年末年始のお休み Webサイト掲載のお知らせ

2018.11.30 Friday 00:58

年末年始の休業のお知らせ

 

勝手ながら、アール座読書館 及び エセルの中庭 は

 

12月30日(日)〜1月4日(金)の間、休業とさせて頂きます。

 

ご利用を予定されていた方には誠に申し訳ありません。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

アール座読書館をご紹介いただきました


モモコグミカンパニーの居残り人生教室 

Rolling Stone japan 様

 

大変に聡明で感覚鋭いBISHのモモコ'さんに、ご理解の深いインタビュー取材をして頂きました。

何とも魅力の多い方でした。感謝です。

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薄暗い場所と現実逃避のおすすめ

2018.11.29 Thursday 02:03

こんにちは。寒いすね。

 

先日、秋の虫最後の一匹のエンマコオロギが鳴き終わって、また静けさのアール座が戻って参りました。

外はようやっと冬の空気です。

 

前回は秋がアール座のメインシーズンなんて書きましたが、なんのなんの、本当は冬こそアール座に一番ふさわしい季節なんです(ずるい?こういうの)。

 

冬の使い方としてよくオススメしているのはですね、ずばり「おこもり」です。

冬ごもりするクマとかヤマネみたいな気持ちでご利用下さいね。

 

食料とか全部溜め込んでおいて、暗い穴ぐらの中で枯葉のお布団にくるまって何か月もムニャムニャと過ごす、あのスタイルの冬眠(仮死状態になる変温動物のそれと区別して冬ごもりと言ったりします)って、僕は本当に憧れてましまいます。

 

日々の現実的な事柄を忘れて、ひととき本の世界に入り浸ったり、空想妄想の世界に身を置いてみたりという現実逃避的な使い方はアール座が常におすすめする所ですが、実際冬の店内はこの「こもり」と「現実逃避」がかなりしやすい空気になるんですよ〜。

 

 

所で、アール座のコンセプトを説明する時にいつも使わせてもらうこの「現実逃避」というワードですが、よくよく考えてみるとこれって一体何なのだろうとか自分でも時々思っちゃいます。

 

文字通りの意味で現実からの逃避って実際には出来ないんですよね。

逃避している間だって現実の時間なわけだし…。

 

日常会話レベルの意味合いとしては、今やるべきことや直面している(すべき)事柄をおいといて、それと関係ない楽なことに目を向けちゃう、という位の所でしょうかね。

 

でもそう言われてもね。

それって何やってんでしょうね?

何から逃避して何を見てるんすかね。

 

というわけで、今回はそんなアール座のメインテーマ「現実逃避」とその必要性についてお話をしようと思います。

 

所でこの現実逃避って、いつでも自在に出来るようになるには意外とスキルが必要なんですよね。

 

試験前日みたいに強いプレッシャーかかったりすれば、誰でも自然と部屋にある、絶対に今読まなくてもいい漫画本を読破してしまうというような心理作用が起こったりしますが、何でもない時に意図的にやろうとすると、これがなかなか難しいものだったりします。

 

何が言いたいのかというと、実はアール座読書館のマスターってこの「現実逃避力」超絶ハンパないんです!…だめだ、ストレートに自慢したらすげえバカっぽくなった。

 

まぁ得意なんです、僕は。

自慢じゃないけど昔からこればっかやってきましたから、のび太の居眠りみたいにいつでもすぐに素敵な世界に逃げることが出来ます。

 

幼い頃から薄暗い場所にこもってファンタジーに浸るのが大好きでした。

 

子どもの頃はドラえもんに憧れて、部屋の押し入れに布団や電気スタンドや色々の道具を持ち込んでは小さな部屋を作り、戸を締め切ってひたすらその中で過ごしたり、近所のボロボロの空き家に一人で忍び込んでは中で昼寝したり空想したり食事(!)したりしてました。

 

今、自分の子供が日常的にこれをやってたら心療内科に連れて行きますが、幸い僕の親はなかなかのレベルの放任主義でした。

 

空き地に秘密基地というのをよくやってましたね。

子供の遊びの定番ですが、僕のはちょっと本格的で、近所の資材置き場から失敬してきたコンパネや角材に釘も使ったDIY級のやつでした。

 

内部には、世界制服を企む悪の組織が近所に攻めてきた際に、しばらく潜伏出来るだけの食料と生活用具、建物の中から反撃出来る装備や兵器が常備され、その戦術や戦闘計画に至るまでも厳密に練られていました。

 

普段友達とグループで遊ぶとき、僕はあまり目立つ子でもありませんでしたが、この時ばかりは皆に一目置かれて、場を仕切ってました…大きな体の巡査がやって来て、取り上げた隊員名簿を読み上げつつ全員整列させられ、こっぴどく叱られるまでの短い間でしたが…。

 

もっと成長して思春期に入ると、さすがの僕も現実を意識せざるを得ませんでしたが、そんな狭間でモヤモヤと重苦しい毎日から逃げ込むようにやはり薄暗い喫茶店に逃げ込んでは現実逃避に浸っておりました。

 

はい。筋金入りのネクラ少年(イケてない方)でした。

 

特に辛いことがあったわけでもないのですが、どうしてか学校や人の集まる場所が苦手なキライがあり、通学電車に乗ると、ついつい降りる駅を飛ばしてよそに向かいがちな不登校児でした。

 

もちろんマンガ喫茶やネットカフェなんて存在してませんので、昼間にお金もかからず一人で時間をつぶせるような場所と言ったら喫茶店か図書館くらいのもんだったのですが、今思えばこの二つって完全にアール座のルーツになってそうですね(不登校の賜物だったとは…汗)。

 

都内の図書館も随分行きましたが、大好きだったのは戦後からタイムスリップしたような古めかしい造りの薄暗い(リスペクト表現)喫茶店でした。

 

当時東京には昭和初期中期に開業したような古い喫茶店がまだ沢山残っていて、僕がよく行ったのは今やご近所になったネルケンさん(今や本当に貴重な存在!)や中野のクラッシックをはじめ、ライオン、ダンテ、物豆奇、邪宗門、穂高、李白、エリカ、もか、昔すいてたくぐつ草、一軒家だったカフェド・パルファン、その向かいで雰囲気がもの凄かったイカール館やべぇとまらねえ…懐かしい…(泣)。

 

今でも健在のお店なんかは、もはや先輩と呼ぶのも恐れ多い老舗ばかりですが、大抵は白壁が煙草のヤニで茶色く焦げていて、元から焦げ茶色であったろう柱や梁はもう黒光りしてたりして、埃のかかった絵画の額縁や彫刻の入った建材や革張りの古い椅子が何とも格好良く、クラシックの古いレコードがブチブチ言いながら回っていて、人も少なく(平日午前中!)、そして照明は飴色の電笠を透かす暗い電灯だったりするんです(最高…書いてるだけでワクワクする)。

 

こういうタイプの昭和の古い喫茶店(レトロとかモダンとまた違う)って、どこも決まって物凄い雰囲気(年季)が濃くて、最初はアール座なんか比較にならないくらい入りづらいし、意を決して扉を開けても店主さんとか大抵無愛想で口数も少ないし(上の店全部じゃないですよ)、迷い込んだような気持のまま座席を探し、一大決心をしてオーダーしたものです。

 

もちろん当時だってサービスの徹底した企業系のカフェとかは沢山あって、そういう所は扉からしてオープンな造りになっていて、フワッと入店すると笑顔の店員さんが最初から丁寧に案内してくれて、何一つ迷うこともつまずくことなく自然な流れでお会計まで行ける仕組みになってたりしますが、そういうお店は往々にして異空間で現実を忘れるというコンセプトを…持ってませんよね、そりゃ。

 

でも、昨今の日本のサービス業はこの部分がさらに加速しててすごいですね。

 

我々の生活って全てが完璧に合理化、マニュアル化されていて、大概の用事(買出しから料理とか)は音楽聴きながらやってても、当然のようにスムーズに事が流れます。

 

ちょっとお菓子のパッケージが空きにくいとか、引っかかりがあるような時って、決まって輸入品だったりしますよね。

 

間違えず、つまずかず、考えずに出来ることが当たり前のこととして徹底される環境では、人々がこれを妨げられることを非常に嫌うようになっていて、昭和のおじさんには何だか世の中全体が利便性のオバケみたいに感じられて恐くなります。

 

駅で人と待ち合わせようとして、結局行き違ったままその日は会えなかったりした時代が懐かしいなぁ…(後で家の電話で「北口じゃないの?」「南口って言ったよ!」とかやる 笑)。

 

 

話がそれましたが、とにかく僕にとって深く質の良い現実逃避が出来るのは「お決まりの頃にお伺いしまーす❤」というタイプのカフェではなく、店の奥で頑固そうなオヤジさんが新聞読んでる(上の店全部じゃないです 汗)、ちょっとドキドキするタイプの昭和の喫茶店でした。

 

外界と切り離されてるとか、迷いつつ自分で決めて進むとか、放って置かれるみたいな非現実的、非社会的な要素が効いていたのかも知れません。

 

そんな空間で空想やら妄想やら果ては自分の内面やらを旅した後、お代を払って薄暗い店内から外に出るとまだ昼間で、空がとてもまぶしく、現実に圧倒されて驚いたものです。 

 

 

入りづらさで思い出した話ですが、3階の「エセルの中庭」というお店は今でこそ皆様に認知して頂いて、ありがたくも沢山の方にご来店頂いていますが、以前まだ無名だったオープン当初は3階まで上がって来られた方が、内装を見てその異様な雰囲気に不安を感じ「え…ごめんなさい、やっぱり…」と踵を反してしまうケースが続出していたんです(先客がない時ね…混んでる時にはありません)。

 

オープン当初のそうした反応は経営していて精神的にこたえる部分もあるのですが、アール座の方である程度経験済みだったこともあり、「認知されてしまえば裏返って強みになるはずの部分」ととらえ、悪くない反応として信じ続けることが出来ました(ここで折れて路線変えちゃうとダメなんです)。

 

ただ、エセルは外国人のお客様の比率がとても高いお店なのですが、外国の方にそれをされたという記憶は一度もありません。

 

僕自身、独特の空気の強さに尻込みしてしまう日本人気質も分かる方なのですが、こういう気持ちの揺らがなさというか、自分の選択を疑わない気質を拝見すると民族性の違いというものを考えずにはいられませんでした。

 

聞いた話では、日本人って自己肯定感の低さがシャレにならないレベルなんですってね。

アンケート結果がもうブッチギリらしいんです。

でもこれ、自分も含めて何か分かる気します。

 

うーん、どうしても話がそれますね。

でも意外と後で回収されたりします。

 

 

思春期を過ぎ、もっと趣味が広がってからは、博物館(昔の科博も良かった)や公開されている洋館等、さらに沢山の非現実薄暗スポットを見つけていくことになりますが、結局そんな所で繰り返しやっていた現実逃避の時間は間違いなく僕のメンタルを支えてくれていました。

 

今思えば、もし当時あんな風に逃げこんで心を休める特別な空間が何処にも無かったら、あの気弱い少年は一体どうなっていたんだろうと、昭和の喫茶店への感謝を超えた思いがこみ上げます。

 

 

こんな風に四歳の頃から既に意図的な現実逃避を始めていた僕は、キャリアからしてもう筋金入りの…と言いたい所ですが、実を言うと子供というものは皆例外なくこれのエキスパートだったりするんですね。

 

以前「中間領域」というテーマでお話したことがあるのですが、子供は誰でもこの現実とファンタジーの合い間のような世界を作って自由に遊ぶことが出来るし、またそれがその後の精神の成長や意識の形成においても大変重要な役割を持つのだそうです。

 

さらに僕はこれが大人のアイデンティティーの安定においても、とても大切な過程だと信じていますが、この「大人の中間領域」というものこそ、言ってみれば「現実逃避」という行為とほとんど同義なんじゃないかと思えるんです。

 

 

現実逃避の対極にあるものを考えてみると、その象徴として「to doリスト」なんてものが思い浮かんだりもします。

 

僕もずっと多用している、物事を計画的に運ぶために、目標に一歩一歩迫るために無くてはならない重要なものです。

 

アール座の僕の仕事なんかは実のところ、会社で言う総務みたいな仕事がメインだったりします。

 

何処かの機器や器具什器が故障したり、何かしらが消耗してそのシステムの動きが滞ったりと、絶え間なく交互に訪れる管理、補修業務が仕事の大半だったりするんですが、もうこのリストがそれでひたすら埋め尽くされ続けます。

 

でも世の中の数ある職種のほとんどにはこれが必要だったりするんじゃないでしょうか。

無数のタスクを処理し続けていく要素が少なからず必要なお仕事の方が現代では普通なんだと思います。

 

僕なんかはスマホや手帳の上で永遠に続くとも思われるそれに、ヘタをすると人生そのものを持っていかれるような恐さを時々感じたりすることがあります。

 

