震災義援金と「寄付」の概念について

2011.03.18 Friday 02:22
こんにちは。

いつもこのブログを読んで下さっているのは都内近郊の方と思いますが、皆様お怪我などありませんでしたでしょうか。

まず当店に関して、この地震直後2、3日営業が不安定になってしまったことをお詫び申し上げます。

現在は節電のため店内が多少暗めながらも、通常営業をしております。
ただ、しばらくは営業中の停電、及びそれに伴う臨時閉店の可能性が続きますことをご了承頂けると幸いです(万が一停電になっても非常灯が点灯しますので、動けないようなまっ暗闇になることはありません)。

アール座は店内にモノが多いので、ご心配をおかけした方も少なからずいらしたようで、誠にすみませんでした。

一応転倒、落下の恐れがある大きな家具、什器は全て壁面その他に固定してありましたので、高い位置から倒れたものはなく、大量の書物と幾つかの食器、机の花瓶や電気スタンドが落下したのみで、幸い大事には至りませんでした。

災害対策というのは、ことが起こる前にはモチベーションが上がらず、非常に面倒くさく感じる作業ですが、揺れの最中に僕が一番思っていたのは「うわーやっといてよかったー」という感慨です。
まだの方にはおすすめしておきますね。

そんな中でも比較的悲しいのが水槽のダメージです。

気に入って下さっていた方も多く大変残念でしたが、小さい方(60cm)の水槽に割れが入り、大きい方はタンクは無事だったものの、水槽内で岩などが倒れ込んで水質が悪化したためか、残念ながら、どちらもほとんどのお魚達が被害を受け、中の環境はリセットすることになってしまいました(ベタの鉢は無事です)。

一応現在はどちらも植え替えを終えておりますが、60cmの方は底砂から全ての植え替えになってしまったため、今は荒れ野のような寂しい光景になってしまっております。
が!この水草たちは開店の頃からこれまで何度もこうした危機(大抵僕の不手際 汗)を乗り越え繁殖してきた、巧ましい遺伝子を持つ子たちです。
まぁ見ていて下さい。
3ヶ月もすればすっかり育って、また我々を癒してくれる美しい草原を復活させてくれるに違いありません。
 
幸い今回水槽のお席はどちらも無人で、お客様が水を被られることはありませんでしたが、もし今後、水槽のお席で大きな揺れに襲われた際には可能ならお席から離れて下さいますよう、お願い申し上げます。

心配される方の多かった食器類は奇跡的な程ダメージが少なく、破損は数点ですみました。
皆あんな置き方でよく踏ん張ってくれたと感謝しつつ、残念ながら割れてしまったものは「お疲れさまでした」と、やはり感謝を込めてカチャカチャと集めました。

お店に関しては、被害と言ってもこの程度の話ですが、今この国はそれどころではないですね。

被災地の方がご覧になることはないと思いますが、先ずは避難されている方のご健康と不明な方のご無事、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

このブログはあくまでアール座読書館に関するお知らせやおすすめをする場なので、店に関係のない個人的な考えはなるべく控えているのですが、今回だけこの場をお借りして、そんな話もしてみようかと思っています。

近頃は被災のほとんどない都内でも何だか人々が慌ただしく、買い占めに走ったり色々な恐怖にあおられたりと興奮気味です。
今は怒りの矛先が東電の職員にも向いていますが、本当は我々は電力がなければ普通に暮らすことも出来ないという事実を突きつけられた気もします。

情報や管理が徹底した社会では皆不測の事態に弱くなっていて、少しでも安全にかげりを感じると簡単に不安に襲われてしまうのかなぁとも感じました。

TVで災害の地を見ていつも思うのは、人間の小ささ無力さと、こんな目に会ってまで人は何を希望に生きてゆくべきなんだろうということです。

軽々しく言えることではないですが、これまで積み上げてきた財産を一度に全て失ったり、大切な人と突然の別れを強いられたりしながらも、這い上がり這い上がり生き続ける人々は、一体どこを目指すんだろうと言う哲学的な疑問です。

今全国で、あの人達のために自分に何が出来るんだろうと考えている人が本当に多くいらっしゃると思います。
部屋で温かい布団で寝る時にも、そんな考えがよぎりますよね。

僕は無宗教ですが「祈ること」は効果のあることだと思っています。
特に多くの人の願いは大きなエネルギーになる気がします。
色々な考え方があると思いますが、東北方面に向けて手を合わせたり、神社でお賽銭して幸いをお願いするのも、きっと意味があると僕は考えます。

