バリエーションの魅力

2019.08.28 Wednesday 19:18

涼しくなって参りました。

今年も暑さのピーク乗り切りましたね。

皆さんお疲れ様でした〜。

 

例年ですと、もう鳴く虫の入荷を始めている時期ですが、今年は長雨の影響か虫の羽化も遅れているらしいです。

でももちろん今年も開催予定ですよ。

もうしばらくお待ち下さいませ。

 

お知らせしておりましたが、この8月でアール座の喫煙コーナーが閉鎖になります。

 

コーナーとか言っても、使う人も少ない手作りの換気扇装置で、あまり落ち着いた喫煙が出来るでもなく、また時々若干の臭いが客席側に漏れてしまうこともあるという微妙な存在価値の装置でしたが…(゚ー゚;A

 

昨今のように「権利」というものが過剰に意識される世にあっては「何の非もない人がちょっと嫌な思いをする」とか「好きなことする人が肩身の狭い思いをする」とか、境界線を侵害されるようなことって意外とあってもいいんじゃないか…とか思ってましたが、分別の進んでいく現代にはなかなか時代錯誤な発想だったようで、いつまでも存続させてくような代物でもなかったみたいですね。

 

ご利用頂いていた方、またお好きじゃなかった方もごめんなさい。

無事、無くなりましたんで。(;^_^A        

 

今どきはこんな風に時代に逆らうこと言うのとか、ちょっとドキドキしますね。

 

今マスレベルで見てると、人々の中にルールやモラルや責任を強いる感情的な正義らしきものが巨大な渦を巻いてはターゲットを見つけて襲い掛かる、ちょっと恐ろしい世の中になってます。

 

SNSというものが、人々の感情をまとめ上げる上でシャレにならない影響力を発揮しているのもありますが、ネットユーザーからTVのコメンテーターまで、強く物言う人の基本姿勢がとかく物事に対して批判的です。

 

「批判が世の中を良くする」みたいな意識が根底にあるのかもですが、ここまでくるとどうなんでしょうね(←批判してる?)。

 

「否定」や「批判」って、この時代を象徴する重要なワードになる気がしますが、思うのは同じ批評でも、対象の魅力を見つけて、そこから何かを得ようとする肯定的な態度と、気に入らない点に目が行って何か言いたくなる否定的な姿勢って「個性を容認する」姿勢において、精神性が根本的に違うように感じます。

 

概して「ほめる批評」って、従来の形を飛び出す部分に目が行く所があって、これまでに無かった所や他には無い要素をピックアップして「普通と違ってここが面白い」というタイプの意見が目立ちますが、けなす方って「この部分が足りない」という内容が多く、「〜はこうでなければ」というあるべき理想型を想定しつつ、欠けているポイントに目を向ける形式主義的な見方が強いようです。

 

もちろん僕だってどちらをすることもありますが、この「特異性」を受け入れる、もしくは許さない、という二種類の意識の傾向って、この国の今後の方向性を決定付けるカギになるような気もします。

 

「個性を大切に」とか「皆と同じでなくたっていい」みたいな言葉自体は、昔から盛んに言われますよね。

 

表現の世界や広告のキャッチコピーなんて、こっちじゃないとダメみたいなところあります。

でもキーワードとしてよく聞かれるだけで、本当に多くの人が雑多な個性をまんま受け入れるのって、やっぱり簡単じゃないみたいです。

 

正否や優劣の軸で区分するような見方に比べて、人は根本的に、雑多な様相をありのままに受け入れる認識の仕方の方が苦手なんでしょう。

 

我々みんな、子供の頃から通信簿で優劣つけられて育ってきてますから、まぁ無理もありません。

 

僕自身もかつて、この優劣のシンボル「通信簿」に関して、あるコンプレックスを持ったことがありました。

 

それまで成績なんてあまり気にもせずに生きてきた僕でしたが、忘れもしない、中学2年生の年度末に渡されたそれを見て愕然とした経験があるんです。

 

1ばっかとか言う話じゃないんです…。

 

何とその年の通知表、全学期全科目がきれ〜にオール3だったんですね。 

見たことあります?3だけの通知表。

 

この手の話って当事者でないと中々伝わりにくい所があるのですが、そのときの僕は「なんか、ダサ…」とは受け流すことが出来なかったんですね。

 

