薄暗い場所と現実逃避のおすすめ

2018.11.29 Thursday 02:03

こんにちは。寒いすね。

 

先日、秋の虫最後の一匹のエンマコオロギが鳴き終わって、また静けさのアール座が戻って参りました。

外はようやっと冬の空気です。

 

前回は秋がアール座のメインシーズンなんて書きましたが、なんのなんの、本当は冬こそアール座に一番ふさわしい季節なんです(ずるい?こういうの)。

 

冬の使い方としてよくオススメしているのはですね、ずばり「おこもり」です。

冬ごもりするクマとかヤマネみたいな気持ちでご利用下さいね。

 

食料とか全部溜め込んでおいて、暗い穴ぐらの中で枯葉のお布団にくるまって何か月もムニャムニャと過ごす、あのスタイルの冬眠(仮死状態になる変温動物のそれと区別して冬ごもりと言ったりします)って、僕は本当に憧れてましまいます。

 

日々の現実的な事柄を忘れて、ひととき本の世界に入り浸ったり、空想妄想の世界に身を置いてみたりという現実逃避的な使い方はアール座が常におすすめする所ですが、実際冬の店内はこの「こもり」と「現実逃避」がかなりしやすい空気になるんですよ〜。

 

 

所で、アール座のコンセプトを説明する時にいつも使わせてもらうこの「現実逃避」というワードですが、よくよく考えてみるとこれって一体何なのだろうとか自分でも時々思っちゃいます。

 

文字通りの意味で現実からの逃避って実際には出来ないんですよね。

逃避している間だって現実の時間なわけだし…。

 

日常会話レベルの意味合いとしては、今やるべきことや直面している(すべき)事柄をおいといて、それと関係ない楽なことに目を向けちゃう、という位の所でしょうかね。

 

でもそう言われてもね。

それって何やってんでしょうね?

何から逃避して何を見てるんすかね。

 

というわけで、今回はそんなアール座のメインテーマ「現実逃避」とその必要性についてお話をしようと思います。

 

所でこの現実逃避って、いつでも自在に出来るようになるには意外とスキルが必要なんですよね。

 

試験前日みたいに強いプレッシャーかかったりすれば、誰でも自然と部屋にある、絶対に今読まなくてもいい漫画本を読破してしまうというような心理作用が起こったりしますが、何でもない時に意図的にやろうとすると、これがなかなか難しいものだったりします。

 

何が言いたいのかというと、実はアール座読書館のマスターってこの「現実逃避力」超絶ハンパないんです!…だめだ、ストレートに自慢したらすげえバカっぽくなった。

 

まぁ得意なんです、僕は。

自慢じゃないけど昔からこればっかやってきましたから、のび太の居眠りみたいにいつでもすぐに素敵な世界に逃げることが出来ます。

 

幼い頃から薄暗い場所にこもってファンタジーに浸るのが大好きでした。

 

子どもの頃はドラえもんに憧れて、部屋の押し入れに布団や電気スタンドや色々の道具を持ち込んでは小さな部屋を作り、戸を締め切ってひたすらその中で過ごしたり、近所のボロボロの空き家に一人で忍び込んでは中で昼寝したり空想したり食事(!)したりしてました。

 

今、自分の子供が日常的にこれをやってたら心療内科に連れて行きますが、幸い僕の親はなかなかのレベルの放任主義でした。

 

空き地に秘密基地というのをよくやってましたね。

子供の遊びの定番ですが、僕のはちょっと本格的で、近所の資材置き場から失敬してきたコンパネや角材に釘も使ったDIY級のやつでした。

 

内部には、世界制服を企む悪の組織が近所に攻めてきた際に、しばらく潜伏出来るだけの食料と生活用具、建物の中から反撃出来る装備や兵器が常備され、その戦術や戦闘計画に至るまでも厳密に練られていました。

 

普段友達とグループで遊ぶとき、僕はあまり目立つ子でもありませんでしたが、この時ばかりは皆に一目置かれて、場を仕切ってました…大きな体の巡査がやって来て、取り上げた隊員名簿を読み上げつつ全員整列させられ、こっぴどく叱られるまでの短い間でしたが…。

 

もっと成長して思春期に入ると、さすがの僕も現実を意識せざるを得ませんでしたが、そんな狭間でモヤモヤと重苦しい毎日から逃げ込むようにやはり薄暗い喫茶店に逃げ込んでは現実逃避に浸っておりました。

 

はい。筋金入りのネクラ少年(イケてない方)でした。

 

特に辛いことがあったわけでもないのですが、どうしてか学校や人の集まる場所が苦手なキライがあり、通学電車に乗ると、ついつい降りる駅を飛ばしてよそに向かいがちな不登校児でした。

 

もちろんマンガ喫茶やネットカフェなんて存在してませんので、昼間にお金もかからず一人で時間をつぶせるような場所と言ったら喫茶店か図書館くらいのもんだったのですが、今思えばこの二つって完全にアール座のルーツになってそうですね(不登校の賜物だったとは…汗)。

 

都内の図書館も随分行きましたが、大好きだったのは戦後からタイムスリップしたような古めかしい造りの薄暗い(リスペクト表現)喫茶店でした。

 

当時東京には昭和初期中期に開業したような古い喫茶店がまだ沢山残っていて、僕がよく行ったのは今やご近所になったネルケンさん(今や本当に貴重な存在!)や中野のクラッシックをはじめ、ライオン、ダンテ、物豆奇、邪宗門、穂高、李白、エリカ、もか、昔すいてたくぐつ草、一軒家だったカフェド・パルファン、その向かいで雰囲気がもの凄かったイカール館やべぇとまらねえ…懐かしい…(泣)。

 

今でも健在のお店なんかは、もはや先輩と呼ぶのも恐れ多い老舗ばかりですが、大抵は白壁が煙草のヤニで茶色く焦げていて、元から焦げ茶色であったろう柱や梁はもう黒光りしてたりして、埃のかかった絵画の額縁や彫刻の入った建材や革張りの古い椅子が何とも格好良く、クラシックの古いレコードがブチブチ言いながら回っていて、人も少なく(平日午前中!)、そして照明は飴色の電笠を透かす暗い電灯だったりするんです(最高…書いてるだけでワクワクする)。

 

こういうタイプの昭和の古い喫茶店(レトロとかモダンとまた違う)って、どこも決まって物凄い雰囲気(年季)が濃くて、最初はアール座なんか比較にならないくらい入りづらいし、意を決して扉を開けても店主さんとか大抵無愛想で口数も少ないし(上の店全部じゃないですよ)、迷い込んだような気持のまま座席を探し、一大決心をしてオーダーしたものです。

 

もちろん当時だってサービスの徹底した企業系のカフェとかは沢山あって、そういう所は扉からしてオープンな造りになっていて、フワッと入店すると笑顔の店員さんが最初から丁寧に案内してくれて、何一つ迷うこともつまずくことなく自然な流れでお会計まで行ける仕組みになってたりしますが、そういうお店は往々にして異空間で現実を忘れるというコンセプトを…持ってませんよね、そりゃ。

