神話のススメ(また長くなってしまいました…)

2010.07.17 Saturday 23:30
最近、店内中央の3本柱の上にある半円形の枠にイラストボードが入りました。
あの半円、欄間のデザインの様なフリをしていましたが、実は絵窓の様にアクリル板を入れるための枠だったんです。
ずーっと作業が止まったままだったんですね。(;^_^A
素人作成でアラが目立つので、見る時は遠くから目の焦点をボヤーッとさせて見て下さい。
近くでじっくり見てはいけません。

高い位置なので、何となく星空と幻獣のイメージでデザインしてみました。
元ネタは「脅威の部屋」と言うタイトルの本の中に見つけた中世の酒杯のデザインです。

中世の幻獣はカッコいいですね。
神話や伝説が権威を持っていた時代には人々の恐怖感や目撃談の興奮が折り重なって自然とあんな想像を超えるデザインが出来上がるのでしょうか。
現代の「こんなのいたらスゴイなあ…」というファンタジー的な空想と、当時の「本物の龍の姿はこんなんだろうか、はぁはぁ(興奮の吐息)」という恐怖を伴う想像とでは、イメージ力の質が違いそうですよね。

僕は昔、上野の科学博物館などに行くと、決まって恐竜の全身骨格を正面から見上げる位置に立ち「こんなのがホントに歩いていたんだ」という事実を強く思いつつ、想像力をフル回転させて骨格に肉付けをし、ここは古代のジャングルだと思い込み続けると、ある瞬間に想像が現実を凌駕してイメージを結び、その巨大な実在感が襲いかかるように実感されぞわわーっと鳥肌が立つ所までいく、という遊びをして喜んでいました。

こう書いてみると結構ヤバい子ですね。友達いなかったんでしょうか。
コツを覚えているので、今でも出来ると思います。

書棚にある「イスラム」というイスラム文化を紹介する書物の中に古い時代の動物図鑑が少し紹介されているのですが、そこでは当時の人々があまり目にする事の無かった異国のゾウやヒョウ等が科学的事実と伝承、呪術的な話のごちゃ混ぜで、かなり神秘的に紹介がされていて、興味深いです。
情報が少なく学問も整理されていない時代には、現存する生物にも神秘性を感じることが出来たのがとてもうらやましいです。

そこで、今月は神話や伝承の本をオススメしてみたいと思います。

現代、我々の常識には科学が根付いているので、幻想的な存在を本気で信じることが中々難しくなってきました。
我々の体験を超える多くの事柄が科学的に解明され、その背後に広がる広大な未知のスペース(不思議さが生じる曖昧なままの余地)の存在を感じさせなくなってしまったからでしょう。
そんな現代は、特に神話や言い伝えの面白さが際立つように感じます。

人がその認識を科学的根拠で固めようとする理由の一つに、世界全体を整理された形でスッキリと認識し、全て分かり切った心境(もしくは専門家に分かってもらって)で安心していたい、という願望があるのではないでしょうか。

我々が普通に教育されてきた論理的、分析的な認識方法は言ってみれば、事物に名前をつけて大きな分類の枠のどこかに入れることでそれを認証し(知っているとし)、そうして出来た分類棚が世界だ、とする見方と言えます。
事物そのものから受ける印象や感触よりも、その位置づけ、他の事物との関係性に重点を置く捉え方ですが、ここでは実感や印象、恐怖感など客観的事実でないものがあまり重要視されません。

また、この認識は知っているものだけで世界を構築するので、知らないものが覆い隠されてしまう所があります。
パソコンを前にして「コレが何か知っているか」と問われれば、その機能や機種についてその人が知っているわずかな情報のみを意識して「知っている」と感じることが出来ますが、その際にプログラミング言語や細部の構造、部品の一つ一つ、その素材、どこの工場でどんな人々の手によって作られたか、等背後に無限に広がる膨大な「知らない事」は全て認識されません。
この意識で周囲を見渡しても知らないものは見当たらない(意識に上らない)ので、世界が知っているものだけで構成されているような安心感を持ってしまいますね。
更に曖昧なままのスペースがないので、想像の幅も狭められてしまいます。

