生き物の色と姿
2010.05.12 Wednesday 00:05
こんにちは。
長い冬が終わって少し夏になって梅雨…と言う感じの分かりづらい季節の巡りに、野の花も「もうイイのかな」と戸惑いつつ咲いているように見えるのは気のせいでしょうか。
こうへんてこな季節だと、時候の挨拶も小難しくなってきます。
この春に、近所のホームセンターでカブトムシの幼虫を配っていたので、2匹程頂いて来て、店の一番大きなプランターの湿った土の中に腐葉土と共にぐりぐり埋めこんでおきました。
パック詰めで置かれていた時点でふにゃっと弱っていた感じだったので、そのまま土の養分になってしまう可能性も大ですが、この変な季節をやりすごして無事変体を遂げてくれるのか、水やりしつつも土の中が気になる今日この頃です。
この夏に金魚鉢の席の後の木に、黒光りする甲虫が這っているのを見つけた方はお知らせ下さいね。
そんな僕が最近ハマっているのは、生き物のデザインです。
力学的に洗練されムダがないからなのか、そもそも自然界の姿が我々の美的感覚の基準になっているからなのか、とにかくどれを取っても素晴らしいフォルムと色彩ですよね。
誰もが美しいと認める色鮮やかな連中から、ちょっと見には地味だったり気持ち悪いようなもの(蛾やクロゴキブリすら)でも、先入観を外してよく見てみると結局どれをとっても完璧なデザインだなあと感心してしまいます。
自然美と人間が作った美しさの根本的な差は、きっと作為の有無にあるような気がします。
どんなに悟った芸術家の作品も、純真な子供の作品も、アート(人間が作る美)からは「こんなのどうよ」という気持ちを完全に消し去ることは出来ないように感じます。
長所にも短所にもつながる所ですが、アートのモチベーションの根源にある「他者に伝えたい」と言う姿勢は、自然の美しさの中には存在しないものです。
異性にモテるための美しさというのは自然界にも存在しますが、それとて、長い時間をかけて自然と形作られたものであって、感情から意図的に作られたものではありません。
当たり前の事ですが、誰に褒められなくても山奥の谷間の絶景に静かに雪が降りつもったり、深い森の泉の水面に満天の星々が映し出されたりと、誰も見ていない所で世にも美しい情景が、美醜の概念も無く「ただ展開している」というような超然とした自然美には、何だか人間のアートとは次元の違うスゴミをも感じてしまいます。
そんな興味から生物写真関係の書籍を増やそうと、最近動植物や昆虫関係専門の書店に行ったりしました。
無数のジャンルに分類された生物学の専門書籍の棚を前にすると、「生物というものはよくもこれだけ無数のデザインに分化したものだなあ」などと感じてしまいます。
また、それにもかかわらず「種」という概念を進化全体でよくよく考えると、全ての種は微細な変化の繰り返しで分化してきたもので、必ず切れ目なく他の種と繋がっています。
進化史を早回しにて見ると、実際には種と種の境目など存在しないので、生物界全体は無数の生死を繰り返しつつ無数の姿に変形し続ける一種類の「不定形軟体生物」のようにも思えてきます。
「キノコからクジラまで全ての生物は区分出来ない一かたまりの一族なんだなぁ」などと、虚ろな目をしつつ書棚の隙間で考えたりしていました。
はた目に見たら怪しいですね。
マニアックな空間には人の思考を怪しい方向に向かわせる磁場があります。
アール座読書館では、専門書よりも写真集や図鑑のようなビジュアル的に見ごたえのある動植物本を中心に揃えてあります(中央、3、4段目)。
クジラや恐竜、クラゲ、馬、その他様々な生物の写真集、図鑑など、中々見ていて飽きないですよ。
特に今月はその中から、蝶と蛾、深海生物、動物の全身骨格(「EVOLUTION」 必見!)等の写真集をピックアップして、壁際の長机に陳列してありますが、どれもかなり見応えがあります。
お茶を飲みながら様々な生物のフォルムを楽しんでみてはいかがでしょうか。
昔、こんな風に様々な動物のフォルムを眺めた後に外に出た時、街を歩く人間達の姿体が、なんだかウネウネと動くへんてこな生物の群れに見えて、ちょっと「うわわっ」てなったことがあります。
僕は大丈夫なんでしょうか。
さて、6月に開催される朗読会のお知らせです。
6月4日(金) 20時〜
朗読「二十歳の原点」 原作:高野悦子 朗読:春日怜
昭和44年、二十歳で自殺した女性の日記が父親によって整理され、刊行後、ベストセラーとなった「二十歳の原点」。
まっすぐな意思に貫かれたセンシティブな心情の世界を、朗読者、春日怜さんが30分に編纂し朗読します。
春日さんが、ライフワークのように毎年幾つかの喫茶店で開催している本気度の高い企画で、僕もかなり楽しみにしています。
ご予約、詳細はこちらからどうぞ→http://plaza.rakuten.co.jp/yueerde/