 

でも、昨今の日本のサービス業はこの部分がさらに加速しててすごいですね。

 

我々の生活って全てが完璧に合理化、マニュアル化されていて、大概の用事(買出しから料理とか)は音楽聴きながらやってても、当然のようにスムーズに事が流れます。

 

ちょっとお菓子のパッケージが空きにくいとか、引っかかりがあるような時って、決まって輸入品だったりしますよね。

 

間違えず、つまずかず、考えずに出来ることが当たり前のこととして徹底される環境では、人々がこれを妨げられることを非常に嫌うようになっていて、昭和のおじさんには何だか世の中全体が利便性のオバケみたいに感じられて恐くなります。

 

駅で人と待ち合わせようとして、結局行き違ったままその日は会えなかったりした時代が懐かしいなぁ…(後で家の電話で「北口じゃないの?」「南口って言ったよ!」とかやる 笑)。

 

 

話がそれましたが、とにかく僕にとって深く質の良い現実逃避が出来るのは「お決まりの頃にお伺いしまーす❤」というタイプのカフェではなく、店の奥で頑固そうなオヤジさんが新聞読んでる(上の店全部じゃないです 汗)、ちょっとドキドキするタイプの昭和の喫茶店でした。

 

外界と切り離されてるとか、迷いつつ自分で決めて進むとか、放って置かれるみたいな非現実的、非社会的な要素が効いていたのかも知れません。

 

そんな空間で空想やら妄想やら果ては自分の内面やらを旅した後、お代を払って薄暗い店内から外に出るとまだ昼間で、空がとてもまぶしく、現実に圧倒されて驚いたものです。 

 

 

入りづらさで思い出した話ですが、3階の「エセルの中庭」というお店は今でこそ皆様に認知して頂いて、ありがたくも沢山の方にご来店頂いていますが、以前まだ無名だったオープン当初は3階まで上がって来られた方が、内装を見てその異様な雰囲気に不安を感じ「え…ごめんなさい、やっぱり…」と踵を反してしまうケースが続出していたんです(先客がない時ね…混んでる時にはありません)。

 

オープン当初のそうした反応は経営していて精神的にこたえる部分もあるのですが、アール座の方である程度経験済みだったこともあり、「認知されてしまえば裏返って強みになるはずの部分」ととらえ、悪くない反応として信じ続けることが出来ました(ここで折れて路線変えちゃうとダメなんです)。

 

ただ、エセルは外国人のお客様の比率がとても高いお店なのですが、外国の方にそれをされたという記憶は一度もありません。

 

僕自身、独特の空気の強さに尻込みしてしまう日本人気質も分かる方なのですが、こういう気持ちの揺らがなさというか、自分の選択を疑わない気質を拝見すると民族性の違いというものを考えずにはいられませんでした。

 

聞いた話では、日本人って自己肯定感の低さがシャレにならないレベルなんですってね。

アンケート結果がもうブッチギリらしいんです。

でもこれ、自分も含めて何か分かる気します。

 

うーん、どうしても話がそれますね。

でも意外と後で回収されたりします。

 

 

思春期を過ぎ、もっと趣味が広がってからは、博物館(昔の科博も良かった)や公開されている洋館等、さらに沢山の非現実薄暗スポットを見つけていくことになりますが、結局そんな所で繰り返しやっていた現実逃避の時間は間違いなく僕のメンタルを支えてくれていました。

 

今思えば、もし当時あんな風に逃げこんで心を休める特別な空間が何処にも無かったら、あの気弱い少年は一体どうなっていたんだろうと、昭和の喫茶店への感謝を超えた思いがこみ上げます。

 

 

こんな風に四歳の頃から既に意図的な現実逃避を始めていた僕は、キャリアからしてもう筋金入りの…と言いたい所ですが、実を言うと子供というものは皆例外なくこれのエキスパートだったりするんですね。

 

以前「中間領域」というテーマでお話したことがあるのですが、子供は誰でもこの現実とファンタジーの合い間のような世界を作って自由に遊ぶことが出来るし、またそれがその後の精神の成長や意識の形成においても大変重要な役割を持つのだそうです。

 

さらに僕はこれが大人のアイデンティティーの安定においても、とても大切な過程だと信じていますが、この「大人の中間領域」というものこそ、言ってみれば「現実逃避」という行為とほとんど同義なんじゃないかと思えるんです。

 

 

現実逃避の対極にあるものを考えてみると、その象徴として「to doリスト」なんてものが思い浮かんだりもします。

 

僕もずっと多用している、物事を計画的に運ぶために、目標に一歩一歩迫るために無くてはならない重要なものです。

 

アール座の僕の仕事なんかは実のところ、会社で言う総務みたいな仕事がメインだったりします。

 

何処かの機器や器具什器が故障したり、何かしらが消耗してそのシステムの動きが滞ったりと、絶え間なく交互に訪れる管理、補修業務が仕事の大半だったりするんですが、もうこのリストがそれでひたすら埋め尽くされ続けます。

 

でも世の中の数ある職種のほとんどにはこれが必要だったりするんじゃないでしょうか。

無数のタスクを処理し続けていく要素が少なからず必要なお仕事の方が現代では普通なんだと思います。

 

僕なんかはスマホや手帳の上で永遠に続くとも思われるそれに、ヘタをすると人生そのものを持っていかれるような恐さを時々感じたりすることがあります。

 

本当の自分は何がしたいのか、最終的にはどうなりたいのか、自分は何のために生まれて来たのか、みたいな大きな視点がto doリストに埋もれてぼやけて分からなくなったまま人生が終わっちゃったらどうしよう…みたいな恐怖感が随分前からあって、それがこの店を作った動機の一つにもなっています。

 

間違いや迷いを許さないマニュアル化された社会環境が強要してくるこの「やるべきこと」という意識こそ「現実逃避」という言葉に使われている「現実」の部分のような気がしてなりません。

 

何をやるにも「正しい筋道」や「まっとうな方法」というものが「現実」であるとして、目の前に突きつけられている気がしちゃうんです。特にこの国は。

 

例えば自分で思いついたような「変なこと」って、あえてやろうとすると凄い力で何かと抵抗がかかったりするのを、僕はイヤというほど経験してきました。

 

例えば昔「エセル」でハンバーガーメニューをやっていたとき、そのバンズを四角くしようと考えたことがありました。

どう考えてもその方が美味しそうだし食べやすそうだし個性的にも見えると思えたからです。

 

所がやってみると、これがなかなか上手く行かない。

 

角バンズの仕入れ先なんてそうそうない(そもそもそんなものがない)し、何かで代用するには価格的に問題があったり、焼成を考えてもそれをオペレーション化出来るような器具が見つからないとかあって一向に計画が進まないんです。

 

とにかく世の中にそういうラインというものが出来上がっていないので、手段も道具も色々な要素を応用し、自分で一から考えて組み合わせるしかないのですが、これがとても困難で、何かを取れば何かが失われるみたいな状況に陥ってしまうんです。

