アール座と中央線文化

2020.03.10 Tuesday 02:52

皆様、明けましておめでとうございます!

今年もよろしくお願い致します!

 

だって今年初更新!!!

 

悪びれもせず春先に新年のご挨拶するパターンが恒例になってきましたが、おかげ様でこのお店も12歳になりました。

 

昔からのお客様から新しいお客様まで、ご理解ご協力頂ける皆様にご利用頂き、支えられているアール座読書館です。

 

特にウチのようなお店は、相性の良いお客様の存在が命なんですね。

 

いつも本当にありがとうございます。

これからもずっとお友達でいてください!

 

いつも、何かしらでお店の情報が出回ったとき等は一時的にお客さん数が増えるのですが、こんな店ですので、そういう時期には合う方も合わない方もご来店があって、「何だここ?(苦笑)」という感じの方もお見受けしますが、僕はこの店にはそんなことも沢山あっていいんじゃないかと勝手に思ってるんです。

 

いつも行かないような場所に行ってハズれるとか、何だ?変な店だな…とか思うことって、すべてがスムーズに進む世の中ではとても良い方のことなんじゃないかと、お節介心で思ったりしてます。

 

そして少し時期がたって落ち着いてくると、その中でこういう場所にハマるタイプのお客様が新しいリピーター様として残られ、その後も引き続き使って下さるようになるんですね。

 

そんなことが継続の命になっているお店ですので、この方向性を死守することが何よりも大事なことなんじゃないかと考えています。

 

普通お店というものは、なるべく多くのお客様に照準を合わせて方向性を決めていくものなんですが、この辺がうちみたいな店の難しい所です…。

 

 

そんな中で時々感じるのは、この店、立地が高円寺で本当によかったなぁ、という思いです。

 

アール座は昔から「高円寺っぽい」とも「高円寺っぽくない」とも両方よく言われるのですが、多分それぞれ、独自路線の店というイメージと庶民的で砕けた感じじゃないというイメージからのご意見なんじゃないかと想像してます。

 

取材などで「高円寺に出そうと思った理由は?」という質問を良く受けるのですが、実を言うとこの土地を狙って出店したわけでもないんです。

 

物件探しの際には下町側から多摩方面まで東京中を何ヶ月もかけて百件くらい探しました。

 

なぜそんなに苦労したかというと、物件を選ぶよりも先に内装のイメージが出来上がってしまっていたからなんですね。

 

これって多分先にやっちゃいけないんです。

 

きっと順番的に、箱に合わせて後から構想をするべきなんですね。

 

先に作ってしまったイメージがキレイにハマる空間を、諸条件も合わせて探し出すのって至難の業になってくるんです。

 

で、苦労しましたが、幸いにして見つかりました。

 

当時コンクリート壁のスケルトンだった今の物件に足を踏み入れた途端に、バシッと内装イメージがはまって、瞬間的に「ああ、ここになるな」と感じたのですが、結果的にそれが高円寺の物件だったという次第なんです。

 

決まってから、「ネルケン近!」と気づいたくらいです(昔から憧れのお店でした)。

 

そして決定したときには全く意識していなかったのですが、結果的にこの街に出店出来たことが店にとってものすごく優位に働いたんじゃないかと、今では感じています。

 

ぽいとかぽくないとか言われますが、実は高円寺ってものすごい間口が広い場所で、ある種、どんなタイプのものでも受け入れてくれる懐の深さみたいなものがあるんですね。

 

東京のインドとか言われますが、でも、やたらとクセが強いだけじゃないんです。

 

中央線文化全体に言えるところと思うのですが、とにかく受け入れが広く、逆に言うと他の街だと難しいような店が成立してしまう部分もあって、個性的な店が集まった結果、その側面が目立ってくる、という感じにも思われます。

 

かつて、地価がハネ上がる前の下北沢や吉祥寺(ジョージと呼んでた)も、個人経営店いっぱいあって中々雑多だったんですが…今となってはそういう街は貴重ですね。

 

歴史的には、かつての東京は中央線側に軍人や政治家が、世田谷方面では資産家や財界の人達が居住して影響力をもっていたそうで、意外と文化的な趣味のあるネクラな軍人政治家の気質が今の中央線文化のイシヅエになってるという話を耳にしたりします。

 

東京人っぽさと一口に言いますが、細かく見ると都内でもエリアによって本当に人種が違うんですよね

 

