は、本能的な恐怖を伴いはしても、実は意識の根底で人に安心感を与えてもいる気がします。
死を静寂、神聖、永遠なものとして受け入れる姿勢は、決してニヒリスティックともネガティブとも違う、死を含めた人生観につながる腰を据えた態度だと思います。
美術において死と異次元的な幻想世界を合わせたような表現は、宗教が死生観を画一的に支配していた古い時代よりも、近代のシュルレアリスムや形而上派(キリコとかの)、象徴主義辺りから意識されてきたものでしょう。
どちらかと言うと、ダリ(→SALVADOR DALI他)やキリコの方は「永遠」や「静寂」の空間を憂鬱で気だるい心理描写として描くことが多いですね。
逆にベックリンなんかの象徴主義(→Symbolism)は不安感をたっぷり出しながらも、それを美しく描き出します。
ムンクになると幻想よりも不安で画面が塗りつぶされてしまいますが、死をどうとらえるかは、思想よりもその人の性格や精神状態から来る「趣味」に左右されるものなのでしょう。
人間には生き抜くために死を嫌う本能が備わっていて、これが死を生と分けて「忌まわしいもの」と考えさせるのだと思います。
ただ本来は、生と死は分かつことの出来ない一続きの出来事ですから、生命が終わることは生まれ出ることと同じように、とても自然で大事な出来事です。
どことなく死を祝福するような空気感すら漂う象徴主義なども、きっと死をそんな大切な節目のようにとらえているのかも知れません。
そんな風に「生」には始めから「死」が含まれていますが、逆に「不死」というものが存在したら、これはもはや「生」ですらない単純な「存在」で、意識があったらそれこそ悲劇的な不幸ですよね。
永遠というものを憂鬱に表現するダリやキリコが感じる世界観に、それは近いように感じます。
美術史における無人の廃墟の絵画ばかりを集めた画集「死都」も、そんな風に見ると大変見応えがあります。
現代アートでは思想よりも感覚の方が前に出ますが、ジョセフコーネル(→Joseph Cornell Master of Dreams)や桑原弘明(→scope他)などの作品に、そんな異次元的な静寂と永遠の空間が、より感覚的に表現されています。
魅力的なような憂鬱なような不思議な空間ですが、いづれにしろ我々には外から覗き見ることしか許されていません。
そしてどちらも、閉ざされた世界を現実から隔離するのに「箱」というアイテムが用いられているのが面白いですね。
箱と言えば、近頃店内のお座席で背後から見つめる少年と少女の視線を感じた方はおられますでしょうか?
別に恐い話じゃないですよ。
最近新たに、イラストレーター七戸優氏の絵本「箱少年」などの原画(身内が所有していたものを借り受けました)を壁面に飾らせてもらいました。
これが不思議と、気づかぬ内にもアール座の空気を一層色濃くしてくれているように感じます。
絵本は素敵な詩画集のようで、シュールで哲学的な内容をポップで幻想的に仕上げた詩的な世界観のお話です(何のこっちゃ)。
現代はそんなジャンルも随分と充実してきましたが、僕がはじめてそんな世界に触れたのは「扉の国」という絵本でした。
やはりシュルレアリスム的な画風と、日常の隣りにある不思議な部屋という設定が魅力的で、子供の頃何度も読みました。
いつもと何かが違う日、家の中でふいに話始めた飼い猫に導かれて扉を開くと…と言うと、ちょっとありきたりな感じもしますが、そこは王道と言いましょう。
僕にとって幻想アートの原点になったお話です。
文学で言うと、先程の宮沢賢治が言わずと知れた幻想文学の神様ですが、宮沢文学は何よりも色彩感覚が飛び抜けていますね。
ラリってたんじゃないか(!?)と思う程イメージ力が人間離れしていて、常軌を逸した色鮮やかなイメージは、僕にはちょっと恐いくらいに感じます。
個人的で勝手な解釈ですが、日本語で「幻想文学」と言うのと、平たく「ファンタジー」と言ってしまう時のニュアンスの違いは、この恐いくらいの理科室的な薄暗さの有無に集約される気もします。
稲垣足穂(→一千一秒物語他)はもう少し都会的でノスタルジックな風合いが強く、理科趣味のマニアックな魅力が散りばめられていますね。
宮沢などの童話と違って、稲垣はリアルな近代小説の中に唐突に異空間を感じさせる出来事が起こる所がロマンティックです。