 

これを従来通り「丸」にしてしまう方を選びさえすれば、全ての問題がキレイに解決されて全部スムーズに、かんったんに!事が運ぶんですよね。 

 

そこで困った僕が一体どんな手を打ったかというと…

 

断念しました。せめてもの抵抗でチャバタという不定形のパンを使ったりしましたがね…

 

社会はこんな作りになってますから、そうやって我々は文字通り「角」が取れていくんですね〜(ウマい例え話になった)。

 

 

「まっとうなこと」「正しいこと」とつながった「やるべきこと」こそが「現実」で、そこに向かわないことが「逃避」だとする意識は、いつの間にか自然な形で我々の中に植えつけられ、すっかり共有されています。

 

これって日本人の自己肯定感が低いという事実と、絶対に無関係じゃないという気がしませんか。

 

でもそんなことを踏まえて、その「現実」というものを改めて見つめてみると、それこそ本当は頭で作り上げた妄想のようなものなんじゃないか、ただまともな方厳しい方を「現実」と言い聞かせているだけなんじゃないかという風にも思えてきます。

 

考えてみれば本当は現実って、今目前に存在している光景のことでしかないんです。

更に言えばそれだって次々に絶え間なく過去になっていく幻のようなものなんです。

ましてやまだ決定されていないこれからの事柄なんて、現実のはずがないんですよね。

 

でも現実という概念って、そんな風に考えるいとまも与えてくれませんね。

 

今の僕は喫茶店経営者なので「カフェと言うものはこうじゃなきゃいけない」という正当性のようなものと、ここ数年さかんに闘ってきた気がします。

 

これが、変なやり方やマトモでない方法を凄い力で否定してくるように感じられるんです。

 ただでさえ迷いの中に溺れそうなメンタルに「自己満足だ」「恥ずかしくないのか」「そんなんでいいわけないだろう」と容赦なく牙をむいて来ます。

 

そんな僕にとって、自分の価値観だけで物事を考えようとする現実逃避の時間(ありえない方法や現実には出来そうもない手段に片っ端から思いを馳せます)はこれへのささやかな抵抗の時間だったりします。

 

そして抵抗するうちに少しづつ分ってくることがあります。

 

若い頃はそれがずっと社会の側から来るものだと思ってたんですね。

 

学校サボってほっつき歩いている自分に「何で学校行かないんだ」「もっと皆と楽しく過ごさなきゃダメだろう」と何か外部から自分を責めてくる世論のようなものがあるように感じてました。

 

でも、あらがい続ける内に次第に姿を見せてくるそれはよく見ると、紛うことなく自分の中にいる奴なんですよね。

 

自分の中に、逃げるな間違うなごまかすなと、世間のフリをしてさかんに自分を責めてくる意識があって、またそれは本当に外から責められることを何よりも恐れる意識と一体だったりするんです。

 

目下の所、僕はこの最終形態のラスボスとの闘いの場にまで辿り着いてはいるものの、為す術もなくボコボコにやられまくっている毎日です。

 

自己肯定とか、ほど遠い毎日です(泣)。

 

でもふとした時に「別にいいじゃん」とか思えて、ちょっとだけ気分が変わる瞬間があります。

 

捨てゼリフのようなその一言には必死の抵抗とある思いが込められています。 

 

「本当はこうじゃなきゃいけないなんてことは一つもないのかもしれない」

「やるべきことなんて一つもないのかもしれない」

「自分は何がやりたいのかということだけが、唯一の大切なことかもしれない」

 

いつも忘れてしまうけど、昔から何度となく浮かんできた思いです。

迷い悩んだ挙句にそれは思い浮かび、その度に、いつも必ず自分を守ってくれました。

 

断言出来るのは、今の自分を自分らしく形作っている要素は全てこっちから生じたものです。

厳しく現実的な態度やto doリストから生まれたものは一つもありません。

 

そしてそんなことを思えたのは、いーっつも!あの薄暗がりの下の時間でした。

 

ビルが立ち並び、自動車やスーツ姿の人々がせわしく行き交う現実的な光景の中では絶対に無理なんです。

そんな場所では、全ての視覚要素が自分の内面にブロックをかけてきます。

 

「現実」らしきものから離れて遮断して初めて、そこから逃避出来ると同時に、逆に普段見えていなかった内なる思いがはっきりと実感出来たりするんです。

 

あの頃いつもお代を払って店を出ると、外はまだ昼で、空がとてもまぶしくて驚かされるのですが、でも今さっき感じたその「思い」を携えて、またここでやってやろうというような気分にもなったものでした。

 

秘密基地に籠って、頭の中の悪の軍団をにらみつけていたあのちびと、あまりにも変わっていないのがちょっと心配ですね。

 

中二メンタルを自覚しているおっさんですが、これはヘタをすると小二…。

 

こんなとこまで読んでしまった皆さん、小二病の世界へようこそ…

 

 

と言うわけで皆さん!現実逃避したくなったでしょ!

 

逃げまくりましょう。

辛い現実なんて見なければ存在しないも同然です。

 

社会が許さなくても、貴方自身が許さなくても、アール座読書館が全部許して差し上げますよ〜。

 

category:今月のおすすめ | by:アール座読書館 | - | - | -

虫の声と季節感のすすめ

2018.09.14 Friday 02:12

こんばんは。

4か月ぶりでございます。

やっと涼しくなりました。

今年の夏は沢山汗かきましたね。

毎日必死に飲み物ばっか飲んでた気がします。

皆さま大変お疲れ様でした。

 

酷暑を通り抜けて、やっとという感じですね。

 

アール座のメインシーズン!秋!

 

街中でも最近になってやっと虫の声が聞こえてくるようになりました。

 

でも、なんかいつもよりタイミング遅い気がします。

 

実は秋の虫が鳴く条件に気温というものもあって、大体1530℃位なんだそうです。

 

そう。30度以下なんですって。

 

例年ですと、東京なら虫達は八月下旬にはもう鳴き始めて、10月に入ると寿命を迎えていく感じなので、大体2か月以上は虫の声が楽しめるのですが…何せ、この気候…

 

秋、短くなっちゃうじゃん!

 

以前よりこのブログで季節、特に「秋」や「春」を感じることの大切さを訴えてきた僕ですが、温暖化と共にどんどんこの季節が短くなっていってしまったら寂しいですね。

 

感覚が自然の季節感から切り離されて、人間がまともに生きていけるはずがないのだ、とまで考えるアール座にとってはなかなか痛いことです。

 

…という訳で、今年も始まっております、恒例(?)「秋の虫の音楽鑑賞会」。

 

管理がなかなか大変なもので、忙しい年は見送られてしまいがちなこの企画ですが、今年は久々にしっかりしたメンバーを揃えましたよ〜。

 

勿体ぶるようですが、お伝えしたいのはその価値です!

