非科学のすすめ

2016.11.02 Wednesday 01:13

こんにちは。

秋真っ盛りですね。

いつもながら本当に良い季節です。

風は涼しいし、夜になると心地よい虫の声が…あ…………

 

そうでした、ごめんさない。

 

今年の秋は鳴く虫のイベント、きちんと出来ませんでした。

 

どうも色々重なり(毎度の言い訳ですが)、始めるタイミングが押してしまいまして、それでも実はちょっとの間鈴虫だけ入れたのですが、時期が遅かった分これも数日で終わってしまいました…

 

楽しみにされていた方、ごめんなさい。

何年も続けていただけに、僕自身ちょっと残念でした…(泣)。

 

雇われて働いてた時は自営業ってもっと時間作れて融通の効くもんだと思っていたのですが、中々そんなウマい話じゃないんですね。そりゃそうだ。

 

そうそう、重なった忙しいことの一つに、3階の「エセル…」の方で鉱石販売を開始したというのもあるんです。

 

せっかくなので、これちょこっと宣伝させて下さい。

 

3階エセルの中庭の店内ショーケースに並んでおりますのは、掘り出され叩き割られたまんまの鉱石の原石達(がほとんど)です。

 

お客様にはお好きな方も多いと思いますが、並べてみると、自然石というにはちょっと信じられないような色彩と輝きと造形に心を奪われます(アール座にも鉱石博物館ありますね)。

 

で、販売ですが、鉱石好きやパワーストーンのお店行かれる方(相場ご存知の方)なら、ちょっと「え?!」となる位の激安価格です。

 

全てぶっちゃけますと、この販売で利益を得るというよりは、エセル集客のための「客寄せキャンペーン」(特に平日!)の意味でやってるんで、採算二の次のこんな価格なんですね。

 

という訳で、商品販売、見学のみのご利用は出来ません。

 

「エセルでドリンク飲むとお安く石買えます」的な話なので、ご利用されたときがお買い上げのチャンスです。

 

ここでちょっと頑張って一万円出すと、いきなりソコソコのコレクターさんになれちゃいますが、ただロットでの大量仕入れをしておりませんので、売れ行きが良いと仕入れが追いつかず、カンタンに品薄になります

 

なので興味ある方はお早めにどうぞ〜。

 

宣伝こんなもんでいいですかね。

よろしくお願いいたします!

 

 

さて話変わりますが、今回この鉱石販売の商品ポップにパワーストーン的な説明文(恋愛に効果アリ、みたいなやつね)付けるかどうかで、ちょっと考えたんですね。

 

何にせよこのジャンルって昔から好きな人嫌いな人真っ二つですからね。

 

まぁ結果的には書いとくことにしました。

 

鉱石ってただ分類して飾るだけでなく、手で握って気持ちいいみたいな楽しみ方や「なんか今やたらこれが欲しい」みたいのがあると思うで、そんな時、頭に思い浮かべる言葉があるといいかなとも思うんです。

 

それに僕結構こんな類の話って昔から好きなんですね。

 

ここでも度々話しておりますが、個人的に非科学的なモノって、ありそうなのからかなり胡散臭いものまでジャンルを問わず興味の対象で、大抵何でも飲み込んで信じてしまいます。

 

カッパや雪男なんてゼンゼンいると思っているクチなので、パワーストーン位は余裕です。

 

そこで今回はそんな非科学な趣味を、ちょっと皆さんに押し付けて見ようかと思っておりまして…え?イヤだ?イイからイイから…という訳で今回は題して「非科学のすすめ」です。

 

お好きでない方には「自分は現実主義だから」と言う人から「何かあの世界特有のセンスや人種のタイプが受けつけない」という位の人まで色々かと思いますが、でも人間の感覚って結構本来的に非科学信じてるもんですよ。

 

ちょっと出雲大社の縁結びのお守りを力強く踏みにじりながら、「自分は一生、人の縁に恵まれませんように〜」って強く念じてみて下さい。

 

ね、抵抗あるでしょ。

 

「別にいいけど…何で??」という人…僕の負けなのでしないであげてね。

 

もちろん僕も「科学」というものを常識的感覚として持ってはいる(どころかこっちも結構好きだったりする)のですが、非科学的なものが真実味を帯びたときに、ふいにそれが揺らぐあの不思議な感触が好きなんですね。

 

そして「そんなことあるわけがない」という、常識的感覚が内包する「この世の中のことはもう大体分かってる感」みたいなものがあまり好きじゃないんです。

 

「非科学」といっても広いですが(というか、そんな言葉あるのかな?)、神様と科学が混在する古代、中世科学から現代の疑似科学、あらゆる神話宗教の神様と思想、妖精とか精霊とか妖怪民間伝承、霊的な話やシャーマニズム、黒魔術みたいないわゆるオカルト系、ユング派の心理学、あらゆる占いやスピリチュアル、超能力、超魔術(手品と言ってないやつね)、未確認飛行物体から未確認生物まで、もう不思議なものなら何でもかんでも含めてます。

 

僕が子供の時分には情報が少なかったからか、今よりも幻のものが沢山あって、超常現象や今で言うUMAみたいのはもっと真実味があったし、逆にスピリチュアル的なものや風水、占いなんかにはもう少し胡散臭いイメージがあり、いずれにせよ楽しい時代でした。

 

TV番組でも、スプーンがねじ曲げられたり、タレントさんが気功で飛ばされたり、生中継でTV局の上空にUFOを呼ぶ企画とかやっているのを皆ホントだウソだ言いながら、熱くなって見てた時代です(今あまり見かけないってことは、数字取れないんでしょうかね)。


イマドキの都市伝説とかって、現実的にあり得る(むしろありそうな)話が多いし、最近はオカルトにもサブカル色が付いて、最初から面白がる感じが入るので、「それホントの話??」というシリアスさというか胡散臭さが足りないのがちょっと残念です。

 

昔はそれがすごく強くて楽しかった。

 

よく昔TVで「NASAから流出した宇宙人解剖画像」とかいって、実験室のような場所でメスを持った科学者達が銀色の体を解剖する粒子の粗いハンディ録画の動画を流して、ホントだウソだとやってましたが、個人的な見解を言わせてもらえば、あんなの本物に決まっています。

 

だって血が出てますもん。人形のわけないです

 

もし、100歩譲ってあの映像がいわゆるヤラセで、体液を仕込んだ人形を作り、実験室を作り…という映像だったとしたら、ですよ。

 

モノを作る人間なら分かると思いますが、それって相当な大仕事です。

 

凄まじい努力と気持ちに加え、かなりの時間とお金もがかかっていることでしょう。

 

あとはこちらが疑心を除いて(コツがいりますが)、子供みたいにちょっと乗っかれば「宇宙人ホントにいたんだ」と思える所までやってくれているんですよね。

 

そんなにまでしてくれているのに、騙されることを恐れ、わざわざアラを探してつまらなく否定してしまうのが、僕にはどうしても健全な精神と思えません。

 

いると思った方が絶対面白いのにな、とか思っちゃいます。

 

 

同じ「そんなのいるわけないじゃん」でも、常識を盾に取ったものではなく、自分の感覚をフルに使って言ってるやつだと意味合いもズイブンと変わってきます。

 

昔、友達でちょっとアタマおかしい子(大人ね)がいて、彼女は普通に恐竜の存在を信じていませんでした。

 

すごく感覚的な子で、科学的な常識というものをハシにもかけず「あんな生き物いるわけない」「ウソだと思う」と平然とした顔で言ってました。

 

あと、織田信長とか歴史上の人物なんかも彼女に言わせれば「学者が勝手に言ってるウソ」で、じゃあ坂本龍馬は?と聞くと、「写真があるやつはいたかもね」と言い放ちます。

 

もちろん周囲は「写真が境目なんだ!」「だって恐竜は骨(化石)あるじゃん」と盛り上がります。

 

僕は子供の時から大の恐竜好きだったので、恐竜がいないなんて言語道断…のはずなんですが、逆にその感覚にはすごく共感を覚え、「骨あるじゃん」の方に強い違和感を覚えたんですね。

 

何かと言うと、僕、子供の頃よく上野の科博や恐竜展に行って、ホンモノの恐竜の骨格を前にしてやっていた遊びがあるんです。

 

以前お話した気もしますが、大きな骨格を真正面から見上げる位置に立ち「これホントにいたんだ」「生きて大地を走ってたんだ」と言う強い思いと共に、象やカバの皮膚のテクスチャーを使いつつ実写的なイマジネーションをフル稼働させて、頭の中でそれにリアルな肉付けをするんです。

 

ナカナカ難しいのですが、急にふっとイメージが強い実感をもって完成する瞬間があって、ぞわわ〜という背筋の感触と共に、目の前に立っている巨大な獣のリアルな存在感を一時的に感じたり出来たんですね。

 

ぽーっとなった後我に返って元の骨格標本を眺め直したときも「えー!これホントに今のヤツ(イメージで見たヤツ)の骨なの〜!?」「ホントにこんなのいたのかぁぁ〜」と二度楽しめる素敵な遊びです。

 

話戻りますが、そんな経験から言わせてもらえばです…

あんなのいるわけないんです。本当に。

 

陸上を走り回っていたあの巨体の実感って、ゾウやクジラ位しか知らない我々の感覚をはるかに超える、ちょっと考えられない程の存在感なんですね。

 

そういう遊びをしたこともないくせに「あれは太古の巨大生物の骨だとされている」という世の常識を借りただけで「だって骨あるじゃん(スネ夫みたいな声だといいかも)」とか言い切ってしまう子より、そんな遊びをしたこともないのに、普通にその実感をとらえているその女の子の方がはるかに真実に近い所に立っているように感じたんです。

 

でも世間の常識って、感覚の欠如したこの「だって骨あるじゃん」の方で出来てるんですね。

 

もちろん科学は素晴らしい恩恵を与えてくれる我々の暮らしには切っても切れない命綱ですが、現代はその整合性が社会的に強大な権威を持っていて「常識と違うおかしなことなんて起こり得ない」という冷めた感覚の大元になっているようにも見えます。

 

思うのですが、こういう論理的な認識の特性として「自分が知ってることだけで世界観を構成してしまう」という性質があるのではないでしょうか。

 

例えば机の上に「パソコン」というものが置いてあるとします。

 

これを指さして「これが何か知っているか」と尋ねれば、今どきの日本人で首を横に振る人はほとんどいないでしょう。

 

全く使ったことない人だって「何か画面見ながらカタカタやってインターネットしたり書類印刷したりするもの」という位の認知があると思います。

 

でもそのコメントに対して、使える人たちは「あんまり知らないじゃん」と思うかも知れません。

 

自分なら、先ずソフトとハードの関係や、もっと様々な役割や社会との関わりについて説明出来ると思うでしょう。

 

これがプログラマーの人だったら「世の中のほとんどの人はPCというものを表面的にしか知らない」という意識があるかも知れないし、更にそれを聞かれた人がたまたまその機種の開発責任者だったら「俺はこいつの全てを知っているよ」と我が子を見るように目を細めてつぶやくかも知れません(知らないけど)。

 

でも彼だって、その内部に小さな蜘蛛が巣を作っていることとか、使用されている電子部品の一つが実は悪徳業者が中古品を新品に偽装して販売したモノだとか、杉並に住むあるユーザーの家では不具合が多くて子供用のマシンにされてる、とかいう事実までは知る由もありません。

 

全員に共通しているのは「知らない部分(実はそっちが大部分)が意識に上がって来ていないからこそ、それを知っていると言い切れる」という事実があることです。

 

我々はこんな方法でこの世界を見て歴史や海外や宇宙のことまで、何の疑いも驚きもなく「知っている」ととらえています。

 

もちろん宇宙や自然科学なんかの話で「我々はそれについて実はまだほとんど何も知らない」とかよく言われることは知っていますが、感覚的には、正直そんな気全くしませんよね(してたら偉そうにブログで語ったり出来ないっす)。

 

この、知っている要素だけで世界のイメージを構成してしまう論理的な認識というものは、その背後に拡がる広大な「知らない世界」を覆い隠してしまうからこそ、我々を安心させてくれます。

 

近代以降、科学が常識として広く一般に受け入れられた理由の一つに、これもあるんじゃないかと、僕は思います。

 

それ以前の神話や宗教的な世界観って、人間が賄弱で世界が分からない所だらけで、それを軸に生きてゆくにはなかなかおっかない感じですよね。

 

物知りの現代人は自身の体験や感覚ではない様々なジャンルの知識や情報を大量に持っていて、これが頭の中で網目のようにつながって体系化され、疑似世界観のようなものが構築されていたりします。

 

ここでは、その体系の本棚のしかるべき場所に正確に整理、分類された事柄がその人にとっての「知っているもの」という確かな事柄として認識されます。

 

僕の若い時にも経験があるのですが、この「知っていること」だけで作られた理性的な世界観がまるで実世界であるかのように錯覚されると、それと同時に、すっきりと整理された形でこの世界を理解出来たような気持ち良さを一緒に感じてしまったりするんですね(特に男性)。

 

現実主義の人が非科学的なものに嫌悪感を示すときの心理は、こうした気持ちの良い規則性を乱し、邪魔する可能性がある異質物に対する不快感から来ているようにも見えます。

 

でも、逆に無知や混沌を受け入れて、ありのままで世界を感じるってのも、なかなかたやすいことではありません。

 

自我と思考を持った人間は、あらゆる物事がルールと関係性で結ばれた自分の居場所の「世界観」というものなしには、なかなか生きていけるものではないですが、近代科学以前には古科学や哲学、宗教、神話なんかがそれを担っていました。

 

今の科学と同じようにこれが「唯一の真理」として大多数の人に信じられていたわけですが、大きく違うのは、こちらは人間ごときが「知らない世界」というものをあまり覆い隠さなかったんですね。

 

亀や巨人(神々)に支えられた円盤状の世界のイメージは、自然に対する人間の無知、無能、無力がよく理解されていて、この感覚を思想の中にしっかりと内包しています。

 

この不安定な世界観はなかなかに恐ろしいものだったと思います。

 

近代科学が始まると、神々の意志とは関係なく足元の世界が万有引力の法則でしっかりと固定されたのできっと人々は安心したと思うんです。

 

そんな神話が失われてしまった現代において、未知の領域やカオスの空間の存在を認識出来る唯一の受信機が、人間が太古から頼りにしてきた感覚なんですね。

 

ここからアンテナを伸ばして暮らしてみると、忘れていたこの世界の実体が感じられ、夜空見上げるだけで恐ろしくもなるし、夜の森とか歩いてみると(危ないからやっちゃダメだけど)、得体の知れない魑魅魍魎(ちみもうりょう)くらい余裕でいるのが伝わってきます。

 

結局は自然への畏怖やこうして生きていることへの感謝にもつながるそんな感覚を大事にして暮らしていきたいと思う今日この頃であります。

 

でも本当は科学の世界だって、最先端の方は恐ろしく非常識で考えられないような世界が広がっていたりするんですよね(特に理論物理学)。

 

だから賢明な科学者は「実は人間はまだほとんど何も知らない」ということを誰よりも理解していたりするので、やっぱり何に対してもあのセリフを簡単に言わない気がします(非科学的である、と言ったりしますね)。

 

という訳で、ここは例のセリフ「そんなことあるわけがない」を封印して、ちょっと科学と常識疑いつつ、別の常識間や世界観を感じてみるのも悪くないかと思います。

 

 

さて、こんなたいそうな話を前置きにしながらも、ご紹介する書籍は別に神話でもスピリチュアル系の自己啓発本でもなく、かなりB級なラインナップです。

 

 

「フェノメナ〜現象博物館〜」J.ミッチェル/R.リカード 村田薫訳

「世界中の不可思議な現象を究明しつつ科学的にその謎に迫る」という感じの、まさに今回のテーマ「非科学」のど真ん中を行く一冊。

 

まだこうした事柄を扱う事がB級カルト的な色眼鏡で見られていなかった、古き良き時代の本気のリポート。

 

とにかく真面目なのがうれしい。

 

 

「キルヒャーの世界図鑑」ジョスリン・ゴドウィン 川島昭夫訳

科学がまだ神学とつながっていた時代の科学者なのですが、同時にケプラーやらニュートンやらも出て科学が神様から離れ始めた時期でもあるので、この人のような天動説ベースの思想はその後の歴史の中に忘れ去られてしまいます…が、今になってほじくり出す人がいるんですね。

 

昔の科学ってジャンルが細分化されていないから、学者さんって多ジャンルに渡って何でも屋さん的に研究の手を広げるのですが、とにかく好奇心と想像力が独特の世界観の中で爆発しちゃってます。

 

聖書や神話に基づいてこの世界の謎に迫る驚くべきワールド。

 

 

「月と惑星」

古本屋さんで見つけ、中を開いた瞬間に魅了され即買した大判の図鑑なのですが、特筆すべきは、これ1967年、つまりアポロ計画が始まりつつも月面着陸のちょっと前というタイミングに執筆されているんです。

 

なので、非科学といっては失礼なんですが、「もうすぐ月世界の全容が明らかになる〜」という思いの中で、月や火星における地球外生命体の可能性なんかが、科学的かつ本気で語られていて、図鑑とは思えないほど著者の期待感と高揚感が出ちゃっている面白い資料です。

 

さらに素晴らしいのがこの月面や惑星の地表を描いた豊富なイラストで、乾いた土ばかりの殺風景な地形の写実描写なのですが、それに不思議とワクワク感や迫力がにじみ出ていて、ちょっとした画集と言っても良いくらいの出来映えなんです(円谷プロのイメージ画みたいな感じ)。

