年末のご挨拶と所信表明に代えまして…

2013.12.31 Tuesday 02:51
あっという間に年の暮れです。

…というか、皆様大変ご無沙汰しておりました。

 
前回まともにブログを更新したのはいつのことだったでしょう?
 
いつも気にはなってたんです。
更新しなきゃ…って。
 
そして、いつの間にか今年も暮れです。
もう言い訳もありません。
 
みなさま今年はどんな一年だったのでしょう?
 
僕にはなかなか辛くしんどい一年でしたが、目まぐるしい学びの一年でもありました。 
 
ちょっとナメてたのかもしれません。
「一店舗の店番をしつつもう一店舗を作る」という計画を…。
 
ゆっくり楽しみながらやっていければ、という感じでゆる〜く考えていたのですが、まぁそんなに甘いものじゃないんですね。
 
当たり前だ。
アール座一軒でも大変だったんだから。
 
そんな中、営業に関する不手際もあったかと思います。
 
せわしなく2階と3階を行き来しつつでの営業で、2階のお客さんをお待たせしてしまうこともしばしばでした。
 
あまりの忙しさに、秋の虫の声のイベントも今年はとばしてしまいました。
 
色々なお声を頂いて、実は結構楽しみにしてくれていた人がいらしたんだということを実感してしまいました。
 
そして何よりもブログがこんなことになってしまいました。
 
諸々の不手際に関しまして、改めてお詫び申し上げます
 
しかし、それにもかかわらずこの店の姿勢とコンセプトを維持してくれたのがスタッフや店の動植物、そして何よりもお客様方でした。
 
この春からアール座の営業を一生懸命サポートしてくれているのは(ずいぶんとご紹介が遅れてしまいましたが)フランス文学を学ぶ学生さんで写真が趣味の佐伯さんです。
 
見かけによらずしっかり者で、ビックリすると目を丸くしてインコみたいな顔になります。
 
そしてお魚や植物達もこの空間造りを強力に助けてくれています。
彼らの存在がないと人が心から安らぐことが出来ないのは地球環境と同じです。
 
しかし、何よりもお客様方がこの店の空気と方向性とコンセプトを維持して下さっていたことを強く感じます。
 
ともすれば実用的な勉強専用スペースになってしまいがちなこの店の環境を、しっとりと思想的な空気にして下さっているのは、静けさの中で自分を取り戻す時間を大事にし、それをアール座での時間にあてて下さる皆様のお陰という他ありません。
 
座席ごとに置かれたらくがき帳を見てそう思います。
 
ツイッターが広まっていなかった5年前、何でも軽くつぶやいてもらう場所があればと始めたあのノートですが、今やそんなもくろみを完全に離れて、内容がもうエラいことになってますね。
 
僕が若い頃には有名な米文学短篇集「sudden fiction (カーヴァーやらアップダイクやら、米文学の名手達による傑作超短篇オムニバス:アール座書棚一番左、上から3段目)のような鮮やかで技巧的な作品が大好きで「カッコえぇ〜」と憧れていたものですが、今になってあの沢山の人生が詰まったリアルな告白集である「らくがき張」と比較してしまうと、こうしたテクニカルな文学が何だか色あせてしまう感もあります。
 
皆様がこの空間を本当の自分と向き合うことに利用して頂けることは、何よりもこの店の意義と方向性を導いて頂けるものと感じております。
 
そしてもちろんお勉強に利用される方も含めて、アール座読書館、そして新店3階のエセルの中庭が今年も沢山の方に利用して頂けましたことを、本当に有難く思います。
 
アール座を開業した時心に決めた目標があります。
 
保健所の営業許可の更新です。
 
それは5年毎にされる規則となっており、つまり「先ずは店が5年続くよう頑張る」という気持ちでした。
 
そして今年、お陰様で無事初めての更新を果たすことが出来ました。
 
2013年も当店をご利用いただき、本当にありがとうございました。
心より感謝を申し上げます。

 
更に今年はエセルの中庭という妹(姉妹店と言うでしょ)も誕生しました。
 
来年はアール座をよりコンセプチュアルに充実させると同時にこちらを本格的に作り込んでゆくことを目論んでおります。
 
こちらにも支えてくれているスタッフ達がおります。
 
いずれエセルのサイトでご紹介出来ればと思っておりますが、皆個性豊かで責任感の強い優秀なスタッフばかりです。
 
僕の知らない所でパン袋の上に寝転んだ画像をツイッターに上げて炎上したりは、多分してないと思います。
 
現在も、スタッフ全員で力を合わせて店を作り上げている最中です。
 
この店の青写真は今年一年僕の脳裏にへばりついたまま、夢にまで何度も現れました。
 
しかしなかなか計画は進まず、アール座の企画も止まったままで、正直言ってしまうと最近の僕は精神的に満身創痍で、勢いも自信もイマジネーションも失速しておりました。
 
それでも、そんな焦りと不安と迷いの中で、不思議と「こんなことやりたい」という火種だけが心のあちこちに残っていて、目の前のことすら出来ていない状況で「こんなことあんなこと」と僕をせき立てるのでした。
 