本当の自分は何がしたいのか、最終的にはどうなりたいのか、自分は何のために生まれて来たのか、みたいな大きな視点がto doリストに埋もれてぼやけて分からなくなったまま人生が終わっちゃったらどうしよう…みたいな恐怖感が随分前からあって、それがこの店を作った動機の一つにもなっています。

 

間違いや迷いを許さないマニュアル化された社会環境が強要してくるこの「やるべきこと」という意識こそ「現実逃避」という言葉に使われている「現実」の部分のような気がしてなりません。

 

何をやるにも「正しい筋道」や「まっとうな方法」というものが「現実」であるとして、目の前に突きつけられている気がしちゃうんです。特にこの国は。

 

例えば自分で思いついたような「変なこと」って、あえてやろうとすると凄い力で何かと抵抗がかかったりするのを、僕はイヤというほど経験してきました。

 

例えば昔「エセル」でハンバーガーメニューをやっていたとき、そのバンズを四角くしようと考えたことがありました。

どう考えてもその方が美味しそうだし食べやすそうだし個性的にも見えると思えたからです。

 

所がやってみると、これがなかなか上手く行かない。

 

角バンズの仕入れ先なんてそうそうない(そもそもそんなものがない)し、何かで代用するには価格的に問題があったり、焼成を考えてもそれをオペレーション化出来るような器具が見つからないとかあって一向に計画が進まないんです。

 

とにかく世の中にそういうラインというものが出来上がっていないので、手段も道具も色々な要素を応用し、自分で一から考えて組み合わせるしかないのですが、これがとても困難で、何かを取れば何かが失われるみたいな状況に陥ってしまうんです。

 

これを従来通り「丸」にしてしまう方を選びさえすれば、全ての問題がキレイに解決されて全部スムーズに、かんったんに!事が運ぶんですよね。 

 

そこで困った僕が一体どんな手を打ったかというと…

 

断念しました。せめてもの抵抗でチャバタという不定形のパンを使ったりしましたがね…

 

社会はこんな作りになってますから、そうやって我々は文字通り「角」が取れていくんですね〜(ウマい例え話になった)。

 

 

「まっとうなこと」「正しいこと」とつながった「やるべきこと」こそが「現実」で、そこに向かわないことが「逃避」だとする意識は、いつの間にか自然な形で我々の中に植えつけられ、すっかり共有されています。

 

これって日本人の自己肯定感が低いという事実と、絶対に無関係じゃないという気がしませんか。

 

でもそんなことを踏まえて、その「現実」というものを改めて見つめてみると、それこそ本当は頭で作り上げた妄想のようなものなんじゃないか、ただまともな方厳しい方を「現実」と言い聞かせているだけなんじゃないかという風にも思えてきます。

 

考えてみれば本当は現実って、今目前に存在している光景のことでしかないんです。

更に言えばそれだって次々に絶え間なく過去になっていく幻のようなものなんです。

ましてやまだ決定されていないこれからの事柄なんて、現実のはずがないんですよね。

 

でも現実という概念って、そんな風に考えるいとまも与えてくれませんね。

 

今の僕は喫茶店経営者なので「カフェと言うものはこうじゃなきゃいけない」という正当性のようなものと、ここ数年さかんに闘ってきた気がします。

 

これが、変なやり方やマトモでない方法を凄い力で否定してくるように感じられるんです。

 ただでさえ迷いの中に溺れそうなメンタルに「自己満足だ」「恥ずかしくないのか」「そんなんでいいわけないだろう」と容赦なく牙をむいて来ます。

 

そんな僕にとって、自分の価値観だけで物事を考えようとする現実逃避の時間(ありえない方法や現実には出来そうもない手段に片っ端から思いを馳せます)はこれへのささやかな抵抗の時間だったりします。

 

そして抵抗するうちに少しづつ分ってくることがあります。

 

若い頃はそれがずっと社会の側から来るものだと思ってたんですね。

 

学校サボってほっつき歩いている自分に「何で学校行かないんだ」「もっと皆と楽しく過ごさなきゃダメだろう」と何か外部から自分を責めてくる世論のようなものがあるように感じてました。

 

でも、あらがい続ける内に次第に姿を見せてくるそれはよく見ると、紛うことなく自分の中にいる奴なんですよね。

 

自分の中に、逃げるな間違うなごまかすなと、世間のフリをしてさかんに自分を責めてくる意識があって、またそれは本当に外から責められることを何よりも恐れる意識と一体だったりするんです。

 

目下の所、僕はこの最終形態のラスボスとの闘いの場にまで辿り着いてはいるものの、為す術もなくボコボコにやられまくっている毎日です。

 

自己肯定とか、ほど遠い毎日です(泣)。

 

でもふとした時に「別にいいじゃん」とか思えて、ちょっとだけ気分が変わる瞬間があります。

 

捨てゼリフのようなその一言には必死の抵抗とある思いが込められています。 

 

「本当はこうじゃなきゃいけないなんてことは一つもないのかもしれない」

「やるべきことなんて一つもないのかもしれない」

「自分は何がやりたいのかということだけが、唯一の大切なことかもしれない」

 

いつも忘れてしまうけど、昔から何度となく浮かんできた思いです。

迷い悩んだ挙句にそれは思い浮かび、その度に、いつも必ず自分を守ってくれました。

 

断言出来るのは、今の自分を自分らしく形作っている要素は全てこっちから生じたものです。

厳しく現実的な態度やto doリストから生まれたものは一つもありません。

 

そしてそんなことを思えたのは、いーっつも!あの薄暗がりの下の時間でした。

 

ビルが立ち並び、自動車やスーツ姿の人々がせわしく行き交う現実的な光景の中では絶対に無理なんです。

そんな場所では、全ての視覚要素が自分の内面にブロックをかけてきます。

 

「現実」らしきものから離れて遮断して初めて、そこから逃避出来ると同時に、逆に普段見えていなかった内なる思いがはっきりと実感出来たりするんです。

 

あの頃いつもお代を払って店を出ると、外はまだ昼で、空がとてもまぶしくて驚かされるのですが、でも今さっき感じたその「思い」を携えて、またここでやってやろうというような気分にもなったものでした。

 

秘密基地に籠って、頭の中の悪の軍団をにらみつけていたあのちびと、あまりにも変わっていないのがちょっと心配ですね。

 

中二メンタルを自覚しているおっさんですが、これはヘタをすると小二…。

 

こんなとこまで読んでしまった皆さん、小二病の世界へようこそ…

 

 

と言うわけで皆さん!現実逃避したくなったでしょ!

 

逃げまくりましょう。

辛い現実なんて見なければ存在しないも同然です。

 

社会が許さなくても、貴方自身が許さなくても、アール座読書館が全部許して差し上げますよ〜。

 

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虫の声イベント

2018.09.14 Friday 02:17

秋の恒例企画「虫の声のアール座」始まってます!

 

現在アール座読書館では、店内にてスズムシ、マツムシ、コオロギ他数種を飼育しており、夜間には虫達の鳴き声が響いております。

 

秋の夜長の虫のオーケストラをぜひお楽しみ下さい。 

 

詳細 以下ブログ本文↓「虫の声と季節感のすすめ」

 

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虫の声と季節感のすすめ

2018.09.14 Friday 02:12

こんばんは。

4か月ぶりでございます。

やっと涼しくなりました。

今年の夏は沢山汗かきましたね。

毎日必死に飲み物ばっか飲んでた気がします。

皆さま大変お疲れ様でした。

 

酷暑を通り抜けて、やっとという感じですね。

 

アール座のメインシーズン!秋!

 

街中でも最近になってやっと虫の声が聞こえてくるようになりました。

 

でも、なんかいつもよりタイミング遅い気がします。

 

実は秋の虫が鳴く条件に気温というものもあって、大体1530℃位なんだそうです。

 

そう。30度以下なんですって。

 

例年ですと、東京なら虫達は八月下旬にはもう鳴き始めて、10月に入ると寿命を迎えていく感じなので、大体2か月以上は虫の声が楽しめるのですが…何せ、この気候…

 

秋、短くなっちゃうじゃん!

 

以前よりこのブログで季節、特に「秋」や「春」を感じることの大切さを訴えてきた僕ですが、温暖化と共にどんどんこの季節が短くなっていってしまったら寂しいですね。

 

感覚が自然の季節感から切り離されて、人間がまともに生きていけるはずがないのだ、とまで考えるアール座にとってはなかなか痛いことです。

 

…という訳で、今年も始まっております、恒例(?)「秋の虫の音楽鑑賞会」。

 

管理がなかなか大変なもので、忙しい年は見送られてしまいがちなこの企画ですが、今年は久々にしっかりしたメンバーを揃えましたよ〜。

 

勿体ぶるようですが、お伝えしたいのはその価値です!

 

こんな室内空間ってナカナカ存在しないのです。

 

童謡の「虫の声」ってありますよね。

「あ〜れ〜ま〜つ〜む〜し〜が〜♪」ってやつ。

 

でも実際、野生のスズムシとマツムシが同時に鳴いてるような自然環境って、今どき山間部でもそうそう無いみたいです。

 

ましてや秋の虫の中でも上質な音色の種ばかりを集め、その生音を聞きながらお茶をすすれる環境と言うのはもう太陽系のどこにもないでしょう(多分)。もちろん大自然の雑多な音色が混じるオーケストラは圧巻ですけどね。

 

虫の声イベントについては恒例行事なので、例年、過去ログにリンクを貼っていちいちの説明を省いてきましたが、今年は久しぶりに改めてご紹介したいと思います(過去の文章の引用や重複アリ)。

 

 

日常を離れ心を遊ばせるに最適な季節「秋」はそれを目的に作られたアール座読書館のベストシーズンでもあるのですが、これをより色濃く演出するために行っているのがこの「虫の声イベント」なんですね。
 

日によってはうるさいくらい鳴くこともあるんですが、そこは「静寂には音が必要」と考えるアール座なりのコンセプトもあります。参照→「無音と静寂」

 

皆さんは虫の鳴き声を本気で聞いたことがありますでしょうか?

 

何かをしながらちょっと耳を傾けるとかじゃないですよ。

交響楽団のコンサート聞くみたいにしっかりと「鑑賞」するんです。

 

聞きながら、短くも儚いこの人生を思ったり、世の憂いを感じたり、鳴いてる子の気持ちとか想像しながらその音色に思いをはせるということなんですが…まぁナカナカしないですよねぇ、そんなヒマなことねぇ…。

 

ヒマなこととはなんだ!

 

そりゃ人気ミュージシャンの音楽に比べたら地味だし、刺激少ないし、お金もかからないしね。

 

きっとそんなことからあまり相手にもされない虫の声ですが、人の世ではとかくこうした希少性や経済感覚と言うものが、美的感覚やその価値観と複雑に交ざってしまいます。

 

僕よく思うんですが、シジミの味噌汁って、フカヒレなんかよりも余程品が良くて奥深くて上質な味がすると思いません?

 

シジミ貝が希少種でなかなか採れないものだったり、汁に煮出すのに何段階もの手間がかかるものだったら、きっと高級食材になってたと思うんです。

 

でも沢山採れて簡単に作れちゃうから、平気で椀に残されるようなポジションにあまんじてるんです。きっと。

 

 

アール座店内の硝子ショーケースに面白い中国土器があるんです。

 

一番下の段の向かって左側の二つ。黒と赤の。

よーく鑑賞すると、弥生土器や土偶に迫るような力と趣きを持ったなかなか面白い逸品なんです。

 

骨董の専門家をしている親戚の叔父さんからの頂き物なんですが、実はこれ、どちらも先史時代(紀元前2000年!)の中国土器(発掘品)で、かつては百万の値が付いた物らしいです。

 

でも、なんでそんなものがこんな店にあるのかというと、現在その価値は数百分の一に下がってるらしいんですね。

 

後年、ある遺跡から同じものが大量に出土しちゃったんだそうです。

 

まぁだからこそウチのような店に並んでるんてすけども、でもね、関係ないですよね。

 

それ自体が大変な力を持った素晴らしい品であることには全く変わりないんです。

 

僕、店でこれ見ると思うのは人間の価値感なんて本当にいい加減なものだな、とか結局モノの価値って…え?虫の声の話?

そうだそうだ。

 

話を戻しますと、あんなに美しくて心和ませる音楽が大して人々に見向きもされないのは、きっと家の帰り道に普通に聞けちゃう(東京のはコオロギだけどね!)からなんじゃないかとも思うんです。

 

 

最近よく耳にする話ですが、実は虫の声をちゃんと聴くことが出来るのは日本人だけで、外国人はそれをノイズとみなして意識からカットしてしまっている(多分生活ノイズみたいに)から、コオロギはいても、鳴いていることにすらあまり気づいてないんだそうです。

 

日本では大昔から人々の心を和ませて来た秋の風物詩ですが、なんでも普通外国の人々はそれを右脳でただの「音声」として処理してしまうため、全く何も感じないという話です。

 

そこを日本人だけは左脳(言語脳)で「音楽」のように捉えることが出来るのだそうです。

 

でも僕思うのですが、日本では昔から文化としてそれが扱われてきたから、そんな意識で感覚出来るのであって、外国人でもその美しさに気づき、親しんで意識出来るようになれば左脳で聞くようになるんじゃないかなぁ。

 

つまり結局、興味や感受性の話だと思うと、現代の忙しい日本人だって怪しいもんですよね。

ヘタすると右脳で聞き流してる日本人の方が多いんじゃないかという気もします。

 

そんな時代でも、こんな店のブログ読んで下さるような皆さんにはきっとご理解いただけると思うので、是非おすすめしたいんです。

 

だって、秋の虫の声程気持ちを和ませてくれる音色が他にあるでしょうか!