逆に「賽銭する位ならその金を…」と反論したくなる人も思いつく簡潔な答えが「義援金」ですよね。
もうかなりの人が実行されているんじゃないでしょうか。

個人的に物資を配送するのが困難な現状では、お金を寄付して一番有効な手段に使ってもらうというのが、誰にでも出来る最も確実な手段だと僕も思います。

「別にお前に言われなくても…」と思われる方、すみません。全くその通りですが、以後はそんな話です。

日本では今の所「寄付」という概念があまり浸透していないどころか、どこかうさんクサいイメージすら付けられていますね。
慈善やチャリティは「自己満足だ」とか「何か違う気がする」とか、何かと難クセをつけては遠ざけられがちです。

僕は買い物は安物ですませる方だし、特に理由がなければ年下や女性との食事もワリ勘だし、お金に関して割とケチな方だと思いますが、ボランティア機関への毎月定額の寄付だけは生計がキツかった移動販売の時もこの店が赤字の時(小さな額でしたが)も何とか続けてきました。

偉いでしょ…と自慢したいのではありませんよ(逆に結構反感買いやすいんです)。
寄付って別にうさん臭くもなければ、立派な人がするというものでもない、割と軽く考えて良い行為だと思うんです。

考え方として、僕がよくイメージする情景があります。

広い草原に流れの激しい川が一本流れていて、こちらの川辺には立派な木が生えていて次々に美味しい果実を実らせているため、そこに住んでいる猿達はこれを好きなだけもいで食べることが出来ます。が、川向こうには木が生えておらず、こちらに渡れない多くの猿が飢えているという情景です。

こちらでは果実が余って腐っているにも関わらず、向こうではやせ細った猿達がどんどん飢えて死んでゆきます。

猿や他の生物ならそうなるでしょうが、もしこれが人間だったら、果実をもいで川向こうに投げてやることで、気持ちの悪いアンバランスを多少なりとも解消出来るし、きっとそうするはずです。

で、これは架空の話ではなく今の世界の現実そのものですよね。
ましてや東北地方なんて、例えれば川も挟んでない近所の出来事です。

現実的には、向こう岸のように直接見えない現状を情報(映像)だけでリアルに認識出来るか、苦労して自分でもいだ実を「恵まれたもの」と思えるか、本当は必要以上に手にしている果実を「余っているもの」ととらえられるか、という辺りのイマジネーションが難しく、ネックになる所です。

でも、それだけのことなんです。寄付なんて。
知らん顔して木の実をかじってるより、いや、かじりながらでも、もう一つを投げてやりたくなるというだけのことです。

日本人は直接触れ合うと、本当に思いやりにあふれた優しい民族です。
ただ、こうした直接触れてない相手のことを情報を元に共感するためには、感情よりも「理性的な想像力」が必要で、これが日本人は苦手な気がします。
あと、皆がしていないことに自分一人の主義で手を出すのもきっと苦手です。

僕は「寄付」と言う概念がもっとポピュラーになって、社会内や国家間の経済格差にまで影響を与える程の規模になれば、格差を生む一国の経済発展や景気回復が、より豊かなものになるんじゃないかと思っています。

別に「自己満足」でも「善い人アピール」でも、企業がイメージアップのために営利目的でする(実際は意外に少ないと思います)のでもいいから、色々含めて「寄付」という行為がもっと普通のことになって、それでカッコつけたり見栄はったり出来る社会の方が、「ボランティアやチャリティは全くの美しい心から行われる行為でなければならない」と考えて何もしない世の中よりずっと良いと思います。

そして、寄付は困っている人のため以上に自分のためにもなります。

僕は人が幸せになるためには、今幸せである所に気づく以外に方法はないと思っています。

被災していない我々は、この状況では大変申し訳ないけれども、今こうして食事に困らず、暖かい室内で暮らしていけることのありがたみを感じてしまいますね。

家があること。手が使えること。目が見えること。日差しを浴びれること。暴力に脅かされていないこと。封建的でない時代に生まれたこと。飢餓の無い国に生まれたこと。
恵まれているものはそれぞれに違うと思いますが、どんな人だって本当は無数の幸せに包まれて生きているはずなのですが、そこに目が向かないのも人の常で、誰でも持っているものを見ずに無いものを求めてしまいます。