「え?…え?…」となってから、説明難しいのですが、死にたくなるような恥ずかしさと悔しさに包まれ、ウルっときたのを覚えています。

 

とにかく目立たなくて、友達にも先生にも何かとスルーされてきたような子だった僕は、多分元々その辺のコンプレックスがあって、その成績の普通さが過剰に意識されてしまい、まるで「お前はとことん平均的で、いてもいなくてもいい透明人間のような奴なんだ」という事実を数値で証明されてしまったような恐怖感に襲われたんだと思います。

 

う〜ん、思春期だなぁ…。

なんか、かわいいなぁ…。

 

よく自虐的に「おれなんて体育(もしくは音楽、美術)以外全部1だったからなぁ…」とかいう人の台詞、僕いまだに自慢にしか聞こえないです。。でもちょっと自慢じゃん!アレ…

 

結局そんな中学時代が反動になって、思い返せばその後高校、大学時代の僕は自分の凡人ぶりを必死に隠そうとして個性派アピールばっかやってたような気もします。

 

「そうか、だからこいつ変な店作って、いまだに変わったことばっかやってんのか…」とか思われると今でも死ぬほど恥ずかしいし悔しい。でも多分そう…。

 

きっと心の奥に、ずっと個性への憧れとコンプレックスがあるんでしょうね。

 

そんなだから、アール座読書館はもちろん個性至上主義の方でして、座席も食器も同じものは一つとしてありません(ウソ 同じグラスとかちょっとある…)。

 

でも、店というものが必ず店内の什器を全て統一していた昭和の時代から、僕は「もっと色々なタイプの座席がある店があればいいのに」と思っていたクチで、90年代のカフェブームで初めて不揃いの椅子を並べた「カフェ」なるものが登場したときにはとても嬉しくてワクワクしたものです。

 

僕、何か好きなんです。こういう不揃いというか、バリエーション的なもの。

様々なタイプの同種のものが並んでる光景にとっても弱い。

 

何というか「バージョン違いフェチ」みたいなモノなんでしょうか。

 

よくある新商品のカラーバリエーションの広告みたいに、単なる色違いの同型物が並んでるだけじゃ物足りないんです。

 

もちろん、てんでバラバラでもダメで、同じ道具の違うタイプが沢山…という所がミソなんですね。

分かる人いますかね。

 

 

「コレクション」という趣味がありますね。

 

僕自身は物品に対する所有欲というものが大したことないので、コレクター気質の方はあまりないんですが、それでもやっぱり男子なので子供の頃から集めたりはしましたね(ロッテのガムの包み紙とかカッコ良かった!)。

 

店のコーヒーカップ類だって、元は旅先なんかで集めては部屋のガラス棚に飾っていたコレクションのようなものでしたし、他に喫茶店マッチや鉱石のコレクションなんかも、店にはありますね。

 

また、集める方は大したこと無くても、集められたものを見るのは結構好きで、手芸用のボタンでも電車の模型でも、専門店にコレクションがディスプレイされていたりすると、詳しくもないのに入ってマニアの振りしてニヤつきながら眺めたりしてます。

 

だから都内にもよくある、個人経営の何々博物館、みたいのは良く行きましたよ。

 

大名時計とか、知識もないのに並べてあるのを眺めてるだけでワクワクしてしまうのですが、あれって一体何なんすかね? 

 

よく収集癖は男性心理特有のものとも言われますが、そこに含まれるものなのかな?

 

でも例えば、知り合いに凄い顔が似てる人三人いたら、誰だって顔写真並べたくなっちゃいません?

 

みんな子供の頃から見てきた戦隊ヒーローやチームプレイで戦ってくタイプのマンガ、バンドメンバーやアイドルグループや団体競技の代表チームのように、それぞれが違いつつ全員キャラが立ってるタイプのシンボルにも、皆どこか魅きつけられるものがありますよね。

 

そんなのにも似てる感じがするんです。

 

そこには必ず「共通性(目的、役割、形状、ユニフォーム…)」とそれに対する「相違性(個性)」がどちらもあって、その両立こそが魅力になってます。

 

例えば、切手1枚とコイン2枚と王冠1枚とビー玉2個と…みたいに共通項の無いものが雑多に並んでるのって何もときめかないですが、どれか一種類に限定して沢山並べると、途端に興味引かれますよね。