昔、店舗を持たず、車でお弁当の移動販売をしていた時代があるのですが、その頃には都内のあちこちを転々としつつ、ひたすらこれを感じておりました。
 

概していうと、何となくスマートな感じの人が多いエリアって、変な人が少ないです(当たり前?)。

 

東京って、エリアによって、異質なことの受け入れに関する態度にすごく差があるんですよね。

 

僕は東京の住宅地生まれですが、これは昔から強く感じる所で、同じ杉並区であってさえ、中央線側と井の頭線側(生家はこちら)で明らかに人のタイプが違います。


この店を出した頃は下北沢の街中で、何の不都合もなく暮らしていたのですが、子どもが生まれ、生活が変わるのに合わせて西荻窪の近くに越してきました。何というか、ああいう場所は子供とか育てるの難しいんです。

 

で、やっぱり違うんですよね。高々数キロ離れただけで…。

 

越してきた頃驚いたのは、仕事帰りの夜道などで、歩きながら普通に歌を歌ってる人がすごく多いんですね。北沢もまぁいたけど、数が違う。 

 

鼻歌じゃないですよ。

結構な熱唱。 

 

若い男の子がしっかりお腹から声出して「OH〜シャンゼリーゼ〜♪」とか、もう選曲だってズバ抜けてます。

 

「カラオケいらないじゃん…」とか思いつつ、最初の頃は軽く衝撃でした。

 

当時いた西荻在住のスタッフにその話をした所、平然と「ああ、そうですよ ようこそ」と涼しい顔で微笑まれ、絶句していたものです。

 

一度帰り道に、自分の前方と後方から別のシンガーがそれぞれの歌を唄いながら歩いて来たときがあって、小心者の僕は「この二人が交錯したとき一体何が起こるんだろう?!」と手に汗握ったのですが、別に二人とも相手のことなど意にも介さず、ただ普通にすれ違って行きました(そりゃそうだ)。

 

遠ざかる二つの歌声の間で、「中央線だなぁ…」と、その生き様に感心したものです。

 

そして最近では、自分自身の鼻歌も段々と大きくなっているのに気づいたりする今日この頃です。

 

すごいぞニシオギ!

 

「こわ…」と思う人もいるかもですが、僕はこういう感じ、とても健康的と感じるんですね。
 

変なことが許されるというか、他人が何しようがどう思おうが、誰も気に留めていない感じ。 

 

エリアによってはそういう行為が絶対に許されない空気の住宅地もありますよね。酔っ払って歌ってる人はいるけど、それと全然違う。

 

きっとそんな地域では、歌うタイプの人でも空気を感じて歌わないのかな、とか、結局あまり居心地もよくないので集まらないのかな、とか思ったりします。


 

ユングの性格分類に外向型気質と内向型気質という分け方があって、ざっくり言うと、社会の価値観に自分の考えを合わせていくタイプの人と、周囲よりも個人の価値観を優先していく傾向の強い人という感じのタイプ分け論です。

 

人の目線や人にどう思われるかを気にする度合いの話とも取れますが、ウチのお店なんかはある種、自分の世界に入り込んでいくような場所なので、圧倒的に内向型気質の方に合うように感じます。

 

マジョリティ志向の強い外向型の人だと、こういう特殊なルールに合わせることを気恥ずかしく思ったり、「ナニココ?店員さんも小声… ププ」ってなったりする方も多いみたいで、僕なんか、むしろそういう人にこそ自分を振り返る時間を提供したくなっちゃうんですが…。

 

こういう店で、椅子にもたれて目を閉じて、本当に上手にくつろがれる方々の姿を長年見ていると、人の本当の充足や満足って、決定的にその人の内側に存在しているように思えてきます。

 

外側である世の中の価値や基準や順位って、幾ら合わせて追っかけても、何だかキリがなくて、本当の意味で心が満ち足りて行かないんですよね。

 

むしろ、人を追い詰めていくことが多いように思えます。

 

特に今みたいに情報発信が激しい時代では、日本人の気質も相まって、恥ずかしいことやヘンであること、外れる(外される)ことへの恐怖が異常に高まってきてますね。

 

しかしだからと言って、社会やマナーをかえりみることもなく、社会性も客観性も欠けた一人よがりの姿勢に固執してしまってもいいのでしょうか?