こんな欲にはキリがなく、いくら手に入れてもそれを超えてエスカレートしながら不満ばかりを生み出します。
持つ程に執着の強くなる財産がいい例ですが、僕は富を増やすことだけで幸せになるのはどこまで行っても不可能なんじゃないかとも思っています。

実際、明日の糧に困らず自宅にTVやPCを所有する平均的な日本人だって、世界の人々を大雑把に分ければアラブの石油王やハリウッドスターと同じ、一番上のランクのお金持ち(書籍「もしも世界が100人の村だったら」によると50人に1人)に入る程で、貧しい国の人々から見れば「あれだけあったら何もいらない」と思われるレベルの富裕層だと思いますが、それでも実際は「もっとお金があれば…」と思ってたりしますよね。

でも、結局この生涯の全ての財産はあの世にも来世にも持っていけない、言わば借り物で、後は何にどう使って死んでゆくかだけです。

僕はお金そのものに一定の価値があるとは思いません。
お金は様々な価値と交換する力を持っているだけであって、大事なものにも下らないものにも変わりうる金額を価値の基準にしてはいけないと思っています(世の中がスゴく勘違いしている所です)。

そして、概して財産は財力が大きくなる程執着心が強まって、その価値は小さくなってゆく(下らないものに交換される)気がしてなりません。

チャリティという意識からはかなり離れてしまいますが、自分が自由に使えるお金(出来ればちょっとキツい位の額)を手放すことは、そんな気持ちに歯止めをかけ「まぁこのくらいで暮らして行ければイイんじゃないかな」という気持ちにしてくれる効用があり、何というかちょっと人生をスッキリさせてくれる感もあります。

さらに言えば「寄付」のようにお金が大きな価値に変わる使い道は中々ありません(これもケチな僕を満足させてくれます)。

この手の考え方が不純だと反感を買いやすい所ですが、これは仏教にある「お布施」と言う概念に似た考え方だと思います。
今ではお布施と言うと「お寺に寄付(これも必要なシステムです)」というイメージになっていますが、本来は「財を自ら手放すことで欲から解放される」ことを目的とした自分のための行為で、例えばそう言う思想に基づいてどこかに寄付をするのだって「布施」と同じですよね。

そうして自分の幸せを確信出来た人が、今度は他の人の力になることが出来るんだと思います。

不謹慎かも知れませんが、かなりの寄付が集まるこの試練を経て、この国の人々の価値観がもっと富や恵みを皆で共有する方向に向かえばいいのにと本当に願います。

今は僕も稼ぎが生活費程度なので寄付金額も知れてますが、もっと規模を大きくしてアール座がより高い割合で協力させてもらえるようになれば「お客さんがお茶飲んでくつろぐと、その支払いの何割かが自然に誰かの助けに…」みたいな店になったりしても面白そうだなとか思っています(結構マジ)。

残念ながら、今回はまだアール座でそれを集めるシステムは作れませんが、今随分沢山の機関で被災地への寄付金を募っていますね。

詐欺まがいの話もあるようなのですが、各銀行の窓口で開設されているものやTV局で伝えている番号、百貨店の募金箱なんかは安全でしょう。

募金の集め方使われ方も色々あるようですが日本赤十字社は義援金配分委員会が立てた配分計画に基づいて被災者に届くそうです。

僕が日頃利用させてもらっているのは「国境なき医師団」「日本ユニセフ協会」ですが、こちらは団体の支援活動への援助がメインのようです。

一番手軽なのは携帯やPCから出来る募金もあるみたいで、TV見て辛い気持ちになる度に使えちゃいますね。

あまり店と関係ない話をべらべらとしてしまいましたが、こういう場で一方的に自分の考えを表現してゆくのは、考えの違う方などは不快にさせてしまったりするので控えるべき、とは思っているんです。本当に。

予定では、今回民俗美術と原始美術についてのお知らせをしようと思っていたのですが、あんなことの後でそんな話をする気にならなかったので、僕みたいのがする話でもないのですが、まぁしちゃいました。

以後はソコソコ気をつけますね(笑)。



結構美しかったガラス食器達の最期
category:2011 | by:アール座読書館 | - | - | -

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