もちろん、沢のせせらぎ、木々の葉擦れの音、森林の雨音など自然界の音には人の心を落ち着かせてくれるものが多くあります。

 

でも僕、これらと虫の声との間には決定的な違いがあると感じるんです。

 

同じ自然音でも鳥や虫の声というものはその主体の意思を担った、つまり「声」なんですね(羽擦って出すんですけどね)。

 

美しい小鳥のさえずりや虫の声には雑念や余計な感情なんてない純粋で崇高なものなのかと思いきや、実は異性への猛アピールだったり(綺麗な歌声はこちら)、雄同士の激しい怒鳴りあいだったりします。

 

え…そうなの?と失望されるかも知れませんが、でもね、彼ら必死なんです。

 

必死に唄ってるんですね。

 

何年か前、このイベントのためにコオロギを捕獲しようと、深夜に近所の緑地を鳴き声頼りに探し回っていたときの話です。

 

ひときわ大きな鳴き声に引かれて公園の石垣の方に行きますと、その石のとある狭い隙間からそれが響いているようでした。

 

ここで待っていれば出てきた所を捕まえらるんじゃないか、と思ったその矢先、すぐ横に全く同じことを考えている奴がどかりと座っていたのに気づいてドキッとしたんです。

 

石垣の手前に巨大なアズマヒキガエルが、岩のように微動だにせず、一心にその隙間を見つめていたんですね。

 

コオロギはもう絶体絶命の状況ですが、沢山食べなきゃいけない大ガエルの方だって命がけです。

 

呑気に昆虫採集なんかしてた僕は、命がけの弱肉強食の構図を前に、何だかバツが悪くなってその場から去ってしまいました。

 

で、それ以来、店で鳴く虫の声の聞こえ方もちょっと変わったりしました。

 

考えてみれば、一箇所にとどまってあんな大きな声で鳴き続けるのって、自然界の昆虫にとっては完全に自殺行為です。

 

明らかに生存競争に不利なはずなんですが、それでも彼らは鳴き続けて、何万年も命を繋いできたんですね。

 

短い期間内に子孫を残すための、命がけの歌声です。

 

どんなに美しくても「物音」と決定的に感慨が違うのは、やっぱり我々の中に、それが「小さな生き物が一生懸命鳴らしてる音」という意識があるからなんじゃないでしょうか。

 

小さなもの達の存在の切なさや必死な思いが胸を打つんだと思うんです(言い過ぎ?)。

 

 

最初に店で虫を鳴かせてみたのは2008年の秋でした。

 

何か季節感を出すアクセントになるかと思って、窓の外のプランターを網で囲ってスズムシを放してみたんです。

 

まだお客さん全然いなかった頃ですが、そんな空間に虫が鳴き始めて、うわわってなりました。

 

アクセントどころじゃないんですね。

 

予想を上回る影響力で室内の空気を一変させ、幽玄すら感じさせる何とも不思議な空気感を作り出してくれたんです。

 

まさにアール座の目指す静寂と同質のものを劇的に演出する力に驚いた僕は、次の年にはもっと本腰を入れて、他にも様々な種類も仕入れ、捕獲して、室内に飼育ケースを並べてアンサンブルを作りました。

 

もうBGMは必要なさそうだったので切ってしまいました。


そんな流れから、これがお馴染みの秋のアール座、定番企画となったわけです(今回は2年ぶりだけど)。

 

 

さて、今(9/13)すでに、夜の店内は沢山の虫の声に包まれています。
 

メンバー紹介です。

コールの後にそれぞれソロ演奏してるつもりで読んでみましょう。


主役はやはりこのヒト!スズムシ!音色が絶品。

「リイィィィン」という音色は単体でも綺麗ですが、数匹同時に波のように起こる合唱が素晴らしく幻想的です。

また主役でありながら、こうして多くの音色を合わせる時には全体を美しくまとめて繋いでもくれます。
 

マツムシは、一瞬小鳥かと思うような大きな声で鋭く「ピンッ ピリリッ」と鳴きます。アンサンブル全体を引き締め、アクセントと緊張感を与えてくれます。

夕方頃になると、この音がちょっと鳴り始めて、次第に音が厚くなってくるのが演奏会の始まりです。

コオロギの中で最も声が美しいと言われるエンマコオロギが奏でる、ゴキブリチックな見た目からは想像もつかない柔らかい「ヒョロロロ〜」という声はスズムシ以上に「侘び感」を醸し出してくれます。

 

彼らとスズムシの二重奏がオーケストラの骨格になります。
 

それらレギュラーメンバーに加えて、他数種のコオロギ(よく聞くやつ)や、今年はアオマツムシというのも入れてみました。

 

実は昨今嫌われ者の外来種なのですが、美しい澄んだ高音をリリリリリリ…と強く長〜く引っ張ってくれるので、一声でなかなかのアクセントと厚みを足してくれます。

 

これら大小20程の飼育ケース(管理まじ大変)をショーケースの後やフライヤー台の下、後の物置などに各所にサラウンド配置してみました。


湿度の低い日、日暮れ時から鳴き声は始まりますが、その頃になると最初「ピッ」とか「リン」とか澄んだ声が切れ切れに出始め、次第に多くの声が重なり、やがて美しい波音の様な合唱になってゆく様子は大変に趣き深いものです。

 

ちなみに、彼らが最も力強い音色で夢のように幻想的な音楽を奏でている時間のピークは、悲しいかな照明の消えた閉店後なんですね。

 

でも自然の美しさってそんなもんですよね。

人間が全部所有出来ると思ったらいけません。

 

前人未踏のジャングルの奥に、想像を絶するような美しい絶景が誰一人見ることも無く広がってたりするのが大自然…あ、虫の話でしたね。

 

彼らがフルパワーで鳴くことが出来るのは例年ですと9月いっぱい位です。
 

実は彼らには悲しい性(さが)もあって、メスがオスの美しい歌声に引かれて無事にカップルが成立し交尾を終えた後には、そのままメスがオスを補食してしまうんですね。
 

子供の頃に鈴虫飼ったことある方はご存じかと思いますが、秋も終盤になると鳴き声はすっかり止んでしまい、ケースを開けると腹を膨らませたメスばかりがワラワラと歩き回っているような恐ろしい光景になります。


何とも勇ましい肉食系女子達ですが、男子最後の一匹とか、一体どんな心境になるんでしょうね。


せめて「自分の最期はどの娘に食われよう」という位の選択権はあるんでしょうか。
 

その状況でも最後の力で鳴いてメスを呼ぶのだから、こちらもスゴい男気です。
命がけの恋ですね。


なので、日が進むにつれオスが食われて、音の厚みは少しづつ減って行きます(何というオーケストラ)。
 

なので、お早めにどうぞと言うわけです。


ほとんどのお座席には例年、手作りの「虫の声鑑賞ガイドブック」を置いております。
 

種類ごとの解説や、秋の虫に関する日本の古い風習などまとめてありますので、鑑賞のお供にご覧下さい(もしお座席に無かったらお知らせください)。
 

一年の季節の流れを最も実感させてくれる晩夏から秋にかけての時節(自論)、その一年のほんのひと時しか聞けない虫の声です。

 

僕はいつも、人が人らしく生きていくために季節を感じることが不可欠なことだと自戒も込めて思っているのですが、最近では実はそれが人の心を守ってくれているのではないかとさえ感じるようになりました。

 

その時、自分の人生にどんなことが起こっていようとも、それとは全く関わりなく同じスピードで夜空が回り季節が巡ってゆくことは、何だか冷たいような寂しいような無情な出来事にも思えます。

 

我々の身体だって、こちらの思いや悩みなど知らん顔で、淡々と呼吸し脈打っています。

 

でも実は、そのことが不思議と我々に安堵を与えます。

 

うんざるするような事態や時間のかかる難事に見舞われているときでも、そんな風にこちらの事情を無視してめぐり続ける自然の環境こそが、どんな状況でも我々を生かし、前に進めてくれることを我々は知っているからだと思います。

 

こちらの思いを無視してひたすら巡っていくこの世界の「時間」というものは、全ての生き物にとって全く平等に与えられた、最も暖かい出来事なんじゃないかとまで思えてきます。

 

というわけで、それを実感させてくれる虫の声です。

 

可能であれば、晴れた平日の夜とかおすすめです。

 

ちなみに個人的な話ですが、実は今年、僕は早番の日が多くて夜の演奏ほとんど聞けないんです(号泣)。

 

いいなー、お客さん!
 

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「今」と「ここ」のすすめ

2018.04.18 Wednesday 02:45

こんにちは。

とても爽やかな季節ですね。

 

寒くないし、暑くないし、蚊も飛んでないし、緑が濃くてお花も咲いてます。

考え事ばかりしてやり過ごすのは勿体無い時期なので、窓を開けて感覚を開いて過ごそうと思うんです。

 

でも、ソレって意外に難しい??

 

なんだかまとめサイトみたいな冒頭ですが、今回はまぁそんなお話です。

 

所でこの時期って、暑い日と寒い日が不意打ちで交互にやってきますよね。

 

僕、世の中の人ってちゃんとその日の気候に合わせた格好しててすごいなとか思うんです。

 

僕なんか家を出てしばらく経ってから、やっとその日が暑いか寒いか分かってくるようなタチなので、毎年三月頃の三寒四温の時期なんて道行く人が皆カーディガン着てる爽やかな街中を、一人着ぐるみみたいなダウン来て汗にじませてることとかよくあります。

 

そう言えば昔、友達と沖縄に行ったときに、僕は一人だけコーデュロイのパンツを履いて行って「やっぱあちいなぁ〜」とか言ってたら、皆に「バカだろ」と言われて知ったのですが、世の中の人って素材や生地まで考えて洋服選んでたんですね。

 

服の季節感って羽織る枚数と袖の長さだけで決まるのかと思ってたので、ウールとか厚手とか風通しなんて気にもしてませんでした泣き

 

僕みたいな人いるでしょうか?(いないか…)

 

意識が内側に向いちゃってるんですね。

 

道歩いてても取りとめもない考え事ばっかりしてて、感覚に意識が行ってないんです。

 

だから時々メガネかけたまま顔洗ったり、歯ブラシに洗顔フォーム塗りつけたりします。

 

最近なんて本当に頭がボケてきていて、今年の始めには財布を二日連続でなくしました。

 

お金やらカードやら諸々大事なものがまとまったヤツをなくして、どんよりした気持ちで一日過ごした後、家に帰ったら思いもしない所から見つかって「良かった〜」と脱力したその次の日にもう一度なくして、また夕方頃同じように出てきました。

 

コレやったことある人はあまりいないでしょう手

 

財布無くしたりすると結構その日の気持ちを持って行かれますよね。

 

そのときはこの気持ちのアップダウンの波をざぶんざぶんと続けざまに二つ超えて、2日目の夜に何だかとても幸福な気持ちになって(バカだね)、深夜に部屋でティータイム(下戸)をとりながら、キャッシュカードとか保健証とか普通に全部揃ってるってとても幸せなことなんだなぁとか、結果何も得ていないのに、今こんなに幸せな気持ちになれる(に気づける)のはなんだか不思議な気もするなぁ…とか色々考えてました

 

不安な気持ちで過ごした時間帯を相殺するように同じだけ取り戻してる、ということなんでしょうか

 

つらい風邪引いた時とかも、普段の体調がいかに幸せなことかを思い知らされ、治るととても幸せな気持ちになりますが、二日も経つとまたすっかり忘れてしまいますよね。

 

こんなにも色々悩みながら追い求めている「幸せ」というものが、実はただの気持ちの浮き沈みで、全て幻みたいなものなのかなぁ…幸せ不幸せって完全に心の状態なんだなぁ…ホモサピエンスってあんまアタマよくないなぁ…みたいなことを思いつつ、部屋で中国茶をすする夜でした

 

 

例えば、住まいも蓄えもなく明日の食事もままならない人が競馬場で拾った万馬券で100万勝った状況と、資産家が借金の保証人トラブルで一夜にして土地も家も財産も失って手元に100万円分の資産しか残らなかった状況って、きっと気持ち的には天国と地獄でしょう。

 

でもこれ、違うのは心理状態だけですね。

状況がそれ以前より良くなったか悪くなったかに起因する心の動きが違うだけです。

 

僕はよく、現状でうんざりするような問題を抱えて疲れたときに、例えばなんか悪いことして捕まって、長い服役を終えてやっと晴れ晴れとした気持ちでシャバに出てきて、これから何でもやったるぞーというまっさらで幸せな状況を本気で想像してみて、「それなら今この現状だって何をどうにでも出来るし、その状況よりも好条件が揃ってるはずだよなぁ」と、気持ちを前向きに持ってこうとしたりします。

メンタルが完全にまいってる時は上手くいかないけど、低迷から上向きに差し掛かる辺りだと効果的!