 

切手なら、あのサイズ感と四角いフォルム、そして例の目打ちで切り取られた独特の形状といった、ある種「縛り」にも見える共通項があってこそ、その中での個性の違いが魅力に感じられる所があります。  

 

似ているものを並べたくなる心理の深層には「違いを確認したい」「対象を良く知りたい」という知的好奇心のような本能もあったりするのかも知れません。

 

でも僕がそう言う個性に感じる魅力って、明らかにそれ以上のものなんですね。

これもオール3コンプレックスの裏返しなんでしょうか…。

 

実は最近、店に色々なテーマの図録、写真集系の蔵書を増やそうと入荷したのですが、それ系の書籍の世界で展開される、そのジャンルに特有の多種多様な姿、性質のバリエーションの様相に、僕は期せずして心打たれ、感動してしまったために、今、急に興奮気味にこんな話をしている次第なんです。…という訳で、皆様どうかもう最後までお付き合い下さい…

 

中でも生物系の写真図鑑は傑作揃いです。

 

「多様性」というものの力が凄まじいまでに展開されている生物種の世界は「みんな違う」ということの凄さを、最も如実に物語っています。

 

いや、ホントにすごいんです…生物種のバージョン展開!

そして何よりも、あの神がかった造形美!

 

生物が時間と共に様々に姿を変えてきたことを「進化」と呼びますね。


最初は自分と同じコピーを増やす分裂のような単体増殖をしてきた生物ですが、やがて現れた、オスメス2体で増えるタイプの種は必ずどちらの親とも少しだけ違う質を持った個体を産みだしました。

この「個体差」としか言えない様なほんの少しの「違い」が悠久の時間をかけて膨大な「多様性」を築き、やがてそれ自体が生命力の源になっていくのですが、この進化というものの芸術性が、ちょっと神がかってるんです。

 

 

少々話がそれますが、アール座のフロア中央に3本並ぶ細い柱の内2本に飾られている、2つの小さな蝶の標本をご存知でしょうか。

 

実は彼女たち、かのチャールズ・ダーウィンの進化論を決定的に証拠付けてくれた立役者だったりするんです。

 

どちらも、中南米に生息する「ドクチョウ」という属に分類される蝶の一種で、その名の通り毒を持っていました。

 

その昔、ヘンリー・ベイツという昆虫学者がアマゾンで新種を探しまくっていた頃、このドクチョウの生息域に、一見これらと全く見分けのつかない程同じ姿をした、完全に別種の蝶がいることを見つけたんです。

 

これが生物学では有名な「擬態」というもので、例えば毒を持っていない蝶でも毒蝶に姿が似ているだけで、それを嫌う外敵に狙われる確率が下がり生存率が上がるため、結果、時間と共にその特徴がより強く表れ(どんどん似てくる)それが受け継がれてゆく、という風に獲得される性質です。

 

ダーウィンの「種の起源」が出版されたばかりの頃は、世間がまだ「生き物の姿が昔から変わってきただなんてバカなことを!これだから学者は…」などとせせら笑っていた時代でしたが、ベイツはジャングルの中でこのドクチョウを調べまくり「擬態」という事実を突き止め、明らかに目的を持ったその姿と、その進化、変遷を示すサンプル標本群を提示することによって「じゃあ、こういうのはどういうことだよ!」と世間の常識に向かって突き付けたわけです。

 

でもこれって、歴史的にはついこの前と言っていいような時代の話なんですね…

今の常識だってアテにはなりません。

 

話がそれましたが、このドクチョウの話ずっとしたかったので、ついでに出来てよかった。

 

とにかくそんな風に生み出される特徴(他との違い)のバリエーションこそが、新たな進化への可能性を広げ、やがては偉大なる生命力となります。

 

よく図鑑とかに「進化系樹」という生き物の進化を一括して示した図が載ってたりしますが、あれ見てると僕、本当は全ての生物って一種類としか言えないんじゃないかという気になって来ます。

 

確かに「現代」とか一つの時代で区切ると、目の前には姿も性質も違う多くの種類の生き物がいるように見えますが、時間軸を区切らずに太古から現代までの全体像でとらえると、例えば我々とその祖先になる大昔の類人猿って、親と子の間の、変化とも言えないようなちょっとした個性の違いが連綿と続いて少しず〜つ進化の形になっているだけで、この人から前がホモ・エレクトゥスでこの人以降がホモ・サピエンス、みたいな区切れ目って、当然どこにも存在しません。