こんな状況でこんな思いの火種を一体どう処理してゆけばいいのか、自分の中に浮かんで来る荒唐無稽な幾つもの思いの一体どれが正しいのか、果たして今のやり方で良いのか、などという迷いをひたすら繰り返すうちに、次第に固まってきたある思いがあります。
 
私事に近い話ですが、来年に向けた所信表明のような感もありますので、久々のブログでこんなお話をしてみます。
 
昔から幾つもの、何度あきらめても自分の中に繰り返し浮かんでくる「これをやりたい」という気持ちがあります。
 
作るものや描きたいもの、人にやって見せたいもの、大きいこと、小さいこと等それは色々な形を持っていて、実現したもの、失敗したもの、挑戦しなかったもの、保留にしたもの、諦めたものと、結果も様々です。
 
僕は比較的こうした自分の思いに耳を傾けて来た方なので、そんな思いを意識することが出来ましたが、でもきっと誰の中にでもあるモノだと思います。
 
特に意識していない人や別にやりたいこともないと思う人にもきっと心の奥底にあるような気がします。
 
この年になって僕は、こうした思いに絶対に間違いはなく、一つ残らず向かい合わないといけないと考えるようになりました。
 
自分の中に度々湧き上がってくる「これをやりたい」という気持ちは、それがどんなにバカなことであっても小さなことであっても絶対に実現出来ると考えて無条件に全力で取りかからなければいけないというなかなか無茶な結論ですが、もしそれが仮に失敗につながることだとしても、この人生においてちゃんとその失敗をしなきゃいけないような気がします。
 
逆にそもそも自分にとってどうやっても実現不可能なものって本気で思い立つことも出来ないんじゃないかという気もします。
 
ただ、心の中ではそんなかっこいいコト思っても、実際に思いつきを実行に移すのには根気がなかったり勇気がなかったり迷ったりと悪戦苦闘です。
 
自分に厳しく批判的な態度を理想とする教育を受けてきた我々は、夢見がちな気持ちで取り掛かる前に「現実はそんなに甘いもんじゃない」と先ずそれが本当に可能かどうか、現実的かどうかを冷静に検討しなければいけない意識がありますよね。
 
僕も未だにそんな意識との葛藤の中にあります。
 
子供の頃からずっと間違いを正され続けてきたので、正しいやり方に向かわないと何だか誰かに怒られる気がして、「考えが甘い」「そんなウマく行くワケない」「やめたほうが良い」という批判的な声が、外からも自分の中からも上がって心の中の声にケチをつけ、消しにかかってくるのが常ですね。
 
無意識にも、自分でまともな方向に軌道修正しちゃってたりします。
 
でも同時に、無理なことや間違っていることをやらずに、何の問題も起きることなく無事に人生が終わってしまうのもなんだなぁ、とかも思います。
 
 
大人になって感じるのは、人はその人生でやるべきことを、最初から持って生まれてくるのではないかということです。
 
だから自分の心の奥の無意識が一番それを知っていて、やるべきことを繰り返し意識に伝えてくるように感じます。
 
そうなると出来る出来ないとか正しいか間違いかなんて大して重要ではないし、それで人生がどんな風に展開するかなんて誰にも分からないですね。
 
 
客席を縫うようにライオンが歩き回るカフェをどうしてもやりたいと心の底から思ったとして、それを本気で熱く語ったときに、世間から返ってくる反応というものはまぁ予想がつきます。
 
でも僕は、幼稚な思いつきや一人よがりの理想、無理に思える計画をあっさり批判する人の「正しい推測」というものが概して浅はかで、人生に何が起こるかなんて絶対に分からないということを踏まえていないように感じます。
 
例えばそこに向かって挑むうちに動物園の中のライオン舎に併設されたカフェをやることになるかもしれないし、どこか恐ろしく規制のゆるい国があるかも知れないし、アフリカの国立公園の中でカフェをやるハメになるかもしれないし(どうも僕の想像力では真に意外な展開が思いつきませんが)もしかしたら思いもよらない方法で本当に店内にライオンを歩かせられる形があるのかもしれないし、実際にどんなミラクルが起こるのかはやってみないとわかりません。
 