 

 

「どこかにいってしまったものたち」 クラフトエヴィング商会

名著ですよね。

明治大正期に実在していた、ちょっと信じられないような不思議な小道具や玩具の数々が紹介されています。

全編に渡って真っ向から堂々とウソこいてる姿勢もとても素敵。

 

ファンタジー色が強いので「ウソ…本当にこんなのあったの???」という気持ちにまで持っていくには、あるレベル以上の思い込み力が必要ですが、大変想像力豊かで切なくなるほどロマンチックなおもちゃ達の物語り。

 

 

「奇想天外な科学実験ファイル」 アレックス・バーザ  鈴木南日子訳

これはカルト色強いです。

 

でも、扱われている事例はもちろん全て、実際に科学者が本気で取り組んだ科学実験ばかりで、その熱意に感服しつつも、やがて「科学者ってバカだね」という感慨に至ることうけあいです。

 

繰り返しますが、カルトです。

ギロチンで落とされた首に一瞬でも意識があるか?とか、覆面を被って赤ちゃんをくすぐり続けた実験の話とか、そんなのばっかり。

 

 

「謎の科学 30理論」

「疑似科学」という言葉は、発表された学説の中の特に非科学的で胡散臭く感じられるようなものをまともな学者が揶揄する時に使うような呼び方で、大抵は異端みたいな人が唱えるイメージですが、それだけにすごく理論的な説明がされていてワクワクします。

 

リアリストの人達が幽霊より超能力より何よりも一番腹を立てる非常識極まりない科学理論の数々。

 

アイヌお産ばあちゃんの「ウパシクマ」 青木愛子 述 長井博 記録

こちらはB級カルトでは決してありません。アイヌに伝わるイタコのような技術の最後の伝承者の口述をまとめたお話で、一口で説明出来ないのですがちょっとすごい内容です。

とにかくまぁ読んで下さい。

 

「遠野物語 妖怪談義」柳田國男
いわずと知れた妖怪本の教科書です。
このジャンルをはじめて学術的に研究した柳田ですが、あくまで調査報告として淡々と綴られる話にはドキュメンタリーのタッチがあり、非常に引き込まれます。
僕の好きな狐や狸の化かし話も、各地に伝わる質の良い伝承が多数紹介されていて嬉しいです。

 

 

こんなもんでしょうか。

 

関連書籍はまだまだ他にもあります。

おすすめ書棚に並べておきますね。

 

普通の話は一つもないです。

常識的感覚はそろそろ卒業してしまいましょう。

 

 

 

category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -

日本人と本音の話

2016.07.28 Thursday 02:47

皆様、遅ればせながら…新年明けまして…いや、違う違う。
新年の挨拶は前回したんだ。
よかったぁ〜、年明けに一本更新しといて。
よくねえか。
 
初夏の頃、アール座の窓際に「モジズリ」という素晴らしく可愛い野花が咲いていたので、これを早くブログでお知らせしなければ、と思いつつも、中々手を付けられずにお花が終わってしまいました。
 
先日、ありがたくも朝日新聞さんに取材して頂く機会がありまして、新聞掲載の日ってブログのアクセス数が桁違いに跳ね上がるのですが、結果数千人の方々に最新のブログで「明けましておめでとうございます!」とかほざいてる有様を披露する羽目になってしまいました。
 
もう自業自得という他ありません。
 
改めまして、皆様お久しぶりでございます。
 
大好きな梅雨(雨の楽しみ方参照)が終わると、いよいよ夏ですね。
色鮮やかで空気の濃い、大変良い季節です。
 
窓際23番卓の窓の外に生えた「モジズリ」は思わず二度見してしまうほど目を引く可愛らしさだったのですが、スミマセン
 
でもこぼれ種で勝手に生えてきた奴なので、来年も咲いてくれるかもです(わかんないけど)。
 
この所の僕は相も変わらず上下の店での色々な展開を考えているワケなんですが、そんな中で最近とみに思うのは「発想出なくなったなぁ〜」という情けない思いです。
 
店作った頃って、やってみたいことや面白そうなことが、可能不可能を問わず、いくらでも出てきた気がするのですが、年なのかなぁ…とか考えてました。
 
でも、最近分かったんですね。
これ、多分年のせいじゃないんです。
 
まだ店が影も形もなかった時って、意識の中に発想を限定させるような要素が何もないからこそ、自由に何でも思い浮かべられたんです。
 
今、店が既に形を持って存在し、社会の中で機能し、お客さんやスタッフや多くの人にとっても存在しているという状況下では(もちろんとてもありがたい状況ですよね)、人目や評価を気にする気持ちが意識の中に入ってきて、自由な感覚の発想を止めてしまうんですね。
 
これ、完全に僕の欠点なんです。
つまり「社会性」というものが苦手で、マイナスに働いてしまうんです。
 
僕、子供の頃から、信頼できる仲間達と意見を出し合って喧嘩しながらも皆で力を合わせて何か一つのものを作り上げるということ…
大嫌いでした。
 
ゆがんでるでしょ〜。
い〜っつも一人で隠れるようにコツコツもの作ってました。
 
でも皆の中に入ると、本当に出来ないんです。
発想も技術も萎縮してしまって、一人の時の半分も力を出せない。
他にリーダー的な人なんかいたら、もう完全に諦めモードで、機械的にやるだけでした。
 
色んな要因があるんですが、まず一つは、僕のモノづくりっていつも途中の段階で認めてもらえない、というか、すごくバカにされるんです。
 
出来かけの状態を見せて「これをこうしてこうするとこうなると思うんだ」と話しても「何それ?」みたいな態度をされてしまう。
 
で、仕上げまで出来上がったもの見て始めて、結構みんなびっくりするんです。
「こうなるのか!」って。
 
でも僕、これを喜ぶどころか、心の中で腹立ててました。
「だからこうなるって言ったじゃん!」って。
 
発想の仕方が人とずれてるんでしょうね。
 
そんな経験からか、未だに僕は「皆で意見を出し合うと一人では思いつけないアイディアが…」みたいな考え方を信用できないんです(もちろん今はそれも事実だと知ってますが)。
 
モノを作るなら「一人で最初から最後まで」というのが一番と思っていて、皆で意見ぶつけ合うと、どうもそれぞれのクセのある飛び出した部分が削られ、平均化されて、普通っぽくなるような気しかしない(これもまた事実だと思います)。
 
でも本当の所はやはり、人目を意識すると萎縮してしまう僕の中の「社会性」の形に問題があるんだと思います。
 
だから大きな組織で奇抜な企画を立ち上げて沢山の人説得して使って、見た事無いもの作る人の能力って、僕ちょっと考えられません。
 
 
まぁ僕に限らず、社会性の意識って自分の本当の気持ちを閉じ込めてしまうものだなぁ、と最近つくづく感じます。
 
せっかく自分の心を持って生まれてきたのに、それで生きてくのってどうなんだろう?とか思います。
 
そう言えば「自分らしく生きる」みたいなワードって、昨今すごくよく耳にしますね。
 
僕思うんですが、この「自分らしく」と言う言葉が警鐘みたいに盛んに言われてるのって、この国だけなんじゃないかとか思うんです。
 
苦手そうですよね、日本人。
 
僕若いときは、日本人っぽさってあまり好きじゃなくて、自分の中のそれにあまり興味なかった(そう思いたくなかった)んですが、最近その辺の意識がすごく揺らいでいて、日本人のそんな気質にとても興味を持っているんです。
 
自分の気持ちが自分で分からないのって、日本人特有の他者への意識や人との付き合い方が決定的に影響を与えているんじゃないか、という気がしてなりません。
 
だから、今日はそんなお話です。
 
店と関係ないのはいつものことですが、それでも最後は見事にアール座の宣伝につなげてみせます。
 
先に言っておきますが、今回も長いっすよ。
 
 
「もっと自分らしく」とか言われると、現代の日本ような社会って、人間関係や社会的なプレッシャーから生じるストレスが強くて、皆、微妙な空気を慎重に読み取りながら気持ちを押し殺し、仮面被って自分を守って暮らしているように思えてしまいます。
 
特に東京に暮らしているとそれを強く感じます。
 
沖縄に遊びに行くと面食らってしまうのは、とても親切な人がすごく無愛想だったりするんですね。
 
もちろんイメージ通りのニコニコのおばあとかもいるけど、そうでない人がとても多い。
 
例えばどこかの待合ベンチで若い男の子が扇風機一人占めしてる所の向かいに腰掛けると、こちらを怖い顔でジロッと睨みつけた後、扇風機を首振りにしてこちらにも風を回してくれるとか、僕なんかはこういうの、ちょっと驚いてしまいます。
 
向こうにしてみたら、誰かに親切したって別に可笑しいこともないから笑うこともしないというだけのことなんでしょう。
 
が、東京育ちの僕などは、逆に無愛想で性格も素っ気ない人なんかには何も驚くことないのですが、シマんちゅのこんなパターンって、いちいち新鮮に感じます。
 
東京では普通、良い人が見知らぬ人に優しくするとき笑顔でいるものです。
 
 
外国だとさらに強烈な差異を体験することがありますが、若い頃インド旅行に言ったときの話です。
 
ああいう国ってタクシーでも何でも金額が言い値なので事前交渉で決めておくのが基本(いくらでもボられる)なんですが、三輪タクシーで事後に最初の金額よりはるかに高い額を言って来た人がいて、払え払わないの言い合いになり(結構声張るくらいの)、しまいに僕は最初言った額のお金だけ押しつけてその場を去ったのですが(こんなの多かった)、そのあと彼がしつこく追いかけてきて僕の肩に手をかけ大声で何か叫んだので、その腕を払って振り向きざまに睨みつけると、彼は僕が被ってた帽子を手にしていて「帽子忘れたよ」と、さっきと別人のようにケロッとした顔で言いました。
 
「あ、や…サ、サ、サンキュー…」となって、バツ悪くその場を去り「心がイガイガしてしまってるのかな」などと反省したものです。
 
でも、今考えればムリもないことです。
だってそんなの日本では絶対にないパターンですもん。
 
とにかく、人と言い争うといったことに対するテンションの高さが圧倒的に違う。
 
こっちは初対面の人とあんな風に怒鳴り合うって、そうそうやったこともないのでちょっとした興奮状態ですが、向こうにしてみたら「この人もっと取れるかな」「もうダメか」「あ、帽子忘れてる…」というくらいのごく日常的なテンションなんですね。
 
大して怒ってもないのに、あれだけ怒鳴れちゃう。
 
例えば中国とかも、町ナカで知らない人同士が普通に怒鳴り合ってるイメージ(スミマセン、あくまでイメージ、行ったことない)ありますが、あれってどれくらい怒ってるんですかね。
 
あまり後に残らない感じもするんですが、そんなことないのかな。
 
東京の人の怒り方って、駅で大荷物置いて邪魔になってる人がいると男の子がすれ違いざまに舌打ちしたりするイメージですが、あれはお互いにイヤな感じ残りそうですよね。
 
日本人の大人が知らない人に対して声を上げて怒るといったらもう喧嘩です。
 
酔っ払うとか車に乗って気が大きくなるとか、本当にブチ切れるとか、とにかくそんな距離感が壊れて、普段閉じ込めてるものが飛び出してしまうような感じですよね。
 
そう言えば昔、どこかのビルで扉が締まりかけのエレベーターに駆け込もうとした時に、中でスーツを着た西洋人の男性がすごい形相で「閉」のボタンを連打しているのが見えて、僕が「開」を押して扉が開くと、「ンー!!」と叫んで、思い切り壁を殴りつけた時、僕もう泣きそうでした(その後中で二人きり…)。
 
この人は母国でも平均的な性格の人じゃないかもですが、僕に対して激怒しているというよりは、ただ上手くいかない出来事に対して一人で癇癪を起こしてる(やはり相手のことはあまり気にしていない)ように見えて、日本人の怒り方とかなり違うようにも感じました。
 
昔レストランで働いてた時も、こういう風に強引に無理を通そうとしたり、自分の意思が通らないことに対してストレートに怒りを表現する西洋人のお客さん(普通は西洋の人は皆とても優しくてフレンドリーでした)を時々見たことがあります(日本人は自分がないがしろにされたと感じて怒る人が多い)。
 
比べてみると、とにかく日本人は親切にするにせよ苛立つにせよ、人と距離を取って相手の顔色を伺い、自分の気持ちを制御しようとしますね。
 
また、自分の気持ちは制御するのが大人として正しい、という意識が高いように思えます。
 
最近の叱り言葉でよく聞く「空気読め」というのは、とりもなおさず、「周りに調子を合わせろ」ということですよね。
 
でも逆にこんな意識って外国人に「日本人は優しい」と思われる所以にも通じている気がします。
 
最近はTV番組がオリンピックに向けて色々と特集を組んでるようですが、アスリートの人達が話すエピソードで、日本のチームが海外に遠征して試合するとき、審判が向こうの人だと必ずこちらに不利な判定をするものだけど、世界中でも日本人の審判だけはホームの試合でそれをしないとか、海外のチームに移籍した日本人選手は、最初、露骨な差別(パスが来ないとか)に合うものなので頑張って関係性を築く必要があるけど、日本のチームは外国人選手を気遣うくらい優しく受け入れてあげる、とかいう話をよく耳にします。
 
平均的な性格の日本人ならその日本人側の感覚、普通に分かる気がしますよね。
 
プレイヤーが何人であろうと公平に審判するとか、当たり前のように思いますし、バイト先に勝手が分からなそうな外国人の新人が入ってきたら、最初は普段よりちょっと優しくなっちゃいそうですよね。
 
でも、これ世界基準では特別なことなんでしょうか。
 
なんだか不思議。
 
最近は東京にも外国の人多いので、もっと日常的なことでも、人との距離感の違いに触れる機会があったりします。
 
以前本屋さんで書棚に向かって立ち読みをしている時、左隣にいた男性がこちらに手を伸ばし、無言で僕が持って読んでいる本をぐいっと押しのけてから、僕と書棚の間に腕を入れて奥(僕の右側)の棚の本を取り出した時とか「お?何?」って驚きました。
 
向こうにしたら何でもない仕草なんでしょうけど、日本人はこういうコンタクトはまずしませんよね。
 
電車のシートで3人座れるスペースの真ん中に一人座ってる人がいて、そこに二人連れの外国人が入ってきて、真ん中に座ってる人に無言で(目を合わせてたのかも)シッシッてやるときみたいに(日本だとね)手を振ってその人を端に追いやってスペース作って二人で座るとか(中東っぽい人で2度見たことある)もへぇ〜と思ってしまいます。
 
電車でドア口に立っていた大人っぽいカップルの彼氏が彼女に後ろからすごい勢いでヒザカックン(連打バージョン)やってて、ケタケタ笑い合ってるの見たときも「嫌がらないの?」と驚いたのですが、外国語を話し出したので「ああ、何だ」と思ったこともあります(日本人の女の人にやったら殺されますね)。
 
僕、こういうの見ると性格的にすごく考えてしまうんですね。
 
「これ日本人やらないよな」「人との関わり方がゼンゼン違う」「日本の方が珍しいのかな」「日本人だと、一声かけてからならあるか(ヒザカックンじゃないよ)」「いや、田舎のお爺ちゃんとかならいきなりやるかも」「昔は日本でもあれくらいアリだったのかな」等考え込んで、立ち読みどころじゃなくなっちゃうんです。
 
まぁ考えてみてやはり、通常時の距離感が違うんですよね。
 
多分、声がけもせず、相手の顔も見ないで人をどかしたりする(どかされる方もなんとも思わない)所が大きな違いで、日本人はとにかく相手がどう思うか確認してからもっと慎重に意思表示をしようとしますね。
 
 
あとその他にも考えてしまうのは、本屋さんの男性はアジア系の人だったので、よく顔見るまで外国人と分からず、最初は「何だよ…」とも思ったのですが、顔見て「ああ何だ、外国の人か」と不快感が消えたのも、何だかヘンな気がしました。
 
電車の座席の話だって、その人の国ではきっと「ちょっとごめんね〜」位の仕草だと思うのですが、同じことをスーツ着た日本人がやったらヤクザかと思っちゃいますね。
 
相手を外国人でなく、チャラい感じの若者とか、いつも怒ったような顔した女の人とか、おじいちゃんとかヤクザとか見たこともないような変わった人とかで想像してみると、各々で感情の動き方が違って来るのが分かります。
 
どうも我々の場合、相手の行為そのものよりも「ナメられてるのか?」みたいな、こちら側のアイデンティティーの意識が不快感の元になってそうですね。
 
 
話を戻しますが、日本人がこういう風に距離をとって様子を見たり、少しずつ接触をはかったり、笑顔を浮かべてみせたりって、一体これ何なんでしょう?
 