 

元々「中央線系」というタイプでもなかった僕ですが、そこに店を出して12年、住み付いて7年にもなると、そんな疑問にも、もう堂々と答えることが出来ます。

 

ああ、そうですよ。いいんです。 ようこそ。

 

この辺もう少し突っ込むと、自分と他者のとらえ方みたいなややこしい話にもつながるとこで、最近僕がよく考えることなのですが、また長くなるので今度にしますね。

 

高円寺の一大イベント「阿波踊り」の日に休業してしまうようなハズレたお店ですが(だってムリなんだもん…)、この街の恩恵をしっかり受けていることを日々感じております。

 

とにかくこういう地域文化は大事にしたいなぁ…というお話でした。

 

これを読んで頂いた皆様は、明日からお仕事の帰り道に、きっと思い思いの歌を大きな声で歌い上げてくださると

信じております。

 

でもお店では歌わないで!

 

シャンゼリゼ通りね。

 

 

 

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昼のアール座と白昼夢のすすめ

2019.10.19 Saturday 02:12

 

寒いですね。

 

空気が冷え、虫の声も少しずつやんできて、本格的な秋の深まりを感じさせます。

幻想的な時間を多く過ごせる季節ですね。

 

というわけで、今回のテーマは「白昼夢」です。

どういうわけだ!→時候の挨拶から自然にブログテーマにつなげる文章に失敗しました

 

何というか、昼間にぼやーっとすることの効用みたいなお話です。

 

人にすすめるようなものなのか甚だ疑問ですが、取り得のない僕がおすすめ出来る数少ない得意分野なので、許してください。

 

「白昼夢」と言うのは、昼間目覚めているときに見る空想や妄想が進んで、現実感が失われ、まるで夢の中にいるような感覚にとらわれるようなひとときのことですよね。多分…(僕なりの解釈)。

 

元々は英単語のデイドリームの訳なのかも知れませんが、白を入れるところがなんかおしゃれです。
 

で、僕、昔からこれ得意でした…と言うか、ヒドかったです。

特に若いとき。

 

どちらかというと僕の白昼夢は、その場の現実と全く関係のない思考に入ってしまうとかよりも、目の前にある何かにインスパイアされて、そこから非現実の方に飛んでしまう、というのが多かったです。

 

若い頃はこれに随分と悩まされました。

こういうのって、するべきじゃない時に始まっちゃうと非常に困るんです。大概そうですがね

 

レストランバイトで、死ぬほど忙しい時間帯にカトラリーを揃えながら、ふと「フォークの先端ってどうやって作るんだろう?」とか思っちゃうと、もう終わりなんですね。

 

一刻を争うようなオペレーションしながらも「型に流すのかな?」「いや、熱い内にびよーんって引っぱるのかな?」と、どうやっても妄想が止められないんですね。

 

鋳造工場の映像が現実の光景を覆い隠すように思い浮かべられてしまい、それを見ながら仕事するので、まぁ集中力が落ちてミスが増えるワケです。ちょっと多動っぽい気質もあるのですが…。

 

で、怒られてヘコみながら「この手のバイトは一番向いてないんだよ、おれには…」なんてクサってました。

 

まさか一生やる羽目になるなんて、この青年は夢にも思ってません。

 

あれ、おすすめになってない。

 

でも、思えば僕のこれはもう子供の頃からだったので、きっと気質というやつなんでしょう。

その頃は日常的に、耳鳴りは宇宙人からの交信だと思ってましたし、天気雨は地球滅亡の予兆でした。

 

学校帰りに、強風に吹かれて波打つ竹やぶの風景が苦しそうに身体をうねらす緑色の巨人の群れにしか見えず、うめき声まで聞こえてきてしまったので、思わずその場に座り込んだままかなり長いこと(多分一時間位)それを眺めていた思い出は、僕の小学校時代の全記憶の鮮明度ランキング1位かも知れません。

 

妄想が鮮明度で現実をおさえて1位というのがもうヤバいのですが、現実の意識にいた時間との比率が逆転していたんじゃないかと思うくらい、妄想の中に生きておりました。
こんなんで、よく変質者に育たなかったものだと感心します。

 

そんな子供時代を過ごした僕も、さすがに立派な大人に成長してからは、乗っている地下鉄を銀河鉄道にして宇宙に飛ばしたりとか、もうタマにしかやりません。窓の外が暗いのでやりやすい

「この車両では僕しか気づいてないみたいだけど、このあと到着する九段下は以前君達がいた世界とは別の世界の九段下なんだよ ようこそ」などと、他の乗客たちに心の中から優しく語りかけたりしています。変質者じゃねぇか

 

やばい。ぜんぜんおすすめになってないぞ。

 

まぁ僕くらいのレベルになると、日常的に、絵空事を思い浮かべてそっちの世界に飛んじゃうのとかたやすいのですが、例えば夜空に浮かぶ「月」なんかは妄想初心者の方にもおすすめのモチーフですよ。あれ?誰もついてきてない?