しばしばお客様からアール座を評して「長野まゆみの世界のよう」と、ありがたいお言葉を頂き、メニューに碧瑠璃の曹達水(へきるりのソーダ水)とか入れようかな、とか思ったりしますが、現代においてその精神を受け継ぐ長野まゆみや鳩山郁子の世界観にも、そんな幻想的な死生観が流れているように感じます。
通常ファンタジーは幻想世界の中の物語か、現実世界から何らかの手段で境界を超えて幻想世界に入って行き、その世界でのルールが明示されますが、長野作品(→天体議会他)に様々な形で登場する異世界は、得体が知れず、大抵現実世界すれすれに存在(夜更けには更に接近したり)していて、ある時はその片鱗が現れるだけだったり、ある時は幻想と現実が境目なく混沌としていたり、そもそも現実側に少しSFが入っていたりSFそのものだったり、とにかく全体的に境目が夢のようにぼやけた設定の中で不思議な事が起こったりしますね。
そんな中で目の前に起こる美しい出来事〜不思議な色の飲み物から幻のような現象まで〜は、周囲のぼやけた世界から際立つ、恐いくらいの色鮮やかさで映ります。
思えば、我々の認識世界の内のどれがリアルかなんて、こちらの意識のウェイトの置き方一つで好きなように変えられることで、ヘタに「これは本当これはウソ」と区別せず全体をぼやかしておくと、より多くの美しい出来事を日常の中に感じ取れる気がします。
みな子供の時は普通にそうしてました。
そう言えば「6歳頃までは霊的なものが見れた」とか言う人もよくいますね。
長野作品にも霊的な少年が頻繁に現れますが、があの頃の夢のような意識の方が、そっちの世界にも近いんでしょうかね。
そっちから来たばかりだからかも知れませんね。
以前この店でサイン会を催して頂いた鳩山郁子先生の短編「リモネア」(→スパングル)という物語は、まさに隣の時空の出来事が恐いくらい儚く危うい情景として繊細に描かれ、読後に永遠の空間に住む憂鬱な穏やかさ、切なさが入り交じった複雑な心持ちまで体感させてもらえる希有な作品です。
こうしたジャンルに触れ、また昔を振り返ると、確かに少年というものは基本的にみな夢側の世界に立っていて、多分夢見がちな少女よりも現実社会や将来の問題を感じていない気がしてきます。
どんなにやんちゃでも狡猾でも大人びて冷めたタイプの子でも「あの空き家に魔女が住んでいる」という噂が立てば、全員が「いるんだ」という方向に考えていましたね。
あとクラフトエヴィング商会の名作「どこかにいってしまったものたち」も並べておきましょう。
失われてしまった、幻想的な道具たちを紹介してゆく本で、読んで思い描くうちに現実と非現実の間を行ったり来たりと、楽しくお散歩出来ます。
さて、相も変わらず長くて重苦しいブログです(笑)。
読んでくれる人いなくなってしまうんじゃないでしょうか。
どうも最近は考え深げな気分が続いた上、この所鉱石標本なんぞの作成に関わっていた勢いで、またもやこんなの書いてしまいました。
いつも付き合わせてしまってスミマセン。
毎回ワケの分からないカフェブログを最期まで読んで下さる有り難くも奇特な皆様に、お礼という程のものでもありませんが、オマケ企画です。
お会計の際に「最期まで読んだよ」と一言申告して下さると…というのはお互い恥ずかしいのでやめにして、店内の書棚の向かい、大水槽の裏側に本を選ぶ時用の木製ベンチがありますが、その座面の下の棚段に青色と絵柄が施された小さな四角い缶ケースを置いておきます。
缶の中にLEDライトと拡大鏡と鉱石の小さなカケラがジャラジャラ入っておりますので、お席の方で記念に(何のだ?)一粒(一度のご来店につき)選んでお持ち帰り下さい(何という人見知りな企画でしょう)。
実は標本を作る際に鉱石のクラスターを砕いたのですが、その破片がキラキラと散らばって美しかったんです。
アメシストやシトリンなどの小さな欠片で、価値のあるものではありませんが、光を当てて拡大鏡で見ると結構キレイなので、選ぶ過程が案外楽しめると思います。
缶は元の場所に戻しておいて下さいね。
繰り返しますが 大したものではありません。
こんなことやってみたかっただけです。
GWも終わってこれからしばらく、特に平日の人の少ない時分なんかには、アール座で幻想的な本でも読んで異空間を味わえるんじゃないかと思います。
ただ、うっかり幻想的な気持ちのままお店を出ると、少しだけ違う異世界に出てしまうかもなので、どうぞご注意下さい。