別に難しい話じゃないですね。
人の気持ちが怖いんですよね。
 
よその国の人より怖がりなんだと思います。
 
だからでしょうか、優しいと言われる日本人ですが、自分の意思を通してゆく気質の民族に比べると、相手に意思を通されることも大嫌いです(遠慮してる分ね)。
 
これは言い換えれば人間関係に「繊細」になってるということですね。
 
だからタテマエとかソトヅラとか駆使しつつ特有の距離の取り方でそんな恐怖や面倒を凌いでると思うんですね。
 
東京の優しい人が人に親切にするときに笑顔なのは、多分都会って、つい最近各地から集まった土地に慣れてない人ばかりで出来たような街だから、歴史的にコミュニケーションのベースに何となく不安感や緊張感が薄―くあって、だから「自分はあなたに敵意がないですよ」ということをはっきり示す必要があったから無意識の内にそうなっていったんじゃないか、と勝手に思います。
 
だから僕は、こんな笑顔や態度をあざといとかイヤらしいと考えるのは違うと思うんです。
 
いつものように、あてずっぽう論理が突っ走りますよ〜、このブログ。
 
 
本音とタテマエを使い分ける日本人のこうした特性って、昔から色々と言及されてきました。
 
定住型の農耕民族は集団の中での微妙なコミュニケーションが非常に重要だったとか、直接的な表現を避け、曖昧さや間接表現を好む文化的な気質を要因とする話とか、上のような都市型ならではの理由付けも、体感的にすごく頷ける所です。
 
近年では、こういう引っ込み思案な対人姿勢が日本人の欠点のようにも言われていて、石原氏の「Noと言えない…」辺りから長年批判されて来てもいますが、まぁ無くならないですよね。
 
こういう大きな流れって自然現象みたいなもので、本人にそんな意識なくても、人が環境や気質に合わせて自然と変化して来たものです。
 
そもそもタテマエというもの自体、世の中でツマラナイもののように言われていますが、実際には人が人と人間的に接する以上、人格に内側と外側は必ず必要で、日本人に限らずヤノマミ族だって社会はそれで成り立ってるはずです。
 
初対面の人に「あ、どうも はじめまして うわぁこいつホクロから毛ぇ伸びてるぅ」というのを全部口に出して言ってしまう人は、どこの国でも通常の社会生活は営めないんですね。
 
そうなると、じゃあどこまで?というややこしい話にもなってきます。
 
なのでここでは、こういう態度の良し悪しとか日本人が変わるべきかとか、簡単な話じゃない話は置いときます。 
 
 
ただ、僕個人的に、こんな習慣が今時の日本社会が抱えるストレスの大きな要因の一つになっていることを自覚しておいた方がいいと思うんです。
 
だってこれ、どう考えても溜まるものがありそうですよね。
 
子供の頃から裏表を意識して使い分けてきた我々は、もう自分の気持ちなんて閉じ込めっぱなしですが、その閉じ込めた気持ちってどこに行っちゃうんでしょう?
 
よく子供が責められて泣くときに、泣きながらその気持ちの詳細を全部言葉にして訴えたりします(多い?子供の話)。
 
「○○ちゃんが何かやろうと思ったのに…それと違うことしなさいって言われると…すっごい嫌な気持ちになって…涙が出てきちゃうんだもん!」とか「他の子におもちゃ貸したくなくて…全部自分だけで遊びたいから…貸してって言われると…すっごい苦しくなって…どうしていいか分かんなくなるの!」とか、しゃくりあげながら、ものすごい正直な気持ちを出してくるので、ビックリして、こちらまで泣きそうになります。
 
こんな小さな内から社会と自分の気持ちとの葛藤に追い詰められている姿を見ると、我々って、実はものすごい沢山の気持ちを押さえつけ、我慢しながら生きてるんだなぁと感じます。
 
そんなこと日常的に続けていれば、不満や本当の気持ちなんて、もう意識に上がってくることも無くなりますよね。
 
意識される前に消えてしまうんでしょうか?
 
でも、消えて無くなるわけはないと思うんです、感情って。
 
この押し込められた感情って、日本人特有のストレスや気持ちの見えにくさにつながってると思いません?
 
放っておくのはよくない気がするんです。何だか無性に
 
無意識の我慢は内側に何かしらを溜めてしまうものですが、他者に対する恐怖感も結局これで作り出してるような気がしてなりません。
 
人が怖くて距離を取るために自分の気持ちを抑え、それが見えなくなって余計に怖くなる、という悪循環みたいなものをこの社会から感じることも少なくないです。
 
例えば「世の人々も同じ条件で損してるなら平気だけど自分だけが損してるとなると許せない」というような社会的な心理って、自分が本当に何をしたいのかが見えてないことにつながってるように感じますが、現代の日本人ってコレ強い気がします。
 
自分が本当に欲することや嫌なことが良く分かっていないと、とにかく何でも侵害されることや損すること全てに漠然と怯えてしまって、ちょっと何かされるだけでもイライラ怒りっぽくなっちゃう、という人の性ってのもあると思います。
 
見えないものって不安をあおいで、恐怖にも転じさせるものです。
 
 
争いを避けるための知恵という見方をすれば、僕は日本人が日本人っぽくこういう距離とった接し方を続けていくことがそう悪いことでもない気がするんです。
 
が、それをするには、同時に感情を押し出す形のガス抜きを自分でしていく過程が不可欠だと思うんですね。
 
閉じ込めて無視してきた「自分の気持ち」を見直してあげることって、とても大事なことなんじゃないかと思います。
 
自分はずっと我慢してきたけど、本当はどうしたかったのか、ということを見てあげて、これとつながると、心ってとても安定するはずです。
 
逆に気持ちを抑え込むことがクセになっている我々はいちいちこういうことをしないと、心の奥に自動的に報われない思いが積み重なってていくような心理構造になっているように思えます。
 
実際「自分は本当はこれもこれもイヤだけどずっと我慢してるんだ」という所がはっきり見えてる大人って少ないと思います。
 
例えば、誰かにちょっと嫌なこと言われたりした時、普通まともな人は「ムカつくけどまぁあんなしょーもない奴の言うことだし…」とフタをしておさめようとしますよね。
 
でももしその時「最悪な奴!土下座してるあいつの後頭部思いっきり踏んづけたい!どっかのベランダから落ちてきた植木鉢に当たって死ねばいい!そしたらすごく気分が晴れる!あたしすっごいかわいそう!もっと同情されたい!」という極めて反道徳的で動物的な怒りが心の奥底で起きていたら、どうでしょう。
 
こんなヒステリーキャラみたいな殺伐とした思いって、自分でも自覚したくないし、多分意識にも上げず封印しそうですよね。
 
でも僕、こういう感情って生きるために必要な基本的な欲求として、必ず人に備わっているものだと思うんです。
 
誰かと言い争った後「もしかしたらこちらにも非があるかも」と思った時に「でも、向こうだって悪い所あるし…」というのは、自分をフォローしているようで、実は根幹にある思いを閉じ込めています。
 
「イヤなこと言われるのやだ!ホントはこっちはワガママいっぱい言って、あっちが全部受け入れてくれるのがいい!俺が王様なのがいい!」というみっともない気持ちの方がさっきのフォローよりずっと奥側にあると思います。
 
場所が深すぎて認識出来ないだけだと思うんです。
 
「あいつ何で人のことを考えないで自分勝手なことばかり言ってるんだ!」みたいなタイプの憤りって、思えば思うほど不満が溜まりますよね。
 
その手の怒りって、社会的なモラルにつなげて相手の非を責める要素が入れられていると思うんです。
 
もし自分の奥底にあるのが「本当はこっちが自分勝手に振る舞いたいのに、自分じゃなくてアイツがやってるのがムカつく〜!」という思いだったりすると、そこにズレが生じて、上のような怒り方が釈然としないのかも知れませんね。
 
先程のエレベーターの話の彼は、少なくともこの部分がはっきり認識されているように感じます(他の部分に心理的なトラブルありそうですが)。
 
「あいつ港の倉庫に追い詰めて背中からマシンガン射撃浴びせたい」とか「もっとみんなにチヤホヤされてすごい人です尊敬してますって言われたいー」とか「周りの全員に、かわいそうに、いい子いい子ってされたい」とか、人前で言えないような感情には心の中でもストッパーかかるので、もっと体裁の良い形(腹立つ相手が悪者になる形とか)にすり替えられて意識に上がってくるのかな、とも思います。
 
よく心理学で「超自我」とかいうワードを聞きますよね。
 
ものすご〜く雑に言うと心の中で「良心」を司る部位みたいに想定されているものですが、
大人にはコレが発達していて、自分の中の本能的でワガママな意識を許しません。
 
また、人の心理はバランス取るためにもっと複雑な作用をしたりもします。
 
自分が嫌な目に会うと「自分にも非があるから仕方ないんだ」とか「本当は自分も少しそれを望んでたんだ」とか考えて辛さを緩和しようとしたりもしますね。
 
とにかく本当の気持ちって閉じ込められやすいものなんですが、こういう心理作用はしかし応急処置的なもので、放っておくとやっぱり閉じ込められたそれがストレスの元となります。
 
こんな人間の心理構造があって、さらに社会性を気にする日本人はこれに輪をかける形で自分の感情に疎くなってしまうんじゃないでしょうか。
 
 
別にこれをオススメするワケではないんですが、自分の気持ちを意図的にこうした非道徳的な意識に持っていって奥底の思いを探るようなことを僕、以前よくやってました。
 
最初はなかなか難しいんです。
 
何せ押さえ込まれてますから、自問自答したくらいでそんな思いは上がってこない。
 
だから自分で迎えに行きます。
 
嫌なことがあったとき、なるべく非道でワガママでみっともなくて自分本位な思いを描いてみて「もっと○○したい〜!」とか「みんなが○○してくれればいい〜!」とか、ムリにでも本気で思ってみたりします。
 
さっきのマシンガン…とかチヤホヤされたいみたいな歯止めをかけない類の思いですね。
 
全然しっくり来ない時もありますが、それで少しでも気分が軽くなった時なんかはちょっとつながれたかなと思って、「でもそうもいかないから俺様はそこを我慢してやっているのだ」と強く意識して手放してやる、といった具合です。
 
ここで体裁整えることをしてはダメなんです。
 
いつものクセで、最後に「これからはもうそんなこと忘れて頑張るぞ」なんてのも、ここでは間違っても思っちゃダメで、それは気持ちではなく理性的な意思なんですね。
 
「なーんも頑張りたくない〜!それでほめられたい!」とか「自分はこういうの嫌いなの〜」という気持ちの方がもっと奥側なんです。
 
よく漫画で心の中に天使ちゃんと悪魔ちゃんが出てくると、大抵自我が天使ちゃんに共鳴し悪魔ちゃんがくた〜ってなってハッピーエンドになりますが、ホントはあの悪魔ちゃんだって自分自身ですからね。
 
思い切り意識して共感してあげてもバチ当たらないと思うんですよね。
自分がひどいこと思ってること認めたからって本当に非道い人間になるわけじゃないし。
 
ただそう願ってることを、先ずそのままの形で認めてあげることが出来ると、心って意外と安定すると思うんです。
 
実際僕も何度かそんな感覚を体感しました。
 
例えばどんなこと思い浮かべたかというと…とか言えるわけないような話です
 
もちろん変わらず嫌な思いはするしストレスだって溜まるのですが、それが無視されずに、ちゃんと「こういう風に嫌な出来事」として意識されると、漠然とした不安感として残りりにくい。
 
すると結構変化があるんです、色んな所で(体験談)。
 
奥底の気持ちを味方につけると、何といっても他人の感情が気にならない(上手くいけばね)。
 
「自分はこんな風に思っているんだ」「それに対してこの人はそう思うんだ」という事実が、それ以上のこととして意識されないんです。
 
人は周りを見れば見る程不安になって、心の安定を他者からの承認に求めてしまったりもしますが、これは自分の外側にあるものなので、これで安定するのってちょっと危うい…というか、本当の意味でこれで安定するワケがない。
 
 
繰り返しますが、別にこの「やり方」をおすすめしてるんじゃないですよ。
テキトーな方法だし、皆さんにハマるか分からないし。
 
ただ何でもいいから、自分の奥底を意識してつながろうとすること、実は自分にすごく子供じみた本音があることを認めてやることが大事だと思うんです。
 
実際さっきの方法だって、やるのは結局最初の内だけでよかったんです。
 
今まで見て来なかった心の奥に目を向け始めるきっかけにしていただけで、それが習慣化して慣れてくると、わざわざ気持ちを思い返さなくとも、普段から頭の考えが奥底の欲求をうっすら意識(推測?)出来るようになったりします。
 
自然な状態で自分の心の深層が何を思っているのかを感じるクセが出来ると「なぜ自分はいつもこう考えてしまうのか」「なぜあの時あの人にあんな風に言ってしまったのか」とか色々どんどんつながってきて、何というか自分という人間の全容が見えてくる(つまり頭と心がつながれる)んですね。
 
現代人、都会人、日本人って、ここが弱い気がしません?
 
よく、人に自分の気持ちを説明している途中で「あれ、オレってこんな風に考えてたんだ」と気付いて驚くことありますよね。
 
あれを一人でやる感じです。
 
これで完全につながれると、多分人は相当強くなれます。
 

多分ね(未体験)。
 
 
子供の頃の僕が人に創作能力を認めてもらえなかったのって、きっとこの部分が弱くて自信がなかったからなんです。
 
作り途中の作品を「これをこうやってこうするんだ」と説明されて鼻で笑われた時に、「ンー!!」って壁殴りつけてから「ばか!お前ちゃんと想像出来てるか?!もっとすごいんだからしっかり思い描け!こうなるんだぞ!」と言えてればよかったんですね。
 
そこでムカつかれても、その後に出来上がりで驚かせられたら、次に同じことがあった時は「こいつの言うことだからもしかしたら…」と一目置かせることも出来たかも知れない。
 
今だってそうです。
 
そんな意識でいられたら、どれだけの人が見ていようと、それを全く気にせずに、非常識でとんでもない発想がガンガン出るはずなんです。
 
ということで、皆様と自分自身に本当にオススメしたい部分はこの「自分との対話」です。
 
自分を奥の方まで見て感じること。
誰かの追っかけになるみたいに、自分の心理に興味をもって追求してください。
 
で、そのために絶対必要なのが「一人の時間」というものを持つことです。
時々じゃなく、日常的に。
 
これを多く持って、日頃から自分との対話を頻繁にしておくと、普通にそんな結果につながってきます。
 
これ絶対そう。

 


ここからテレビCM風に 
「え?でもそんなことをゆっくり出来る場所って、都会にはないよぉ」
 
「そんなあなたに アール座読書館」
 
はいキマッた!
 
ね!来て来て!
 
でも、実を言うと、家でやっても出来ちゃいますね(汗)。
 
なんて話でした。
やっとおしまい。

何文字いったかな?
 

 
最期まで読んで下さった人、本当にありがとうございます。
 
ぶっちゃけ、僕こんな話が通じて聞いてもらえるような友達、ほとんどいません!
 
ありがたいことですね。
 
そんな皆様に次はお店でお会い出来たら嬉しいです。
 
ではでは今日はこの辺で!

 

 

category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -

新年のご挨拶とマイナスに賭ける話 

2016.01.08 Friday 01:16

皆様、あけましておめでとうございます(汗)

 

いやいや、昨年秋以来ですね(大汗)

 

去年前半はまぁまぁのペースで更新出来ていたと思うのですが、いやこの年末は、いざブログに取りかかろうとする度に新しいタスクが発生して、でも書こうという気持ちだけは本当に…え?気にしなくていい?わぁ!よかった〜! ……というわけで、年をまたいでしまいました

※あまりに何度もイイワケを繰り返してきた後なので、ちょっと開き直ってみました。

 

個人的に立ち上げたブログを数日ペースで更新しつつ何年も続けているブロガーさんっておられますが、爪のアカ頂きたいところです。

 

SNSの類や日記でもそうですが、何で皆そんなスゴイこと出来るんでしょう?

マジ向いてないっすわ(開き直ってみました♥)。

 

「やめちめえ」という声が皆様からも僕の胸の中からも聞こえてきます…が、やっぱりやめませんよ〜。

 

しゃべれない店なんか作ってしまったために、人生の大半を無言で過ごすハメになったアホなマスターの唯一のアウトプット発信元なのでね。


年イチ更新でも続けてやる。

そういう方向のギネス記録とかないんすかね。ないすね。

 

さて(さてじゃねぇよ)、昨年も沢山の方々にお世話になりました。

 

いつも同じこと言ってますが、こういう特殊な形態での営業を続けていけるのは全くもってお客様のご理解とご協力の賜物でございます。

 

ここを忘れてしまうとアール座は危ないな、という思いが常にあって、我々もことあるごとにこれを意識することを心がけている次第です。

 

遅くなりましたが、古くからの常連様から去年初めてお越し頂いた新しいお客様、わざわざ遠方からお越しの方からご近所の方、毎週のように通って下さった方から一度だけご来店頂いた方、貸切等でご利用の方々まで、ご利用いただきました全てのお客様とそのご縁に感謝を申し上げます。

 

2015年もアール座読書館に関わって頂き、誠にありがとうございました。

 

お気に召しました方は、どうぞ今後とも末永くよろしくお願い致します。

 

 

開業から丸7年も経つと考えてしまうのは、ずっと変わらず守り抜いてゆく部分と変化させてゆくべき部分についてです。

 

そんな私の今年の目標!