場合によってはそれを探求するうちにその道は諦めて、ひょんなことからライオングッズの販売業者になって成功するかも知れません。
 
最初言ってた話と違うという人はきっと出てきますが、そんなのは本当にどうでもいいことで、それが正しい道のりだったというだけのことです。
 
逆に、基本やノウハウやセオリーばかりにとらわれて自分の中から出てきたもので勝負してない人にはこういう運命的なことが起こりにくい気がします。
 
想像力にしてもそうです。
 
仮にどうしてもライオンを歩かせることが難しいという結論になって、ライオンの寝転ぶ草原の映像をプロジェクターで映しつつライオンの剥製を置いておく店になったとしましょう。
 
最初に無理だといった人は「言った通りだ。そんな店なら出来るだろうが別に面白くもない店だ」と言うでしょう。
 
何のイメージも持っていないこの人たちが想像するのは真っ白い普通のカフェに映像が流されて剥製が置いてあるだけの一番つまらない店内のイメージを思い浮かべて、そういうことを言っています。
 
でも本気でライオンを歩かせたいと思い続けてきた人が作るそれは、きっとまるで別のものになっているはずです。
 
店内に独特の雰囲気の鬱蒼としたジャングルを作り込むか、凄まじい唸り声をサラウンドスピーカーで流すか、剥製の目が光って自動歩行し出すか、大型犬に着ぐるみつけて歩かせるか(うぅ…やっぱりしょぼい発想しか出て来ない…)とにかくもっともっと我々の想像を超えるような環境をそういう人は作り上げたりします。
 
批判する人やバカにする人は、もちろんいるんです。
いたっていいんです。

大事なのは自分がその意見に乗らないことだと思います。
 
未だ迷いの真っただ中にいる僕でも、「やりたいと思うことをやる」ということは「その方向が正しいか否か」「可能か不可能か」「成功するか失敗するか」という話とは次元の違う重要性を持っているということを強く感じています。
 
だからこそ、本当に自分の中から出てきたものはその人にとって絶対に間違っていることはないと言い切りたいです(もう少し色々結果を出せていればなぁ…)。
 
僕はこれでも、昔は結構冷めた心の若者だったんです。
 
こんなに熱いことを語る大人になって自分でもびっくりです。
 
アレは良いコレはダメと批評してアイデンティティーを守ってた(あれはクセになるから良くないですね)若い頃の自分の胸ぐらつかんでこれを教えてやりたい気持ちですが、逆に40年後の自分はこんな今の自分をどう思うんでしょう。
 
「四十代のワシが一番若かったのう…」と、長いアゴ髭をさすりながらつぶやくのでしょうか。
 

やはり個人的な思いの強い内容になってしまいましたが、久しぶりにがっつりとブログを書いて何だかスッキリした気分にもなりました。
 
毎月更新していた時はしんどい部分もありましたが、ああいった店で日常的に皆さんとお話が出来ない自分にとって、このブログは何か僕の本音の吐き出し口のような役割を持っていたのかもしれませんね。
 
読んで下さる方のために…と、愚かにも思っておりましたが、読んで下さる方がいることで自分が癒されてたのでしょう。
 
今初めて知りました。
 
皆様の気分を害する内容になっていないことを祈るばかりです。
 
さて、来年は何回くらい更新出来るのでしょうか(弱気)。

今年よりはと思っていますが、うん…どうなんでしょう(すごく弱気)。

来年もどうぞよろしくお願い致します。



 
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3階「エセルの中庭」

2013.09.26 Thursday 10:01

3階「エセルの中庭」のサイト立ち上げました。
まだ簡単な店舗情報のみですが、良かったらどうぞ→「エセルの中庭」


 
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更新遅れてごめんなさい

2013.07.12 Friday 00:30
 
こんにちは。

アール座ブログ、久しく更新が止まってしまい誠に申し訳ありません。

この春まで読んで下さっていた方々には、こんな体たらくになってしまったことを大変恥ずかしく、また心苦しく思っております。

本当に色々な事情(重大なことではありませんが)が重なり、内容のある文章を書く時間と気力が、どうにも確保出来ないままでおります。

何度かPCに向かいもしましたが、どうも以前のように文章が進まず、「後でもう一段落してから書こう」と逃げ出すことを繰り返しながら、だらしなくずるずると夏まで来てしまいました。