 

だって、あんなすごい現実の物体を「あ、月出てるぅ」なんてアホみたいに見ていてはいけません。

 

考えて見るとあれってものすごく非現実的な存在だと思うのですが、意外と誰もそのありのままをちゃんと見てはいなかったりします。

 

さあ、妄想力をかき立てましょう。マズい…ついてきてない…

 

我々はあれが地球の衛星であることを知っていますが、でも普段の実感としては、意外に平べったい丸や弓形として見ているんじゃないでしょうか。

 

ならばいっそ本当に舞台装置のお月様みたいにべたっと貼ってあるように思って見てみると(上手くリアルに想像出来ると)、ちょっと不思議な感じがします。

 

それが貼ってある空全体が暗幕みたいに見えてきませんか?眼鏡コンタクトは外して、視界をぼやかします

 

するとその後ろに拡がる別世界があるように思えてきて、何だか神様の世界が裏側に存在しているみたいに感じてきます。

 

裏の世界を空想するんじゃないですよ。目の前の夜のとばりをそういう実態として感じつつ見るんです。


暗幕暗幕ぅ〜はい見えてきたぁ〜!

だめ?がんばれ! あ、そう…だめ…。

はいはい。分かりました。逆切れ

 

じゃあ逆に空に浮かんだ球体と見てみましょう。

 

もちろんそれは全く科学的な見方でもあるんですが、でも我々は感覚的に、意外とそうは見てなかったりするものです。

 

だって空中にあんなバカでかい球が浮かんで光ってるって、かなり非現実的な光景でしょ。 

 

本当に満月をこの目線で見ることが出来ると「うわわ ヤバ…」みたいな感じになりますよ。

「そういえば夜いつもあるけど…一体何なの?あれ…」って感じ。

 

地球に迫り来る巨大な小惑星みたいにも見えて、ちょっと冷や汗かく程の迫力を味わえるんです。こっちは眼鏡かけます 

 

月が巨大な球体である、ということを僕らはよく知っているような気になっていますが、実の所、普段はそんな風に思って見ているワケでもないんですね。

 

頭の知識と体感の違う所ですが、実は幻を見るようなぼやーっとした感覚の方が、対象をリアルにとらえていたりもするんです。

 

ね、ちょっと「おお!」ってならない?

 

これ出来るくらいの人はさらにレベルを上げていくと、もうすっかり白昼夢のとりこです。

 

丸尾末広みたいに「あれは空に丸く開いた穴だ まぶしい向こう側の世界の光がこちらに漏れてきているのだ」なんていう狂気レベルの発想も自由自在です。

 

ようこそ。

 

ところで今、重大なことに気が付きましたが、月が出ている夜にするそれは、果たして白昼夢と言ってもいいんでしょうかね?知るか

 

 

あと、その白昼夢のちょうど逆で、明晰夢というものもあります。

聞いたことありますでしょうか?


現実の中で見る夢が白昼夢なら、明晰夢というのは睡眠中に見る夢の中で我に返るようなことです。

 

これちょっと検索したら、今は意外と注目している人もいるようで、まとめサイトみたいなのまで出来てました。

 

経験ある人無い人が分かれるかもですが、僕、子供の頃こっちも得意でした。もう現実じゃない世界に生きた方がいいのかも…

 

ときどき夢の中にいて「あれ?なんかおかしいぞ?コレってもしかして夢じゃないの?」みたいな意識になってくるときがあったのですが、これをいつも意識していると、割と頻繁にそういうタイミングが訪れるようになってくるんですね。


ただ、なぜかその意識はあまり長続きせずに、大抵ちょっとして本当に目が覚めるか、もしくは再び無意識な夢の世界に没入していくかしてしまうのですが、おそらく比較的眠りの浅いレム睡眠の中で、眠りと目覚めの意識が交錯して起こるひとときの現象だからなのでしょう。

 