 

昔から「幸せになるための究極の方法は今手にしている幸せに気づくことだ」という意味合いの話が色んな形でよく聞かれます。

 

確かに現状で恵まれ、満たされているものに気づいて、そのありがたみを意識しつつ毎日を暮らすことが出来れば、もう何か無敵なのかも知れません。

 

でも、何ででしょう?

中々難しいんですよね、それって。

 

あらゆる状況に恵まれたセレブリティみたいな人達にも、心が満たされてない人は沢山いそうだし、それ埋めるためにあんな凄い買い物してるようにも見えるし…(別にそんなことないのかな?)。

 

逆に平均的な日本人だって自分専用のPCやら冷蔵庫やらエアコンやら持っていて、環境の厳しい国の人から見たらやはり大金持ちで「こんな暮らしが出来たらもう何もいらない」というくらいに思われる存在かも知れませんね。

 

でも実際の我々はそこに幸せを感じていることの方が稀で、やっぱり手にしていない方の事柄を求めて悩んでばかりです。

 

もちろん、こういう社会のストレスって貧困や生存すら厳しい環境のそれとは質が違うもので、職場の人間関係で悩んでいるときに「でも僕パソコン持ってるし」で解決するわけもないんですが、でも何で人って手にしている幸せの方はカンタンに忘れちゃうんですかね。

 

 

人間の思考が本質的にネガティブに出来ているというのはよく聞かれる話です。

  

人類が弱肉強食の連鎖の中に生きていた時代には、現状の利点に満足する性格よりもやってくる不安や新たな危険を気にする性格の方が生存に有利だったため、そんな気質が濃くなっていったという脳生理学的な説明です。

 

悲観主義が人間の特性だとしたら、恵まれただけではカンンタンには幸せになれないかもですね。

 

手元の幸せに気づけないことに関してもう一段絞って考えると、思い浮かぶのは「慣れ」という心理です。

 

現状よりも新たな危険に向かうような人間の意識というものは、本質的に、どうしたって変化に注意が行くように出来てますよね。

 

心ってずっと変化のない事柄からは次第に意識がそれていって、それよりも「変化」つまり感情的な波風や動きのあるモノ、新しい刺激や情報を与えるものの方に意識が向かいます。

 

ずっと手にしているモノよりも最近獲得、または喪失したばかりのものや、新たに獲得したいもの、失いそうなものに気持ちが動くので、その手の事柄の方が幸福感を動かすトリガーにもなりやすいです。

 

だから手にしてから長い時間が経つ幸せは次第に忘れられていって、次そこに意識が行くタイミングというのはそれが失われる時だったりします。

 

さらに現代社会では、この「意識が動きのある方に向かう」という人の心の特性を経済が逆手にとって利用するので、それがますます助長され、人々が刺激や情報の依存症のようになっている所があります。

 

依存や中毒って何でもそうですが、最初は「あってもなくても平気だけどあると楽しい、気持ちいい」という質のものだったのが、反復される内にその快楽には慣れてしまって「あるのが通常で、逆に無いのは耐えられない」という方向にどんどん変化して強い執着に変わってしまうものですよね。

 

この社会はとにかく人の気を引こうとする情報のカオスみたいな世界で、無数の情報発信元がより気になる情報や強く意識を引く刺激をあの手この手で日々大量に流して来るので、普通に暮らしていたらこの洪水を避けることは出来ません。

 

知らない内にそこからより強い刺激を選びつつ、人々は情報依存、刺激中毒に向かうしかないような世界です。

 

次々にやってくる情報に神経を奪われていたら、今の自分や恵まれている幸せなんて見ている暇もありません。

 

そんな我々は一人暮らしで部屋に帰ると、別に見たいプログラムがあるわけでもないのに何となくTVつけたりしますよね。

 

「何となく寂しい」という正体不明の不安感のようなものから逃げるように、誰もいない部屋に変化を入れようとします。

 

最近では部屋にTVが必須でもなくなったようですが、ネットやスマホを媒体として出来ることがそれに変わっているだけですね。

 

もっと穏やかなものだと、読書や音楽や考え事なんかも、その作用は同じかもしれません。

 

とにかく変化や刺激のない精神状態に身を置くことが苦手になっている我々は、どうにかして心に波風を立てようとします。

 

外からの情報や刺激を入れず、部屋でコチコチ鳴り続けるだけの時計の音をひたすら聞いてるのってナカナカに苦しくて、まぁ長いことやってられるもんじゃないです。普通は。

 

でも「今の幸せ」を感じるって、そんな心のあり方に近いような気もします(つまりそれくらい難しい)。

 

 

また逆に、意識を感覚(今)に引き戻すような日常の中の「面倒」や「煩わしさ」みたいな要素は嫌われて、世の中からどんどん遠ざけられます。

 

情報過多の害悪に比べるとあまり注目もされてませんが、僕はこの社会の病的な合理化という側面も中々大きな問題という気がしています。…が、コレはコレで個人的に言いたいこと沢山あるので、今回ははしょります。

 

 

感情を動かす刺激をひたすら与えられ、今そのときの体の感覚に戻る機会をとことん奪われるという、ちょっとコワい感じの環境に、我々は暮しているんですね。

 

現状を見つめ直すとか、今の幸せを感じるとか出来なくて当たり前な感じがします(でもアール座のお客さんは普通よりこの能力が高そう)。

 

そんな人の心の特性を我々のあらゆる不幸の原因とする考え方が古くからあって、仏教の座禅やそのルーツのヨガ瞑想、中国の気孔なんかもその例です。

 

「思考や感情は今この現状をありのままにとらえず、それに意味づけをしたりこだわったりすることで心の安定を奪い、それがあらゆる不安の引き金になる」という見方から、それらを手放して今ここにある感覚に意識を向けて心の充足をはかるというテクニックなんですが、情報も経済も大したことなかった時代からそんなのあるんですね。

 

ホモサピエンスって意外と賢い。

 

さらに最近ではこの「今」「ここ」に意識を持ってくることの重要性がよりさかんに言われていて、瞑想を基にした「マインドフルネス」というワードもよく聞かれるようになってきました。

 

ヨガや仏教ルーツのノウハウが臨床心理学に取り入れられて体系化され、欧米を中心に企業やアスリートの世界にまで広まっている、ざっくり言うと心の安定や効率化に大変有効なメソッドで、まぁ流行ってます(調べたらすぐ出てくる)。

 

ヨガ瞑想に近くて、とにかく一定時間、雑念を減らして行って思考を鎮め、ひたすら呼吸とか身体感覚の方に意識を向けていくトレーニングみたいなものなのですが、僕もコレやってみて色々な手応えを感じるし、もっと極めたら本当に意識や体質まで変わるんじゃないかとも思います。

 

別に今回、コレをおすすめする話じゃないのですが、アタマから雑念を消し去るような座禅に比べると、ずっと入りやすい形にもなってます。

 

でもね、じゃあ出来るかって言うと、やっぱり最初はなかなか思うように行きません。

 

今ちまたではコレが「難しくない」などと盛んに言われるので、余計に声を大にして言いたくなるのですが…意識を「今」「ここ」に持ってくるのってとっても難しいし、意外としんどい!

 

心静かな状況に置かれると、大脳が盛んに動きたがっているのが、ことさらハッキリ感じられます。

 

特に僕、ちょっと病的に考え事しちゃうタイプ(なんか分かるでしょ)なので、静かに瞑想なんてやろうとするとモノすごい力で雑念に持っていかれちゃって、そうそう今(感覚)に留まってなんかいられないです。

 

でも、そんなのって僕だけじゃない気もします。

 

あの瞑想中の時間が止まったような静かな感じって、きっと多くの現代人が苦手な所なんじゃないかと思うんです(アール座のお客さんは違うかも)。

 

この理由のとして、さっきの「人の気持ちは恒常的なモノから離れて波風に向かう」という特性や現代社会特有の刺激中毒がある気がします。

 

頭脳労働が多い上に情報依存の現代人の頭の中って、ひっきりなしに回転し続けているのが通常の状態なので、きっと静寂が落ち着かないんだと思います。

 

瞑想状態って親しめると大変に心地良いひとときのはずなんですが、こういう時代の日常感覚に慣らされた我々がそのままの感覚で挑もうとすると、あの非現実的な静かな時間ってなぜだか逃げ出したくなるような気持ちになったりするものです。

 

何でそんなにしてまで、考えていたいんでしょうね。

 

僕なんか、あわよくば徳の高いお坊さんみたいに完全な無になって、飛んできた小鳥が肩に留まる位の心持ちになってみてぇ〜とか本気で思ってるのに…(しかも瞑想中にコレ考えちゃう)。

 

 

実は時々、僕みたいな雑念人間にも自然とそんな状態になる時があるんです。

暗めの話するので、今ウツっぽいヒト気を付けてね。

 

それはいつも、睡眠が浅くて、明け方にうっかり目を覚ましてしまった様なときに起こるんです。

 

何だか寝つけないなぁ…と、まだ白い薄明りの室内で半身を起してボーっとしているのですが、どうにも頭がボケてて、妄想エンジンが完全に止まっちゃってるんです。

 

こんなときは身体の感覚が格段に敏感になっていて、室温やら自分の呼吸やらが明確に感じられ、一切の思考が飛んでしまっている、いわゆるレベルの高いマインドフルな状態に自然となっちゃってるんですね。

 

そこは薄明りと静寂の中で、極上の爽やかさと心地良さがあるのですが、同時にそれを凌駕するほどの強い寂寥感に包まれているんです。

 

どう説明するか難しいのですが、自分がいつも生きているこの世界のナマの感覚に久しぶりに気付いたような心持ちで、逃げ出したくなるような辛さを伴う無常観と言うか、孤独感と言うか…「とてつもなく寂しい場所に閉じ込められるように、今自分は生きて暮らしているんだ」という心境になるんですね。

 

僕は基本一人が好きなので、普段、寂しくなるっていうことがあまりないタイプなんですが、この時ばかりは違っていて、逃げ出すように考え事を始めると、亡くなった人々や自分が幼い時の記憶、年老いた周囲の人々や人類の歴史のことまで思われて、こうしてこんな世界にたった一人降り立って、消滅に向かってあと何十年も生きていかなければいけないという事実が、何とも長く辛く寂しいこととして感じられるんです。

 

思うにこの感覚って、我々が普段色々な刺激や考え事で必死に覆い隠そうとしている、本当の現実感のようなものなんじゃないかと思うんです。

 

雑念大王の僕なんて、普段は思考でこれを強く麻痺させているからこそ、あまり寂しくならないのかも知れません。

 

でも現実には、人間ってみんな一人ぼっちで生まれてきては何十年も色々悩んであがいた末に、結局一人ぼっちで死んでいきます(命も意識も誰かと共有は出来ません)。

 

一人ぼっちの意識の世界で何十年も楽しんだり苦しんだりした挙句、その全ての思いも行動も間もなく衰え、やがては自分の存在すら跡形もなく消滅し、忘れ去られてしまうという事実が我々の人生です。

 

これこそ、この世を生きる者が最初に抑えるべき現実で、頭は忘れていても体はよく分かっていることなんだと思います。

 

で、瞑想って何だかこの実感につながってしまう気がするんです。

 

この当たり前のことがすごく寂しく感じられるのって、きっと普段それを忘れて興奮気味に過ごしている反動みたいなもので、お財布なくしたときみたいに思い出されるモノなのかも知れません

 

いつも朝方そんな風になると、僕は抵抗を諦めて寂しい気持ちのままその事実を受け入れ、「じゃあ残りの数十年、何をしてから死のうかな」「別に何もしなくたっていいんだけど、どうせなら何かしとこうかな」「自分は何がしたいのか、明日起きたらよく体に聞いてみよう」という位の、あまり前向きでもないけど割とサッパリした心境になって、また眠りにつくんです。

 

苦手な僕が言うのもアレですが、瞑想状態って、そんな風に我々の身体が常に置かれているある種聖域のような場所(頭が必死にそれをごまかして忘れている間も)に重なっていて、「ここに生きている」という現実に直面させられ、「ここで一人生きていく」という覚悟を持たされるような作用を伴う気がするんです。

 

騒がしい夜の町から一人で部屋に帰って来たとき、ふとあの「自分が今一人ぼっちでこの現実の中に産み落とされ生き長らえている」という逃げられない事実が心をよぎりそうになるから、よぎったら嫌だから、人は慌ててTVをつけるんじゃないかなと、僕は勘ぐってしまいます。

 

幸いなことに(?)この社会では意識が今ここに居なくても済むような感情をあおる刺激物で溢れているから、普段人々は感情や思考をさかんに動かしつつ、「今」「ここ」に存在していることにフタをしたまま暮らしていけるんだなぁと感じるわけです。

 

暗…。

何だこのブログ。

 

まぁ僕はそんな理由から、瞑想とかやるときには難しくない気楽な日課のように考えるよりも、むしろ神聖で特別な領域に挑むくら

いの気持ちで入る方が上手く行ったりもします。

財布二回なくしたやつが何言ってんだか…

 

アプローチは人それぞれですが(というより普通はもっと気楽に力を抜いてやる)、こんな社会では本当に有効だからこそ見直されている瞑想系のプロセスは、心が疲れてしまう方にはぜひお勧めです。

 

また、専門的にヨガやマインドフルネスまで行かなくとも、考え事がてらその入り口辺りまでの心境になれるような場所も東京にはあります……よね!

