らくがき帳と幸せについて
さて、あっという間に年の暮れです。
ひとえに皆様のご利用とご理解の恩恵を賜りまして、アール座読書館は満5歳を迎え、6年目に入ります。
本当にありがたいのは、この頃ではご来店の皆様がこの店の特殊なコンセプトと事情をご存知どころか以前よりもより深く理解して下さるようになり、お陰さまでアール座読書館は5年経った今でも、その何とも分かりづらい方向性をキープしたまま営業を続けることが出来ております。
特殊なスタイルで店を経営してゆくということは、ある意味ご利用者様にご協力とご理解を強いるような形でもありまして、これを考えると本当にウチはお客様に頭が上がらない店なんだなぁとつくづく感じます。
なかなか言葉で表し切れない思いですが、今年もご利用頂いた全ての皆様に
深く御礼申し上げます。
貴重なお時間をアール座読書館で過ごして頂き、誠にありがとうございます。
m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
今年は僕とアール座にとって何だか節目の年だったかのように色々な変わり目があり、さらに下半期は一層慌ただしくて、ちょっと焦ったり乱れてしまった所もあったので、今になって色々と反省しております。
個人的にも僕の大好きな秋をすっ飛ばしてしまったような過ごし方(あまりその時期の記憶がありません)は「その時を感じながら生きる」などという偉そうな僕のポリシーに反する失態でしたが、まぁそれなりの事情もあったので今回だけは許してやろうかと思っております。
皆様にとって、2012年は一体どんな一年だったのでしょう。
あまりお客様とお話しする機会の少ない店ですので、お座席のらくがき帳なんかが店にとって皆様がどんなことを考えておられるのかを知る貴重な情報源となりますので、僕もバイトの原君もシメ作業の時に目を通すようにしていますが、はっきり言って二人とも仕事というより密かな楽しみにしております。
あのノートに記された皆さんの思いに力をもらえるということはしばしば感じることなのですが、これは多くの方が共感されている所のようで、特に一人で悩める方には「悩んでいるのは自分だけじゃないんだな」という心強い安堵感が大きいようですね(スゴくヨク分かります)。
内容は深刻なものから日常的な悩み、ポジティブな意思表示や呑気なもの、ふと感じたことまで様々ですが、全てに共通するのはその内容が誰に宛てたものでもない、その時の本音そのままであるという所。
これが力をもらえる所以でもあるのでしょう。
それにしても人って本当に色々な所に思い巡らせながら生きているんですね。
「他では言えないけどここでだけ本音を出しとこうか…」という感じの書き込みも多く、皆さん言わないだけで色々抱えておられるんだなぁと感じます。
ただ、あそこに書き込まれる方が総じてすごいなと思うのは、皆さんがっつり自分と向き合ってご自身の悩みや感情から小さな思いまでをはっきり自覚されているという点です。
それってすごく大事なことで、アール座のお客さんは普通にそうされてる方も多そうですが、世間的にはどうなんでしょう。
現代には自分の悩みやストレスに無自覚な人もとても多い気がします。
無意識にストレスを抱えている人は考えの矛先が自分に向かず、何となく気が重いままやたらと他者や世間に批判的になったり不平を訴えたりしがちですが、自分について悩まなければ自分が変わることが出来ないので境遇も変わりませんね。
自分の思いや感情に目を向けて考え、気づき、悩み、あがく人は、精神の動きがよどまず心に展開が起こるので、右往左往迷いながらも結局は自分の気持ちが指し続ける方角に進んで行くように思います。
「自分探し」とか言って旅に出たりすると小バカにされる昨今ですが、場所を変えたり立ち止まったりして自分を見つめ直すことって新しい行動を起こすことと同じ位に重要なことだと感じます。
だから(深刻な悩みもあるのに軽薄に聞こえるかも知れませんが)らくがき帳を拝見していると、ここに書いている人達は、今苦しい状況であっても、何となく皆大丈夫な人のような気がしてきます。
人間て他の生き物と違って、本当にそういう風にして生きてくんですね。
何かを抱え思い苦しみながらも、ちゃんと呼吸して、水飲んで、がんばってご飯食べて、思いを巡らし魂を動かして生きてゆく人間て、なかなかすごい生き物です。
僕もそんな生き物の一人ですから、これからは「色々悩んでなかなかエライやつだ」と褒めてやることにします。