大人になってからあまり見なくなりましたが、子供の頃の僕はこの「夢だと気づきながら見ている夢」というものをかなりの頻度で見てました。

 

で、そんな時に誰でも思ってしまうのは「夢の中なら何だってやりたい放題じゃん いひひひ」という悪魔の欲望だと思いますが、幼い僕も当然のようにそう思ったんですわ。

 

ところが最初それを思ったとき(夢の中で自分の家にいました)「せっかくだから現実では絶対出来ないことをやってやろう!でも何しよう?」などとあせって、思わずやってしまったのは、あろうことか「家の二階に駆け上がり、服を全部脱いで窓から飛ぶ」という最高にイカれた行動でした。

 

しかし、その結果、なんと本当にそのまま真っ裸で町の上を飛び回ることが出来ちゃったんですね。

 

起きたときの満足感が忘れられず、それから夢の中でそんな気づきがあると、いつもそれをやる感じになっちゃいました。夢って便利で、階段上がらなきゃと思うと階段が現れます。

 

「あ…来た!今だ!」ってなると、もう習慣化されたように、わぁ〜って服もパンツも脱いで、とにかく二階に駆け上がってました。夢の中の話ね

 

で、そのまま、わぁ〜って言って窓から飛び出して、飛べちゃうこともあるし、わさわさーって森の木々の葉の中をゆっくり落ちていくとか違うケースもありました(これも楽しい)が、不思議とズドンと普通に落ちて、いたた〜ってのはなかったです。

 

だって他に思いつかないもん。その場で出来る、現実には絶対出来ないこととか。

 

でもこれ出来るようになると、ちょっと楽しいですよ。

夢の中で「あれ?これって…」と気づくときがあったら、ただ思ってないで、まず意図的に動いてみて下さい。

で、もっとマトモなことして下さいね。

 

僕のは子供の頃の発想なのでギリギリ許してもらえそうな話なのですが、何を隠そう、大学生になって久しぶりに明晰夢を見たときにも、何かしなきゃとあせった末に、ついこれをやってしまい、目覚めてから頭を抱えた経験があります。 

 

「夢とはいえ、もうコレはさすがにダメだ」「次はもっと別のことしよう」「何しよう?」なんて考えた記憶がありますが、なぜかその頃からはあまり明晰夢を見た記憶がありません。

 

きっと、これでよかったんだ。

さようなら、明晰夢。

 

クソどうでもいい話で30行使ってしまいましたが、明晰夢も白昼夢も、覚醒している意識とボヤーっとした幻のような意識が同時にあって、この中で思いのままになされる心理作用であります。

 

この現実と幻の二重構造が織り成す不思議な感覚こそ、僕が白昼夢を愛した要因でした。なんかこんな風に言うとカッコいいな

 

それは必ず、細部への意識がクリアでない、何となくぼやーっとした感覚の方にいるときに起こり、ハッと我に返ると急に味気ない日常に戻ったように感じたりします。

 

映画を見終わって、映画館から昼の町に出てくるときに感じる、あの感覚に似てますね。

ああ、また日常だ…っていう感じのね。


素面(しらふ)という心理状態がありますね。

 

ハイな状態と比較するとよく分かりますが、素面の状態はとにかく理性的で、目の前の物事が細部までよく見えていて、また行動や思考にもちゃんと抑制が効いている感覚があります。

 

だから普段、我々は裸で窓から飛んだりなんかしないんですね。

 

逆に、それが弱まる身近な例として「深夜のテンション」というのがあります。

 

誰かへの感情が高ぶって強い筆跡で書いた情熱的な手紙を、翌朝恥ずかしくなって丸めて捨てるという、何とも人間的で愛すべきあの一連の行動は、そんな意識の移り変わりのなせるわざです。

 

そんなときに要注意なのはやはり書き物でしょうか。

思いが強くなって、みんな多感なポエマーになれます。
 

僕はこの手のことはそうそう恥ずかしくもない方なのですが、以前実家で、多分中学生の頃、夜中に書きなぐったと思われる、大人になる前の決意表明みたいな箇条書きの文章が出てきたときは鼻血出そうになりました。

内容は死んでも書きませんが、全ての文章が、オレはで始まります

何だ。笑うな。

男の決意表明だぞ。。
 

あと夜中は大勢で盛り上がったりするのも危険ですね。

 

昼なら全く面白くないような話や言い方がバカうけして、なんかみんなしてあるキーワードにハマってしまい、それを口々に言いながら笑いが止まらない、なんていう異常事態が起こります。