 

こんな室内空間ってナカナカ存在しないのです。

 

童謡の「虫の声」ってありますよね。

「あ〜れ〜ま〜つ〜む〜し〜が〜♪」ってやつ。

 

でも実際、野生のスズムシとマツムシが同時に鳴いてるような自然環境って、今どき山間部でもそうそう無いみたいです。

 

ましてや秋の虫の中でも上質な音色の種ばかりを集め、その生音を聞きながらお茶をすすれる環境と言うのはもう太陽系のどこにもないでしょう(多分)。もちろん大自然の雑多な音色が混じるオーケストラは圧巻ですけどね。

 

虫の声イベントについては恒例行事なので、例年、過去ログにリンクを貼っていちいちの説明を省いてきましたが、今年は久しぶりに改めてご紹介したいと思います(過去の文章の引用や重複アリ)。

 

 

日常を離れ心を遊ばせるに最適な季節「秋」はそれを目的に作られたアール座読書館のベストシーズンでもあるのですが、これをより色濃く演出するために行っているのがこの「虫の声イベント」なんですね。
 

日によってはうるさいくらい鳴くこともあるんですが、そこは「静寂には音が必要」と考えるアール座なりのコンセプトもあります。参照→「無音と静寂」

 

皆さんは虫の鳴き声を本気で聞いたことがありますでしょうか?

 

何かをしながらちょっと耳を傾けるとかじゃないですよ。

交響楽団のコンサート聞くみたいにしっかりと「鑑賞」するんです。

 

聞きながら、短くも儚いこの人生を思ったり、世の憂いを感じたり、鳴いてる子の気持ちとか想像しながらその音色に思いをはせるということなんですが…まぁナカナカしないですよねぇ、そんなヒマなことねぇ…。

 

ヒマなこととはなんだ!

 

そりゃ人気ミュージシャンの音楽に比べたら地味だし、刺激少ないし、お金もかからないしね。

 

きっとそんなことからあまり相手にもされない虫の声ですが、人の世ではとかくこうした希少性や経済感覚と言うものが、美的感覚やその価値観と複雑に交ざってしまいます。

 

僕よく思うんですが、シジミの味噌汁って、フカヒレなんかよりも余程品が良くて奥深くて上質な味がすると思いません?

 

シジミ貝が希少種でなかなか採れないものだったり、汁に煮出すのに何段階もの手間がかかるものだったら、きっと高級食材になってたと思うんです。

 

でも沢山採れて簡単に作れちゃうから、平気で椀に残されるようなポジションにあまんじてるんです。きっと。

 

 

アール座店内の硝子ショーケースに面白い中国土器があるんです。

 

一番下の段の向かって左側の二つ。黒と赤の。

よーく鑑賞すると、弥生土器や土偶に迫るような力と趣きを持ったなかなか面白い逸品なんです。

 

骨董の専門家をしている親戚の叔父さんからの頂き物なんですが、実はこれ、どちらも先史時代(紀元前2000年!)の中国土器(発掘品)で、かつては百万の値が付いた物らしいです。

 

でも、なんでそんなものがこんな店にあるのかというと、現在その価値は数百分の一に下がってるらしいんですね。

 

後年、ある遺跡から同じものが大量に出土しちゃったんだそうです。

 

まぁだからこそウチのような店に並んでるんてすけども、でもね、関係ないですよね。

 

それ自体が大変な力を持った素晴らしい品であることには全く変わりないんです。

 

僕、店でこれ見ると思うのは人間の価値感なんて本当にいい加減なものだな、とか結局モノの価値って…え?虫の声の話?

そうだそうだ。

 

話を戻しますと、あんなに美しくて心和ませる音楽が大して人々に見向きもされないのは、きっと家の帰り道に普通に聞けちゃう(東京のはコオロギだけどね!)からなんじゃないかとも思うんです。

 

 

最近よく耳にする話ですが、実は虫の声をちゃんと聴くことが出来るのは日本人だけで、外国人はそれをノイズとみなして意識からカットしてしまっている(多分生活ノイズみたいに)から、コオロギはいても、鳴いていることにすらあまり気づいてないんだそうです。

 

日本では大昔から人々の心を和ませて来た秋の風物詩ですが、なんでも普通外国の人々はそれを右脳でただの「音声」として処理してしまうため、全く何も感じないという話です。

 

そこを日本人だけは左脳(言語脳)で「音楽」のように捉えることが出来るのだそうです。

 

でも僕思うのですが、日本では昔から文化としてそれが扱われてきたから、そんな意識で感覚出来るのであって、外国人でもその美しさに気づき、親しんで意識出来るようになれば左脳で聞くようになるんじゃないかなぁ。

 

つまり結局、興味や感受性の話だと思うと、現代の忙しい日本人だって怪しいもんですよね。

ヘタすると右脳で聞き流してる日本人の方が多いんじゃないかという気もします。

 

そんな時代でも、こんな店のブログ読んで下さるような皆さんにはきっとご理解いただけると思うので、是非おすすめしたいんです。

 

だって、秋の虫の声程気持ちを和ませてくれる音色が他にあるでしょうか!

もちろん、沢のせせらぎ、木々の葉擦れの音、森林の雨音など自然界の音には人の心を落ち着かせてくれるものが多くあります。

 

でも僕、これらと虫の声との間には決定的な違いがあると感じるんです。

 

同じ自然音でも鳥や虫の声というものはその主体の意思を担った、つまり「声」なんですね(羽擦って出すんですけどね)。

 

美しい小鳥のさえずりや虫の声には雑念や余計な感情なんてない純粋で崇高なものなのかと思いきや、実は異性への猛アピールだったり(綺麗な歌声はこちら)、雄同士の激しい怒鳴りあいだったりします。

 

え…そうなの?と失望されるかも知れませんが、でもね、彼ら必死なんです。

 

必死に唄ってるんですね。

 

何年か前、このイベントのためにコオロギを捕獲しようと、深夜に近所の緑地を鳴き声頼りに探し回っていたときの話です。

 

ひときわ大きな鳴き声に引かれて公園の石垣の方に行きますと、その石のとある狭い隙間からそれが響いているようでした。

 

ここで待っていれば出てきた所を捕まえらるんじゃないか、と思ったその矢先、すぐ横に全く同じことを考えている奴がどかりと座っていたのに気づいてドキッとしたんです。

 

石垣の手前に巨大なアズマヒキガエルが、岩のように微動だにせず、一心にその隙間を見つめていたんですね。

 

コオロギはもう絶体絶命の状況ですが、沢山食べなきゃいけない大ガエルの方だって命がけです。

 

呑気に昆虫採集なんかしてた僕は、命がけの弱肉強食の構図を前に、何だかバツが悪くなってその場から去ってしまいました。

 

で、それ以来、店で鳴く虫の声の聞こえ方もちょっと変わったりしました。

 

考えてみれば、一箇所にとどまってあんな大きな声で鳴き続けるのって、自然界の昆虫にとっては完全に自殺行為です。

 