悩める人が皆幸せになったらいいのに、とか思っちゃいますね。
認知心理学にはアファメーションと呼ばれる意識改革法があって、とにかく自分の理想がかなった状態を肯定的にイメージしてゆくことで潜在能力を引き出す自己暗示法で、最近は特に話題になっているようです。
でも素直に自分の幸せを願うって、何だか慣れてないですね。
僕はあまりに頭がごちゃごちゃしたり不安感が強くなると、時々家やお寺やヨガスタジオで瞑想のようなことをしてリフレッシュをはかるのですが、その一つ、ヴィパッサナーヨガという流派が行う瞑想に、昔、仏教の修行僧が行っていたといわれる「慈しみの瞑想」という、幸せをひたすら念じてゆく方法があります。
一定の方法に従って、先ずは自分が苦しみを免れ幸せになることをひたすら心にイメージし、次に自分の家族親族が、周囲の大切な人がと続け、さらには嫌いな人や自分を嫌う人、世界中の人全て、生きとし生ける全てのものにまでと、その姿を思い浮かべながら幸せの願いを広げてゆくという、アファメーション的な要素の濃い瞑想法で、うまく出来るととても穏やかで安定した心持ちになれます。
感覚的にはまず最初に自分を許して満たされたような気持ちになれると、次にはその気持ちで人の幸せを願えるようになり、それでまた自分も満たされ、という自然な流れでイメージが連想されてゆきます。
続けているとやがて自分と他人の幸せが同じ一つのものとして感じられるという所まで来るのですが、僕なんかは最初、この「先に自分の幸せから願う」という所が、何だか少し目新しいというか慣れてない感じがしました。
「願う前にそのための努力とか辛い思いとかは?」とか「自分が先に満たされた後でついでのように人のことも願うって…」みたいな感覚が残ります。
これは我々が教わって来た道徳的な正しい姿勢と少し違うんですね。
学校でもテレビでも、昔から日本で賞賛されるのはもっと自分に厳し目で、まず自分の幸せよりも先に人に譲ることや人につくすことが立派な行いで、人のためには自分が我慢したり、時には自分を犠牲にして与えることこそ本物、というニュアンスの教育を何となくなされて来ますね。
もちろんそれは大事なことで、現実の中でもそうすべき時は多々あり、日本人のそんな性格は度々外国の人々に感動を与えたりするとても尊い精神だと思います。
でもこの意識を日常的な指針として義務感のように感じながら生きてゆくと、
実際にはやっぱりキツいし、現代社会のような人間関係や利害が密接にひしめく中を生きてゆくと、もううつ病にもなってしまいますね。
それはこの捉え方の根底に自分と相手のどちらかしか幸せになれないという構図があるからだと感じます。
対して慈しみの瞑想では、人に何かしてあげるために先ず自分が幸せにならないといけないと考え、まず自分が大切だという素直な感情が満たされてから、自然と人の幸せも願えるようになり、最終的に人の幸せと自分の幸せの区別が消えて、どちらも同じものであるという感覚に進んでゆくという仕組みのようです。
恐るべきインド人マジックですね。
まぁこの手のジャンルは好き嫌いがあるし当たり外れも多いので、別にここでヨガをすすめている訳ではないんです。
ただこの「第一に自分の幸せを願う」「それを願うことを許す」という気持ちや「本来人の幸せと自分の幸せは対立しない」と考える意識は、今のような社会を自分の理想との軋轢を感じながら生きている我々にとっては何かしらのポイントになる気がします。
悩み多き人にとっては、辛いことや人のことは先ず置いといて、先ずただ手放しで「幸せになっていいんだよー」「これから幸せになってくんだなー」と自分に思い込ませることから色々始まるのかも知れません。
きっと世界平和のためにも自分が幸せにならないといけないのでしょう。
アール座読書館は未だ発展途上ですが、最終的にはお席に着いて深呼吸するだけで、自然とお客さんをそんな気持ちにさせてしまうような場所に出来たらいいなと思っています。
さて、とりあえず来年は3階のオープンですね。
従業員の募集も引き続き受け付けておりますので、お声をおかけ下さい。
ご希望頂いた方(誠にありがとうございます)は、一月中には形を整えてご連絡致しますので、もう少しお待ち下さいね。
さて皆様、今年もあと数日ですが、年の終わりを穏やかな気持ちで過ごせると、きっと良い来年に続く気がします。
僕も自分と皆様の幸せを祈りつつ、今年はこの辺で失礼いたします。
それでは皆様良いお年を。