少しでも待っていて下さった方がありましたら、本当にごめんなさい。

もちろんここでブログを終えるつもりではありません。

お店を通じてお伝えしたいことは以前と変わらずあるのですが、それを表現する余力が残っていない、というのが正直な所です。

復活したらまた読んでくださいなどと、とても言える状態ではありませんが、本当に一段落したら、またたらたらと能書きをたれてゆく気持ちがあることだけ伝えさせて下さい。

当面の一番大きな課題が、やはり3階店舗の計画が遅れ気味(普通のカフェとしての基本的な経営は動いておりますことなのですが、これを何とかやっつけて、他の計画にもメドが立つというような状況です。

なので、ブログの更新もう少し停滞するかもなんです

月一更新とかほざいてましたので、こんなブログでも更新を待ってくださる方がおられたらと思うとやっぱり心苦しく、そしてあまりにも引っ張りすぎてしまっているので、しょーもない言い訳に一回分使うことにしました。

でもお店自体はしょーもないものは作りません。

2軒とも凄いお店作ります。

頑張りますね。

もうひと踏ん張りしてみます。

取り急ぎ、お詫びまで。
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中間領域

2013.03.17 Sunday 23:49
 

急に暖かくなりましたね。

うっかりこの前までの服装をしてしまうと、もう汗だくです。


慌ただしく過ぎてゆく日々の中で気がつくと、いつの間にか冬が終わっていたという感じです。


また一つ季節を知らぬ間にやり過ごしてしまったと、隣家の梅の木が風に吹かれて花びらを散らすのを見ながら思っておりました。


窓際では、日々部屋の中をコロコロ転がっているうちのチビ君が不思議そうにそんな風景を眺めていたりします。


そんな様子を見ていると、この人達はこの景色に一体何を思っているのだろうと考えてしまいますね。


感覚的には信じ難いことですが、僕もこんな赤ん坊だったんでしょうかねぇ。


何だか夢の中にいるというか夢の中から現実をのぞいているような、もしくは現実の風景に夢を見ているような、そんな表情をしています。


発達心理学では、成長するにつれてそんな夢のような感覚から現実的な感覚に意識が移行してゆく過程があるといいます。


そしてそのまん中には「中間領域」と呼ばれるエリアがあるのだそうですが、実はこの所、僕の頭の中にはこの言葉が踊り狂っておりました。


最近知った言葉なのですが、その意味や概念がアール座と3階の「エセルの中庭」が目指す営業コンセプトの核心をつくような非常に深いつながりを持っていたからなんです。


特にエセルに関しては、そのコンセプトがこの一言に集約されると言っても過言ではない重要なキーワードにもなっており、実は店舗名にある「中庭」と言う言葉も、この「中間領域」を柔らかく言い換えたものなんです。


なので今回はこの「中間領域」のお話をさせて下さい。


皆さんはこの言葉を耳にされたことありますでしょうか。


二つの分野やエリアの隙間にまたがるように存在するスペースに関しての呼称で、様々なジャンルにおいてそれぞれの専門的な意味付けで使用されている言葉です。


時々耳にするのは建築に関しての用語で、中庭やオープンカフェのテラス席ような屋外と室内の要素を合わせ持った空間とも言えるスペースに対する専門的な呼び方です。


建築の分野ではこうした空間が人にくつろぎをもたらす要素として最近特に重要視されているようで、こちらの意味でも、エセルで今作ろうとしている新しい空間に完全にハマる話です。


エセルの空間作りでは、前回お話ししたような屋外が室内に取り込まれたようなイメージを見据えていますが、僕もこれが何か人に根源的な安らぎを与えるものを有しているのではないかと感じています。


なのでこの部屋はこれからゆっくりお庭になってゆきます。


この空間は一体何処なのか、なぜそんな風になってしまったのかという詳しいいきさつは、また改めてお話ししますね。


そしてもう一つは冒頭でお話しした心理学用語としての中間領域です。


発達心理学の分野でドナルド・ウッズ・ウィニコットという心理学者が提唱した概念で、赤ん坊が成長してゆく過程で通過する領域のことで「移行領域」とか「潜在空間」とも呼ばれるものです。


最初赤ん坊には、自分とそれ以外の世界を区別する認識がなく、お母さんもお月さまも自分の一部であるような、世界を自分との一体感で感じる感覚でいるらしいのです。


まるで神のようなこの世界との一体感の中では、自分の意識と世界が一つにつながっているので、思い描いたものは全て存在しており、逆に言えば存在の全てが幻想や空想のように内的主観的なものだけで出来ている世界です。