「マイナスに賭けろ」です。

 

さあ、何かすごそうなワード出ました。

 

平たく言うと、自分をどんどん変えていくというような意味を強烈に表した言葉なんです。

 

いつもと違う出来事やいつもどおりの流れをふいに止める小さな突発的な「ん?」という部分を、僕は普段からとても貴重なものだと思っていて、一つでも多くこれに揺り動かされることで人は幸せに近づけるんじゃないか、とまで考えております。

今回はそんな内容の所信表明のお話がつらつら続きます。


 

まぁアール座という店は性質上、今と変わらずに守っていく部分の方が圧倒的に大きいのですが、そんなお店をやっているだけに個人的には変化を迎えていくことが特に大事なことだと感じるし、これないとやっぱり全てがどうにも前に進まないもんです。
 

これでいいやってなると、なんか止まっちゃう。

 店舗経営も。

 

でも何かを変えるってすごく面倒なことだから、沢山の変化や迷いを受け入れていく姿勢というのも意識していないとなかなか維持出来ないんです。

 

「いつも通り」って自分で決断や判断をしないですむから楽なんですよね。

 

別に楽しても良いんだけど、自分で決めずに済むことや間違えないことが幸せだと思って、これをひたすら続けていると、僕なんかはうつになりそうです。

 

環境のせいにするわけじゃありませんが、こういうタイプの社会って全てにおいてとにかく迷わないようにあらゆる細部にまでルールやセオリーが整備されていて、それに従ってさえいれば自動的に決まった結果まで導いてくれるかのように作られてる所が、何だか恐いくらいです。

 

自分で考えることよりも、正確な情報、ハウツー、セオリーを知ってることが大事、という世の中なだけに、スムーズにことが運ばないとアタマにくる人も多いですよね。

 

僕もアホになってるときは、道に間違えたり駅に駆け込んで電車に乗り遅れただけで何かを損したような気分になるもんです。

 

 

大きなガラスボトルの中にビー玉大のスチロール球を詰めて、上からそれらより重いビー玉を一つ入れてボトルをひたすら揺り動かしていると、ビー玉は右に行ったり左に行ったり、時には上にあがったりと無数の偶然の連続に紆余曲折しながらも、結局最後は一番底に辿り着きますね。

 

人の意志が運命を導く形って、このビー玉がボトルの底に辿り着く様相を呈しているように思います。

 

でも人間はこのビー玉がスチロールを通過して一直線に底まで辿り着くような非現実的なルートを正しい道のりとして思い描きやすいです。

 

沢山の偶然に翻弄され、左右され、失敗を繰り返すことやその度自分の感性で判断したり決断したりする部分を無意味なことと思ってたりします。

 

が、そういう風には絶対進まないんだなぁと、この頃僕は感じます。

 

なんかすごいな、今回のブログ。

ストレートに立派な話だ。

いいんだ。良いことも言っちゃうんだ、今年は。

 

 

そんな風に考えると、今自分の目の前にある結果や選択肢が自分の人生にとって幸せなことか不幸せなことかなんて、本当の所もう何十年か経ってみないと、ヘタすると人生の最後まで分からない話ですよね。

 

何かの資格試験を受けたら、普通は合格したら幸せで落ちたら不幸と感じます…が、例えばその十年後、三度目でやっと合格した人が、試験に苦労した分そこが後々強みになるというケース(これは本当によくあるパターン)もあるし、それを諦めて別の道で成功してから「あの時試験に受かってたらオレは只の弁護士になってたろう」と、六本木の高級マンション最上階の窓から夜景を見下ろしつつシャンパングラス片手につぶやくとか(やだ?)、それこそ結果として考え得るパターンが無数にあって、それを考えると「受かった方が幸せ」とか可能性の話としたって簡単に言えなくなって来ますよね。

 

一つ一つの結果やルートよりも、その人が常にどんな姿勢でいるか〜長いタームで思い続ける姿勢とか、様々な変化(新しい経験)を直感的に受け入れていく姿勢とか〜の方が正しいやり方なんかよりよほど運命を持って行く力があるんじゃないかと感じます。

 

先の例でビンの底が目指す場所なら、それを望み続ける気持ちとか自分を信じ続けることとかがビー玉の持っている「比重」に相当します。

 

高校でやった物理の授業では、これを位置エネルギーと言ってPで表したりしてましたが、このPはポテンシャル(潜在的な)の頭文字で、日本語だと「可能性」って意味でよく聞く単語ですよね。

 

う〜ん。いい話が止まらない。

金八先生ってこんな気持ちだったのかなぁ。
ぁ意志は〜物事を〜実現する力を、最初っから持ってるんです!

 

ただこれが、どんなに重くても置いといただけでは進まなくって、ビンを振って動きを起こしてバランスに変化を与えることで初めてビー玉の重さが動きに変わります。

 

でも僕らの置かれているこの環境はとても細かく整備されているし、僕ら自身も変化が嫌いなので、この「揺り動き」がなかなか起きにくいんですね。

 

で、僕は「これはもう自分から変なものに引っ掛かって真っ向から変化に向かう、で、その度自分の感覚で判断して自分で決める、という所からしか自分の時間が始まらないんだ!!」という結論に達したワケです。

 

…と、まぁそんな話で、今年の目標につながるんですが、また話が長いすね。
 

長いさ、アール座ブログだもん。

 

いやいや、実は「マイナスに賭けろ」という言葉は私の心の師、岡本太郎の言葉なんですけどね。

 

「え?うそ…まさか、こんだけ偉そうなこと並べ立てて、人の受け売りだったの?」と驚いているあなた…そうさ。受け売りだ。悪いか。

 偉そうなこと沢山言って気持ちよかったぜ。

 

ただこっちの言葉は「変化を受け入れる」なんてナマやさしい話でなく、もっと強烈で恐ろしい決意です。

 

この人は、人生で何かの選択にぶつかった時はいつも、最も困難な方、嫌だと思う方、怖い方、苦手な方、失敗しそうな方を必ず選びとって進んで来た、と言うんです。

 

信じらんないことするでしょ。
「いつもじゃないこと」や「慣れてない方」を選ぶ、というのと次元が違います。


でも何か分かる気もします。

 

これ別に自分をいじめて鍛えるというのではなくて、きっとこうしていった方がどんどん可能性が広がって、どんどん楽しくなってくるんだろうな、という気がするんです。

 

まぁ正直僕は太郎のように出来る自信はありませんが、でもそれよりかレベル低いのなら近い話があります。

 

実は僕、子供の頃すごい偏食だったんです。

 

食事やお菓子も含めてあらゆる食べ物が嫌いで、野菜なんて食べられるの3,4種類程でした(両親共に放任主義)。

 

これを、一人暮らしを始めて自炊するようになってから意図的に変えていったんです。

これはちょっと…と思うような苦手なモノばかり毎日食べていったんですね。

 

何でそんな辛いことをあえてしたのかというと、実はちょっと違うんです。

いや、めちゃくちゃ楽しかった。

 

言ったら食の好き嫌いなんて全部タダの思い込みですよね。 

だからツラいのなんて一時のことで、「これ初めて食べるけど美味しいものらしいよ」と本気で思い込んで、気持ちを完全にリセットしてから挑むことで次々に克服出来るんです。

 

嫌いなものを克服すると逆に好物になったりもするし、そうやってどんどん味覚の幅も食の喜びも増えて行って(楽しい楽しい)、最後の最後に残ったボスキャラが単独で食べるラッキョウでした。

 

カレーに入れるのはかなり早い段階でやってたのですが、単独となるとどうしてもウエッてなっちゃって、無理に食べれても美味しいとは思えなかったんですね。

 

で、23歳の夏にこいつを倒して(あ、ほんとだ!美味しいじゃん!と思えた)僕は無敵になりました。

 

今や、テレビなんかで見かける北欧の魚発酵させた缶詰とか動いてる芋虫をまんま行くやつとかでも「これはムリ」と思うものはありません(目の前にすると違うのかな?)。

無敵です(多分…)。

 

そんな話はどーでもいいのですが、これに付随して、大して食に興味もなかった僕が食べ歩きや創作料理を趣味にするようになり、挙句の果てに飲食業に就いてる始末です。

 

この程度でこれだと、太郎のように全てマイナス(悪い方)にかけていく人生って、きっとすごいと思うんです。

 

人間って無意識にも自分で自分にカセのようなもの〜好みとか習慣とかこだわりとかルールとか〜を沢山作って可能性を狭めていくクセがあると感じるのですが、これがどんどん外れて行くと、きっとミラクル連発の人生になりそうとか思います。

 

なので、今でも僕は「いつもと違う帰り道選んでみる」とか「前回とは違う所で買ってみる」とか、普段から意図的にやってはおります。

 

「困難なこと」と「いつもと違うこと」というのではもちろんレベルが違いますが、多分レベルの違う同じ質のことだと思います。

 

でもこれを今年はレベルアップして目標に…て、もう長いすね、これはちょっと。

今回のはさすがに長い。

 

ここまで読んでしまった方(何人いらっしゃるか…)、すっごいありがとうございます!

でも、私ごとの今年の目標の話などでお時間使わせてしまってすみません。

もう終わりますね。

 

平安を与える印象の強いアール座ですが、そんな思いから、実は日常にアクセントを加える小さな「?」やハッとする出来事、ちょっと自分で考えたり決めたりする要素〜を大切にしていて、それがあちらこちらに地雷のように置かれているわけなんです。

 

例えば、オーダーのタイミングなんかもウチはかなり自由で(すみません、すいてる時の話です)、入店後すぐにオーダーというルールもありませんので、慣れてる方で長い方なんかは一時間くらい落ち着いてからご注文頂いたりしますよ(入店後2時間半位までにドリンクの追加をお願いしております)。

 

ご注文も基本的にはこちらからお声がけしませんので、お暇ならご自分のタイミングを楽しんでみて下さいね

 

普通の喫茶店と勝手が違う所や、特に初めての方などには多少戸惑わせてしまう所もあるかも知れませんが、よかったら「?」と迷って考えることを楽しんで頂けたら幸いです(もちろん、不明な点はお気軽にスタッフまでお尋ねください)。

 

で、どんな小さなことでも、いつもと違うことを何かしら持って帰って頂けたらとても嬉しいです。

 

あ、そうだ。それで思い出した。あと1エピソードだけ…

 

例えば蛾なんてどうでしょう?
 

きっとお好きじゃない人の方が多いですよね。

 

ご来店頂く時、外から入ってアール座入り口に向かう階段を上り、一番上から3段目辺りで見上げると、天井の片隅に2,3センチ程の小さな蛾が一匹とまってるんです。

 

と言ってもこの人、去年の夏頃からずっとそこにとまっていて、まぁ多分とっくに自然の標本と化しているようなんです。
 

が、この子、淡いオレンジ色がすごくキレイで可愛らしいんです。

 

実は僕、蛾の色彩ってすごく好きで、この微妙なグラデーションに慣れると逆に蝶のデザインなんかが派手で下品に見えてしまう程に渋い色合いを持ってるんです。

 

なので、何となくその子もずっとそのままにしてあるんですが、とは言え蛾ですので、お好きじゃない方が見たらきっと逆にすごく気持ち悪いのかもですよね。

 

蛾であるという意識を捨てて、純粋に色彩と造形だけで見ることが出来た時初めて、きっとその可愛らしさを感じて頂けるんじゃないかと思います。

 

まぁアール座のお客様方だと、それ位普通にお分かりになる方も沢山いらっしゃるかもですが、でも蛾がカワイイってちょっと意識を変える新鮮な出来事じゃないですか?

 

興味ある方は、ご来店の際にでも、ちょっと見上げてみてくださいね。

 

本当にお嫌いな方はひたすら足元を見たまま、決して見上げずに通過して下さい。

 

年明け早々、長文ブログやってしまいました。。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -

無音と静寂 虫の声

2015.09.17 Thursday 02:18

 
まだセミが少し鳴いていますね。
ヒグラシが混じると、夏の終わりを感じてしまいます。
 
寂しいですねぇ。
秋の入口です。
ネクラな僕にはたまりません。
 
毎年言っておりますが、秋はアール座のメインシーズンとも言える心安らぐ季節です。
皆さん、思う存分現実逃避をして、どうでもいい物思いにふけりましょう。
 
減ってくるセミの声と入れ替わりに、秋の虫たちの声が盛んになってきますね。
さてさて、この時期がやってきました。
 
アール座では今年もまたスズムシ、マツムシ、エンマ他コオロギ数種を、今すでに飼育しておりまして、もう元気に鳴いてくれています(9/17)。
  

毎度のことなので企画の詳しいご説明は過去ログへどうぞ→2010・9 11.9 14.9 
毎年同じこと言ってるのがバレます。

 いつもながらこれだけ揃うと、虫の声と言っても種によって全く違うのが分かりますね。

 
この季節になると「外で鈴虫が鳴いてる」と言う声を耳にしますが、毎年アール座で色々な虫の声を聴いて下さる方には、都心部で聞こえてくる虫の音には、よお〜く聞くと鈴虫はいないことがお分かりになると思います。
 
コオロギなんですよね、あれ。                                                   リューリューリューというやつ。
 
鈴虫の音色は、もっと余韻もたっぷりに「フィルルリィィン リィィン リィィン リィッ…」です。

「うるせえ。どっちでもいーわ」と思った方も、是非お店に来て聴いてみてください。
「ホントだ♥フィルルリィィン リィィン リィッだ♥」ってなりますから。
 
もちろん外のコオロギもいいですよね。
とても愛らしい声だし、枯れてるし、安らぐし。
 
でも、そのコオロギもよく聞くと本当に色んな種類があって、みんなゼンゼン違う声で鳴いてるんですね。
 
やっぱりソロよりも色んな虫を一緒に聞く方が楽しいです。
 
お勤め帰りなんかに、虫が鳴いてる夜の公園のベンチにちょっと座って、しばしその歌声を楽しんでから帰るといったようなことは、忙しい現代人には僕は本当にオススメしたいです(虫除けスプレー携帯しておきましょう)。
 
さらに鈴虫や松虫まで、本格的に美しい虫の音色を楽しむとなると、もう都内ではアール座に行くしかないでしょう。
 
「虫の声」と言えば、かの有名な童謡がありますが、自然界であんな風に色んなのが同時に鳴いてる状況ってナカナカないです。
でもそれが実現してます。
 
少なくとも9月いっぱいは鳴いてくれると思います。
10月以降どこまで鳴き続けるかは毎年違うのですが、中盤以降は数が減ってなかなか侘びしくもなります(これもこれでヨイ)。
   
また、実は毎年この企画をやっていると、年によっても当たり外れがあるんです。
 
で、今年は今の所なかなかイイ感じです。
 
個体が元気なのか、カゴの分け方(結構難しい)が良かったのか、とてもよく鳴いてくれてるんです。
 
虫を屋内で飼うと条件や時間帯が変わったりして、なかなかウマい時間に鳴いてはくれず、ある程度の調整が必要なのですが、今年はこれも上手くいった感じがします。
 
夜間はお勉強の方たちにはちょっとうるさい位かもですが(ごめんなさい ;^_^A)、そんな時はいっそ手を休めてゆっくり耳を傾けてみるのも良いもんですよ。
 
 
しかし、羽こすってなんであんな音になるのか不思議でしょうがないです。
 
子供の頃、死んだ鈴虫の羽を2枚引き抜いて擦り合わせたことありますが、やっぱりあんな音しませんでしたね(あたりまえ)。ヘンな子でした。ひかないでね。
 
天才なんですね、彼ら。
 
それに虫の声って、人間が奏でる音楽よりも、風音や雨音みたいな偶然生まれる自然音に分類したくなるような神々しさを持っていますね。
 
音楽療法の世界では、同じ音楽でもCD(サンプリング音源)と生音だと、その効果(精神への働きかけ)がハッキリ違う、なんて話も聞いたりします。
   
不思議な所ですが、この企画でも虫の声のCDとか使わずに、わざわざ苦労して毎年本物を飼育するのは、やっぱりそんな気がするからなんですね。
 
静寂空間だからこそ、音は結構大切にしていますよ。
 
この頃では時々アール座も「無音カフェ」と思われることがありますが、皆様ご存知のように、ウチって全然無音じゃないですよね。
 
店内の話し声が無いだけで、結構色んな音しちゃってます。

 時々初めてのお客様で、気を遣われて足音を忍ばせつつ歩いて下さる方もいらっしゃいますが、こんなことなので普通に歩いて下さいね。(^-^)

 
アール座が目指しているのは「無音」ではなく「静寂」なんですね。
 
細かいようですが、
結構違うんです、この二つ。
 
例えば音響関連の専門施設で壁面全部が強力な吸音材で出来ている無響室という部屋ってあります。
 
「あ」とか言ってもそれがたちまち全部吸収されて全く残響せず、空間に一片の音も残らないのですが、TVとかで見てても(入ったことない)あの雰囲気って何かすごい圧迫感で、まず人が落ち着ける空間じゃないのが分かります。
 
人が心安らぐためには、きっと少しの音が必要なんでしょうね。

さらに「静寂」というものを深く感じようとするなら、音は必要不可欠な素材になってきます。
 
アール座を作る際に目指したイメージの一つに「森の中で読書」というのがあったんですが、森って実は結構色んな音がしてるんです。

だからこそ、とても静かなんでしょう。
 
例え話ですが、昔まだ小坊主だった千利休が「庭をキレイに掃いておけ」と言われて、庭の落ち葉を全てホウキで取り除いた上から、数枚の紅葉を散らしておいたというエピソードがあります(ヤなガキだね 談志風に)。
 
絵で光を表現する時、実際に描きこむのは陰の部分ですし、スイカに塩振るのだってそうでしょう。

 何といいますか、輪郭の不確かなものを際立たせるためにその対象の反対要素を用いることがよくあります。


「静けさ」というものも、ちょっとの音があることで輪郭を持って現れてくるんですね。
 
ウチでは、開店前に水槽の水音が消えていれば、音を立てるようにセットし直します。
時計の鐘も思い切り鳴りますし、BGMも(厳しい条件で選り抜いたもののみですが)低く流しています。
 
で、そんな姿勢の一番極端な表現が、この時期の虫の声に包まれたアール座ではないかと考えております。
 
夜なんて虫が大きな声で鳴きまくってて、ハッキリ言ってうるさいくらいです。
 
でも、この時期は「それを聴いて頂くために静寂を犠牲にしている」というつもりは全然なくて、むしろ〜その人の感受性による所の大きい話ですが〜虫の声の響きまくっているその空間が、本当に静けさを具現していると思っているんです。
 
う〜ん、言葉にするのも無理がありますね。
禅問答みたいになってきました。
 
やはり実際に味わって頂きたい所です。
 
アール座では、虫たちは基本的には夕暮れから少しずつ鳴き始めて、夜更けに向けて勢いが増してゆきます(例によってBGMは切っちゃいます)。
 
湿度や気温の高い日とか、何か虫たちの時間帯がずれちゃった時とか、日によって鳴きの善し悪しもあります。
 
そして悲しいかな、閉店後が一番盛りです。(T-T) 

但し、子供の頃からのトラウマとかで虫が大嫌いで、虫の声を聞くとぞぞ〜っとしてしまう方なんかは、すみませんが、もう少し時期をずらして下さいね。
 
今来るときっと死んでしまいます。

 

category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -

雨の楽しみ方

2015.07.06 Monday 02:21
こんにちは。
 
梅雨真っ盛りですね。
今年もしっかりと店内のシルクジャスミンの花が咲いて散りました…ブログでお伝えする間もなく…。
 
さて、今回割と間を開けない更新だったと思うのですが、それには訳がありまして、実は以前から私、雨の日を楽しむおすすめをずっとしたかったんです。
 
で、この話をするなら梅雨時を逃す手はないとの焦りから少し更新を急ぎましたが、まだ梅雨明けないですよね。
 
という訳で、今回のおすすめはソレです。「雨の日」。
 
一部の常連様が好まれる雰囲気の濃い「雨の日のアール座」にお誘いする意味でも、「雨」というものの楽しみ方を、雨フェチの私がマニアックにご紹介します。

ええ、ホントはただ個人的に話したいだけです。
 
 
「良いお天気」という日本語がありますよね。
もちろんカラリと晴れた空模様のことです。
 
さらにはそれを略したものか、晴れの日のことをただ「お天気」とまで言ったりもしますね。
「今日はお天気なので、おでかけしましょう」と言ったりね。
「明日天気になぁれ」とかね…
 


 
なら雨は天気じゃないとでも言うのか!
 