明らかに生存競争に不利なはずなんですが、それでも彼らは鳴き続けて、何万年も命を繋いできたんですね。

 

短い期間内に子孫を残すための、命がけの歌声です。

 

どんなに美しくても「物音」と決定的に感慨が違うのは、やっぱり我々の中に、それが「小さな生き物が一生懸命鳴らしてる音」という意識があるからなんじゃないでしょうか。

 

小さなもの達の存在の切なさや必死な思いが胸を打つんだと思うんです(言い過ぎ?)。

 

 

最初に店で虫を鳴かせてみたのは2008年の秋でした。

 

何か季節感を出すアクセントになるかと思って、窓の外のプランターを網で囲ってスズムシを放してみたんです。

 

まだお客さん全然いなかった頃ですが、そんな空間に虫が鳴き始めて、うわわってなりました。

 

アクセントどころじゃないんですね。

 

予想を上回る影響力で室内の空気を一変させ、幽玄すら感じさせる何とも不思議な空気感を作り出してくれたんです。

 

まさにアール座の目指す静寂と同質のものを劇的に演出する力に驚いた僕は、次の年にはもっと本腰を入れて、他にも様々な種類も仕入れ、捕獲して、室内に飼育ケースを並べてアンサンブルを作りました。

 

もうBGMは必要なさそうだったので切ってしまいました。


そんな流れから、これがお馴染みの秋のアール座、定番企画となったわけです(今回は2年ぶりだけど)。

 

 

さて、今(9/13)すでに、夜の店内は沢山の虫の声に包まれています。
 

メンバー紹介です。

コールの後にそれぞれソロ演奏してるつもりで読んでみましょう。


主役はやはりこのヒト!スズムシ!音色が絶品。

「リイィィィン」という音色は単体でも綺麗ですが、数匹同時に波のように起こる合唱が素晴らしく幻想的です。

また主役でありながら、こうして多くの音色を合わせる時には全体を美しくまとめて繋いでもくれます。
 

マツムシは、一瞬小鳥かと思うような大きな声で鋭く「ピンッ ピリリッ」と鳴きます。アンサンブル全体を引き締め、アクセントと緊張感を与えてくれます。

夕方頃になると、この音がちょっと鳴り始めて、次第に音が厚くなってくるのが演奏会の始まりです。

コオロギの中で最も声が美しいと言われるエンマコオロギが奏でる、ゴキブリチックな見た目からは想像もつかない柔らかい「ヒョロロロ〜」という声はスズムシ以上に「侘び感」を醸し出してくれます。

 

彼らとスズムシの二重奏がオーケストラの骨格になります。
 

それらレギュラーメンバーに加えて、他数種のコオロギ(よく聞くやつ)や、今年はアオマツムシというのも入れてみました。

 

実は昨今嫌われ者の外来種なのですが、美しい澄んだ高音をリリリリリリ…と強く長〜く引っ張ってくれるので、一声でなかなかのアクセントと厚みを足してくれます。

 

これら大小20程の飼育ケース(管理まじ大変)をショーケースの後やフライヤー台の下、後の物置などに各所にサラウンド配置してみました。


湿度の低い日、日暮れ時から鳴き声は始まりますが、その頃になると最初「ピッ」とか「リン」とか澄んだ声が切れ切れに出始め、次第に多くの声が重なり、やがて美しい波音の様な合唱になってゆく様子は大変に趣き深いものです。

 

ちなみに、彼らが最も力強い音色で夢のように幻想的な音楽を奏でている時間のピークは、悲しいかな照明の消えた閉店後なんですね。

 

でも自然の美しさってそんなもんですよね。

人間が全部所有出来ると思ったらいけません。

 

前人未踏のジャングルの奥に、想像を絶するような美しい絶景が誰一人見ることも無く広がってたりするのが大自然…あ、虫の話でしたね。

 

彼らがフルパワーで鳴くことが出来るのは例年ですと9月いっぱい位です。
 

実は彼らには悲しい性(さが)もあって、メスがオスの美しい歌声に引かれて無事にカップルが成立し交尾を終えた後には、そのままメスがオスを補食してしまうんですね。
 

子供の頃に鈴虫飼ったことある方はご存じかと思いますが、秋も終盤になると鳴き声はすっかり止んでしまい、ケースを開けると腹を膨らませたメスばかりがワラワラと歩き回っているような恐ろしい光景になります。


何とも勇ましい肉食系女子達ですが、男子最後の一匹とか、一体どんな心境になるんでしょうね。


せめて「自分の最期はどの娘に食われよう」という位の選択権はあるんでしょうか。
 

その状況でも最後の力で鳴いてメスを呼ぶのだから、こちらもスゴい男気です。
命がけの恋ですね。


なので、日が進むにつれオスが食われて、音の厚みは少しづつ減って行きます(何というオーケストラ)。
 

なので、お早めにどうぞと言うわけです。


ほとんどのお座席には例年、手作りの「虫の声鑑賞ガイドブック」を置いております。
 

種類ごとの解説や、秋の虫に関する日本の古い風習などまとめてありますので、鑑賞のお供にご覧下さい(もしお座席に無かったらお知らせください)。
 

一年の季節の流れを最も実感させてくれる晩夏から秋にかけての時節(自論)、その一年のほんのひと時しか聞けない虫の声です。

 

僕はいつも、人が人らしく生きていくために季節を感じることが不可欠なことだと自戒も込めて思っているのですが、最近では実はそれが人の心を守ってくれているのではないかとさえ感じるようになりました。

 

その時、自分の人生にどんなことが起こっていようとも、それとは全く関わりなく同じスピードで夜空が回り季節が巡ってゆくことは、何だか冷たいような寂しいような無情な出来事にも思えます。

 

我々の身体だって、こちらの思いや悩みなど知らん顔で、淡々と呼吸し脈打っています。

 

でも実は、そのことが不思議と我々に安堵を与えます。

 

うんざるするような事態や時間のかかる難事に見舞われているときでも、そんな風にこちらの事情を無視してめぐり続ける自然の環境こそが、どんな状況でも我々を生かし、前に進めてくれることを我々は知っているからだと思います。

 

こちらの思いを無視してひたすら巡っていくこの世界の「時間」というものは、全ての生き物にとって全く平等に与えられた、最も暖かい出来事なんじゃないかとまで思えてきます。

 

というわけで、それを実感させてくれる虫の声です。

 

可能であれば、晴れた平日の夜とかおすすめです。

 

ちなみに個人的な話ですが、実は今年、僕は早番の日が多くて夜の演奏ほとんど聞けないんです(号泣)。

 

いいなー、お客さん!
 

category:今月のおすすめ | by:アール座読書館 | - | - | -

「今」と「ここ」のすすめ

2018.04.18 Wednesday 02:45

こんにちは。

とても爽やかな季節ですね。

 

寒くないし、暑くないし、蚊も飛んでないし、緑が濃くてお花も咲いてます。

考え事ばかりしてやり過ごすのは勿体無い時期なので、窓を開けて感覚を開いて過ごそうと思うんです。

 

でも、ソレって意外に難しい??