「自分の思いが全て」という万能感を持った世界ですね。


それがあらゆる体験を経てゆく中で、やがて自分の思い通りにはならない「外的現実」という自分ではないモノが存在していることに気付き始め、幾つもの幻滅を繰り返すことで、主観的な幻想の世界と、他者と共有する客観的な外の世界を区別して認識し始めるのだそうです。


ウィニコットは、赤ん坊の意識の発達を考える上で、この内的な幻想から徐々に外的現実を認識しつつ現実の方に意識が移行してゆく成長過程に注目し、さらにそこにはその両方の世界にまたがる「中間領域」と呼ばれる空想と現実が混ざったようなスペースが存在するとして、これを重要視しました。


有名な「ライナスの毛布」は博士によると、こうした現実への移行のための足がかりとなるものだということです。


中間領域の感覚的な説明は難しいのですが、例えば子供が布団を怪獣に見立て自分がヒーローになって戦っている時、夢中になればなる程、彼はそれを本気で怪獣と思い込んで遊びますが、同時に実際にはそれが布団であることも知っていて、遊びが終わればそそくさとそれをたたんだりします。


これは頭の中だけで広がる全くの空想ではなく、現実のモノに内的な創造力を強く反映させた、空想と現実が混ざったような遊びで、中間領域でなされるものです。


で、これだけなら大人の我々にはあまり関係のない話なのですが、どっこいウィニコットはこの意識領域が、大人に成長して消えてしまうのではなく、むしろ成人の精神の中核に重要な部分となって残り、芸術や宗教など全ての創造的活動もここから起こるというのです。


そして、そもそもこの赤ん坊の現実受容の発達行為自体、大人になっても完結するものではなくずっと継続されるものとも言っています。


こういう概念こそ知りませんでしたが、僕がアール座を営んでいく内に感じるようになったのは、こうした空想や遊びのような主観的内的な意識を持つことの現代生活における重要性です。


客観視が正しいものの見方と思っている我々大人にとっては、現実が強固な形を持って迫り来る、全く思い通りにならないうちひしがれるだけのものになってしまい、こちらから積極的に働きかける対象でありにくくなってしまっていますよね。


現実とかシリアスとかいう言葉には、最初から自分の思いを妨げる壁か障害のようなニュアンスがついてしまっています。


しかし、ウィニコットはこの空想と現実という二つの要素両方を十分に持たない限り、真の意味での遊び、創造、夢見ること、生きることは為し得ないと考え、中間領域を人間が主体的に生きる場所として「可能性空間」とも呼びました。


我々が本当の意味で生きる上では、赤ん坊の頃に持っていた「万能感」を完全には手放さないことが必要であるという考え方です。


シロウトの僕にはこんな深い考察は出来ませんが、アール座を経営していて似たようなことを感じていました。


子供じみた幻想や遊びから遠ざかった大人がこういう社会を生きる上では、もっと自分勝手に事実をとらえたり都合良く現実の状況を解釈してゆく事がとても大事な気がします。


大人である我々は現実が自分の意志とは別のものと認識してはいますが、それを自分の願望や空想とごちゃ混ぜにして、もっと主観的創造的に生きて良いはずだし、実際には割とそうすることで現実と自己とのバランスを取っているのではないかと思います。


もちろん打ちひしがれているまっただ中の人がなかなかこんな風に考えられるものではありませんが、抜け出して振り返った時には「現実はシビアなもの」という考えだって人間の思い込みだということが見えると思います。


アール座のらくがき帳には、厳しい状況に立たされて力を失い悩める人の書き込みも多いですが、それでも最終的には、そんな現実の状況がいつか自分にとって良い方に向かうのでは、向かえばいいと、残された最後の力で考えようとする意思をちらりと見せて終わることも多いです。


そんな人はきっと、このちらりと光る根拠もない小さな思い込みをゆっくりと少しづつ育てて、やがては大きなものを克服してくれるのだろうと勝手に思ったりしますが、中間領域はこの光が生まれ育つ場でもあります。


これまでアール座が、心を休める癒しの場として重要視して来た「現実逃避」や「内省」が、それと同時に、こうした積極的能動的に生活を構築してゆく側面も持っているのではないかと近頃では感じるようになっていたのですが、ウィニコットの「中間領域」を知った時には、漠然としていたこんな自分の思いにハッキリと輪郭を与えられた思いでした。


どちらかと言うと、心を泳がせつつぼーっと過ごしてくつろいで頂こうというアール座に対し、エセルでは積極的にファンタジーを楽しんで、心の中間領域を満足させてもらえる場所になればと思っています。


そんな新店のコンセプトに関して重要な二つ(建築と心理学)の意味合いが偶然同じ言葉に重なってしまったので、いっそ「カフェ 中間領域」にしてしまおうかとまで最初は思ったりしましたが、馴染むのにかなりの時間がかかりそうなので、やはりもう少し柔らかく「中庭」としました。


なんか小難しいことばかり語ってしまいましたが、つまんなかったですかね?