本当はその背後の分類すら出来ない膨大な未知の塊こそ世界そのものだと思うのですが、これの認識は生半可じゃないですね(禅や道などが体感的にアプローチする所でしょうか)。

体系的な世界観が無かった時代の人間は「自分達が混沌の中に理由もなく存在している」という感覚と供に生きていたのかも知れません。
自我を持つ人間にとってこれはちょっとしんどいので、世界や人間の成り立ちを説明してくれる物語が必要とされ、先ず神話が生まれたのではないでしょうか。
やがて世界観のマジョリティが宗教や科学に取って代わられるのは、やはり神話が人々に安心感を与えるタイプの話ではなかったからじゃないかと感じます。

しかし神話のポイントは、この本能的な恐怖感や不思議さを誤摩化す術もなくそのまま表現している所だと思います。

一見荒唐無稽なギリシア神話もあらゆる自然界の暗喩に満ちていて、自然に対する畏怖に貫かれた表現には科学にはないリアリティがあります。

自然の影響をもろに受けて生きていた時代の神話に見られる「我々の存在等気にもかけていない、強大で横暴でスケベでワガママな神々(自然)に、組み敷かれつつ守られつつ生きている人間」というような意識は、高い人格を持つ神様や安定した物理法則に守られた人間存在の理念よりも、ずっとリアルに感じます。
森や海を神話でとらえていた時代の人は、自分達を取り巻く広大な未知の部分を未知の部分として意識していたからでしょうか、翻弄される人間の立場、人間の無知と無力を良く理解していたということが神話や言い伝えからは伝わってきます。

また多くの神話には滅びの予言があり、人々はいつか世界がバランスを欠いて崩れてしまう、という恐怖に日々怯えながら暮らしていたそうですが「危なげなバランスの上に立っている」とか「生かされている」という感覚は今こそ必要な意識かも知れませんね。

もちろん科学は素晴らしい恩恵を与えてくれる、我々の生活とは切っても切れない大切なものです。
でも賢明な科学者程、掘り進む程に「人間なんて何一つ知らない」という事実を感じるというようなことを言いますね。
正しい認識の科学はテングのハナにならないのでしょう。

最近考えていた事まで、つい長々と書いてしまいましたが、もちろんこんな事は意識しなくても神話は十分楽しめますよ。
絵画のような美しい表現や詩的な展開と、現代では許されないようなエロスとグロテスク、残虐性と荒っぽさのダイナミックな表現に心を奪われます。
科学的常識に毒されていない時代ならではの驚きの発想力が大変魅力的です。
現代の文学のようにストーリー展開に期待するよりよりも、この発想と感覚を楽しむと良いと思います。

また、科学的常識は忘れ去って挑みましょう。
世界の始まりが「熱も音も無い暗闇からかすかな動揺が始まり、ささやきとうめき声が起こり、光明が現れ昼にまで成長した」と説明されれば、その様を思い浮かべ、それが発展して今にまでつながってるんだなぁ…と、本気で信じながら読みましょう。
太陽神の話なら「お日様は宇宙空間に浮かぶ恒星で地球の方が回っている」という固定観念を捨て「あの空の光は神様だったの?!」と思い込み、輝きながら毎日天空を旅する神の姿を太陽に見て読んだ方が楽しいです。
「昔の人はそう考えたんだ」という姿勢で読んでしまうと、面白さは半減します。

どうぞ全ての常識を忘れ去って、いにしえの世界観にどっぷり浸かって見て下さい。

果たしてこんなくどくどした長話に最後までつき合って下さる方はいるんでしょうか?
そんな奇特な方には感謝を込めて、大した話ではありませんが一つお教えします。
夜の時間帯に店内ガラスショーケースの前に立って入り口側のラン間を見上げると、その角度からだけ天井板に絵窓の星が写り込んだ様子が見えて、ちょっとキレイです。
ごめんなさい、それだけです…。


category:2010 | by:アール座読書館 | - | - | -

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