 

もちろん次の日には、あんなにウケたその言葉を口にする人はもういません。

なんとなく皆で気恥ずかしそうな空気を共有しながらも、無かったことにしていきますね。

 

ちなみに僕はこういう時だけは妙に冷めていて、大体皆のノリについていけずに、端っこで顔だけニヤニヤさせていたクチなので、翌日はノーダメージです。

でもこういうのって、わざと持っていこうとしてもなかなか出来るものでもないですよね。

こちらの意図とは関係なく、時間帯とか空気とかに持っていかれるものです。

 

「二時五十分」と言う時刻を、人が最もおかしなテンションになるタイミングとして、その名に冠したハイテンション芸人さんがいますが、昼間に意図的にあのテンションを再現するのって、きっとプロの仕事ですよね(完全にはトンでない)。

 

番組中のあの人の出番がいつもショートコーナーなのって、それが長くはもたないからなんでしょうか。3分間のリミットを全力で戦い切るウルトラマンみたいでカッコいいです。
 

しかし普通、あのテンションは夜更けと共に向こうから悪魔のように訪れてきます。

 

脳生理学的な解釈では、日中活発になる前頭葉の機能が深夜帯には低下するので、思考に対して理性的なコントロールが失われ、感情的で情緒不安定な状態になる、みたいな話になるようです。
 

これ思うと、ダウナーの方もハイと同じ原理なのかな、と思えて来ます。

 

夜寝ながら悩んでる事とか考えるとロクな方向に行かないのもこれなんでしょうかね。

 

そういえば子供の頃って、今ほどは昼も夜も大差なかった気がしますが、きっと大人になると、理性的な感覚で世界を見る素面の方の意識がしっかりと形成されてくるから、この二つの心理状態にはっきりとした差が出てくるのでしょう。
 

冷めてる時には出すぎたことをしない恥ずかしがり気質の日本人も、この辺のギャップが大きいですね。

 

 

逆に感情的な熱量というものが必要なアートや創作、表現に関しては、深夜テンションで進めた方が効果的だったりもします。

 

深夜でなくとも、普通は暗い室内とか落ち着いた場所とか、社会から切り離されたような環境でそういう心境に持って行きますね。

 

ファンタジー色の強いウチのような店の企画を考える時でも、やっぱり昼間は意識が社会的になっていて、どっかこもったりしないと、突飛なことが思いつけません。

 

瞬間的に発想が現れても、すぐに「で、それが何なの?おれ一体何やってんだろう?」ってなりやすいです。「引き出しにジオラマ…」「で?」ってなっちゃう

 

このブログも深夜にまとめることが多いので、多少恥ずかしいこと書いちゃうこともありますが、まぁ熱量や情の起伏が入る所が良いことだと思っています。
 

ただ、そういうやり方ってバランスがムズいです。

 

冷めた意識で作成された平坦な言葉の詩なんて、きっと誰の心も打たないでしょうが、逆に感情が暴走したような、素面とかけ離れたレベルの表現も人の心から離れてしまいそうですね。

 

難しいのは、人の心に訴えかけるような表現をアウトプットする段階では、素面だと恥ずかしくなるくらいの熱量が必要ですが、実際に出来上がった作品が鑑賞される時は、大概、素面の状態の人々を相手にすることになるんですよね。

 

お髭を生やした格調高い芸術家先生も、創作中は中学生位の理性になってるんでしょうか。


しかしそんな風に生み出された芸術作品には、それを鑑賞するのが日中の日常的な感覚の中であるにもかかわらず「一体今の自分は何を生きてるんだ」みたいに、ハッと目を覚まさせるような傑作というものが存在します。

 

こういうときの「我に返る」は夢から覚めるのとは逆の表現で、現実の側から自分の意識の方に目を覚ますワケです。

 

これってアートの凄さですね。

あの真昼間の強力な現実から、力ずくで引きずり出されちゃうんです。

 

そう言えば映画館も美術館も窓が無いですが、あの昼か夜か分からないような密閉空間という環境も、それに一役買ってる気がします。

 

どうしたって昼の外の光景って変なテンションにはなりにくいですね。

視界から入ってくる光の強さが大脳の覚醒に影響を及ぼすからということもあるでしょう。

 

まぁこういう科学的な説明って自分で発見したものではないので、僕はあまり実感を持たないのですが、もっと個人的に感じるのは夜の風景の印象についてです。

 

特に街中では夜景の方が圧倒的に幻想的で絵になるし、どこか現実を遠目から見せて、感傷的な気持ちにさせる力があります。

 

それにホラ、夜って、風景の後ろに宇宙が見えるでしょう?