小難しい関連書籍(主に幼児期の発達についての内容)は、アール座のオススメ本コーナーに置いときます。


そう言えば最近このブログはずっとエセル(3階の店)の話題ばかりでしたね。


何しろ僕自身そちらにかかり切りだったもので、話の内容もそればかりになってしまっております。


すみませんが、もう少しお付き合い下さい。


で、そんなたいそうなコンセプトとは裏腹に、現実はまだまともなカフェにすらなっていない「エセルの中庭」ですが、営業の方は夜だけ(6時〜9時前後)ですが、どうにか連日営業(アール座と同じ定休)を開始しております。

そして先日、電話機という文明の利器も入りました。


形が整うまでの間の営業予定やメニュー等のご質問は 03(6383)1974 までどうぞ。


が、まだメニューが少ない… ので、只今フードメニューを開発中です。


発売予定の品、先ずはハンバーガータイプのお料理です。


以前僕は移動販売のハンバーガーワゴンをやっていたことがあるのですが、この時はバンズもパティもピクルスも自家製で結構色々研究しておりました。


なのでメニュー自体はイイ線まで行ったつもりだったのですが、いかんせん一人づつ焼いて出すハンバーガーという料理そのものがスピードを要求されるランチタイムの屋台営業には向かず、泣く泣く中断して丼もののお店に切り替えました。


今回の料理はその頃のノウハウが生かされている一品です。


小さなバーガーを組み合わせたワンプレートなのですが、一つだけご紹介しますと、イタリアン・バジルと名付けたバーガーがあります。


トマトやパプリカってオリーブオイルに塩コショウでソテーしただけで美味しいですよね。


そんな具材をハーブで香り付けして、肉と一緒に挟み込みました。


もう間もなくメニュー化ですので乞うご期待です。

メニューも内装も未完成ではありますが、もちろんお話も出来ますので、お二人でおこしのお客様などには特におすすめですよ!


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空き地の思い出

2013.02.18 Monday 00:03
 北陸地方では春一番とか言ってますが、まだまだぜんぜん寒いですね。

もう2月も後半です。


あ、そうだ…


皆様明けましておめでとうございます。


はい、もう相変わらずですね。
もう毎年のことなので言い訳はしません。


アール座ブログの新年は旧正月(今年は2/10)なんです。


こんなことばかり言ってると呆れられてしまうので、話を変えてしまいましょう。


唐突ですが、今日は空き地のお話でもしてみます。


先日、実家(都内の近所ですが)に用があって帰ったおり、駅から家まで向かう途中でふと「子供の頃この路地の奥に面白い空き地があったなぁ」と思い出し、ついつい今はどうなってるのかとのぞいてみたくなったんです。


昔とのギャップを楽しもうと古い記憶のイメージを起ち上げつつ路地の突き当たりまで入ってみますと、あろうことかその空き地が古い記憶そのまんまの姿でどーんと現れ、僕はあっけに取られてしまいました。

もう町全体が様変わりして古い建物すら見当たらず、今でもあちこちで建設工事が続く杉並の住宅地で、30年前のままにそれが残っているというのは、実際シーラカンスばりに奇跡的な出来事なんですが…あるもんなんですね。


ただ、悲しいかな僕自身の感性の方は変わってしまったのか、そこに昔あったような不可思議な雰囲気はあまり漂っていませんでした。


こんなだったかなぁと思う程、どうにもただの空き地なんです。


目線が変わってしまったのか周囲の空気が昔と違うのか。


まぁでも、そんなもんですよね。こればっかりは仕方ないのでしょう。


だってスゴかったんです、子供の頃に感じた空き地の濃い〜い空気。

それにしてもイイ年をしてこんな風に幻想的な空間を求めてしまったり、そんな空気を目指したような店を営んでいると、この日常と違うファンタジックな空気を味わうことは何だか自分の一生のテーマのように思えてきます。


そういえば幼い時分から僕はそんな気持ちになる時間がとても好きでした。


子供の頃は初夏の夕立の前後とかに外の空気が濃い黄色になる時(分かります?)とか何だか記憶の中にいるみたいでとてもワクワクしたのを覚えています。


見知らぬ住宅地の迷路のような路地に迷うと、必ず「この路地を抜けたら、きっと別の世界に出てしまうな」と、ため息をついて空をにらみつけていましたし、耳鳴りなんかは宇宙人からの交信だと固く信じていたので、いつも鳴り出した途端に周囲の現実感は遠のいて、僕は怯えながらも必死に解読と返信を試みておりました。