すみません、ついつい感情が高ぶってしまいました。
「いいお天気」って、僕も良く使う言葉です。
 
でも、天からの恵みである雨様に対して、その日常的な扱いがあまりにもひどいなぁとつくづく思います。
 
世の中が便利になればなる程、人はますます不便が嫌いになってゆくんですね。
 
大体あいにくの空模様ってなんだ。
雨降んなかったら、皆どうなることか。
ちょっと昔なんて必死に雨乞いしてたくせに…身勝手な人間共め…。
 
すみません、高ぶってしまいました。
 
まぁそんな言葉ずっと使ってた僕も少し意識が変わってきて、近頃では天気に関してネガティブな感情や言葉を使うのはやめようかと心がけています。
 
なので、そうした今までの罪をすべて棚に上げて申し上げます。
 
雨って本当に良い天気です。 
 
最近では台風とかゲリラ豪雨とか、おっかないのが沢山ありますが、僕が言っているのはのは、しとしとと風情ある五月雨や時雨のような雨のことなんです。
 
雨好きが傘差して出かけたくなるやつですね。
 
僕なんかは、その途中に出来の良い水溜まり(最近レア)なんか見かけると、ふと、子供の姿に戻って人目もはばからずあの水面を長靴でびちゃびちゃしたい!という激しい衝動にかられたりしますが、精神年齢に問題があるのでしょうかね。
 
 
さて、雨の楽しみ方をご説明するために、ヤボを承知で五感で分けて考えてみましょう。
 
すると一番に来るのは、やはり雨の音ですよね。
今日は全てが僕の思い込み基準で話が進みますよ。
 
「雨音を表現する語の数が日本語ほど多い言語はない」と言われますが、実は我々は音で雨を感じることがとても多い気がします。
 
雨音と言っても色々で、降りの強さや粒の大きさと何を鳴らすかにもよって音色も音量も大きく変わります。
 
また、人口の音楽には有り得ない不規則なリズムも忘れてはいけない雨の魅力の一つです。
 
これらを楽しむコツはただ一つ。
手も頭も休めて耳を澄ますことです。
そこに神経を傾けることで雨のワールドが開きます。
ようこそ雨ワールドへ(何だこれ)。
 
雨音を楽しむ一番の道具は言わずもがなのパートナー、傘ですね。
 
モノによって音も違いますが、何となく高級な傘ってポンポンと音も良いイメージです。
でもビニ傘の ポツッ ポツッ っていうのもなかなか愛らしくて好きです。
 
傘による音の違いを気にしてみると、ついつい雨の音楽に聞き惚れてしまいますよ。
 
街中を歩くと聞こえてくる民家のトタン屋根やバラックのブリキ板なんかに当たる音にも、思わず立ち止まって聞いてしまうほど上質のものがあります。
 
強い雨の日にはそれらが交じり合ったザーッという音を雨どいの流れる水音と共に家の中から聞くのもまた良いものです。
 
屋内にいるなら突然の夕立なんてのも嬉しいですね。
 
僕は可能な限り窓を開けて楽しみます。
屋根を叩く激しい雨音って、なぜか心安らぐんですよね。
 
今日はいつも以上にマニアックな内容になりそうな予感がしますが、皆さんついてきてね〜。
 
余談になりますが、今から30年近く前、まだ環境音楽というようなジャンルも発想もなかった時代に、年の離れた姉のボーイフレンドが「enviroments」というタイトルのレコード(LP盤!)を持ってきて、「これ、ただ雨と雷の音が入ってるだけのレコードだよ」と聞かせてくれた時には「は?」とびっくりしましたが、聞いてみてその心地よさにさらに驚きました。
 
ひたすら聴き入ってしまい、その後も借りたままちょくちょく部屋に篭もってそのレコードをかけていました。
 
内容は本当に森の木の葉に当たる雨音と切れ切れに遠くで鳴る雷鳴がただひたすら流れているだけのものでしたが、(ちょっと説明出来ないのですが)、そこにはものすごく濃い森の空気感が見事に再生されていて、東京育ちの僕を森好きにするのに十分な力を備えていました。
 
この経験が今こんな店を作る僕の心象イメージに多大な影響を与えたことは先ず間違いありません。
 
ライナーノーツの内容はあまり覚えていませんが、髭を生やした外国人の男(サウンドエンジニア?)が真剣な表情でヘッドフォンに聞き入っている写真が載っていたのを覚えています。
 
今でこそヒーリングとか環境音楽とかアルファ波とか銘打って、そういう趣旨のCDがあちらこちらから発売されてはいます(このレコードを超える情感の音源を知りません)が、当時は環境音に対して、それを録音して販売するとか購入してオーディオで聞くなんていう認識は全く育っていなかった時代でしたから、ただで聞ける音をわざわざお金を出して買うことで、改めて意識の全てをそこに向けて味わうことが出来る、という発想はとても斬新なものだったと思います。
 
そしてこれはアール座読書館の、わざわざ赴きお金で静寂を買って頂くというスタイルにも通じる所があるのかなと思えてきて、今でもその写真の男の横顔を思い浮かべると、何だか敬意とともに親しみのようなものまで感じてしまいます。
 
 
さて次は触感ですが、これは僕の場合、直接皮膚で感じる雨足よりも傘を差す手から伝わる雨粒の振動の方ですね。
 
だから雨音とセットです。
 
かの森の主大トトロが、生まれて初めて手にした傘がもたらした身震いするようなこの快感にやられてしまうシーンは有名ですが、僕は傘って本当はこれを楽しむために作られたものなんじゃないかとすら思っています。
 
そしてこの意味で秀逸な傘というのは、今度は高級品ではなく、何といっても軽い折りたたみ傘!コレに勝るものはありません。
 
あの華奢な造りの素材と短めの振動材(持ち手)が、目には見えない雨粒一つ一つのインパクトから破裂までの感触を非常に鮮明に伝えてくれるんですね。
 
もしかしたら折りたたみ傘って元々携帯用とかこつけて、本当はこれを楽しむために作られ…え?もういい?
 
でも何かいいですね、マニアックな内容になってきました。
 
こんな話ってあまり伝わる人いないのでそうそう出来るものではないのですが、このブログ読んで下さる方なら何か分かってもらえそう、とか勝手に思って止まらなくなってます。
 
傘を捨てて「ショーシャンクの空に」のパッケージみたいに直に雨に打たれて感触を楽しむのもいつかやってみたいですが、これはかなりの上級者ですね。
 
余程の出来事の後でないと、なかなかやれるものではありません。
 
後、肌で感じる雨と言えばあの特有の「湿気」も、触覚のうちでしょう。
 
もちろん湿気は色々不都合な弊害ももたらしますが、あの感触そのものはとても気持ちのいいものだと思います。
 
僕が家にいるとき激しい雨が降ってきたらまず窓を全開にするのは、それを楽しむためでもあります。
不都合な弊害はありますが、とーっても気持ちいいです。
 
ちなみに僕の見解ですが、これをやるのに世界一気持ちの良い場所というのは、おそらく古い日本家屋の開け放たれた縁側です。
 
今時田舎に行ってもあまり見かけませんが、これを都内で楽しめる場所に小金井の「江戸東京たてもの園」や世田谷、登戸にある「日本民家園」などに普段から公開された古いタイプの日本家屋が移築されてあります。
 
一度、この手の家屋(岡本民家園だったかな?)の中に夕立で降り込められたことがあるのですが、突然だったこともあり、何か別世界にいるような素晴らしい時間を過ごせました。
 
特に強い雨って外界をシャットアウトする力があるので、今の自分を見つめたり、自分が置かれた世界を改めて見直したりという、アール座的な効果も高いんです。
 
そういう公園に雨降りの日を狙って行けば、きっと他のお客さんも居ないでしょうから、以前お話したように、一部屋に留まってタイムスリップ気分で日がな一日をぼーっと過ごすのも素敵だと思います(洋館のすすめ参照)。
 
 
さて、次の感覚に行きましょう。
匂いです。
 
分かる人には分かる話かと思いますが、確かに覚えがありますよね、これ。
実際「雨の日の匂い」って、意外とよく聞く言葉です。
 
科学的にはアスファルトに含まれる何ちゃらという成分(検索するといっぱい出てきます)だとか、土の成分が放出される時に放つものだとか、埃の匂いだとか色々な見解があるみたいですが、都会育ちの僕に馴染み深いのは多分最初のやつだと思います。
 
でもそう言えば土の上の雨の匂いというのも確かにありますね。
 
いずれも懐かしい気持ちになるのが不思議です。
雨なんていつでも降ってるのにね。
 
多分子供の頃って、こういう感覚を日常的に感じ続けていた気がします。

 
大人になるとそれを閉ざしてしまうので、久しぶりに何かの拍子にそんなものに気がつくと、毎日それに包まれて過ごしていた子供時代を思い出して懐かしくなるのかな、とか思います。

だからきっと雨の匂いが嫌いな人ってあまりいないんじゃないでしょうか。
興味ない人はいても。
 
言い換えると、こういう繊細なもの感じられる人にはそれを愛でる感性もあるってことなんでしょうね。
 
アール座のお客さんはその辺のアベレージが高いことを僕は知っているので、今回はこんな話もしちゃってますが、分からない人が見たらかなり意味不明な内容ですよね。
 
だってこれカフェブログですよ。
かまうもんか。次だ次。
 
視覚です。
 
雨って普通絵に描くと斜めの傍線で表現されますが、本当は少し潰れた丸い球のはずですよね。
 
子供の頃よくやっていたのは、雨の日に動体視力全開(?)で雨の落ちる速度に合わせて首を激しく縦に振りながら目を皿のようにして眼前の雨粒を観察しつつ、この球体が見える瞬間を楽しむという遊びです。
 
そう言えば後年(結構大人になってから)のある日、部屋のバルコニー(1階)に出て、手すりに両手をかけて通りを降る雨を「昔よくやったなぁ」と、この方法で夢中になって観察していた所、ふと通りかかった女性が僕の方を怯えたような目でチラ見した後、すぐに目線を外し足早に去って行ったことがありましたが、一体どうしたんでしょうね。
何か僕のこと意識してたのかな?エヘエヘ。
 
降っている雨粒を観察するのが難しいなら、地面に落ちた所をゆっくり鑑賞するというのもアリですね。
 
強い雨の日のこれって、結構見てて飽きないですよ。
 
背景が白く霞むような激しい夕立のことを「白雨」と呼ぶのだそうですが、地面スレスレのローアングルで水しぶきの背景に白く霞んだ古い街並みがある絵面を想像させる素敵な言葉ですよね。
 
飛沫も素敵ですが、強い雨の日に僕が決まって探すのは濡れたアスファルトの上を転がる白い水の玉です。
 
何のことかと言いますと、ある雨の日にふと足元を眺めていて、本当にそういうものを見つけたんですね。
 
初めはびっくりしたのですが、雨粒が地面に当たって跳ね返り、さらにはその後アスファルト面をコロコロと方々に転がってゆくんです。
 
え?!と思ってよおおく見てみても、やっぱりそうなんです。
 
かなり小さなサイズの現象なので目の錯覚か水の気泡を見間違えてるのかと思いましたが、やはりどう見ても小さな水の球が路面や水面をボールのように弾んで転がっているんですね。
 
ファンタジーの話じゃないですよ。
 
分かります?!落下した雨滴が、クラウンのようにより小さな粒に弾けてしまうというのではなく、水滴がその大きさのまま ^^^。 みたいな感じで、濡れた路面をポンポンとバウンドしたり、少し転がってから消滅したり、水溜まりの水面を粒のまま滑ったり、水中に玉のまま潜っていったり…いやいやウソじゃないですってば!
 
一時、水滴がまるで個体のように振舞うこの光景は何とも不思議なものですが、調べてみるとこれは「液滴現象」といって水の表面張力が原因で起こる現象なんだそうです(そうなる条件とかあったかも)。
 
濡れた路面でもキッチンのシンクでも我々の身の周りに普通に起こっている出来事なんですって(そう言えば、コーヒードリップ時のポットの中でも見た気する)。
 
びっくりでしょ?
 
雨の日の足元で、誰にも気づかれずにこんなミラクルが起きているなんて何だか楽しいですよね。。。。
 
これホントに一見の価値ありですよ。
 
特に雨足の強い日には無数の水玉が白いビーズを散らしたように転がりまわっていてとても美しいです。
 
ちょっとしゃがみ込んでのぞき込む位にしないと分からない細やかな風景なのですが、是非そうしてみてください。
 
通りすがりの人に変な目で見られても構いません。
きっとあなたに気があるんです。
 
 
地面ではなくてやはり降っている最中の雨をゆっくり見たいなら、ちょっと話がズレますが、絵画鑑賞という手段もあります。
 
日本人の絵描きに雨を描かせたら右に出る者(民族)はいないそうですが、特に浮世絵の広重なんかは雨の表現が天才的に巧いと言われます。
 
そういう人たちに切り取ってもらった雨を見る、というのも悪くない、というか日本に生まれてこれを見ない手もないので、おすすめ本コーナーにアール座秘蔵の永谷園のカード集「東海道五十三次/安藤広重」(詳細→)も置いておきます(ちなみに雨のシーンは数枚 汗)。
 
 
そして、最後に来るのが味覚ですね。
 
実は雨の味って、その降り方によって…ってウソですウソです。
 
これはさすがにやりません。
上級者超えて変態の域ですよね。
憧れはありますが、僕はまだここまではいけません。
 
なので、4感までの話ですが、でもどうです?
なかなかに魅力いっぱいでしょ。
 
雨になると気が滅入るなんて、きっと意識のせいだと思いません?。
 
別に雨で服濡れたからって何を失うワケでもないし。
 
ウチではよく、ちょっと目を離したスキに子供が床に大量の牛乳をこぼして、その上を靴下はいたままびちゃびちゃ踏みつけハネ散らかして楽しんだりします。
 
これをされると我々大人は完全に意気消沈しますが、この時の子供の嬉しそうな顔といったらありません。
 
大人は後始末や先のことまで考えなければならないから「濡れてはいけない」という固定観念を抱きつつ気も滅入ってしまいますが、もしもその観念がなく後先も考えないとしたら、水に濡れるって本来は人間にとって嬉しいことなんじゃないかと思えてくる表情なんですね。
 
実はこれを書く前に、世の人は雨の楽しみ方とかって考えるのかな、と「雨 遊び 楽しみ」なんかのワードで検索をかけてみましたが、ヒットしたほとんどが、屋内施設のプレイスポットや、何らかの方法で雨をしのいだり、屋根の下で雨を避けつつ一日をやり過ごすというような情報ばかりで、雨自体を楽しむものではありませんでした。
 
「アホか、帰り道に傘壊れてズブ濡れになればいい」などと悪態をつきつつ、今度はおすすめ本コーナーに置くための雨に関する書籍があまり無かったので、少し仕入れようと探した所、こちらは結構あるんですね。
雨の本。
 
日本人だなぁ。
 
「いいじゃん、雨の日」みたいなヒネクレ者が実は沢山いるんでしょうね。
で、ひねくれる人がこっち側にひねくれる国民性なんでしょうね。
 
やはり日本人は昔からこういうジメジメした方向性の感覚が好きなんです。
先の浮世絵や日本画はもちろん、詩歌や俳句をはじめとする文学も、日本の文化は雨が大好きです。
 
聞くところによると、一茶や芭蕉の俳句なんぞは当時、和歌等の貴族の高尚な文化とは違って、庶民的で低俗扱いされていたものらしいので、きっと今のイメージよりもサブカル色が強かったんじゃないでしょうか。
 