 

え?これ書いてる時間ですか?

今ちょうど午前2時半を過ぎた所です。

 

いやでもこれ、結構マジで言ってるんです。

 

夜空の存在って、科学的常識のある我々には「暗い宇宙空間にポカリと浮いてる星の上に今、自分は暮らしている」という、ある意味、社会的現実を遠目から見るようなファンタジックな実感を無意識にもたらしているんじゃないかと思うんです。

 

昼の空ってコレが見えないですよね。

だから我々が住んでいる環境の外側の広がり(宇宙)が意識されない気がします。 

 

さらにノイズも多いから、余計に自分の感覚や心の声が聞こえない。

 

無数の生活音の中で、明るく照らされた建物とか乗り物ばかりが目に刺さってくるので、自分が丸い星の上に暮らしているなんて思ってもみません。

 

そんなことよりも、身近な人間社会のこと〜今やらなければいけない差し迫った用事や約束、タスクのこと等〜がより強く意識され、それこそが向かうべき現実であると突きつけられます。

 

アール座の大きなテーマの一つである「現実逃避」の中で言う「現実」というワードはこちらの意味ですね。

いつもここで「ちょっと離れて俯瞰から見下ろす時間を作って欲しい」とお伝えしている、あのやっかいな現実たちです。


だからこの、現実を遠目から見せてくれる、夢の中みたいな夜の空気というものは、アール座読書館の方向性にも近いものがあるんです。

 

ノイズをカットして、自分の世界に没入させていく所、またその流れから、現状を俯瞰から見下ろす心境になる所も、とてもよく似ています。

 

そんな訳で、アール座も夜になると自然と空気が濃くなるわけで、当然夜はおすすめなんです…が、ただ、今回のおすすめはこっちじゃないんです。

 

そう、白昼夢の話。

あえてそれを昼間にやる必要性を力説します!

 

何のためにそんなことするのでしょう?

 

先程の、夢の中みたいな夜の光景から感じられる「暗い宇宙空間にポカリと浮いてる星の上に今自分は暮らしている」という何だか絵本の世界のようなファンタジックな意識と、日中感じている「社会生活やルール、避けて通れない差し迫った用事やタスク」という身近なリアルをちょっと比べて考えてみたとき、ホントの現実って果たしてどっちなんでしょうね。

 

ね!よく考えて!

どっちが現実でどっちが思い込み?!

 

昼間、我々が意識している現実世界では、社会に強いられる沢山の必要事項や沢山のルール、沢山の評価なんかが「目の前の現実」とされているので、我々の頭の中はもうそれでいっぱいです。


でももしも、執拗に自分を追い詰めてくるこれらの意識が、実は我々の思い込みで、勝手に作り上げてる世界だとしたら…平べったいお月様みたいなただのイメージだとしたら…なんて思う隙もありません。

 

現実に対するこういう疑問って、普段は挟む余地が無いから、我々は疑うことなくこれに追いかけられ続けているんですね。

 

深夜ならそれがよく分かります。

そういう現実が遠くに感じられる時間帯ですから、朝が来るまでの間は、我に返ることなく昼の意識を客観視していられます。

 

でもそれは夜明けと共に消えてしまうので、それらと対立することは出来ません。

 

こんな意識と対立し、場合によってはこれをぶち砕いてくれるのが白昼夢です。

 

前頭葉をバリバリに機能させながら現実に直面している、夜空の無い昼間に、ふわ〜って思い描いて、ふっと現実に返る…とかやってるのって、ものすごく視点を変えさせます。

 

あの強固に見える現実の城がちょっとずつ揺らいできたり、しまいには、それも沢山の白昼夢の内の一つなんじゃないか、みたいな気にすらなってきます。タマにはなった方がいいです

 

こういうのは、理性の生きている昼にやることで意識の変革につながるんですね。

夜更けの物思いとは根本的にその働きが違います。

 

さらにそんなセンシティブな心理状態から、今自分が星の上に住んでることや、たまたまこういうしきたりの社会に生れ落ちて、さぁその中でどう生きていこう、という自分の状況に思いをめぐらすことにまで入っていければ、それはもう人生の起点になるようなひとときにもつながります。

 

「白昼夢」それは人生の潤滑油です。

 

ええ、今ちょうど二時五十分です。

 

ただ、昼間にそういうことをするには特別な環境というものが必要でしょ。

 

そう。昼のアール座読書館って、そのために存在しているような場所なんですよ〜。お勉強カフェじゃないんですよ〜

 

何という喫茶店なんでしょう!