なかなかイカした少年でした。


そんな僕がファンタジックな空気を自ら感じたいと思った時に決まって忍び込んだのが、近所の空き地や空き家となった人の住居跡でした。


昔は東京にも所有者が事実上使用していない土地というものがあちこちにあって、住宅地にもよく、柵があるでもなく開放されるでもなく放置され、木々や雑草が生い茂ってしまっている一角が点在していましたが、野山のない都会でこんな場所は当然のように子供達のワンダーランドになっていました。


例の近所の空き地こそ奇跡的に残っていましたが、やはり最近は遊んでいる土地というものをすっかり見かけなくなりましたね。


僕はアール座を始める前にお弁当の移動販売をしていた時期があり、よく都内で軽自動車が一時停車出来るようなスペースを探して回っていたのですが、現代の都会には何のためでもない土地というものが本当にないことに驚かされました。


特に地価の高い人が集まるような地域では全ての区画に必ず何らかの社会的経済的な存在理由があって、そんな人々の利権がパズルのように隙間なく詰め合わされている地域が都市の姿なんだという印象を持ちました。


まぁそれはいいですが、とにかく子供時代には空き地や空き家が珍しくなかったので、そんな空気を楽しめる友達と連れ立ったり一人で行ったりして、幻想的で魅力的な時間を日がな一日過ごしたりしておりました。


ちなみに僕が言う空き地というのはドラえもんに出て来るような土管の置いてある開けた広場ではなく、大抵通りから奥まった場所にあり、おそらくかつては住宅であったろう塀に囲われた区画に雑草や樹木が生い茂る暗い森のような一角です。


そういう場所は法的には誰かの土地であっても、すでに本当の主は人間ではなく動植物や怪し気な空気が支配している世界なので、よそ者である人間(子供達)は自然と息を殺しつつそこの空気を壊さぬようこっそりと忍び込むように侵入します(まぁ社会的にも不法侵入なのですが…)。


すると薄暗いその空間にはいつでも独特の濃い空気が漂っていて、踏み入るだけで日常を軽く消し去る強力な地場があり、流れる時間も外とは全く違うように感じられました。


朽ちた家屋が残っていたり更地だったりもしますが、とにかく全てが植物に覆われています。


緑が深く生き物の匂いも濃くて、周囲の環境から独立してその区画の中だけで生態系が完成してるんじゃないかと思わせるような存在感がありました。


人の手が入る庭園と違って様々な雑草がはびこり、多様な種の草木がそれぞれの植生層に従って住み分けをし、まるで小さな原生林のような自然環境が出来ているので、都会にしては昆虫や動物の種類も多く、ぼーっとしていると突然落ち葉の山がガサガサと動いたり、ふいに間近で猫とヘビが戦いはじめたりと、スリリングな事件にも事欠かない所でした。


時には隣町の入りくんだ場所にこつ然と現れ(?)一度行ったきり二度と見つけられなかったような、今となってはもう幻だったとしか思えない強烈な雰囲気の名スポットに出くわすこともありました(花が咲き乱れ蝶が飛び交う夢のような草っぱらでした)。


ただ本物の野山と違うのはそういう場所には必ずかつて長いこと人が住んでいた気配というものも残っていて、その人口の跡地に自然がはびこっているという雰囲気が僕にとってのツボで、そこにはもちろん恐怖心もあるのですが、それを凌ぐ不思議な魅力が満ちているんです。


この微妙な感覚に共感してくれる方がどれ程おられるのか分かりませんが、例えば地面に割れた食器やかつて家財道具だったものの残骸が雑草の中に静かにころがっていたりする、普通なら気味悪く思えるような様子が子供心に不思議と気持ちを落ち着かせてくれたのを覚えています。


そういえば以前テレビで、学者、専門家の研究に基づいて「もし今人類が滅びてしまったらその後の地球はどうなるか」というテーマで人が居なくなった後の世界をシュミレーションしてゆくようなドキュメント番組をやっていたのですが、結論を言ってしまうと「人が居なくなればあっという間(確か数十年かそこら)に今失われた自然は回復し、高層ビル街はジャングルに没してしまう」という結末が、ツタだらけの廃墟となったビルの中を悠々とトラが歩いている映像とともに語られていました。