長い冬が終わって少し夏になって梅雨…と言う感じの分かりづらい季節の巡りに、野の花も「もうイイのかな」と戸惑いつつ咲いているように見えるのは気のせいでしょうか。
こうへんてこな季節だと、時候の挨拶も小難しくなってきます。
この春に、近所のホームセンターでカブトムシの幼虫を配っていたので、2匹程頂いて来て、店の一番大きなプランターの湿った土の中に腐葉土と共にぐりぐり埋めこんでおきました。
パック詰めで置かれていた時点でふにゃっと弱っていた感じだったので、そのまま土の養分になってしまう可能性も大ですが、この変な季節をやりすごして無事変体を遂げてくれるのか、水やりしつつも土の中が気になる今日この頃です。
この夏に金魚鉢の席の後の木に、黒光りする甲虫が這っているのを見つけた方はお知らせ下さいね。
そんな僕が最近ハマっているのは、生き物のデザインです。
力学的に洗練されムダがないからなのか、そもそも自然界の姿が我々の美的感覚の基準になっているからなのか、とにかくどれを取っても素晴らしいフォルムと色彩ですよね。
誰もが美しいと認める色鮮やかな連中から、ちょっと見には地味だったり気持ち悪いようなもの(蛾やクロゴキブリすら)でも、先入観を外してよく見てみると結局どれをとっても完璧なデザインだなあと感心してしまいます。
自然美と人間が作った美しさの根本的な差は、きっと作為の有無にあるような気がします。
どんなに悟った芸術家の作品も、純真な子供の作品も、アート(人間が作る美)からは「こんなのどうよ」という気持ちを完全に消し去ることは出来ないように感じます。
長所にも短所にもつながる所ですが、アートのモチベーションの根源にある「他者に伝えたい」と言う姿勢は、自然の美しさの中には存在しないものです。
異性にモテるための美しさというのは自然界にも存在しますが、それとて、長い時間をかけて自然と形作られたものであって、感情から意図的に作られたものではありません。
当たり前の事ですが、誰に褒められなくても山奥の谷間の絶景に静かに雪が降りつもったり、深い森の泉の水面に満天の星々が映し出されたりと、誰も見ていない所で世にも美しい情景が、美醜の概念も無く「ただ展開している」というような超然とした自然美には、何だか人間のアートとは次元の違うスゴミをも感じてしまいます。
そんな興味から生物写真関係の書籍を増やそうと、最近動植物や昆虫関係専門の書店に行ったりしました。
無数のジャンルに分類された生物学の専門書籍の棚を前にすると、「生物というものはよくもこれだけ無数のデザインに分化したものだなあ」などと感じてしまいます。
また、それにもかかわらず「種」という概念を進化全体でよくよく考えると、全ての種は微細な変化の繰り返しで分化してきたもので、必ず切れ目なく他の種と繋がっています。
進化史を早回しにて見ると、実際には種と種の境目など存在しないので、生物界全体は無数の生死を繰り返しつつ無数の姿に変形し続ける一種類の「不定形軟体生物」のようにも思えてきます。
「キノコからクジラまで全ての生物は区分出来ない一かたまりの一族なんだなぁ」などと、虚ろな目をしつつ書棚の隙間で考えたりしていました。
はた目に見たら怪しいですね。
マニアックな空間には人の思考を怪しい方向に向かわせる磁場があります。
アール座読書館では、専門書よりも写真集や図鑑のようなビジュアル的に見ごたえのある動植物本を中心に揃えてあります(中央、3、4段目)。
クジラや恐竜、クラゲ、馬、その他様々な生物の写真集、図鑑など、中々見ていて飽きないですよ。
特に今月はその中から、蝶と蛾、深海生物、動物の全身骨格(「EVOLUTION」 必見!)等の写真集をピックアップして、壁際の長机に陳列してありますが、どれもかなり見応えがあります。
お茶を飲みながら様々な生物のフォルムを楽しんでみてはいかがでしょうか。
昔、こんな風に様々な動物のフォルムを眺めた後に外に出た時、街を歩く人間達の姿体が、なんだかウネウネと動くへんてこな生物の群れに見えて、ちょっと「うわわっ」てなったことがあります。
僕は大丈夫なんでしょうか。
さて、6月に開催される朗読会のお知らせです。
6月4日(金) 20時〜
朗読「二十歳の原点」 原作:高野悦子 朗読:春日怜
昭和44年、二十歳で自殺した女性の日記が父親によって整理され、刊行後、ベストセラーとなった「二十歳の原点」。
まっすぐな意思に貫かれたセンシティブな心情の世界を、朗読者、春日怜さんが30分に編纂し朗読します。
春日さんが、ライフワークのように毎年幾つかの喫茶店で開催している本気度の高い企画で、僕もかなり楽しみにしています。
ご予約、詳細はこちらからどうぞ→http://plaza.rakuten.co.jp/yueerde/