 

なんだかまとめサイトみたいな冒頭ですが、今回はまぁそんなお話です。

 

所でこの時期って、暑い日と寒い日が不意打ちで交互にやってきますよね。

 

僕、世の中の人ってちゃんとその日の気候に合わせた格好しててすごいなとか思うんです。

 

僕なんか家を出てしばらく経ってから、やっとその日が暑いか寒いか分かってくるようなタチなので、毎年三月頃の三寒四温の時期なんて道行く人が皆カーディガン着てる爽やかな街中を、一人着ぐるみみたいなダウン来て汗にじませてることとかよくあります。

 

そう言えば昔、友達と沖縄に行ったときに、僕は一人だけコーデュロイのパンツを履いて行って「やっぱあちいなぁ〜」とか言ってたら、皆に「バカだろ」と言われて知ったのですが、世の中の人って素材や生地まで考えて洋服選んでたんですね。

 

服の季節感って羽織る枚数と袖の長さだけで決まるのかと思ってたので、ウールとか厚手とか風通しなんて気にもしてませんでした泣き

 

僕みたいな人いるでしょうか?(いないか…)

 

意識が内側に向いちゃってるんですね。

 

道歩いてても取りとめもない考え事ばっかりしてて、感覚に意識が行ってないんです。

 

だから時々メガネかけたまま顔洗ったり、歯ブラシに洗顔フォーム塗りつけたりします。

 

最近なんて本当に頭がボケてきていて、今年の始めには財布を二日連続でなくしました。

 

お金やらカードやら諸々大事なものがまとまったヤツをなくして、どんよりした気持ちで一日過ごした後、家に帰ったら思いもしない所から見つかって「良かった〜」と脱力したその次の日にもう一度なくして、また夕方頃同じように出てきました。

 

コレやったことある人はあまりいないでしょう手

 

財布無くしたりすると結構その日の気持ちを持って行かれますよね。

 

そのときはこの気持ちのアップダウンの波をざぶんざぶんと続けざまに二つ超えて、2日目の夜に何だかとても幸福な気持ちになって(バカだね)、深夜に部屋でティータイム(下戸)をとりながら、キャッシュカードとか保健証とか普通に全部揃ってるってとても幸せなことなんだなぁとか、結果何も得ていないのに、今こんなに幸せな気持ちになれる(に気づける)のはなんだか不思議な気もするなぁ…とか色々考えてました

 

不安な気持ちで過ごした時間帯を相殺するように同じだけ取り戻してる、ということなんでしょうか

 

つらい風邪引いた時とかも、普段の体調がいかに幸せなことかを思い知らされ、治るととても幸せな気持ちになりますが、二日も経つとまたすっかり忘れてしまいますよね。

 

こんなにも色々悩みながら追い求めている「幸せ」というものが、実はただの気持ちの浮き沈みで、全て幻みたいなものなのかなぁ…幸せ不幸せって完全に心の状態なんだなぁ…ホモサピエンスってあんまアタマよくないなぁ…みたいなことを思いつつ、部屋で中国茶をすする夜でした

 

 

例えば、住まいも蓄えもなく明日の食事もままならない人が競馬場で拾った万馬券で100万勝った状況と、資産家が借金の保証人トラブルで一夜にして土地も家も財産も失って手元に100万円分の資産しか残らなかった状況って、きっと気持ち的には天国と地獄でしょう。

 

でもこれ、違うのは心理状態だけですね。

状況がそれ以前より良くなったか悪くなったかに起因する心の動きが違うだけです。

 

僕はよく、現状でうんざりするような問題を抱えて疲れたときに、例えばなんか悪いことして捕まって、長い服役を終えてやっと晴れ晴れとした気持ちでシャバに出てきて、これから何でもやったるぞーというまっさらで幸せな状況を本気で想像してみて、「それなら今この現状だって何をどうにでも出来るし、その状況よりも好条件が揃ってるはずだよなぁ」と、気持ちを前向きに持ってこうとしたりします。

メンタルが完全にまいってる時は上手くいかないけど、低迷から上向きに差し掛かる辺りだと効果的!

 

昔から「幸せになるための究極の方法は今手にしている幸せに気づくことだ」という意味合いの話が色んな形でよく聞かれます。

 

確かに現状で恵まれ、満たされているものに気づいて、そのありがたみを意識しつつ毎日を暮らすことが出来れば、もう何か無敵なのかも知れません。

 

でも、何ででしょう?

中々難しいんですよね、それって。

 

あらゆる状況に恵まれたセレブリティみたいな人達にも、心が満たされてない人は沢山いそうだし、それ埋めるためにあんな凄い買い物してるようにも見えるし…(別にそんなことないのかな?)。

 

逆に平均的な日本人だって自分専用のPCやら冷蔵庫やらエアコンやら持っていて、環境の厳しい国の人から見たらやはり大金持ちで「こんな暮らしが出来たらもう何もいらない」というくらいに思われる存在かも知れませんね。

 

でも実際の我々はそこに幸せを感じていることの方が稀で、やっぱり手にしていない方の事柄を求めて悩んでばかりです。

 

もちろん、こういう社会のストレスって貧困や生存すら厳しい環境のそれとは質が違うもので、職場の人間関係で悩んでいるときに「でも僕パソコン持ってるし」で解決するわけもないんですが、でも何で人って手にしている幸せの方はカンタンに忘れちゃうんですかね。

 

 

人間の思考が本質的にネガティブに出来ているというのはよく聞かれる話です。

  

人類が弱肉強食の連鎖の中に生きていた時代には、現状の利点に満足する性格よりもやってくる不安や新たな危険を気にする性格の方が生存に有利だったため、そんな気質が濃くなっていったという脳生理学的な説明です。

 

悲観主義が人間の特性だとしたら、恵まれただけではカンンタンには幸せになれないかもですね。

 

手元の幸せに気づけないことに関してもう一段絞って考えると、思い浮かぶのは「慣れ」という心理です。

 

現状よりも新たな危険に向かうような人間の意識というものは、本質的に、どうしたって変化に注意が行くように出来てますよね。

 

心ってずっと変化のない事柄からは次第に意識がそれていって、それよりも「変化」つまり感情的な波風や動きのあるモノ、新しい刺激や情報を与えるものの方に意識が向かいます。

 

ずっと手にしているモノよりも最近獲得、または喪失したばかりのものや、新たに獲得したいもの、失いそうなものに気持ちが動くので、その手の事柄の方が幸福感を動かすトリガーにもなりやすいです。

 

だから手にしてから長い時間が経つ幸せは次第に忘れられていって、次そこに意識が行くタイミングというのはそれが失われる時だったりします。

 

さらに現代社会では、この「意識が動きのある方に向かう」という人の心の特性を経済が逆手にとって利用するので、それがますます助長され、人々が刺激や情報の依存症のようになっている所があります。

 