当然番組は人間目線で作られているので、自分たちが滅びてしまうこのオチは殺伐としたニュアンスで演出されているのですが、ぼくはこれを見た時どうしてか「なぁんだ、よかった」というような深い安堵感を感じ、ツタに覆われた無人のビル街のCG映像に何とも言えない親しみを感じてしまったのを覚えています。


見方によってはニヒリストのようなヤツですが、森に呑み込まれた無人のビル街が、今現実の乾燥した西新宿よりも落ち着いてしまう感受性を持つ人はきっと僕だけじゃない気がします。


その手の廃墟は文明が滅んだ後の世界が舞台の未来フィクションにもよく穏やかな描写で出て来ますね。


名作絵本の「かいじゅうたちのいるところ」で僕が一番興奮するのは怪獣島のシーンではなくその導入部、主人公のマックス少年が部屋の中でうとうとし始めると夢と現実の境がおぼろげになり、床からにょきにょきと樹が生えて来て部屋の中がジャングルと化してしまうというくだりです。


以前廃墟の写真集なんかが流行った時期がありましたが、ああいったかつての人間社会の興隆が廃れて再び自然に帰してゆくような様を好んで見ていた人達も、きっと不気味さと共に不思議な安堵感を感じていたのではないかと思えるんです。


子供の頃、とある空き家の居間で床下から畳を突き破って生えて来た樹木
が天井まで貫いている様を見ていた時、そんな感覚でドキドキと共に心安らぐ心持ちに包まれていたのを思い出します。


もともと生態系を支えたりリードしたり出来るような存在ではない人間は、きっとそれを積極的に作ってゆく植物や微生物達の傘の下で生きて行くという意識でいるのが一番幸せなんじゃないでしょうか。


ぐるりを緑に支配され大自然に主導権を取られたまま、枝をかき分け根っこにつまずきながらも結局はその力に守られて生きていた太古の暮らしの記憶が、我々の心の奥に心地良く残っている気がします。


廃墟のコンクリート壁を木々が力強く砕きつつ人工的な住環境が自然に乗っ取られてゆく様は、そんな意識につながる安堵感をイメージさせていたのかも知れませんね。


さて今回はなぜこんな話で興奮しているのかというと、実はこんな幼い頃の体験こそが今ウチの3階に誕生しつつある空間が目指すイメージのひな形になっている気がしてしょうがないからなんです。


空き地のような、屋内の中庭のような空間を思い描いてます。


題して「エセルの中庭」。


ファンタジー小説のタイトルではありませんよ。

何を隠そう3階に出来た新店舗の店名です。


ヘンな名前でしょ。


違和感と何のこっちゃ感が残るかもですが、大丈夫です。

すぐ馴染みます。


詳しいコンセプトについては追々お話しさせて頂きますが、まぁざっくり言うならやっぱり「中庭のような空間」ということなんです。


現状はまだそのベースになる洋館風の内装が形になっただけで、植物はまだ数種類の樹木を試験的に植えてあるだけの状態なのですが、いずれはここに枝葉や蔦がはびこり支配するような空間を見据えています。


ただ、緑が茂るにはもっともっと時間をかけなければいけないので、そういう意味で本当の完成は数年後なのですが、目指すは古い洋館作りの室内が放置され、そこに観葉植物や外の庭木が入り込み、ツタや枝葉が所狭しと広がり収拾がつかなくなってしまったかのような空間です。


どうか、あと数年待って下さい


で、肝心の営業の方ですが、2月から仮営業のような形で不定期にですが何とか時々開けております。


メニューもロクにそろわずドリンク5種類程度のイベントメニューのような形で、時々しかも夜のみ営業というていたらくなのですが、これでもようやっとです。


長いことお待たせしていた皆様には、予定が大幅に遅れてしまったことをお侘び申し上げます。m(_ _)m


これからフードメニューなんかも増やして、連日営業を目指して参ります。

今の所営業は開けられる日は大抵6時〜9時過ぎ位までで、アール座にお電話頂ければその日の予定なら何とかお答え出来るかという感じです。


通りがかりの際に開いてたら「あ、やってる」なんて感じでお立ち寄り下さい。


ごめんなさいね、こんな形で。


イイワケがましいのですが、何だか運命の神様に「まだ開店しちゃダメ」とストップかけられてでもいるかのように、計画にも私生活にも次々と出来事が立ちふさがりどんどん事情が変わってゆくんです(泣)。


でもがんばる。


どうか一つ、長〜い目で見て下さい(by小松政夫)→え?ウソ!知らない?!(汗)



近所の空き地。もっと鬱蒼として4倍位広かった気がする…。

category:2013 | by:アール座読書館 | - | - | -

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