だから、そういうアウトローな人達がひねくれて「いいじゃん雨の日」と、唄いまくったのかも知れませんね。
 
で、「自分が読みたい」を基準に「雨、風、寒暑の話」「雨の事典」「雨の名前」という3冊の書籍を選んで購入しました。
 
最初の一冊は一般向けの気象学の解説書のような内容なのですが、この本、昭和49年に発行されたものなんです。
 
「異常気象」という言葉がまだなかった時代の天気って、本当に今のと違ってたのかな?という興味から選んだのですが、既にそのワード、バッチリ載っていて、いつの時代にも「近頃の若者は…」と語られるのと同じ心理だ、と言い切られてました(゚ー゚;A
 
内容も古いものではなく今にも通じる気象の基礎的な解説書となっていますが、より細かく見ると環境問題の認識や危機感が、まだあまり具体的でなかったり今ほど切羽詰っていない様子も伺えて、現況の緊迫感を感じてしまいます。
 
「雨の事典」は科学から芸術、下町の日常から環境問題まで非常に多方面から雨というものを捉えた、大変読み応えのある本で、多種多様な雨の話が細切れなエッセイのように載っています。
多くの書き手の共著なのですが、各々の雨好きが文面からにじみ出ていて良い本です。
 
こちらは15年前の本ですが、さすがに現代の温暖化に伴う弊害を予測していて、日本の植生の亜熱帯化や集中豪雨の頻発、マラリアやデング熱の北上についても言及されています。
 
こういう話になると、もう呑気に風情のことばかり言ってられませんね。
 
実際にこの所は、雨と言うとゲリラ豪雨や自然災害を思い浮かべてしまうきらいもあって、雨を見ながら「温暖化って本当に止められるのかな」とか考えたりもします。
 
小学生の時に、よく朝礼で先生が「一人一人がおしゃべりを止めないと、静かになりませんよー」と怒るのですが、周りがみんな喋ってる内は誰も話をやめず、やがて少しづつ話声が減ってくると自分の声が目立つので慌てて話を止め始め、そこから急な感じで静まってくる、という光景がありましたが、温暖化が止まるならそんな感じかなと想像してしまいます。
 
人間なんて大して成長しませんね(笑)。
 
かく言う私もお店やっておりますので、エアコン使用等なかなか難しい部分がありますが、外に涼しい風がある日はなるべくそちらを利用させてもらう姿勢でおります。
そっちに慣れた方が絶対快適に過ごせますからね。
 
所で、朝礼のそんな状況の一つで、先生が軽くキレて「皆さんのおしゃべりが止むまでお話は始めません」と言ったまま黙ってしまい、おしゃべりは延々止まずに鐘が鳴って朝礼が終わってしまった、というパターンを僕は2、3度経験しましたが、アレってあるあるなんですかね?
 
地球の環境対策があのパターンで終わったら嫌だなぁ。
 
3冊目「雨の名前」は言わずと知れた人気シリーズの雨版ですね。
言葉も写真も洗練されていて、読みやすいし大変に趣き深い、全てのツボを抑えた文句なしの一冊です。って出版社の広報か。
 
そして最後に忘れてならないおすすめは、雨の散歩の目的地です。
 
そう!言わずもがなのアール座読書館で決まりです。。
 
「晴働雨読」って、現代人には憧れの暮らしぶりですが、出来ないことないですよ〜。
雨の日に本読めばいいだけです。
 
そして諺がバカにならないのは、読書家の方ならご存知かと思いますが、雨の日って本当に読書日和なんですよね。
雨の散歩の後には、雨のアール座読書館を是非オススメします。
 
最後の最後でカフェブログになった。 (ー。ー)フゥ



sideA:騒雨と雷鳴 sideB:森の霧雨   レコード特有のノイズがまた効果的。
category:2014.15.16 | by:アール座読書館 | - | - | -

物語喫茶と無言カフェとお散歩のすすめ(?)

2015.06.15 Monday 04:05
こんにちは、2ヶ月ぶりの更新でございます。

心地よいお散歩の季節ですね。
最近こういう気候の時期は短いので貴重です。

ぜひお散歩しましょう。

雨の日だってお散歩日和ですよ。
お気に入りの傘もさせます。

さて、以前ご紹介しました3階「エセルの中庭」の物語喫茶計画も、朗読者の方々のご協力を得まして、予定より遅くなりましたが何とか始まっております。

土日の昼以外は店内に朗読(今は古い児童文学)とBGMが交互にスピーカーから流れます。

もちろん今まで通り、お連れ様との会話も結構です。

ぶっちゃけ現状、平日はガラッガラなので(
゚ー゚;A)お話目的の方以外にも「なんか今日は自分で本読むのメンドくさいな」という方なんかには、ぼーっと椅子に座って誰かにお話読んでもらう気分でのご利用もおすすめです。

ちなみに土日祝の昼はBGMのみです。

実はこの所、新聞やテレビの情報番組なんかでアール座読書館を取り上げて頂ける機会が多くありまして、土日のピークタイム(2時〜5時頃)等は満席のため、少々お待ち頂いてからのご利用になってしまうこともよくあるのですが、そんな時にもおすすめです。


お客様の会話もBGMもありますので、アール座のような静かな読書空間ではありませんが、それでもという方はこちらも併せてご利用下さい(ワンオーダーで二店間の移動は出来ません)。


ところでウチのようなお店では、営業中にテレビカメラが入る取材に関して中々微妙な部分もあるのですが、撮影の形や条件等をなるべくお客様のお邪魔にならない形でご対応頂ける場合に限り、ご相談の上で取材を受けさせて頂いております。

ただ、その際に毎度お客様の寛大なご協力も頂いておりまして、本来は静かに時間を過ごすためにいらした方に(ご承諾の上)それ以外の時間をさいて頂くこともありましたため、届くか分かりませんがこの場を借りて御礼申し上げます。
<(_ _)>

こういうことをこれからどんな形で対応させて頂くかこの所検討中(店内でのインタビューは今後はしない方向で考えております)なのですが、こうした大きなメディアでご紹介頂くことには僕自身とても感謝している理由がありまして、それはまだアール座をご存じない、遠方の方や好みの場所をネット等で積極的に探されないような方で、アール座のような店を必要とされてる方にまで情報が届くという所につきるんですね。

実は一般的な飲食店に比べ、ウチのようなお店をお好きな方のパーセンテージというものは全体ではとても低いものなので、より広い範囲に告知をする必要があるのですが、これが僕なんかの力では限界があるので、そんな告知力をお借りする意味もあって、雑誌や情報サイトはもちろん、テレビ番組の取材も条件を合わせて頂ける場合はありがたく受けさせて頂いている次第なんです。

テレビでご紹介頂いた後は短期間の大きな反応があるのですが、その波が引いた後には、新しい常連様として長く残って下さる方も少なからずいらっしゃるので、きっと「こういう店があればと思っていたけど、ここにあったんだ」という方ではないかと勝手に想像しております。


所で、この所の取材では番組や記事などで「無言カフェがブーム?」というテーマで扱われることがとても多かったですが、皆さん聞いたことあります?

僕自身情報に疎いのであまり知りませんでした
(;^_^A

まぁ大概はこうして語尾にクエスチョンマークが付いてたりするので、ブームというのは分かりませんが、巷には会話を禁止された静かなお店というのが他にもあるんですね。

昔はこんな店をやりながらも、この業態が商売として成立するなんて半信半疑でしたが、何だか楽しい時代ですね。
 
アール座をやっていると頻繁に耳にするお声の一つに、遠方の方々の「こういう店が近所にあればいいのに!」というものがありますが、ウチのような零細の個人事業ではなかなか幅広く叶えてあげられないもどかしいニーズの一つです。

とは言え効率的に利益の出る形ではありませんので、大きな組織や企業が経営するのも難しい形でしょう(基本的に気を下げる方向ってお金が回りにくい)。

そんな中でこういう意思を持った個人経営のお店って、意外と重要な存在だなぁと感じます(もちろんアール座も含めて!)し、増えると嬉しいなと思います。

「無言…」に限らず「世の中もっとこうであればいいのに」という営利以外の目的も持っているコンセプチュアルなお店って、何だかこれからの時代を作っていく気がしますし、個人経営がこれを担ってリードしてゆくのも面白いなという気がします。

…などとまた語ってしまいましたが、思い出すのは今から5、6年前にアール座が始めてテレビ取材をして頂いた時、カメラの前で「なぜこんな店を?」に始まる30分以上にも及ぶロングインタビューを受けまして、僕もドキュメント番組ばりに気負ってアール座開業の由来や世の中に対する思いなどを熱く語り「この放送をきっかけに世の中が変わるといい…」なんて思いつつオンエア見たら自分の話はほんの5、6秒だった、という恥ずかしい記憶です。

「これか!よくテレビでタレントさんが両手チョキチョキしてるやつは…」と思いましたが、きっとテレビ作りの凄まじいメソッドなんでしょうね。

毎回膨大な量のネタを集めてから、絞って絞って密度の濃いものを作るという、いやはや大変なお仕事です。


さて、ここまでが前置きです。
いよいよ今月のおすすめですが…って長すぎる?
 
いつもながらの長編ブログとはいえ、ここから長い本編はさすがにアレですかね。

考えていたのは「お散歩のすすめ」で、内容的にはそれを楽しく彩る野草や蝶や鳥(都会で見られるやつ)の話でもしようかと思っていたのですが…時節モノなので次回にまわすのもアレですしね。
 
ではその中でするつもりだった「ハルジオンとヒメジョオンのすすめ」に絞っちゃいましょう(なんだそれ)。
 
お散歩時に一番思い出して欲しいネタです。
 
皆様ご存知ですかね、このお花。
漢字で書くと春紫苑と姫女苑(ヒメジオンじゃないんです)。
 
昔はビンボウ草なんていうかわいそうな名前で呼ばれていた、東京の空き地でも何処でも生えてる何の変哲もない草花ですよね。
 
通行人にも見向きもされないありふれた花ですが、よくよく見ると侘びた雰囲気の可愛らしいお花です。

両者はとても良く似ているだけに、野草好きの人たちの間では「花弁が紫がかる」「蕾が首を垂れる」「茎を切ると中が中空」など有名な見分け方があるのですが、でも見慣れてくると、お花見ただけでも分かります。
 
名前二つ並べて画像検索すると沢山出てきますが、花弁の形が結構違いますね。
これ覚えて、見分けていきましょう。
 
「別に見分けなくてもいいじゃん」とお思いの方…違うんです。

この2種類は見分けなきゃいけないんです。

このブログで度々口にしている、もはや僕の持論なんですが、「人間は季節感と共に生きていかなきゃおかしくなる」という信念からの発想です。
 
都会の生活は、今がどの季節にあるのかをあまり感じてないから、体のバイオリズムと環境がズレていく気がします(何を隠そう、この所の僕がそう)。

昔の暮らしって、春夏秋冬の季節の変わり目をいちいち確認するような知識やら行事やらが生活に取り入れられてましたよね。

まぁ春は現代でも分かりやすいです。

暖かい強風が吹いてからあちらこちらにお花が咲いて最後に桜が満開になりますと、いやでも春の空気を感じさせられます。

そんな風に植物を見てゆけば、木々の葉が紅葉して木枯らしが吹いてそれが散って、という感じで秋も冬も入口が意識されやすいですね。

で、夏なんですが、これが分かりにくいんです。

山間部や緑の多い地域なら色鮮やかな新緑というものがあって、普通の常緑樹とは色合いが違くなりますが、都会の街路樹くらいではこれもパッとしませんね。

何かいい指標があるといいんですが…そう!これがヒメジョオンなんです。

実はあの2種類って同時に咲く訳じゃないんです。

開花の時期がずれていて、ハルジオンはその名の通り春先に、ヒメジョオンは東京では5月の終わり頃から6月にかけてハルジオンの花が終わる頃と入れ違いに咲き始めるんです

つまり初夏(今頃から)ですよね。
 
この2種の植生はすごく近いので、大抵ハルが生えてる場所にはヒメも生えるんですが、こういう時間差でそっくりの花が交代して咲きます。

つまり、人知れず生え変わっているんですね。

これって何か、すごいロマンチックでないですか?
こんな身近にありながら、まるで知っている人にしか起きていないかのような季節の移り変わりなんです。
 
だからこの2種の見分けがつくと、生え変わりに目が行くようになって「ああヒメジョオンか、夏が来るな…」なんてつぶやいて、目を細めつつ青空を見上げることも出来るんですね。
 
やりたくないかもですが、是非やって下さい。

あなたのバイオリズムのためです
 
…という、まさにこの時期にお伝えしなきゃならない情報でした。
 
んなワケでアール座のおすすめ書棚、今回は野草の本やら蝶や虫や鳥の本やらで埋めておきたいと思います。
 
ぜひ、お散歩帰りに寄って行って「あの草なんて名だろう?」みたいなことやって下さいね。
 
どうでしょう?これくらいの長さのブログならまぁいいでしょ?やっぱ長いか…
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インナーチャイルドと自己否定

2015.04.06 Monday 23:19
こんにちは。
すっかり春ですね。

僕はもちろん桜の季節も好きですが、それが終わっていよいよ植物がいっせいに勢いよく噴き出してくる時期に入る時期にとてもワクワクしてきます。


意識するしないの違いがあるだけで、きっと人は皆植物の緑が濃くなると、それだけで元気が出てるんじゃないかと思いますね。

そんな中突然ですが、今日はある人の話からさせて下さい。

僕がとてもお世話になった人なんです(春と関係ない!)。

以前ブログで、まだお客さんが少なかった開業当初、この店を見聞きした人達が皆一様に「こはすぐにコケる」という見方をした、という話をしましたが、実はその中にほんの数人、違うことを言ってくれた人もありました。

それを一番はっきり言ってくれたのは僕の父方の叔父である圭造おじさんでした

この人の見方はとても特徴的で、他の人が全員判で押したように「この客席数で客単価がこれくらいだろ」と経営マネジメント的な計算をしたのに対し、叔父さんが初めて店に来てくれた時は(聞きづてですが)店に入るなり何だかニオイでも嗅ぐように店内をゆっくりと見回した後に、眉をしかめて「ここはちょっと面白いことになるかもしれないぞ」と一言、僕の家族に言ったたらしいのです。

まだ今のような内装が半分程しか完成していない頃なので、それを評価したワケでもないでしょう。

おそらくですが、何だか僕がこの空間に込めた気のようなものを読んだように思えてなりません。

他の人達が全員飲食のプロでその人だけは芸術家かなんかだったのかと思いきや、これがそうではなくて、実は計算をしてしまう人達の方こそ、皆多少知識のある素人の人でした(不動産屋さんにまで言われたし 
C=(-。- )。

そしてその叔父がどういう人かというと、日本にまだあまり洋菓子文化が根付いていなかった戦後の時代に単身スイスに赴きパティシエ修行をした後、帰国して東京八王子に洋菓子店を立ち上げ、そこから八王子、日野方面を中心に勢いよくチェーン展開をしつつ,当時としては大変斬新な手法と方向性で様々な形態に事業を拡大してきた老舗洋菓子店グループBASEL(バーゼル)の創設者であり、いわば飲食のエキスパートだった人なんですね。

つまり経営マネジメントなんてものを骨の髄まで知り尽くしている人でした。

そういう人が店を見るときに先ずは直感を使うんだ、ということは今でも強烈印象に残ってい
 
実はこの人が先日亡くなられて(享年80歳)、お葬式に行ってきたんです
 
それに関して、最近色々なことを思い出して色々なことを考えました。

またもや店と関係ない話かというニオイが早くもしておりますが、でもこの叔父さん、僕の運命を変えたと言っても過言ではない人で、この人がいなかったらアール座もなかったかも知れないと思える程の大恩人なんです。

私事がらみの長い話なのですが、今回はちょっとそんなお話をさせてください


昔、僕は人に褒められると反射的に片手を振って「いやいや俺なんて」と慌てて否定してしまうタイプの人間でした(今でも時々やります 汗)

いるでしょそういうやつ

評価が上がると何かハードル上がって落ち着かなくなっちゃうので、そういうのを打ち消して安心出来るタイプ。

普通の人から見たら「何で?」と不快に思われるかもですが、まあそんな人間にもそうならざるを得なかった生い立ちというものがあるものなんです。

さすがにここでそんな長い話はしませんが、とにかくそんな性格の僕が生業のために関わっていただけの飲食業を本気で志し始めたのは今から15年程前のことで、最初は店舗を開業するような資金もなく、軽のワンボックスカーでサンド類の移動販売を始めたんです。

勢い込んで始めたもののしかしまぁ、売れないわけです。全く。

毎日パンを焼き上げて具材を仕込んで出かけては、方々売り歩いても通行人には見向きもされず、大量のそれを持って帰って来るという今思い出しても気が重くなるような虚しい日々でした

これ、何が一番キツいって、体力的な疲労じゃないんです。

自分だけが社会の誰からも必要とされていないような無力感にさいなまれ続けるんですね。
 
特に個人経営の移動販売のような業態で人に相手にされないでいると、何というかたまらない程の屈辱感、焦燥感無能感、無用者意識等々いくつもの心理的な負荷が日々重くなっていって、まともにアイデンティティが保てないんです。
 