 

そう思うと、現実的には旧人類から現生人類まで本当は全て同質のもので、我々が「種」という観念をもって種名を付け、どこかで無理やり区分しなければ、全部一続きの繋がった一生物種でしかないんですよね。

 

これを拡大すると、我々とゾウリムシも、また同じようにそこから枝分かれした鉢植えのサボテンだって、全ての生物は一つの境い目もない同種の兄弟としか言えないところがあります。

 

太古から一度も切れ目無くつながった「生物」という巨大なひとかたまりの存在でしか無いんですね。

 

そうやって見ると、今目にしている種の多様性って、みんな同じもののバージョン違いみたいなもので、つまりは個性なワケです。

 

形成に恐ろしい時間がかかっていますが、みんなDNA螺旋を持ったタンパク質塊という縛りの中で、いろんな経験を経ていろんなタイプのやつになった、というだけのことです。

 

そうやってそれぞれの方向にばらけていくんですね。 

それが本来、一番自然な成り行きなのでしょう。

 

無数の生物種と呼ばれる命がそれぞれ全く違う道のりを経て全く違う個性の力によって長い時間を生き残ってきているという事実ほど、バラけることの凄さを力強く示してくれる証しが他にあるでしょうか。 

 

これを思いながら、今、アール座のおすすめ図書のコーナーにある、きのこ図鑑(世界の美しいきのこ)や粘菌図鑑(粘菌〜驚くべき生命の謎〜)、ニックブラントの動物写真集(On this earth←こんな美しい動物写真見たことないです)とか見ると、僕は楽しいどころではない感動のようなものを覚えます。

 

神がかった美しさを持つ生き物の生態やデザインは、そのどれもが完璧かつ全部違うという点において揺るぎないものであること、無数の失敗やアクシデントを繰り返しながらも、紛れもない自分なりの自然な道を歩んできた中で生まれてきた姿であるということを強く感じさせられます。

 

もう店閉めて、アフリカとかアマゾンとか行きたい…。

 

そしてさらに、人の歴史においてもこれと同じような所があるとなると、もう冷静ではいられません。

 

「アルベール・カーン コレクション」という、100年前の世界中の民族の姿を記録した写真集などは、ページを繰る度に、本当に様々な土地の人々がそれぞれの民族衣装を誇らしげに着用して立っている姿が次から次へと現れ、感動の中で油断すると泣きそうな気持ちにもなってしまいます(メンタル不安定なのかな…)。

 

ディズニーランドにある「小さな世界」というアトラクションと同じ表現の、もっとリアルなやつですね。

 

世界各地の「小屋」を撮影し、それを徹底的に考察した、かの名著「小屋の力」も今さらですが入荷しました。

 

やはり写真資料に見られるバリエーションの凄さが見応えの中心となっています。

 

何でそんなにも感動してしまうんでしょう?

僕は疲れてるんでしょうか?

 

きっと、この「バリエーション」という形態に含まれる「共通項の中での違い」という性質がカギなんです。

 

これを擬人化すると、僕は「同じような条件で生まれても、それぞれ違う道のりを自分なりに試行錯誤して進んで行く内、他と違う性質になっていく」という人の成長過程を思わず連想してしまうんです。

 

こういう風に、育つ過程で獲得される、他者とは違う後天的な特徴のことを我々は「個性」と呼びます。

 

似ているようだけど一つ一つ図案の違う切手を並べると、僕はそこに個性というものを強く連想して、何だか嬉しいような頼もしいような心持ちになったりするんです。

 

切手とコインを並べても、これは見えてこないんですよね。

 

 

閉店後にアール座のらくがき帳を開いてみると、皆さんがつづられた、置かれた現状におけるご自身の在り方や考え方、性格や気性、癖なんかに関する様々な思いが、時間を越えて刺さってきます。   

 

「どうしてもこういう風に考えてしまう…」とか、真剣な悩みやコンプレックスとしてつづられているものも多いので、こんなことを言うのは失礼に当たるのかも知れませんが、僕はそういうらくがきに出会うと、同情とかより先に、先ず感動してしまうことが多いです。