依存や中毒って何でもそうですが、最初は「あってもなくても平気だけどあると楽しい、気持ちいい」という質のものだったのが、反復される内にその快楽には慣れてしまって「あるのが通常で、逆に無いのは耐えられない」という方向にどんどん変化して強い執着に変わってしまうものですよね。

 

この社会はとにかく人の気を引こうとする情報のカオスみたいな世界で、無数の情報発信元がより気になる情報や強く意識を引く刺激をあの手この手で日々大量に流して来るので、普通に暮らしていたらこの洪水を避けることは出来ません。

 

知らない内にそこからより強い刺激を選びつつ、人々は情報依存、刺激中毒に向かうしかないような世界です。

 

次々にやってくる情報に神経を奪われていたら、今の自分や恵まれている幸せなんて見ている暇もありません。

 

そんな我々は一人暮らしで部屋に帰ると、別に見たいプログラムがあるわけでもないのに何となくTVつけたりしますよね。

 

「何となく寂しい」という正体不明の不安感のようなものから逃げるように、誰もいない部屋に変化を入れようとします。

 

最近では部屋にTVが必須でもなくなったようですが、ネットやスマホを媒体として出来ることがそれに変わっているだけですね。

 

もっと穏やかなものだと、読書や音楽や考え事なんかも、その作用は同じかもしれません。

 

とにかく変化や刺激のない精神状態に身を置くことが苦手になっている我々は、どうにかして心に波風を立てようとします。

 

外からの情報や刺激を入れず、部屋でコチコチ鳴り続けるだけの時計の音をひたすら聞いてるのってナカナカに苦しくて、まぁ長いことやってられるもんじゃないです。普通は。

 

でも「今の幸せ」を感じるって、そんな心のあり方に近いような気もします(つまりそれくらい難しい)。

 

 

また逆に、意識を感覚(今)に引き戻すような日常の中の「面倒」や「煩わしさ」みたいな要素は嫌われて、世の中からどんどん遠ざけられます。

 

情報過多の害悪に比べるとあまり注目もされてませんが、僕はこの社会の病的な合理化という側面も中々大きな問題という気がしています。…が、コレはコレで個人的に言いたいこと沢山あるので、今回ははしょります。

 

 

感情を動かす刺激をひたすら与えられ、今そのときの体の感覚に戻る機会をとことん奪われるという、ちょっとコワい感じの環境に、我々は暮しているんですね。

 

現状を見つめ直すとか、今の幸せを感じるとか出来なくて当たり前な感じがします(でもアール座のお客さんは普通よりこの能力が高そう)。

 

そんな人の心の特性を我々のあらゆる不幸の原因とする考え方が古くからあって、仏教の座禅やそのルーツのヨガ瞑想、中国の気孔なんかもその例です。

 

「思考や感情は今この現状をありのままにとらえず、それに意味づけをしたりこだわったりすることで心の安定を奪い、それがあらゆる不安の引き金になる」という見方から、それらを手放して今ここにある感覚に意識を向けて心の充足をはかるというテクニックなんですが、情報も経済も大したことなかった時代からそんなのあるんですね。

 

ホモサピエンスって意外と賢い。

 

さらに最近ではこの「今」「ここ」に意識を持ってくることの重要性がよりさかんに言われていて、瞑想を基にした「マインドフルネス」というワードもよく聞かれるようになってきました。

 

ヨガや仏教ルーツのノウハウが臨床心理学に取り入れられて体系化され、欧米を中心に企業やアスリートの世界にまで広まっている、ざっくり言うと心の安定や効率化に大変有効なメソッドで、まぁ流行ってます(調べたらすぐ出てくる)。

 

ヨガ瞑想に近くて、とにかく一定時間、雑念を減らして行って思考を鎮め、ひたすら呼吸とか身体感覚の方に意識を向けていくトレーニングみたいなものなのですが、僕もコレやってみて色々な手応えを感じるし、もっと極めたら本当に意識や体質まで変わるんじゃないかとも思います。

 

別に今回、コレをおすすめする話じゃないのですが、アタマから雑念を消し去るような座禅に比べると、ずっと入りやすい形にもなってます。

 

でもね、じゃあ出来るかって言うと、やっぱり最初はなかなか思うように行きません。

 

今ちまたではコレが「難しくない」などと盛んに言われるので、余計に声を大にして言いたくなるのですが…意識を「今」「ここ」に持ってくるのってとっても難しいし、意外としんどい!

 

心静かな状況に置かれると、大脳が盛んに動きたがっているのが、ことさらハッキリ感じられます。

 

特に僕、ちょっと病的に考え事しちゃうタイプ(なんか分かるでしょ)なので、静かに瞑想なんてやろうとするとモノすごい力で雑念に持っていかれちゃって、そうそう今(感覚)に留まってなんかいられないです。

 

でも、そんなのって僕だけじゃない気もします。

 

あの瞑想中の時間が止まったような静かな感じって、きっと多くの現代人が苦手な所なんじゃないかと思うんです(アール座のお客さんは違うかも)。

 

この理由のとして、さっきの「人の気持ちは恒常的なモノから離れて波風に向かう」という特性や現代社会特有の刺激中毒がある気がします。

 

頭脳労働が多い上に情報依存の現代人の頭の中って、ひっきりなしに回転し続けているのが通常の状態なので、きっと静寂が落ち着かないんだと思います。

 

瞑想状態って親しめると大変に心地良いひとときのはずなんですが、こういう時代の日常感覚に慣らされた我々がそのままの感覚で挑もうとすると、あの非現実的な静かな時間ってなぜだか逃げ出したくなるような気持ちになったりするものです。

 

何でそんなにしてまで、考えていたいんでしょうね。

 

僕なんか、あわよくば徳の高いお坊さんみたいに完全な無になって、飛んできた小鳥が肩に留まる位の心持ちになってみてぇ〜とか本気で思ってるのに…(しかも瞑想中にコレ考えちゃう)。

 

 

実は時々、僕みたいな雑念人間にも自然とそんな状態になる時があるんです。

暗めの話するので、今ウツっぽいヒト気を付けてね。

 

それはいつも、睡眠が浅くて、明け方にうっかり目を覚ましてしまった様なときに起こるんです。

 

何だか寝つけないなぁ…と、まだ白い薄明りの室内で半身を起してボーっとしているのですが、どうにも頭がボケてて、妄想エンジンが完全に止まっちゃってるんです。

 

こんなときは身体の感覚が格段に敏感になっていて、室温やら自分の呼吸やらが明確に感じられ、一切の思考が飛んでしまっている、いわゆるレベルの高いマインドフルな状態に自然となっちゃってるんですね。

 

そこは薄明りと静寂の中で、極上の爽やかさと心地良さがあるのですが、同時にそれを凌駕するほどの強い寂寥感に包まれているんです。

 

どう説明するか難しいのですが、自分がいつも生きているこの世界のナマの感覚に久しぶりに気付いたような心持ちで、逃げ出したくなるような辛さを伴う無常観と言うか、孤独感と言うか…「とてつもなく寂しい場所に閉じ込められるように、今自分は生きて暮らしているんだ」という心境になるんですね。