お勤めの人達のランチタイムを狙って出店していたので、スーツを着ている沢山の人達の中でいつも自分だけが何の意味も価値も持っていない存在であるような感覚に包まれていました。

例えばある時、やっと馴染んだ販売場所を追い出され、車で次の場所を求めて市街地を一日中探して回った末に、大きな街道に出るつもりで入った小道がやたらと入り組んでいて、進んで行くと最後はヒト気のない袋小路になっていたんです。

いっぱいいっぱいが続いた後のこの状況に何処か象徴的なものを感じて何かがとんでしまったのか(マジであまり覚えてない…(
゚ー゚;A)、急に体が熱くなり汗が滲んで、頭の中が「何でここで行き止まりなんだ もういいや 何かもう全部無理だ おわりおわり…」と言う感じになって、遠くに見える分厚いコンクリートの壁に向かってアクセルをベタ踏みして車ごと突っ込んで行く途中、ハッと我に返って急ブレーキを踏んだことがありました(まぁ大して本気ではなく、ビビって壁よりかなり遠い所で止りましたけどね)。

とにかくそんな風に軽く頭もイカレた感じで、こんな状態をこれから何年も続けていくんだろうか、続けていけばいつか出口がるのだろうか、という不安にのしかかられ日々が続きました。

そこに来て、例の自己否定の強い性格だったので、心の中で自分が世界中から否定されているかのような意識を作ってしまい、その否定から逃れるために更に自分を卑下していく自分はダメな人間だけども、それは自分で分かっているんだというポーズを取るような、なかなかしんどい心理状態にありました。
  
そんな感じのまま2年ほど経って、幾分かは売れるようにもなりましたが、まだ収入というには程遠い金額でした
 
そんな折、僕が飲食業の端くれのようなことをやっているのが圭造叔父さんの耳に入り、「とにかく一度俺の店に来い」と呼び出しがかかりました。

叔父さんに会うのは久しぶりだったのですが、僕は正直あまり気が進みませんでした。

ナカナカ厳しいイメージの人だったので、お説教されるものとばかり思っていたんですね。

実際僕の思い込みを省いても、その頃の僕がやっているお金にならない自己満足のようなこと(満足なんてカケラもありませんでしたが)を仕事として認めてくれている人は周囲にはおらず、皆には只のモラトリアムと見られていたように思います。

だからそんな大きな企業を回している人に、こんなままごとみたいな店をやっていることを話して、何を言われるのかは大体見当がつきます。
 
その日も「バカなことやめてもっとまともな所で働け」というようなことを言われる心積もりで叔父さんの店に入りました。
 
すると予想に反して叔父さんは「おお!来たなぁ!」と僕をにこやかに迎えてくれました。

尋ねられるままに、僕は飲食の商売を思い立ったものの資金がないのでどうにか車を改造して販売資格を取ったもののと、これまでのいきさつを、何だか言い訳でもするように全て説明しました。


すると黙って聞いていた叔父さんは意外にも「いやぁお前よくやってるなぁ。えぇ〜すごいじゃない。」とにっこり笑ってくれました。

ずっと遊びの延長と思われ、誰にも相手にされなかったその仕事を人が認めて褒めてくれた初めての言葉でした。

所がイカレている僕は喜ぶどころか混乱し、本当は全く褒められるような状態じゃないことをきちんと説明しなければと焦って「でも全然売れないからお金にもならなくて、いつまで経ってもシステムが作れなくて、こんなのじゃ商売なんて言えないし」と溜まっていたものを噴き出すようにネガティブワードを連発しました。

褒め言葉を受け入れ切れず、悪いことを言われる前にこちらから言って許してもらおうという防御タイプの言い訳ですよね。
 
そうなるのもムリない心理状況でした。

しばらく話を聞いてから、叔父さんは「いやいや、待て待て」とそれを制しました。

「そうじゃないんだよ それは違うんだ」と、真剣な顔で僕の目をまっすぐに見ました。

そしてここで、僕の一生を貫く指針になる言葉を頂きました。


「いいか、今の経営が良くない、それはもちろんこれから考えなきゃいけないことだ」

「しかしまずその前にだ、お前がこうしてたった一人で商売を思い立ち、自分で車を改造してメニューを考えて小さいながらも店を出し、今毎日それを仕込んで東京中を走り回っているということ、これは本当に大変なことなんだよ」

「それをここまで実行しているのは凄いことなんだ」
「商売が大きい小さいの問題ではない」
 
「お前は先ずそれをちゃんと理解しなきゃいけない」

「先ず自分がこれまでやってきたことを認めて、そこに誇りをもって自信にしなきゃいけない」

「そうしないとその次には進めないんだよ」 

「そして、これを何度も繰り返していくんだ」


「売れる売れないはその後について来る話なんだ」

と言ってくれました(ヤバい、書いてて泣きそう)。



すごくないですか?この柔軟性。
戦前生まれの人ですよ。

僕はこの言葉で胸がいっぱいになり、そして我に返りました。


で、切り替えましたよ、スイッチを。
この日を境に。

まずは自分がこれまでやってきた業績を上げていない仕事を「成果」と捉えるように考え直し、自分の力を信じ直しました(簡単なことではありませんでした)


そして営業に関しても色々な点を見直して大規模に路線を変更し、移動販売向きでなかったサンドをやめて新たなメニュー(何と丼もの)と気持ちで勝負に出ました。

これは前のものよりずっとランチタイムのお勤めの人たちにウケて、次第に店に列が出来るようになり、これを更に2年程続けました。

この出来事が後にアール座読書館を開業する資金とモチベーションを蓄えてくれたんです。

ね、恩人でしょ。



でも、今になって思いますが、こういう心理状態の人って僕だけではない気がします。


今でも世の中の沢山の人がこんな心境でいるんじゃないかということは容易に想像出来ますし、自分がそうだっただけにそれを切実に感じます。

だってこの社会がそういう風に出来てるんですもん。

実際、教育現場でも職場でもマスコミでもネット上も毎日何度も何度も批判に触れながら我々は暮らしています。
皆が執拗に誰かを責めては、責められる世の中ですよね。


別に、今ドキの世の中はという次元の話をするつもりはなくて、社会って大概そんなものだと思います。

そういう環境の中で叱責されながら育つ我々はどうしたって、自分で自分を責めないと周りが許してくれないように思いながら育っちゃいますよね。

自分に厳しい態度、というポーズを取ることでそこを渡ろうとしますが、これが自らの精神をも縛り付けてしまうんですよね


僕は最近、こうした悪循環の原因の要が周囲や社会にあるのではではないような気がしています。

個人的な考えですが、自分のインナーチャイルドを傷つけることが出来るのは自分だけなんじゃないかと感じているんです。

このブログでも時々使う言葉ですが、僕が日頃から意識している「インナーチャイルド」という概念があります。

人の心は子供から大人になるにつれて変容していくのではなく、玉ねぎの皮のように層をなして古い精神を次々に覆い隠してゆくように成長するから、自分の幼少期の精神は今でも自分の心の中核にいて、今の自分の精神の要として生きている、という考えです独自の解釈が入ってるかも)。


確かに社会はこのインナーチャイルドの振る舞いをよってたかって押さえ込んできますよね。

でも僕は、これだけなら何でもないことなんだと思います。

現実の社会よりも、それが反映された自分の中の社会性という意識が周囲の意向に同調してしまう所から良くない方向が始まると思うんです。


例えば「自分には芸術的センスがない」と言う人がいたとしますよね。

自分が描いた絵を皆に笑われた経験があるのかも知れません。
だとしたら無理もないことです。

でもです。想像してみて下さい。

あなたが絵を描いたときの心の中では、例えば3才の頃の幼い〇〇(your first name)ちゃんも昔のままでそこにいて、きっと同じようにノビノビと絵を描いています。

それを周囲の人が下手だと笑った時に、我々は恥ずかしさのあまり皆への言い訳として「私、絵下手なんだよね」と自分の口から言ってしまいますよね。

周りの人にはふーんと聞き流されるだけのことですが、その一言のダメージをモロに食らうのはきっと心の中のその子だと思います。


楽しく描いた絵を「ヘタ」と言う自分の言葉を耳にしたら、その子は「え?」と顔を上げてクレヨンをポロリと落としてしまうかも知れません。

「私が描くと恥かかせちゃうから、もう描かないでおこう」と描くのを止めて両手を後ろに組んでしまうかも知れません。

これは大人として、自分自身に対して決してやってはいけないことだと思いますが、しかし中々やらずにいられることでもありませんよね。


でもです。
大事なことは、他人に言われたことなんてこのちびちゃんには聞こえないという事実なんです。
自分さえそこに同調しなければ、きっとインナーチャイルドは傷つかないんです。
 
それは自分の口から発せられる時にはじめてその子に伝わるように感じます。

根拠なんて何もありませんが、強くそう感じます。

だから周りの人に「下手だ」と笑われても、気にせず言わせておくことが出来れば何も起きない

イケナイのは「そうなんだよねー」とか言って自分も一緒にその否定的な周りの側についてしまうこと。


これをすると心の中のちびちゃんは唯一の味方を失い、一人取り残されてしまいます

別に私は上手いと言い張らなくても、その場は適当に流してでも、ただ心の中で自分の意識がちびの味方についていてあげることさえ出来ればいいんだと思います。

自分だけが絶対にそこに同意しなければ、自分一人だけしっかりとちびちゃんのに立って「そんなことないのにね。なんで皆分かんないんだろうね」と盾になって守ってあげることさえ出来れば、
例え世界中の人々に馬鹿にされ続けても、ちびちゃんの心はきっとカスリ傷一つ負わないんです。

そしてそんな子達が心の向くままに軽く本気を出すと、どんな奇跡が起こるのかということを僕は最近分かり始めている気がします。

今自分の家を歩き回っている2歳になるちびを見て、またよそのちびちゃん達にも目が行くようになって確信を持ったことが一つあります。

天才的な感受性を持たずに生まれてくる子供なんてこの世に一人もいません。

昔、大阪万博で「太陽の塔」をテーマにした子供たちの絵画作品コンクールが催された折に、その大賞作品を選考する審査員長を任命された岡本太郎氏が床に広げられた沢山の子供たちの作品を見て興奮し「全部いい!全部素晴らしい!」「何が選考だ!何が大賞だ!くだらない!」と怒り出してしまったというエピソードが僕は大好きです。

世の中の評価というものはいつもこの基準なんですね。

根底に他者との「比較」という概念があるんです。

もれなく素晴らしい感性を持って生まれてくるすべての子供たちは、そのあとに様々な条件でそれを閉じ込めたり伸ばしたり、塞がれたり開いたりして、そんな風に大人になる過程で感受性に個人差が出てくるように思います。

心の中の子供たちはとてもデリケートで傷つきやすいけれども、想像を超える高い能力を持っていて、その子の能力をどれだけ信じられるかが、その人が発揮出来る能力の高さの決め手になる、というのが今の僕の持論です。

自己否定を止めるというのは、それがクセになっている人にとっては簡単なことではありませんが、自分に対するネガティブなことを口にすることの重大さだけは大人は意識するべきことなんだと思います。


昔腐っていた頃の僕は頑張っていた自分のインナーチャイルドを無視し続けていました。

周囲からの叱責を恐れてそれに従属するように、インナーチャイルドの頑張りやワクワク感圧迫して押し殺していました。

守ってあげるべき者に見放されていたその子の頭を初めて撫でてくれたのは、たまにしか会わない親戚の叔父さんでした。


先日、棺の中の叔父さんは穏やかに眠っているような顔をしていました。

僕は人の死というものに対して、さほどネガティブな思いを持ってはいないのですが、それでも、もうしばらくはこの人の厳しいしかめ面が見れないのかと思うとやはり寂しく感じます。


でも、もし次に雲の上で会う時に、この人が「お前よく頑張ったなぁ〜 すごいじゃない」と言ってくれたら、今度は僕は胸を張って「おれ頑張ったよ!すごいでしょ!」と言ってやりたいと思うと、なんだか元気も出てきます。

いつにも増して長くなっちゃいましたね。
しかもあまり店と関係ない…(汗)。

まぁいいや。いつものことだ。

最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

 
 
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物語の効用と童話の楽しみ方(後編)

2015.02.28 Saturday 01:34
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さて、物語の話後篇です。
 
二部構成にしてまでお話ししたかった内容は、前回も少し触れました、本とは違うもう一つの物語の楽しみ方〜朗読〜についてなんです。
 
もう一つと言っても本来はこっちが先なんですよね、物語の伝え方として。
 
お話というのはその名の通り元々は話して聞かせるためのものでした。
書き文字ではなく人の肉声で物を語ってストーリーを伝えたのが、本来の「物語り」なんですね。
 
昔のお話というものはいつも口伝えで伝わっていったものです。
 
この方法の力を借りつつ、本をあまり読まない方も含めて皆さんを空想の世界に引きずり込んでしまおう、というのがこの所考えていたモクロミです。ふふふ。
 
以前からアール座では、時々朗読者の方に朗読会イベント(この6月にも毎年恒例の春日玲さんの朗読会あります)を開催して頂いておりまして、その度に朗読と言うものの力にぶちのめされていたのですが、今回何人かの朗読者の方々にご協力頂き、触れてみて、改めてその可能性の高さにワクワクしております。
 
 その表現方法の力を、まずは分りやすい所からお話しましょう。
 
前回もお話ししましたが、人の世はお話に溢れていますね。
本以外にも映画や舞台…ってもういいか(前篇参照)。
 
これら、お話の形態は大体文字メディアと映像メディアのどちらか(もしくはその複合)に分類されますが、どちらにも特有のメリットがありまして、例えば書物というものの良さは、想像が広がる、イメージを自由に描ける等の点が昔から良くあげられますよね。
 
「だから本の方が良い」と小学校の時から聞かされてきましたが、僕が思うにそのメリットの真意は自分の感覚にフィットした世界観を描ける、ということだと感じます。
 
例えばロケーションとして「路地裏」とか出て来ても、その印象に関して自分がずっと抱いてきた視覚的なイメージが作り手の提示するものとギャップを持ってしまう事がありません。
自分だけのイメージで視覚を構築出来ます。
 

一方、読み慣れてないと中々世界に入り込めないし、慣れていてもある程度の疲労(頭や目等)は伴うので、平たく言うと「とっつきにくい」という点は書物のデメリットかとも思います。
 
逆に言うと、映像メディアの大きな利点は何と言ってもその点〜入り込みやすさ〜でしょう。
 
論理的思考を介さず、視覚、聴覚といった感覚器からダイレクトに入るので、こちらから積極的に迎えに行かなくても、何にせよ入ってくる力が強いです。
 
良し悪しは別として、TVのように流しっ放しにして気楽に楽しむ、ということは、読書にはなかなか出来ません。
 
そして欠点の方も逆に、視界が固定され、従って世界観も大幅に限定されてしまう(作り方にもよりますが)という部分ですよね。
 
「どこが路地裏だよ」と自分のイメージと違う画像に限定されてしまう事もいた仕方ないのです。
よく原作の有名な映画が難しいと言われる所以ですよね。
 
さてそこで「朗読」ですが、賢明な皆様はもうお分かりでしょう。
そうです。両方の良い所をしっかり備えちゃってるんですね。
 
感覚からダイレクトにスッと入ってきて、こちらのイメージをもって世界を構築してしまいます。
非常に取っつきやすいので、脱力して入ってくるものに身を任せたまま、想像も膨らませられてしまうんです。
 
恐ろしい表現ですよね。
 
こんな所から、より多くの方を巻き込んでいく可能性を僕は強く感じております。
 
でもまぁこれは朗読の分かりやすいメリットの一つで、その醍醐味の真ん中ではありません。
 
僕は朗読に、何よりもその方法としての芸術性に大きなポテンシャルを感じています。

インプットが言語なので、イメージはこちらで自由に思い描けるかというと、そこはちょっと本とは違うんです。

声色やスピードなどの技術によって、アーティスト(朗読者)の解釈と表現が入って来るんですね。
 
だから一人で読むのと違って、ここが非常に面白いんです!
お話が変わるんですね、読む人によって。
 
例えば絵画ってそういうことですよね。
 
ただの町の星空を、頭のおかしくなったフィンセントおじさんが絵で描くと、彼が頭の中で見た星空を我々も見ることが出来ます。
 
が、それを受け取る段階で我々の元々持ってるイメージもそこに重なって(合わさって)さらなるイメージの広がりを呼ぶんですよね。
 
こういう表現者と観覧者の重なり合いって、言語芸術だと詩が近いですかね。
バロウズのカットアップ(アール座に「裸のランチ」あります)とかも幅が広がりますが、これは偶然性の介入ですね。
 
でも物語りにこういう表現者の感覚的な芸術性が介入する方法で、朗読ほどの手段を僕は思いつきません。

文字のなかった太古の人は、当たり前にこの表現をやっていたんですね。 
子供に絵本を読み聞かせるのも、何だか責任感じちゃいます。

では、その朗読を店でどうしようというのかと言うとですね…流れます。
スピーカーから、BGMみたいに。
いつでも店内に普通に流れています。
 
おもしろいでしょ、そんなカフェ。
 
朗読の「入ってくる」という威力を最大限に使った、気構えなしに楽しめるシステムで、よくあるカフェの朗読ライブとはまた違った楽しみ方ですね。
 
で、先ずは先日おすすめした童話作品(著作権切れ)から攻めていこうと思っております。

うまく進めば春先から実施予定で、今の所は夜間だけの予定ですが、お仕事帰りなんかに気軽にいらして、喫茶しつつ物語もいくつか味わって、お好きなお話を心にしまってお持ち帰り下さい。
…という計画をただ今準備中でございます!
 