 

実際ノートに対する感想を見ると、僕だけではなく、他にもそう感じている方がとても多いように思えます。

 

「かわいそう」という意見よりも「勇気付けられる」というコメントの方が圧倒的に多いからです。

 

その人がその人としてもがきながら生きていること、他の人と違ってしまっているということに対する敬意と共感が先ず湧き上がって来てしまうのだと思います。

 

「個性」とか「その人らしさ」って、大抵世間では欠点と言われる方に沢山入ってる気がしますね。

 

世間的に長所とされる特徴って、皆がそちらに向けて意図的に持っていこうとするような特徴なので、その分社会的な要素も強いものです。

 

だから、それでも消せない自分らしさみたいな要素は欠点とされる方に色濃く残るのかも知れません。

 

世の中で、個性はとかく優劣の意識にかき消されがちですから、自分で自分を省みるときも、それに準じて、自分の個性を欠点と思ってしまうことが多いように思います。 

 

色々な性質を「優劣」の軸に沿って縦に並べた方が単純にとらえられるし、解釈も早いです。

 

でもタマには、人の能力をバラエティな個性として並列に見てみるのも大事なことかと思います。

 

例えば、小学生が体育の授業で50m走のタイムを計られますね。

 

そこでは10秒以上かかる子から7秒切る子まで「速さ」という一律の基準に沿って全員が1列に並べられたような認識をされます。

 

軸を一本作ると全体の状況を簡単に認識出来るし、全員を一つの目標に向けてまとめて統率していけます。

 

でもここで一度、「速いほうが遅い方より優れている」という価値観を外して考えてみると、見えてくるものが変わってきます。

 

ある子供が「全力を出して50m8.7秒で走り切る」ということって、実は他のタイムの子達にはどうがんばっても決して出来ないことなんですよね。

 

全てのタイムは皆、その子にしか実現し得ない個性そのものなんです。 

 

もちろん算数の点数だって同じことです。 

 

個性って、そういう見方をしないと、きちんと見えてきません。

 

僕は「全員のタイムが同じではない」と言う揺ぎ無い事実って、早い遅いよりも余程大事なことだと思うんです。

 

その違いによって「結果が分かれる」ということの方が、余程価値あることのように感じるんです。

 

それ次第で、陸上の道に進む人もいれば、コンプレックスになる人もいます。

 

もっと日常的な話なら、いたずらでピンポンダッシュして走って逃げても、速力の違いで逃げ切る子もいれば、怖いオジさんにつかまってしまう子もいます。

 

すると、そこからの展開の違いが、その後の人生を勢いよくぐんぐんと変えていきます。

 

だからオール3という実は中々個性的な成績を叩き出したヤツが、それにとらわれヒネくれたあげく、変てこな喫茶店出しちゃうこととかも起こりうるワケです。

 

この個性という要素がその人だけにもたらしてくれるミラクルは生物種の多様性を生み出す生命力と同じカラクリのものです。

 

「バリエーション」という言葉って、何となく「色々ある」みたいな意味の英単語かと思ってましたが、実際の訳は「変化」とか「変わること」を意味するんだそうです。

 

それぞれの道を進んだ沢山の「変化」が集まった結果が「色々ある」の方なんですね。

 

現在、アール座のおすすめ書籍のコーナーでは「正解が一つではない」という偉大な事実がこれでもかと言うくらいに強く証明されています。

 

もういい加減、社会とか見るのやめて、他の生物種の世界とか見てみるのも良いかも知れません。

 

「周りはみんなこうなのに…」とか、余計な思いや周囲からの変な影響を跳ね返して生きていくことだって出来ます。

 

かなり上級者レベルの現実逃避ですが、ウチのお客さんにはもうそのレベルの方沢山おられますので、今回はこんなハイレベルなおすすめしてみました。

 

今回も長くなってごめんなさい。

読んで頂いてありがとうございました。

 

でもこの辺の話って、この店にとっても僕の人生においてもどんどん重要なテーマになって来てる気がするんです。

 

だからもっと書きたい!また書くかも!

うそ…もういい?!

やだ。書く。

 

 

こういうパッケージじゃなくて、中にあるガムの包み紙の方。

きれいに中身抜いて銀紙戻したものを並べて眺めてました。

 

 

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2020.07.11 Saturday 19:18
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