 

アール座読書館は基本的に割と静かめな心の波風の方(読書や妄想や現実逃避など)を楽しんでもらえるお店ですが、かえって瞑想なんかにも非良い環境なのは言うまでもありません。

 

そしてそのつもりがなくても、最初ちょっと「今」「ここ」に引き戻されるような造りになってたりもします。実は。

 

頭を使う妄想や想像や現実逃避も、最初だけちょっと感覚を開いてそんなに聖域に軽く触れてから入ると、少し質が違ってくると思うんです。

 

ただ、使い慣れてる皆さんにはこのシステムの効き目が実は薄いので、ご自身でもやって頂ければと思います。

 

お席についたら少しの間感覚を開いて、気温や湿度、物音、肌に触れるもの、目に入るもの、味わいや匂いなんかを軽く気にしてみて下さい。

 

五感や直感で捉える感覚というものは全てその場その時にリアルタイムで起きている現実で、人の思いと関係ない素のままの要素です。

 

頭の中に生じる感覚以外の要素(過去や未来の事柄、出来事の意味付け)は人にはとても大切なものですが、言ってみれば感情や思考で呼び起こしている、かなり主観的な幻みたいなものです。

 

先ずは感覚の方だけをそのまま感じて下さい(僕あまり出来ないけど…)。

 

それだけ。

 

店内空間は非常に感覚に戻りやすい(戻るのが心地良い)環境になっておりますので、上手くいけばそれだけで「今」「ここ」に意識が置かれて、考えごとしながらアーケードを歩いていたさっきまでの日常感覚を一旦切ることが出来ます。

 

もしそれで難しければ、「今日の自分は何かこんな気分だな」とか「職場をやめて、引きこもってからもう2年か…」とか、思考で持っていってももちろんOKです。

 

それでもダメなら、いっそビジュアルイメージを駆使しつつ、宇宙空間の無数の星々の中の一つを凄い速さでクローズアップして行き、その星の内側の方の軌道を回る青い惑星の雲の下の一番大きな大陸の東にある細長い島の折れ曲がった真ん中ら辺の海側の土地の一角の中央を縦断する鉄道路線のちょっと脇…と銀河からアール座店内の座席に座る自分の姿までイメージを誘導して、今の自分を超俯瞰から捉えることで強引に日常感覚を切り替えてみたり…しないか…。

 

まぁ何でもいいのですが、最初のこんな切り替えは、意外とアール座時間をより濃くするコツだったりもします。

 

説明すると、今ここに生きてるという感覚にちょっと触れてから入る現実逃避や空想というものは、ただ思いをめぐらすだけの糸の切れた凧みたいな妄想と違って…ややこしいな…やっぱもうやめとこう。こんなこと説明しなくていいや。

 

後は現実逃避でも物語の世界にでもどっぷり現実に悩むでも妄想でも、お好きな静寂にどうぞ。

 

でも、糸の切れた凧みたいな妄想というのも素敵だ…。

 

 

 

 

 

 

 

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商品価格改定のお知らせ

2018.03.07 Wednesday 00:04

いつもご利用頂きまして、ありがとうございます。

 

この度当店は年間の売上額に応じ国税局より「消費税課税事業者」に指定され、本年より消費税の徴収を義務付けられることとなりました

 

それに伴いまして、全てのドリンクを一律価格にて税抜き630税込680に、また追加ドリンクは530(税込570円)に、他お茶請け等も価格を改定させて頂くこととなりました。

 

 

これまで、店内ご利用料でもありますアール座のドリンク価格は550円、600円、650円の3種の価格帯がございましたが、この度の改定は数パーセントの増税と違い、単純な上乗せですと0から8%という大幅な値上げにもなり、商品価格によるご負担の差も生じてしまいますため(特に650円商品)、生計と採算の成立を踏まえて試行錯誤致しました結果、3月15日より、この統一価格の形で対応させて頂くことを決断致しました。

 

尚、3階エセルの中庭におきましても現在の一律価格(650円)より30円アップの税込み680円に改定となります。

 

いつも色々とご協力頂いている皆様にさらなるご理解をお願い致しますのも大変心苦しいのですが、何卒、事情をご理解頂けますよう、お願い申し上げます。

 

 

 

                                                                    店主

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新年のご挨拶とストレスの話

2018.01.10 Wednesday 22:55

皆様、明けましておめでとうございます。

 

一年が早いですね。あまりにも…

いつの間にかすっかり年が明けててびっくりました。

 

んで、寒いすね。

久しぶりに冬っぽい冬だなぁとか思ってぷるぷるしております。

 

皆様体調など崩されておりませんでしょうか。

 

さて、アール座読書館もお陰さまで9歳

そしていよいよ10年目を迎えます。

 

10年目だって…

 

思わず経てきた道のりを振り返って「いやぁ〜10年か〜」と感慨にもふけってしまいますが、その後続けて「アール座も9歳かぁ〜」と思って、「え?9歳か…」となりました。

 

人なら位でしょうか

 

まだまだ全然チビですね 

ようやっと少しだけ周りの世界が見えてきた位の頃でしょう

 

9歳児が「いやぁ〜色々なことがあったなぁ〜」なんて自分の人生を振り返ってたら笑っちゃいますね。

 

思わず感慨にふけるのを中断してしまいましたが、その後「いやいや、色々あったし!」「わし頑張ったもん!」と言う気持ちもこみ上げてきたので、もう一度改めて感慨にふけり直すことにした年の暮れでありました。

 

もっとお爺ちゃんになったら鋳造の立派な看板作って、店名の下にsince 2008〜なんて入れてみたいもんです。

 

 

さて、お陰様で今年も何ごともなく無事一年を終えることが出来ました。

これも一重に…え?違う? 

 

はい、そうでしたすみません。

一つ前のブログで書いてる内容はゴマかせないですね。

 

自らのへなちょこぶりを露呈しつつ、皆さまにもご迷惑をおかけした一年でございました。

 

改めてお詫び申し上げます。

 

自分が作った空間でお名前も知らない方々(かたがた)方々(ほうぼう<ややこし>)から足をお運び頂いては自分のいれたお茶飲んでくつろいで下さるのって、若い頃から無用モノ意識の強かった僕のようなモンにはこれ以上ない程恵まれたありがた〜い境遇です。本当に。

 

「なんか体調ワリィんで…とか言って休んでる場合じゃないです

 

いやいや、もうトシなんでしょうかね…

 

よく中年男あるあるで、街中で自分が若い頃のジャンプ力の感覚でガードレールを軽くひょいっと飛び越えたつもりが、現実には全然足が上がっておらず、思い切りつま先をかけて派手に車道に転げ落ち、注目を浴びてしまう(もちろん体験済ピース)とかありがちなのですが、それに似た感じがしなくもないです

 

あれあれ?って感じですかね。

 

別にここで言い訳してるワケじゃないんですが、この所ちょっとそんなこと考えたりしてます。

 

よく飲食業界で「店舗を開業して三年後に残っている店が3割で十年後だと1割」という話が囁やかれたりします。

 

信ぴょう性の程は分かりませんが、本当ならば何ともありがたい話です。

 

ただ、最初の3、4年でパタパタと閉じていくのは実感として良く分かります(身にしみて知ってる)。

 

でも、そこまでもったお店が10年目までに更に半分以下になってしまうのは何なんだろうと思っていました。

 

最近では「その理由がもしかしてこういうことなんじゃないかなぁ」なんて勘ぐったりしてます。

 

つまり、開業以来張り続けていたオーナーの体力やメンタルがぷつっと切れるとか…パターンとしてありそうな気もする。

違うかな?知らないけど。

 

 

ただ(ご迷惑をおかけして言えた義理でもないんですが)、個人的にはこのタイミングで突然の休みとかとってみて良かったなぁと思える所もあるんです。

 

なんか色々重たい時期って、過ぎてみるとその感覚自体を忘れて、「アレ一体何だったんだ?」とか「別にちょっと踏ん張ればやり過ごせたんじゃないか」とか思えてきたりもしますが、ちゃんとダウンしてみることで、自分の体やメンタルの状態をしっかり意識する機会も持てるんですね。

 

もちろん世の中にはもっともっと比較にならないくらいハードで神経をすり減らす仕事で気張り続けてる人だって沢山いるんですけどね。

 

いいんです、おいらそんなタイプじゃないもん。へらへら。

 

かと言って、逆にもっと中央線のお店っぽく「ちょっと旅に出るので少しの間お休みします」的な貼り紙してふらっといなくなっちゃうのとかも、キャラ的にサラっと出来ないんだなぁ…。

 

っていうかそもそもこんな風に他のタイプの人と比べてること自体、ストレスの元になってそうですね。

もうやめよ。

 

 

ただもう一つ、これはお伝えしなければいけないお話です。

 

突然の長らくのお休みを終えた後、また夜間営業を再開した後に(当然不安でいっぱいでした)、また皆さまが以前と同じようにその時間にご来店下さって、以前と同じように営業が続けることが出来たということが、何というかもう、ただただ本当にありがたいことだなぁと実感致しました。

 

そもそもお客さんいなかったら、休業や再開どころか僕の生活すらないんですからね。

 

本当は何とも言い表せないことですが、シンプルに申し上げます。

 

いつも本当にありがとうございます。

 

またさらに、優しいお声がけや書き込みも頂きまして「これはもう、ちょっとかんたんな話じゃないなぁ」とも実感しております。

 

またそんな形でなくても、このお店ではお座席の方とものすごく伝わるものがあるんですよね。

 

アール座って、お話出来ない分すごく濃い空気のコミュニケーションがあるように感じませんか?

 

そんな無言のコミュニケーションも含めて、そんな皆様に、またそんな皆さまとの全てのめぐり逢わせに、感謝感謝です。

 

このお店の礎(いしずえ)がここにあるんですね。

 

僕、若い頃人嫌いな方だったんですがね…。

 

小学校の道徳の時間に教わるようなことが、四十代後半にしてやっと分かるようになりました。

 

こんな私共々、本年も、また末永くアール座読書館を何卒どうぞよろしくお願い致します!

 

今年は抱負とか語る余裕がない!

 

 

 

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平日夜間営業再開のお知らせ

2017.10.23 Monday 00:48

皆様お久しぶりでございます。

   

ようやっとブログを書けるレベルの頭脳にまで戻ってまいりました(笑)

 

もうずいぶん経ってしまいましたが、この夏の突然の休業とその後の営業時間短縮に際して、長期に渡り皆さまにご迷惑をおかけいたしましたことを先ずはお詫び申し上げます。

 

ちょうどこの休業期間中に何か辛いこととかあって、この店のような場所が必要な精神状態になって困ってしまった方もあるかと思います。

 

遠方からいらして、閉ざされたシャッターの前で茫然とされてしまった方、本当にごめんなさい。

 

また、お仕事帰りなど、いつも日課のように遅い時間にご利用されていた方には長期に渡りご迷惑をおかけしてしまったかと思います。

 

中には僕のことでご心配頂いた方もいらっしゃいましたようで、何とも申し訳ないような情けないような心持ちでおりました。

 

ごめんなさい。

 

お店の方は11月2日木曜日より、ようやく本来の時間帯(10:30閉店)で再開出来る準備が整いました。

 

大変お待たせ致しました。

 

僕ももう大丈夫です。

 

大病を患ったワケでもないのですが、長年の何と言いますか色々な種類の疲労心労が積もり積もって、身体や神経やがいっぱいいっぱいのまま感情も不安定な状態が続、ついにパッカーンとってしまいました(なんだそれ)。

 

どうご説明したら良いのか難しいのですが、これまで何とかこなしていた毎日の半日超労働が体の不調と共にキツくなって来たり(この2店は時間外の設備造作の維持管理が地獄ハート、以前は何でもなかった日々のちょっとした出来事がいちいち気持ちに刺さって来るような精神状態になってしまったりと色々重なりまして、恥ずかしながら一時的に店に立つのが辛くなってしまった次第です。

 

うーん…向いてないのかな…接客業…

 

生来コミュニケーションが苦手なタイプで、世のカフェオーナーさんみたいな人好きのするタイプと真逆の人見知り気にし過ぎキャラだし…何て言うか、場を仕切るのも苦手だし…体力落ちたし…メンタル弱いし…やはりこの職種は気質的にちょっと無理する部分が…

 

…ってそれがどうした!