これにあたり、身辺の朗読者の方々の多大なるご協力を頂いておりますが、皆さん才能ある方ばかりでこれっきりでは勿体無いので、もっと違う方向でも何か出来ないかと色々な可能性を考えてしまいます。
 
実を言いますと、僕も挑戦しました。
朗読に。
 
少し読んでみて「うん、なかなか良い声出てるな」と思ったんです。
そして、本気で読んで録音もしてみたんです。
 
よく誰かと自分の録音した声聞いて「えー!おれこんな変な声なのー!」「お前そんな声だよ」という会話ありますよね。
 
で、録音聞いて、やめました(ちゃんちゃん)。
へたくそな奴がすごいカッコつけて読んでるイケ好かない朗読でした
(T-T)
 
凄いんだな…朗読出来る人って。
 
でも実は今少しずつ練習してます。
 
というわけで、春先をメドに、エセルは物語のお店になります。
 
もちろん今まで通り、お話も普通に出来ますよ。
意外と双方邪魔にならずに出来ます。
専用スピーカーのある席もあります。
大騒ぎのみご遠慮ください(しないか)。
 
まだもう少しかかりそうなので、やはり多分春先ですかね。
完成しましたら又お知らせしますね。
 
がんばった!二部構成!
 さて、仕事仕事。 


星月夜/フィンセント・ファン・ゴッホ
 
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物語の効用と童話の楽しみ方(前編)

2015.02.24 Tuesday 02:09
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皆様こんにちは。
 
新年の挨拶以来の更新ですが、まぁいつも通りのペースです(すっかり悪びれなくなりました)。
 
三寒四温の季節ですが、心身共にバランスに気をつけた方がいい時期ですね。
 
この時期になると、決まってバイオリズムを崩してしまう方も少なくないと思いますが、「毎年崩す」と決めてかかると体も心もそういう風に納得してしまいますのでね。
 
「今年は一つ、崩さずに乗り切ってやろう」という気概も大切かと思います。
 
そんな皆様の心の保養にも、アール座はやはり読書をおすすめします。
 
ただ、読書と言っても色々ありまして、タイミングを間違えると心の中をかき乱されてしまうような本もアール座には多いです(汗)。
 
繊細な季節なので、今回は童話というものを少しおすすめしてみようかと思います。
 
こんな店をやっている割に、僕は「人はもっと本を読むべきだ」とかあまり思わない方なのですが、童話や絵本に限ると話は別です。
 
大人が一番読むべき書物があるならこれだとさえ思います。
童話なんかとても読みそうにないタイプの大人の人については特にそう思っちゃいます。
 
無駄なく研ぎ澄まされた優れた童話を読んだ後って、児童文学以外の書物はもう読まなくていいのかなとすら思ってしまいますね(雲の本で感動した後は「雲以外の書物はもう…」と思うタチですが)。
  
 読まれる方には周知のことですが「童話=子供向けの話」ではゼンゼンないですよね。
やさしい表現を使いながらも、大変奥深かい作品が多いです。
 
それに、何と言うか作りがとても丁寧で繊細です。
 
人格形成の時期の読者を対象にしているから作家さんも細心の心遣いがあるのでしょうか。
意図的にか無意識にか知りませんが、作り手の自己主張や自己満足につながるような表現(芸術性としては必要なものと思います)も極力削り取られているような気がします。
 
だから僕は童話というものは、装飾の少ない最低限の表現で、物語のエッセンスのようなものをシンプルにダイレクトに味わえる作品、という印象を持っています。
 
作品の対象年齢が低い程この感が高くなりますね。
 
1,2歳児向けの言葉数の少ない絵本なんかではこの傾向が特に強く、松谷みよ子や石井桃子クラスになると、言葉も何だか神がかってきます。
 

ウチには2歳の子供がいるのですが、これが眠る前に毎日のように読み聞かせている絵本を脇に抱えては今日も読んで読んでと激しくせがんでくる勢いは、甘いお菓子を欲しがる時以上ですし、しまいには文字も読めないくせにページをめくりながら正確にストーリーを読み上げていく(暗記してる)のには驚かされます。
 
こんな年端も行かない子供が、多分本能的に、これほど強くひきつけられる「物語」っていったい何なのでしょう?
 
思えば人間界ってお話に満ちています。
 
本以外にも映画や舞台、漫画やTVドラマだって歌だってお笑いだって、全てお話です。
純真無垢な幼児から暴力団員まで、みんな人はお話(ヤクザ映画含む)が好きですよね。
 神話や昔話のない国や宗教ってのもないでしょう。
 
きっと人間は物語なしでは生きていけないんです(ラピュタのシータの声で)。 
なぜ人はこんなにもお話を必要としているのでしょうか。
 
人間の心や暮らしと物語の関係性については昔から心理学などの研究対象としてよく取り上げられる題材ですが、個人的にも大変興味のある所なんです。
 
先ずは独断で語ってしまいますが、「物語性」というものを僕は「出来事を単なる事象の羅列としてではなく、全ての出来事が結末に向かう何らかの意味を持って(起承転結のように)その関連性を捉えられていくような、またそれがある感情や感慨を伴って体感されるような認識の仕方」という風に考えています。
 
一生懸命意味をまとめたら何だか大学生のレポートみたいな文章になってしまいました(汗)が、とにかく起こった(ピックアップされた)出来事が全てストーリーに関係しているというのが一つの分かりやすい特徴ですよね。
 
例えばドラマの中で、電車のシートにものすごい大男が座っていて「何あの人!大きい〜」という主人公の台詞と共にその体躯の足元から頭上までカメラを振っていくようなワンシーンがあったとして、この大男がそれっきり物語に登場しなかったらちょっと意味分かんないですよね。
 
物語の中では無駄な出来事って存在しないんです。
 
で、この「無駄な出来事って存在しない」という物語的な認識が、現実を生きる人に必要とされている気がします。
 
それはきっと「人が体験した出来事をその人生の中に意味づける」という大切な仕事が、この物語性という意識の中で行われ、またそういう認識方法が物語を楽しむ中でのみ自然と培われるものだからではないでしょうか。
 
人がふと何かを思いついて、その思いを巡らし、やがては夢を描くようになり、心を決めて動き始めたものの思うようには事が進まず、散々な目に遭いながらもどうにも諦める気になれず、もがいていく内に何かが変わり始めて…何ていう人生を続けて行けるのも、その全ての出来事を一貫した流れ(ストーリー)としての意味と感慨を持って感じられるからじゃないかと思います。
 
起承転結やストーリー性というものを全く知らず、人生に起きるアクシデントの一つ一つを、ただ偶発的な出来事の連続、もしくは単なる因果関係としてしかとらえられなければ、人は上のような人生を絶対に歩めない気がします。
 
だって、今味わっている苦しみの先にこういう結末があるはずだ、今の出来事がこの先の何かにつながるはずだという思いやワクワク感が多少なりとも感じられなければ、何と言うか正直もうやってらんないですよね…色々(笑)。
 
逆につらいことを「すごくつらい」と実感することも、それを乗り越えるために必要な精神の段階かと思いますが、こういうのも意識の中の物語性が担ってくれる仕事です。
 
現実の事象を物語として構成出来る力があるからこそ、人間は何かを目指して開拓をすることや自分の身に起こる出来事にどんな意味があるのかを見出すことが出来るし、またこれが文化を持たなかった他の動物との決定的な違いではないかとすら感じます。
 
こう理屈っぽく書くと何だか研究仮説のような話にも聞こえてしまいますが、現実にはこれ、間違いなく皆普通にやっていることですし、特に言いたいのは、お話が育む想像力って本当に生きる力になるということなんです。
 
そういう気質を幼児の内から備えている人間て、やっぱり自分の何かしらを切り開く宿命を持って生まれて来てるんでしょうかねぇ。
 
いずれにしろ、沢山の物語に触れれば触れるほど自分の身に起こる些細なことがより色鮮やかな意味を持って感じられ、人生もより深く見えるようになる、という事は本に触れていても頻繁に感じられることです。
 
だからファンタジーって意外と有意義なんですよね。
 
もちろん物語を読むのは楽しむためで、そんな勉強のようなことのためでは全くないのですが、昨今では、逃避してないでもっと現実を見ろみたいなことばかり言われる世の中で、幻想や物語に触れない分現実への意味づけが浅い人も何だか多い気がするので、ちょっと声を大にして言いたいところですね。
 
意外と有意義なんです。
 
 想像力(=物語的構成力)って生きていくためにとても必要なもので、逆にこんな時代を生きる上でそこが欠けるのって、結構危険な気もします(そして結構欠けてる)。 
 
もっと皆、物語に触れたらいいのにという思いもあって、今回は最も親しみやすく、物語性剥き出しの文学である童話作品をおすすめしたいのです。
 
まぁ、ウチのお客様方本当に感受性のアベレージが高いので、こういう進言じみた内容を伝えてもあまり意味がない気もします(ふつうにご存知)が、実はその他にもう一つ物語をおすすめしたい事情もあるんです。
 
この度進行中の企画についてで、これもまた3階(エセルの中庭)の話なんですけどね(汗)。
 
アール座読書館は開店当初から、一般的なブックカフェと区別するために「読書喫茶室」(造語)と名乗って(全く浸透しておりません涙)ファンタジーを楽しむ場所を目指してきましたが、今それとは違う、物語を楽しむもう一つの形と可能性に挑戦している最中です。
 
それはズバリ「朗読」という表現を使った企画で、エセルの中庭の新しい試みです!
 
今改めて感じさせられているのですが、本当に素晴らしいんです、この表現。
素晴らしいんです…が…もうさすがに長いので、これは次回にまわしましょう。
 
ブログ初の前後編仕立てです(すみません)。
 
さて、アール座の書棚には基本的に、難しい書物や大作よりもパッと手に取ってどこからでもいきなり読めるタイプの軽い読み物や眼で楽しむビジュアル系の書物を多く揃えておりますので、絵本、童話、児童文学の類は結構充実しています。
 
書棚で言いますと、向かって左から2列目の上から2段目にファンタジーや物語のコーナー、3列目の一番上段には大人に読ませたいタイプの幼児向けの本、2段目には絵本のコーナー、一番左の書棚の中段あたりには、ほるぷ出版による近代児童文学の復刻版シリーズが並んでおります。
 
そしておすすめ書棚に、その選り抜きを並べておきますね。
 
ファンタジーの神様、宮沢賢治の短編童話集は言わずもがなですね。
その表現の独創性と病的と言って良い程の想像力、そして何よりも色彩などの視覚的イメージがすごい人ですね。
「黄色いトマト」という作品に出てくる田舎の博物館の描写はアール座やエセルの空間作りにも大きく影響した僕の心の原型イメージの一つです。

もう一方の近代ファンタジーの雄、小川未明は芸術性が非常に高く、童話の域を超えています。
文章表現もちょっと怖いくらいに鋭敏で美しいですね。
 
それから、ほるぷ出版の復刻版シリーズからの抜粋です。
このシリーズ、フォントや紙質まで非常にマニアックに再現していて、その仕事ぶりには感心します。
一体いつ作ったんだろうと巻末の初版年度を見るも、そのページまで原典の完コピなので、復刻版がいつ刷られたのかすら分からず、すごく奥ゆかしい感じがします。
 
昔の童話って、子供に世の習いや善し悪しを示すための教訓ぽい話が多いのかと思いきや(そんなのも多いですが)、成人文学を凌駕する大変繊細な心理描写や情景が描かれているものも多く、昔の童話作家の真剣さを感じます。
 
 その最たる例の新見南吉や塚原健二郎等も楽しんでみて下さい。
 
又、コーナーに並べてみて分かるのですが、装丁のグレードの高さも必見です。
 
 
さて、次回は朗読の話をさせてもらいますが、これはさすがに近々更新いたしますね。
すごくお話したい内容なんです。
 
だからマスターがんばります。

 
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昨年もお世話になりました

2015.01.02 Friday 02:31

皆様、新年明けましておめでとうございます。

このブログにしては珍しく、新年からのご挨拶になりました。

2店舗経営になってからというもの、このブログから毎月ご挨拶することもなかなかかなわず、すっかり営業案内の掲示板に成り下がってしまいましたね
(前回、秋の鈴虫の話だし…)。

そうこうしている間に年も明けてしまいました。

  

今年も沢山の皆様にお越し頂き、またご協力頂いて、お店を営業することが出来ました。

 

こういう事のありがたみや感謝の気持ちは本当は言葉にはならないものがありますが、でもやはり一年の締めくくりとして言葉にしちゃいます。

 

2014年、アール座読書館及びエセルの中庭においで頂いた全ての皆様に心よりの感謝を申し上げます。

皆様の生活の大切なひと時をアール座読書館(そしてエセルの中庭)で過ごして頂き、本当にありがとうございます。

またいつも、こうした形の経営をご理解頂き、本当にありがとうございます。

へんてこな喫茶店ですが、お客様がこんな形に少しでも共感を頂けることがあれば、それは本当にありがたい事なんだという実感が年を追うごとに強く実感されてくる次第です。

コレ毎年言ってるような気もしますが、本当にお陰さまなんです、ウチの場合。
皆様のご理解とご協力がないと簡単に成立しなくなってしまう店なんですね。

なのでこのかしこまったようなご挨拶は、僕の心情的にもはずせません。

 

そしてお陰様でアール座読書館、満6歳になりました。

 

2007年末からプレオープンのような営業を始め、年が明けてから、のしかかるような不安の中で本格的に営業を始めたのですが、それにしても6年てホントでしょうかね。

 

その頃の日々を昨日の事のように覚えているので、ちょっと信じられないです。

 

店内の真ん中、大きな水槽のお席の右側の壁に小さな額縁に入った魚の絵が飾られているのをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか。

 

まだお客様が一日に数組でこの店はやっていけるのだろうかと不安だった開店当初のある日、小さな女の子がお母さんに連れられて来店し、あの席に座りました。

 

読書するお母さんの横で、ずっとうつむいている女の子の後頭部を見ながら「あんな小さな子が喋れない店に来ても何も出来ないし、つまんないよなぁ」「何でこんな店作っちゃったんだろう…」などと、ネガティブ全開で腐っていた僕でしたが、その子が帰り際に満足気な笑顔で「お魚の絵を描いたからあげるね」と、時間をかけて鉛筆で大変良く描き込まれた素敵な作品を手渡してくれた時には、何というかもう、色んな意味で、何かもう、鼻血出そうでした(ウマく言えない…)。

 

あれから6年、その子も今頃はきっとスマホ片手に彼氏とケンカしたりしてるんでしょうか。

 
 

さて来年はアール座もどうにかこうにか7年目に突入です。

7年というと、もう何だかこの店の進退も自分だけの問題ではない感じですね。
ある種の責任のようなものを感じます。

以前はよく街で「長い間ありがとうございました」と最期の営業看板を出しているお店を見ると、ふと、アール座の最後はどうやって終わるのかななどと冗談で考えたりもしたものです。
 
時々考えていたパターンは、ある日突然何の告知もせずに店内を跡形もなく取り払って、コンクリートの空き部屋になったその室内に、80歳くらいの男性の役者さんを雇ってホームレスの格好で仕込んでおくというものです。
 
いつも通りいらしたお客様が驚いて、まるでそこに長く住み着いているかのような男性に「あれ?ここにあった喫茶店は?」と尋ねると、男性は「何言ってるんだいあんた。ここはもう何十年も空き家だよ」と答えます。
 
「そんなはずは…ついこの前まで…アール座読書館というお店がここに…」
 
「何だいそりゃ…アール?…アール座… ああ、そう言えばずっと昔そんな名の店がここにあったなあ。眼鏡をかけたやさ男のマスターがいたが、空襲で店と一緒に焼けてしまったんだっけなぁ…あんた、そんな古い店よく知ってるねぇ」
 
という展開で、皆さんに「じゃあ、私がここで過ごしていた時間は一体…?」という幻のような記憶を残してミステリーっぽく終わる演出です。

やりませんよ、もちろん。そんな恩知らずなこと。
無理ありますね。
食べログとかヒットするし。

それにもう7年目となるとそんなことも出来ませんね(当たり前だ)。
10年20年とがんばっていこうと思っております!
 

 

そして3階店舗も形を変えて再始動です。
 

先月からようやっと営業を再開しております(休業期間中にお越し頂いた方々にはお詫び申し上げます)エセルの中庭ですが、今年は「森の中で読書」というコンセプトを目指したアール座とはまたちょっと違う情景を作り上げてゆくつもりです。

正直な話をしますと、こちらの店に関しては少々迷走しておりました
が、ようやっとビジョンが見えて参りました。


思春期を迎えた主人公エセルちゃんのメンタルが、色々あって少しアングラな方向に寄った感じでしょうか。
よく分かりませんが、幻想的で少々妖しげな空間にしたいですね。
 

照明が暗いので読書には不向きですが、こちらでは本とは違う形で物語など楽しんでもらえたらとかも考えております。
もちろんお話も出来ますので、お連れの方とが来店の際にはぜひご利用下さいね。

また、メニューや特に平日のご利用に関しましては少し形態も変わりましたので、詳しくは
ブログの方をご確認下さい。


そんな訳で、本年も
少しでも皆様の心の休憩所としてお役に立てるようがんばりますので、どうぞアール座とエセルをよろしくお願い致します!

ではまたお店でお会いしましょうね。
お会いして下さいね!(なんちゅう日本語)


店主



 

 

 

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