 

僕は基本一人が好きなので、普段、寂しくなるっていうことがあまりないタイプなんですが、この時ばかりは違っていて、逃げ出すように考え事を始めると、亡くなった人々や自分が幼い時の記憶、年老いた周囲の人々や人類の歴史のことまで思われて、こうしてこんな世界にたった一人降り立って、消滅に向かってあと何十年も生きていかなければいけないという事実が、何とも長く辛く寂しいこととして感じられるんです。

 

思うにこの感覚って、我々が普段色々な刺激や考え事で必死に覆い隠そうとしている、本当の現実感のようなものなんじゃないかと思うんです。

 

雑念大王の僕なんて、普段は思考でこれを強く麻痺させているからこそ、あまり寂しくならないのかも知れません。

 

でも現実には、人間ってみんな一人ぼっちで生まれてきては何十年も色々悩んであがいた末に、結局一人ぼっちで死んでいきます(命も意識も誰かと共有は出来ません)。

 

一人ぼっちの意識の世界で何十年も楽しんだり苦しんだりした挙句、その全ての思いも行動も間もなく衰え、やがては自分の存在すら跡形もなく消滅し、忘れ去られてしまうという事実が我々の人生です。

 

これこそ、この世を生きる者が最初に抑えるべき現実で、頭は忘れていても体はよく分かっていることなんだと思います。

 

で、瞑想って何だかこの実感につながってしまう気がするんです。

 

この当たり前のことがすごく寂しく感じられるのって、きっと普段それを忘れて興奮気味に過ごしている反動みたいなもので、お財布なくしたときみたいに思い出されるモノなのかも知れません

 

いつも朝方そんな風になると、僕は抵抗を諦めて寂しい気持ちのままその事実を受け入れ、「じゃあ残りの数十年、何をしてから死のうかな」「別に何もしなくたっていいんだけど、どうせなら何かしとこうかな」「自分は何がしたいのか、明日起きたらよく体に聞いてみよう」という位の、あまり前向きでもないけど割とサッパリした心境になって、また眠りにつくんです。

 

苦手な僕が言うのもアレですが、瞑想状態って、そんな風に我々の身体が常に置かれているある種聖域のような場所(頭が必死にそれをごまかして忘れている間も)に重なっていて、「ここに生きている」という現実に直面させられ、「ここで一人生きていく」という覚悟を持たされるような作用を伴う気がするんです。

 

騒がしい夜の町から一人で部屋に帰って来たとき、ふとあの「自分が今一人ぼっちでこの現実の中に産み落とされ生き長らえている」という逃げられない事実が心をよぎりそうになるから、よぎったら嫌だから、人は慌ててTVをつけるんじゃないかなと、僕は勘ぐってしまいます。

 

幸いなことに(?)この社会では意識が今ここに居なくても済むような感情をあおる刺激物で溢れているから、普段人々は感情や思考をさかんに動かしつつ、「今」「ここ」に存在していることにフタをしたまま暮らしていけるんだなぁと感じるわけです。

 

暗…。

何だこのブログ。

 

まぁ僕はそんな理由から、瞑想とかやるときには難しくない気楽な日課のように考えるよりも、むしろ神聖で特別な領域に挑むくら

いの気持ちで入る方が上手く行ったりもします。

財布二回なくしたやつが何言ってんだか…

 

アプローチは人それぞれですが(というより普通はもっと気楽に力を抜いてやる)、こんな社会では本当に有効だからこそ見直されている瞑想系のプロセスは、心が疲れてしまう方にはぜひお勧めです。

 

また、専門的にヨガやマインドフルネスまで行かなくとも、考え事がてらその入り口辺りまでの心境になれるような場所も東京にはあります……よね!

 

アール座読書館は基本的に割と静かめな心の波風の方(読書や妄想や現実逃避など)を楽しんでもらえるお店ですが、かえって瞑想なんかにも非良い環境なのは言うまでもありません。

 

そしてそのつもりがなくても、最初ちょっと「今」「ここ」に引き戻されるような造りになってたりもします。実は。

 

頭を使う妄想や想像や現実逃避も、最初だけちょっと感覚を開いてそんなに聖域に軽く触れてから入ると、少し質が違ってくると思うんです。

 

ただ、使い慣れてる皆さんにはこのシステムの効き目が実は薄いので、ご自身でもやって頂ければと思います。

 

お席についたら少しの間感覚を開いて、気温や湿度、物音、肌に触れるもの、目に入るもの、味わいや匂いなんかを軽く気にしてみて下さい。

 

五感や直感で捉える感覚というものは全てその場その時にリアルタイムで起きている現実で、人の思いと関係ない素のままの要素です。

 

頭の中に生じる感覚以外の要素(過去や未来の事柄、出来事の意味付け)は人にはとても大切なものですが、言ってみれば感情や思考で呼び起こしている、かなり主観的な幻みたいなものです。

 

先ずは感覚の方だけをそのまま感じて下さい(僕あまり出来ないけど…)。

 

それだけ。

 

店内空間は非常に感覚に戻りやすい(戻るのが心地良い)環境になっておりますので、上手くいけばそれだけで「今」「ここ」に意識が置かれて、考えごとしながらアーケードを歩いていたさっきまでの日常感覚を一旦切ることが出来ます。

 

もしそれで難しければ、「今日の自分は何かこんな気分だな」とか「職場をやめて、引きこもってからもう2年か…」とか、思考で持っていってももちろんOKです。

 

それでもダメなら、いっそビジュアルイメージを駆使しつつ、宇宙空間の無数の星々の中の一つを凄い速さでクローズアップして行き、その星の内側の方の軌道を回る青い惑星の雲の下の一番大きな大陸の東にある細長い島の折れ曲がった真ん中ら辺の海側の土地の一角の中央を縦断する鉄道路線のちょっと脇…と銀河からアール座店内の座席に座る自分の姿までイメージを誘導して、今の自分を超俯瞰から捉えることで強引に日常感覚を切り替えてみたり…しないか…。

 

まぁ何でもいいのですが、最初のこんな切り替えは、意外とアール座時間をより濃くするコツだったりもします。

 

説明すると、今ここに生きてるという感覚にちょっと触れてから入る現実逃避や空想というものは、ただ思いをめぐらすだけの糸の切れた凧みたいな妄想と違って…ややこしいな…やっぱもうやめとこう。こんなこと説明しなくていいや。

 

後は現実逃避でも物語の世界にでもどっぷり現実に悩むでも妄想でも、お好きな静寂にどうぞ。

 

でも、糸の切れた凧みたいな妄想というのも素敵だ…。

 

 

 

 

 

 

 

category:今月のおすすめ | by:アール座読書館 | - | - | -

PR
Calender
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< December 2018 >>
Selected entry
Category
Archives
Profile
Search
Others
Mobile
qrcode
Powered
無料ブログ作成サービス JUGEM