 

職種溢れる世の中で「向いてないからやめた方がいい」とか簡単に言われる昨今ですが、向き不向きなんて実は大した話じゃないですよね。

 

だって全然やめたくないもん!

 

お客さん商売大好きだし!

 

すみません。なんで謝罪の後に逆ギレしてんだ。

 

という訳でお休みを頂き、勤務体制も再編成して僕自身も完全復活致しておりますので、営業時間は元通り22:00ラストオーダーの22:30クローズに戻します!

 

大変お待たせして申し訳ありませんでした。

 

僕の方も今ではすっかり落ち着いております。

 

を言いますと休業中の方が何だか調子も悪くて、どうにも神経が波立って夜も眠れず、目をギラつかせながら深夜の公園など徘徊してはお巡りさんの職質受けたり犬に吠えられたりして、家に帰って「おれは大丈夫なのか?」と朝方まで自問自答したりしてました(この手の人が珍しくない中央線沿線在住で良かった)。

 

が、さすがにこれ以上休んでいられないと時間短縮の形で店を再開させてもらいました所、不思議とそれから気分も落ち着き、この所はまともな睡眠や自分の時間が持てる毎日の中で久しぶりに穏やかな心境に戻りつつあります。

 

で、何とか平日夜の再開にこぎつけることも出来てやっと一安心という感じです。

 

経営者一人の体力やメンタルに影響されず、長期的に安定して維持出来るシステムを目指し、もっと健康的な若いスタッフに頼る方向を探ってみました。

 

店のコンセプトや目的意識、空気を作る細かいコツなどをスタッフ一人一人にかなり細かく伝えることになるのですが、皆、繊細に理解しつつ献身してくれております。

 

これだけ休んだ後で申し上げるのも何なのですが、ぜひぜひ、どうかどうかご利用頂けたらと思っております。

 

バイトを延長するので経営的なこともあるんですが、もう一つにはこの時間帯が今、穴場のような貴重なタイミングになっているというのがあるんです。

 

この所ありがたいことに土、日、祝日のピークタイムにご来店が集中し、またそのあたりは作業、お勉強使いの方の比率高いので多少慌しく現実的でもあり、正直アール座が理想と目指すあの透き通るような静寂空間を長いタームで実現することが、週末の昼間は部分的にちょっと難しくなってしまっている状況があるんです。

 

休んでおいて何ですが、平日の昼間にお仕事あってアール座を気に入って下さる方々やはりあの夜の時間帯をご利用頂きたく、急ぎ(これでも)体制を整えた次第です。

 

実はその昔、アール座読書館は21時閉店で開業したんですね。

 

こんなコンセプト通じるかな、という思いの中で始めたのですが、結果、最もアール座的な使い方をして頂けるお客さん層にお勤め帰りの方が多かったんです。

 

ただ、その方々だけは使える時間がかなり限られてしまうというジレンマに陥ってしまったため、閉店時間を限界まで伸ばし、体を張って守って来た…つもりがモウロクして守りきれなかった、というのが今回のオチでした。

 

つまりあそこって非常にアール座っぽい、お店にとっても大切な時間帯だったんです。

休んどいて言うのもなんですが…。

 

アール座は基本的に静かな場所ですが、中でも時々、神がかったような静寂がふいに訪れる瞬間があります。

 

無音空間というものとは違います。

音や動きはあっても、何だか空気が心地よく沈んで海の底みたいな神秘的な時間になったりするんです。

 

戸外の様子か、温度湿度みたいな条件なのか、またはそこにいる人や他の生き物が皆リラックスしつつ、落ち着いた波長が偶然揃うようなタイミングなのかなとも思いますが、本当の所良く分かりません。

 

一応スタッフにもそれを目指すよう伝えるのですが、実際は中々意図的に作れるものでもなく、やっぱりタイミングの話なんですね。

 

遅い時間はそんな波が多く長く訪れる時間帯でもあります。

 

空席待ちもほとんどありませんので、「どんなとこだろう?」と初めて利用される方にもおすすめの時間帯であります。

 

「こちとら使おーったってハナからその時間しか使えねぇんだ 何でもいいからとっとと延長しやがれ」と言う、復帰を待っていらした常連様の心のお声(そんなべらんめぇじゃないかもですが)も聞こえる気がします。

 

これだけお待たせして、本当にありがたいお気持ちだと思います。

 

実際平日の夜に利用されていた方々が、この所休日にいらっしゃるような場面をお見かけしても、それを感じて焦っておりました。

 

重ね重ね、大変お待たせいたしました。

 

11月2日木曜日より、平日夜間営業に戻します。

 

まだ未熟ですが、意識高い若いスタッフが対応する時間もございます。

 

僕も店を見つつ、延々手がけている2店舗の完成形を目指して(アール座すらまだ完成してない!?)、ガウディと競争するくらいの気持ちで無理せずがんばります。

 

そしてもちろん、週末も静かな時間は沢山ありますよ。

 

言ってもウチは静寂を売ってるお店なので、昼間だって普通のカフェよりは断然静かです(寒い日、雨の日特に狙い目)。

 

どうぞこれからも末永くアール座読書館をよろしくお願い致します。

 

こんな奴に言われたくないかもですが、皆様も無理せぬようお体気遣って下さいね。

 

特に睡眠。意外と大事。

category:2017,18 | by:アール座読書館 | - | - | -

昨年もお世話になりました!

2017.01.01 Sunday 03:00

あけましておめでとうございます。

 

元日更新です。

 

皆様どんなお正月を過ごされるのでしょうかね。

 

僕は今お休み中なもので、ここ数日は何だかお散歩ばかりしております。

自論ですが、冬って結構、初夏や秋に負けない位お散歩シーズンですね。

 

外の景観は良い感じに枯れてきて、北風に身をすくめながらも、なんだか爽やかな気分です。

 

静かな割りに季節感の濃い所がこの季節の魅力だと思うのですが、冬場に良く見かける雑草の葉の形状に「ロゼット」と言うものがあって、僕はこれ見ると「冬だなぁ」って感じます。

 

今頃の季節、空き地や草地に目をやると、地面から直接、細長い葉が平たく放射状に生えているような草、よく見かけますよね。

 

タンポポとかナズナ(ぺんぺん草)なんかは暖かい季節に咲いていた花や高い茎が落ちた後、地面の葉だけが残って冬を超すのですが、その冬越し用の形がこれなんです。

 

僕が毎日通うルートの途中にも、毎年秋の終わり頃に夏の枯草がきれいに刈り取られて更地になった後にまた新しく小さなロゼット状の葉が生えて来る土の路地があって、ちょうど今頃は赤ちゃんのような可愛らしいこれらが土の上にポンポンと幾つも置かれています。

 

花も実もないから地味で目立たないし、誰にも相手にされないどころか、ばんばん人に踏みつけられて潰れてたりする植物ですが、複雑な形状の葉を持つロゼットはデザインが可愛らしく、雪の結晶みたいの(特にタンポポ系)やどこかの家紋みたいのや素敵なパターンが色々あって、なかなか面白いです。

 

個人的にはそんな儚く可哀想な感じも相まってさらにそそられますが、景観が殺風景なこの季節はこういう地味で枯れた美しさが惹き立ちますね。

冬の雑草いじらしいので、ちょっと気にしてみてくださいね。

 

さて、アール座読書館はお陰様で丸8年を超え、9歳になろうとしております。

 

やばい…十周年が見えてきた…と言って別に何やるわけでもないんですが、何だかこの季節は毎度、何年目と意識して「ありがたいなぁ〜」とか「おいらも頑張ったなぁ〜」みたいな気持ちに浸るようにしております。

 

2016年も本当に沢山の皆様にお越しいただき、束の間の静かな時間をご一緒させていただきました。

 

皆様の貴重なひと時を分けて頂きましたことと、そのご縁に心より感謝いたします。

 

昨年もご利用いただきまして、誠にありがとうございました。

 

この所はありがたくも、以前よりも沢山のお客様にご利用頂けるようになりまして、ピークタイムにはお待たせしてしまったり、ちょっと静寂が薄れて、わたわたとしてしまうこともありました。

 

うちの場合一番混みやすい時間帯は、大体15時〜17時頃で、休日はお席待ちになってしまうこともあります。

 

今年は休日の15時頃に、そんなわたわたした空気になったりお待たせしたりが少なからずありまして、いかんなと反省しておりましたが、そんなタイミングに居合わせた方はごめんなさいね。

 

ちなみにアイドルタイム(空く時間)は決まって19時前後(食事時)で、休日でも17時頃からお席が空き始め、19時をピークに結構深い静けさが戻ることが多いです。

 

もちろんこの通りでないこともあるのですが、お時間に融通の利く方は参考にしてみて下さいね。

 

来年もどうぞよろしくお願い致します。

 

そしてブログも、もうちょっと頑張りたいな。

昨年は更新、3発でした…

 

最近あまり書けなくなってますが、でも、いつの間にか掲載記事数も何やかんやでトータル138項ですって。

 

開店当初、店の情報をお知らせする場が何もなくて、当時は少し経営に関わっていた僕の妻がせめてブログでも作った方がいいと言い始め(SNSも今ほど充実していないブログ全盛の時代でした)、まるでブロガータイプじゃない僕が渋っていた所、妻が書き始めてくれました。

 

最初は「どうせ一年も経たない内に止まるんだろう」と思っていたのですが、予想に反して、まさかの2回でストップしてしまい、これはさすがに恥ずかしいと、僕が代わって書き始めたのが事の始まりです。

 

最初の頃はカフェブログっぽくイベント等インフォメーション的な話が中心で、何だかキャラも固まってないし、変なことばっか言ってて恥ずかしい部分も多々あるのですが、それでもせっかくなので過去ログのアーカイブ(目次)とか作ってみました。

 

昔はギャラリーやらライブイベントやら、何と「仏像展」まで幅広く手を拡げていたんですね。試行錯誤の日々でした。

 

2年目くらいから書籍のおすすめをするようになり、これに合わせてに段々と自分の考えが入るようになってきて、最初こういうの読まされるのってどうかな…とかも少し考えたんですが、意外とそんなのが反応あったりして、じゃあ書いてしまえ、となってから次第に私的な個人ブログの様相を呈してきます。汗

 

あまり日記とか付けたことがないクチなんですが、文章で気持ちを残しておくと、後からその頃の思いが見られるのはいいですね。

 

「この頃こんなことでアタマいっぱいだったなぁ」とか思い出します。

 

そう言えば、座席のらくがき帳も年々冊数を重ね、もうかなりの数になってますが、近頃はそんな側面も出てきました。

 

これの面白さに引かれて読書やお勉強の予定を狂わされてしまう方が後を絶たない、この「らくがき帳」、もちろん僕もファンの一人で、レスポンスこそしておりませんが、いつも楽しみに拝見しております。

 

以前TVの取材で、全卓のらくがき帳を集めて積み重ねた様子を撮影したことがあった(もちろん内容は出しません)のですが、その時に100冊近くあったので、今はもう超えてるんじゃないかと思います。

 

ご覧になるお客様はご存知かと思いますが、あれの一冊に詰まっている内容の重みってナカナカですよね。

 

小さな冊子の一冊に、数百人分の様々な思いや感情が色濃く語られていますが、それが100冊って…。汗

 

昔よく、都市近郊の電車や高速を走る車の窓から巨大なマンション群が見えたりすると、「長い長い波瀾万丈の人生が、あの窓の数だけあったんだぜ…」と一人つぶやいていたものですが(80年代のハードボイルド小説やドラマでそういう表現よくあったんです)、それに似た感触を、あのらくがき帳からはもっと身近にリアルに感じます。

 

そして、そんな様子を8年も見ていると、さらにまた違う面が見えてきます。

 

まぁこういう場所のああいうモノなので、内容的にその時その時の悩みや苦しみ、喜びや意気込みなんかをお話される内容が多いのですが、最近は「あの頃悩んでたな」とか「気楽だったな」とか、一昔前のご自身を振り返る内容の書き込みもチラホラ見られるようになって来たんですね。

 

考えてみれば、昔高校生の制服着ていらしてたお客さんが、もう大学生活終えて就職されてるご様子だったりするのを垣間見させてもらう位の年月が経ってますので、当然そんな書き込みだってあるワケです。

 

古くからのお客様が、ふとご自身の4年前の筆跡を見つけて記されたような、そんな書き込みに触れると、僕の方でも「この人も色々あったんだなぁ」と何も知らないくせに勝手に共感してしまったり、またそれと同時に一つ思うこともあったりしました。

 

短いタームでは分からなかったのですが、5,6年も経つと大体皆さん、状況だったり心境だったりが大なり小なり変わっているものなんだなぁ、という一つの感慨に至ったんですね。

 

「そりゃ何年も経てば変わるだろう」と言ってしまえば当たり前のことなんですが、でも僕、なんかソレってすごいことだなぁと感じます。

 

心境がちゃんと変わってるって、例え悪化の様相を呈していようとも、色々なことを乗り越えていく生涯を思えば、全て「前進」ですよね。

 

人ってその場では、悩んだり上手くいかない時が不幸せで、調子の良いときが幸せと感じやすいものですが、もっと長いタームで考えると「幸せ」ってそういう波と違う次元でいつも背後にあるもののように感じます。

 

で、心境の変化ってそんな幸せに直接つながっているもののように感じるのですが、僕はこれが単なる環境の変化だけで起きることじゃないように思うんです。

 

外的な変化はきっかけになるだけで、やっぱり心境の変化って、無意識にも体が自力でメンタルを変化させて起こしている気がするんですよね。

 

変化させるというのはつまり、肉体の新陳代謝のように、何かを見聞きして何かを思うことで頭の中の古いものを少しづつ外に出し、代わりに外からちょっとずつ新しいものを入れて、ゆっくりと時間をかけて変えていくような「精神の代謝」をさせているように感じるんです。

 

長年らくがき帳を見ていて、それをますます強く思うようになりました。

 

一見どうにもならないような状況の中でも、絶え間なく精神の代謝が動いてちょびっとずつ何かを回すことでちょびっとずつ心持ちを変えていく。

 

些細な心境の変化はほんの少しだけ現状の捉え方を変え、それがちょびっとだけ状況に取り組む姿勢を変えさせることで、ほんのわずかに現実の状況を変える、という、意識すら出来ない小さな変化が少しづつ少しづつ果てしなく連鎖して、やがてそれが数年経つと、いつの間にか見事に状況を変えている、というような出来事が起きている気がしてなりません。

 

もちろん人はいつだって悩みが尽きないのですが、数年前とは悩みの種が変わっていたり、逆に本人の心構えが変わっていたりというのが普通のことなのって、きっとその結果だと思うんです。

 

そして、辛い時に何気なく吐き出すボヤきのようなもの、例えばアール座のらくがき帳に書かれているような言葉こそ、そんな代謝の「吐き出し」そのものなんじゃないかとも思えてきます。

 

だから、そんなものを書きたくなったり読みたくなったりっていうのは無意識にも正常に内面的な代謝が機能している証拠なんじゃないでしょうか。

 

そんな風に見ていると、例えば現状のどうしようもなく八方塞がりな状況に打ちひしがれたような記述の最後にも「でも今日は久しぶりにいい気分…」とか「さあ明日からまた…」なんて始まるシメの一文が、これから無数の攻撃を繰り返して、やがては高く大きな壁を打ち砕く小さな針の先みたいにキラリと光って見えたりもします。

 

 

それにしても、こちらで何も考えずとも起こる、こういう自律的な生命の機能ってすごいですよね。

 

3階のエセルで育てている植物って、結構アール座の水槽とかからの挿し木で増やしていったものも多いのですが、挿し木って葉が数枚付いた、ただの短い枝切れです。

 

それを土に挿しておくだけで、自力でそこに合わせた育ち方を選んで、根を伸ばし枝を広げ、やがては葉を茂らせて立派な一株の観葉植物に育ってくれたりするんですよね。

 

突然連れてこられた環境条件を見てそれが出来るということは、光が弱ければどう伸びるか、水分が多かったらどんな葉を作るか、育つためにどういう状況でどう持っていくかという無数の知恵やノウハウがあの棒切れの中に全て入っているということですよね。

 

植物のこれに驚かされることは本当に多いです。

 

今どきはこういうことをDNA情報の話で「シンカのカテイでそんなツクリになってるから」と簡潔に片付けてしまいますが、こうやって感情を入れずに解釈しちゃうと随分浅い話になっちゃいますね。

 

本当はもっと、ありがたくて尊いことなんです。

こういう話は全部擬人化して考えないと正確に理解出来ません。

 

動物だろうが植物だろうが、それぞれの種の進化の過程で、ルーツになる無数の祖先達が、みーんな様々な環境の中で何度も何度も困ったり悩んだりしてきたんですよね。

 

巨大マンションの住人の人生や100冊のらくがき帳に記された無数の思いみたいに。

 

そうした星の数ほどの経験と悩み苦しみと思いの蓄積が頑強なビッグデータとなって、今生きる我々の中に脈々と受け継がれているんですよね。

 

だから、ケガしても下から新しい皮膚が上がって来てきれいに傷を消してしまうという手品も、心に動きを作って悩みを消化したり状況を前進させたりという精密なプログラムも、全部意識すらしない自然の流れの中で見事に行われてしまいます。

 

なんか安心しちゃいますね。

しちゃってイイと思います。

完璧で無敵なんです、我々の体って。

 

例の可愛らしいロゼット葉だって、そんな風にして見ると違って見えてくるんですよ。

 

儚く見えるなんて言いましたが、実はそんなのとんでもない話で、あの子らは内部にものすごい力を秘めている生命力の塊みたいなやつなんです。

 

地味なあの形は、本当は宿根草が種まきを終えた後の厳しい環境をやり過ごすために最適なフォルムで、背を低くして冷たい風を避け、葉を極力落として消費を抑えつつ、地面に丸く広げた葉から太陽エネルギーをいっぱいに集めて充電しているんです。

 

全てはやがて来る春に向け、勢い良く花を咲かせ、再び種をまき散らすその時までに必要なエネルギーをひたすら蓄えているんですね。

 

だから人が踏んだって何でもないし、潰れたってちぎれたって平気でまた生えてくる。

 

目立たない姿の中に、たくましい力と意思を内包しつつ爆発するタイミングを虎視眈々と待っているナカナカに太い奴なんです。

 

今、悩み苦しみのさなかにいて動きが鈍くなっているような方は、近所にロゼット葉を見かけたら思いっきり感情移入してみてください。

 

あわよくば感情移入したまま、もう4,5ヵ月見守り続けてください。

 

初夏の頃には、その子が我々に秘められたそんな力を見事に見せてくれます。

 

もちろん、それでも気が滅入る時はありますよね。

 

はい、今年もお待ちしております。

どうぞお好みの形で静寂空間を使ってやって下さいね。

 

 

宅地っぽい空き地のロゼットに感情移入しないように気を付けてね。数ヶ月後に家建っててガーンってなるから。

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非科学のすすめ

2016.11.02 Wednesday 01:13

こんにちは。

秋真っ盛りですね。

いつもながら本当に良い季節です。

風は涼しいし、夜になると心地よい虫の声が…あ…………

 

そうでした、ごめんさない。

 

今年の秋は鳴く虫のイベント、きちんと出来ませんでした。

 

どうも色々重なり(毎度の言い訳ですが)、始めるタイミングが押してしまいまして、それでも実はちょっとの間鈴虫だけ入れたのですが、時期が遅かった分これも数日で終わってしまいました…

 

楽しみにされていた方、ごめんなさい。

何年も続けていただけに、僕自身ちょっと残念でした…(泣)。

 

雇われて働いてた時は自営業ってもっと時間作れて融通の効くもんだと思っていたのですが、中々そんなウマい話じゃないんですね。そりゃそうだ。

 

そうそう、重なった忙しいことの一つに、3階の「エセル…」の方で鉱石販売を開始したというのもあるんです。

 

せっかくなので、これちょこっと宣伝させて下さい。

 

3階エセルの中庭の店内ショーケースに並んでおりますのは、掘り出され叩き割られたまんまの鉱石の原石達(がほとんど)です。

 

お客様にはお好きな方も多いと思いますが、並べてみると、自然石というにはちょっと信じられないような色彩と輝きと造形に心を奪われます(アール座にも鉱石博物館ありますね)。

 

で、販売ですが、鉱石好きやパワーストーンのお店行かれる方(相場ご存知の方)なら、ちょっと「え?!」となる位の激安価格です。

 

全てぶっちゃけますと、この販売で利益を得るというよりは、エセル集客のための「客寄せキャンペーン」(特に平日!)の意味でやってるんで、採算二の次のこんな価格なんですね。

 

という訳で、商品販売、見学のみのご利用は出来ません。

 

「エセルでドリンク飲むとお安く石買えます」的な話なので、ご利用されたときがお買い上げのチャンスです。

 

ここでちょっと頑張って一万円出すと、いきなりソコソコのコレクターさんになれちゃいますが、ただロットでの大量仕入れをしておりませんので、売れ行きが良いと仕入れが追いつかず、カンタンに品薄になります

 

なので興味ある方はお早めにどうぞ〜。

 

宣伝こんなもんでいいですかね。

よろしくお願いいたします!

 

 

さて話変わりますが、今回この鉱石販売の商品ポップにパワーストーン的な説明文(恋愛に効果アリ、みたいなやつね)付けるかどうかで、ちょっと考えたんですね。

 

何にせよこのジャンルって昔から好きな人嫌いな人真っ二つですからね。

 

まぁ結果的には書いとくことにしました。

 

鉱石ってただ分類して飾るだけでなく、手で握って気持ちいいみたいな楽しみ方や「なんか今やたらこれが欲しい」みたいのがあると思うで、そんな時、頭に思い浮かべる言葉があるといいかなとも思うんです。

 

それに僕結構こんな類の話って昔から好きなんですね。

 

ここでも度々話しておりますが、個人的に非科学的なモノって、ありそうなのからかなり胡散臭いものまでジャンルを問わず興味の対象で、大抵何でも飲み込んで信じてしまいます。

 

カッパや雪男なんてゼンゼンいると思っているクチなので、パワーストーン位は余裕です。

 

そこで今回はそんな非科学な趣味を、ちょっと皆さんに押し付けて見ようかと思っておりまして…え?イヤだ?イイからイイから…という訳で今回は題して「非科学のすすめ」です。

 

お好きでない方には「自分は現実主義だから」と言う人から「何かあの世界特有のセンスや人種のタイプが受けつけない」という位の人まで色々かと思いますが、でも人間の感覚って結構本来的に非科学信じてるもんですよ。

 

ちょっと出雲大社の縁結びのお守りを力強く踏みにじりながら、「自分は一生、人の縁に恵まれませんように〜」って強く念じてみて下さい。

 

ね、抵抗あるでしょ。

 

「別にいいけど…何で??」という人…僕の負けなのでしないであげてね。

 

もちろん僕も「科学」というものを常識的感覚として持ってはいる(どころかこっちも結構好きだったりする)のですが、非科学的なものが真実味を帯びたときに、ふいにそれが揺らぐあの不思議な感触が好きなんですね。

 

そして「そんなことあるわけがない」という、常識的感覚が内包する「この世の中のことはもう大体分かってる感」みたいなものがあまり好きじゃないんです。

 

「非科学」といっても広いですが(というか、そんな言葉あるのかな?)、神様と科学が混在する古代、中世科学から現代の疑似科学、あらゆる神話宗教の神様と思想、妖精とか精霊とか妖怪民間伝承、霊的な話やシャーマニズム、黒魔術みたいないわゆるオカルト系、ユング派の心理学、あらゆる占いやスピリチュアル、超能力、超魔術(手品と言ってないやつね)、未確認飛行物体から未確認生物まで、もう不思議なものなら何でもかんでも含めてます。

 

僕が子供の時分には情報が少なかったからか、今よりも幻のものが沢山あって、超常現象や今で言うUMAみたいのはもっと真実味があったし、逆にスピリチュアル的なものや風水、占いなんかにはもう少し胡散臭いイメージがあり、いずれにせよ楽しい時代でした。

 

TV番組でも、スプーンがねじ曲げられたり、タレントさんが気功で飛ばされたり、生中継でTV局の上空にUFOを呼ぶ企画とかやっているのを皆ホントだウソだ言いながら、熱くなって見てた時代です(今あまり見かけないってことは、数字取れないんでしょうかね)。


イマドキの都市伝説とかって、現実的にあり得る(むしろありそうな)話が多いし、最近はオカルトにもサブカル色が付いて、最初から面白がる感じが入るので、「それホントの話??」というシリアスさというか胡散臭さが足りないのがちょっと残念です。

 

昔はそれがすごく強くて楽しかった。

 

よく昔TVで「NASAから流出した宇宙人解剖画像」とかいって、実験室のような場所でメスを持った科学者達が銀色の体を解剖する粒子の粗いハンディ録画の動画を流して、ホントだウソだとやってましたが、個人的な見解を言わせてもらえば、あんなの本物に決まっています。

 

だって血が出てますもん。人形のわけないです

 

もし、100歩譲ってあの映像がいわゆるヤラセで、体液を仕込んだ人形を作り、実験室を作り…という映像だったとしたら、ですよ。

 

モノを作る人間なら分かると思いますが、それって相当な大仕事です。

 

凄まじい努力と気持ちに加え、かなりの時間とお金もがかかっていることでしょう。

 

あとはこちらが疑心を除いて(コツがいりますが)、子供みたいにちょっと乗っかれば「宇宙人ホントにいたんだ」と思える所までやってくれているんですよね。

 

そんなにまでしてくれているのに、騙されることを恐れ、わざわざアラを探してつまらなく否定してしまうのが、僕にはどうしても健全な精神と思えません。

 

いると思った方が絶対面白いのにな、とか思っちゃいます。

 

 

同じ「そんなのいるわけないじゃん」でも、常識を盾に取ったものではなく、自分の感覚をフルに使って言ってるやつだと意味合いもズイブンと変わってきます。

 

昔、友達でちょっとアタマおかしい子(大人ね)がいて、彼女は普通に恐竜の存在を信じていませんでした。

 

すごく感覚的な子で、科学的な常識というものをハシにもかけず「あんな生き物いるわけない」「ウソだと思う」と平然とした顔で言ってました。

 

あと、織田信長とか歴史上の人物なんかも彼女に言わせれば「学者が勝手に言ってるウソ」で、じゃあ坂本龍馬は?と聞くと、「写真があるやつはいたかもね」と言い放ちます。

 

もちろん周囲は「写真が境目なんだ!」「だって恐竜は骨(化石)あるじゃん」と盛り上がります。

 

僕は子供の時から大の恐竜好きだったので、恐竜がいないなんて言語道断…のはずなんですが、逆にその感覚にはすごく共感を覚え、「骨あるじゃん」の方に強い違和感を覚えたんですね。

 

何かと言うと、僕、子供の頃よく上野の科博や恐竜展に行って、ホンモノの恐竜の骨格を前にしてやっていた遊びがあるんです。

 

以前お話した気もしますが、大きな骨格を真正面から見上げる位置に立ち「これホントにいたんだ」「生きて大地を走ってたんだ」と言う強い思いと共に、象やカバの皮膚のテクスチャーを使いつつ実写的なイマジネーションをフル稼働させて、頭の中でそれにリアルな肉付けをするんです。

 

ナカナカ難しいのですが、急にふっとイメージが強い実感をもって完成する瞬間があって、ぞわわ〜という背筋の感触と共に、目の前に立っている巨大な獣のリアルな存在感を一時的に感じたり出来たんですね。

 

ぽーっとなった後我に返って元の骨格標本を眺め直したときも「えー!これホントに今のヤツ(イメージで見たヤツ)の骨なの〜!?」「ホントにこんなのいたのかぁぁ〜」と二度楽しめる素敵な遊びです。

 

話戻りますが、そんな経験から言わせてもらえばです…

あんなのいるわけないんです。本当に。

 

陸上を走り回っていたあの巨体の実感って、ゾウやクジラ位しか知らない我々の感覚をはるかに超える、ちょっと考えられない程の存在感なんですね。

 

そういう遊びをしたこともないくせに「あれは太古の巨大生物の骨だとされている」という世の常識を借りただけで「だって骨あるじゃん(スネ夫みたいな声だといいかも)」とか言い切ってしまう子より、そんな遊びをしたこともないのに、普通にその実感をとらえているその女の子の方がはるかに真実に近い所に立っているように感じたんです。

 

でも世間の常識って、感覚の欠如したこの「だって骨あるじゃん」の方で出来てるんですね。

 

もちろん科学は素晴らしい恩恵を与えてくれる我々の暮らしには切っても切れない命綱ですが、現代はその整合性が社会的に強大な権威を持っていて「常識と違うおかしなことなんて起こり得ない」という冷めた感覚の大元になっているようにも見えます。

 

思うのですが、こういう論理的な認識の特性として「自分が知ってることだけで世界観を構成してしまう」という性質があるのではないでしょうか。

 

例えば机の上に「パソコン」というものが置いてあるとします。

 

これを指さして「これが何か知っているか」と尋ねれば、今どきの日本人で首を横に振る人はほとんどいないでしょう。

 

全く使ったことない人だって「何か画面見ながらカタカタやってインターネットしたり書類印刷したりするもの」という位の認知があると思います。

 

でもそのコメントに対して、使える人たちは「あんまり知らないじゃん」と思うかも知れません。

 

自分なら、先ずソフトとハードの関係や、もっと様々な役割や社会との関わりについて説明出来ると思うでしょう。

 

これがプログラマーの人だったら「世の中のほとんどの人はPCというものを表面的にしか知らない」という意識があるかも知れないし、更にそれを聞かれた人がたまたまその機種の開発責任者だったら「俺はこいつの全てを知っているよ」と我が子を見るように目を細めてつぶやくかも知れません(知らないけど)。

 

でも彼だって、その内部に小さな蜘蛛が巣を作っていることとか、使用されている電子部品の一つが実は悪徳業者が中古品を新品に偽装して販売したモノだとか、杉並に住むあるユーザーの家では不具合が多くて子供用のマシンにされてる、とかいう事実までは知る由もありません。

 

全員に共通しているのは「知らない部分(実はそっちが大部分)が意識に上がって来ていないからこそ、それを知っていると言い切れる」という事実があることです。

 

我々はこんな方法でこの世界を見て歴史や海外や宇宙のことまで、何の疑いも驚きもなく「知っている」ととらえています。

 

もちろん宇宙や自然科学なんかの話で「我々はそれについて実はまだほとんど何も知らない」とかよく言われることは知っていますが、感覚的には、正直そんな気全くしませんよね(してたら偉そうにブログで語ったり出来ないっす)。

 

この、知っている要素だけで世界のイメージを構成してしまう論理的な認識というものは、その背後に拡がる広大な「知らない世界」を覆い隠してしまうからこそ、我々を安心させてくれます。

 

近代以降、科学が常識として広く一般に受け入れられた理由の一つに、これもあるんじゃないかと、僕は思います。

 

それ以前の神話や宗教的な世界観って、人間が賄弱で世界が分からない所だらけで、それを軸に生きてゆくにはなかなかおっかない感じですよね。

 

物知りの現代人は自身の体験や感覚ではない様々なジャンルの知識や情報を大量に持っていて、これが頭の中で網目のようにつながって体系化され、疑似世界観のようなものが構築されていたりします。

 

ここでは、その体系の本棚のしかるべき場所に正確に整理、分類された事柄がその人にとっての「知っているもの」という確かな事柄として認識されます。

 

僕の若い時にも経験があるのですが、この「知っていること」だけで作られた理性的な世界観がまるで実世界であるかのように錯覚されると、それと同時に、すっきりと整理された形でこの世界を理解出来たような気持ち良さを一緒に感じてしまったりするんですね(特に男性)。

 

現実主義の人が非科学的なものに嫌悪感を示すときの心理は、こうした気持ちの良い規則性を乱し、邪魔する可能性がある異質物に対する不快感から来ているようにも見えます。

 

でも、逆に無知や混沌を受け入れて、ありのままで世界を感じるってのも、なかなかたやすいことではありません。

 

自我と思考を持った人間は、あらゆる物事がルールと関係性で結ばれた自分の居場所の「世界観」というものなしには、なかなか生きていけるものではないですが、近代科学以前には古科学や哲学、宗教、神話なんかがそれを担っていました。

 

今の科学と同じようにこれが「唯一の真理」として大多数の人に信じられていたわけですが、大きく違うのは、こちらは人間ごときが「知らない世界」というものをあまり覆い隠さなかったんですね。

 

亀や巨人(神々)に支えられた円盤状の世界のイメージは、自然に対する人間の無知、無能、無力がよく理解されていて、この感覚を思想の中にしっかりと内包しています。

 

この不安定な世界観はなかなかに恐ろしいものだったと思います。

 

近代科学が始まると、神々の意志とは関係なく足元の世界が万有引力の法則でしっかりと固定されたのできっと人々は安心したと思うんです。

 

そんな神話が失われてしまった現代において、未知の領域やカオスの空間の存在を認識出来る唯一の受信機が、人間が太古から頼りにしてきた感覚なんですね。

 

ここからアンテナを伸ばして暮らしてみると、忘れていたこの世界の実体が感じられ、夜空見上げるだけで恐ろしくもなるし、夜の森とか歩いてみると(危ないからやっちゃダメだけど)、得体の知れない魑魅魍魎(ちみもうりょう)くらい余裕でいるのが伝わってきます。

 

結局は自然への畏怖やこうして生きていることへの感謝にもつながるそんな感覚を大事にして暮らしていきたいと思う今日この頃であります。

 

でも本当は科学の世界だって、最先端の方は恐ろしく非常識で考えられないような世界が広がっていたりするんですよね(特に理論物理学)。

 

だから賢明な科学者は「実は人間はまだほとんど何も知らない」ということを誰よりも理解していたりするので、やっぱり何に対してもあのセリフを簡単に言わない気がします(非科学的である、と言ったりしますね)。

 

という訳で、ここは例のセリフ「そんなことあるわけがない」を封印して、ちょっと科学と常識疑いつつ、別の常識間や世界観を感じてみるのも悪くないかと思います。

 

 

さて、こんなたいそうな話を前置きにしながらも、ご紹介する書籍は別に神話でもスピリチュアル系の自己啓発本でもなく、かなりB級なラインナップです。

 

 

「フェノメナ〜現象博物館〜」J.ミッチェル/R.リカード 村田薫訳

「世界中の不可思議な現象を究明しつつ科学的にその謎に迫る」という感じの、まさに今回のテーマ「非科学」のど真ん中を行く一冊。

 

まだこうした事柄を扱う事がB級カルト的な色眼鏡で見られていなかった、古き良き時代の本気のリポート。

 

とにかく真面目なのがうれしい。

 

 

「キルヒャーの世界図鑑」ジョスリン・ゴドウィン 川島昭夫訳

科学がまだ神学とつながっていた時代の科学者なのですが、同時にケプラーやらニュートンやらも出て科学が神様から離れ始めた時期でもあるので、この人のような天動説ベースの思想はその後の歴史の中に忘れ去られてしまいます…が、今になってほじくり出す人がいるんですね。

 

昔の科学ってジャンルが細分化されていないから、学者さんって多ジャンルに渡って何でも屋さん的に研究の手を広げるのですが、とにかく好奇心と想像力が独特の世界観の中で爆発しちゃってます。

 

聖書や神話に基づいてこの世界の謎に迫る驚くべきワールド。

 

 

「月と惑星」

古本屋さんで見つけ、中を開いた瞬間に魅了され即買した大判の図鑑なのですが、特筆すべきは、これ1967年、つまりアポロ計画が始まりつつも月面着陸のちょっと前というタイミングに執筆されているんです。

 

なので、非科学といっては失礼なんですが、「もうすぐ月世界の全容が明らかになる〜」という思いの中で、月や火星における地球外生命体の可能性なんかが、科学的かつ本気で語られていて、図鑑とは思えないほど著者の期待感と高揚感が出ちゃっている面白い資料です。

 

さらに素晴らしいのがこの月面や惑星の地表を描いた豊富なイラストで、乾いた土ばかりの殺風景な地形の写実描写なのですが、それに不思議とワクワク感や迫力がにじみ出ていて、ちょっとした画集と言っても良いくらいの出来映えなんです(円谷プロのイメージ画みたいな感じ)。

 

 

「どこかにいってしまったものたち」 クラフトエヴィング商会

名著ですよね。

明治大正期に実在していた、ちょっと信じられないような不思議な小道具や玩具の数々が紹介されています。

全編に渡って真っ向から堂々とウソこいてる姿勢もとても素敵。

 

ファンタジー色が強いので「ウソ…本当にこんなのあったの???」という気持ちにまで持っていくには、あるレベル以上の思い込み力が必要ですが、大変想像力豊かで切なくなるほどロマンチックなおもちゃ達の物語り。

 

 

「奇想天外な科学実験ファイル」 アレックス・バーザ  鈴木南日子訳

これはカルト色強いです。

 

でも、扱われている事例はもちろん全て、実際に科学者が本気で取り組んだ科学実験ばかりで、その熱意に感服しつつも、やがて「科学者ってバカだね」という感慨に至ることうけあいです。

 

繰り返しますが、カルトです。

ギロチンで落とされた首に一瞬でも意識があるか?とか、覆面を被って赤ちゃんをくすぐり続けた実験の話とか、そんなのばっかり。

 

 

「謎の科学 30理論」

「疑似科学」という言葉は、発表された学説の中の特に非科学的で胡散臭く感じられるようなものをまともな学者が揶揄する時に使うような呼び方で、大抵は異端みたいな人が唱えるイメージですが、それだけにすごく理論的な説明がされていてワクワクします。

 

リアリストの人達が幽霊より超能力より何よりも一番腹を立てる非常識極まりない科学理論の数々。

 

アイヌお産ばあちゃんの「ウパシクマ」 青木愛子 述 長井博 記録

こちらはB級カルトでは決してありません。アイヌに伝わるイタコのような技術の最後の伝承者の口述をまとめたお話で、一口で説明出来ないのですがちょっとすごい内容です。

とにかくまぁ読んで下さい。

 

「遠野物語 妖怪談義」柳田國男
いわずと知れた妖怪本の教科書です。
このジャンルをはじめて学術的に研究した柳田ですが、あくまで調査報告として淡々と綴られる話にはドキュメンタリーのタッチがあり、非常に引き込まれます。
僕の好きな狐や狸の化かし話も、各地に伝わる質の良い伝承が多数紹介されていて嬉しいです。

 

 

こんなもんでしょうか。

 

関連書籍はまだまだ他にもあります。

おすすめ書棚に並べておきますね。

 

普通の話は一つもないです。

常識的感覚はそろそろ卒業してしまいましょう。

 

 

 

category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -

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