芸術作品と肩を並べる仕事です!ウソ。ホントは慣れれば家でも出来る。


どうだ!みんなお昼に使って

 

あ…で…平日ね!! それをするなら…

週末の昼は、もう混雑で、ちょっと空気がアレなんで…汗汗ごめんなさい

 

と言うお話でした。

 

どうしても長くなってしまうなぁ…。

夜中に書いてるからかなぁ…

とにかく皆様、ありがとうございます。

皆さんはいつ読んで下さってるんでしょう??これ、昼読んで大丈夫なのかな

 

あ、しまった!

今、更新のボタン押すと、2時50分に書いてます、とかウソ付いたのがバレる汗

まぁいいや。もう眠いもん。

 

ポチっと。

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価格改定と虫の声イベントのお知らせ

2019.09.21 Saturday 21:19

価格改定のお知らせ

 

恐縮ながら、この度の消費税率の引き上げに伴い、アール座読書館では10月よりメニュー価格の税込表示額を一部改定させて頂くこととなりました(一部のドリンクが20円の値上げとなります)。

 

ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 

 

今年も「虫の声」イベントが始まっております! 

 

現在アール座読書館では、店内にてスズムシ、マツムシ、コオロギ類など数種の虫を飼育し、その美しい鳴き声を楽しんで頂いております。

夕方以降の時間帯に良く鳴いています。

例年、10月初旬頃まで。

 

こちらにも詳しいご説明がございます→ブログ2018.9 2015.9

 お好きな方はどうぞ!

 

 

 

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バリエーションの魅力

2019.08.28 Wednesday 19:18

涼しくなって参りました。

今年も暑さのピーク乗り切りましたね。

皆さんお疲れ様でした〜。

 

例年ですと、もう鳴く虫の入荷を始めている時期ですが、今年は長雨の影響か虫の羽化も遅れているらしいです。

でももちろん今年も開催予定ですよ。

もうしばらくお待ち下さいませ。

 

お知らせしておりましたが、この8月でアール座の喫煙コーナーが閉鎖になります。

 

コーナーとか言っても、使う人も少ない手作りの換気扇装置で、あまり落ち着いた喫煙が出来るでもなく、また時々若干の臭いが客席側に漏れてしまうこともあるという微妙な存在価値の装置でしたが…(゚ー゚;A

 

昨今のように「権利」というものが過剰に意識される世にあっては「何の非もない人がちょっと嫌な思いをする」とか「好きなことする人が肩身の狭い思いをする」とか、境界線を侵害されるようなことって意外とあってもいいんじゃないか…とか思ってましたが、分別の進んでいく現代にはなかなか時代錯誤な発想だったようで、いつまでも存続させてくような代物でもなかったみたいですね。

 

ご利用頂いていた方、またお好きじゃなかった方もごめんなさい。

無事、無くなりましたんで。(;^_^A        

 

今どきはこんな風に時代に逆らうこと言うのとか、ちょっとドキドキしますね。

 

今マスレベルで見てると、人々の中にルールやモラルや責任を強いる感情的な正義らしきものが巨大な渦を巻いてはターゲットを見つけて襲い掛かる、ちょっと恐ろしい世の中になってます。

 

SNSというものが、人々の感情をまとめ上げる上でシャレにならない影響力を発揮しているのもありますが、ネットユーザーからTVのコメンテーターまで、強く物言う人の基本姿勢がとかく物事に対して批判的です。

 

「批判が世の中を良くする」みたいな意識が根底にあるのかもですが、ここまでくるとどうなんでしょうね(←批判してる?)。

 

「否定」や「批判」って、この時代を象徴する重要なワードになる気がしますが、思うのは同じ批評でも、対象の魅力を見つけて、そこから何かを得ようとする肯定的な態度と、気に入らない点に目が行って何か言いたくなる否定的な姿勢って「個性を容認する」姿勢において、精神性が根本的に違うように感じます。

 

概して「ほめる批評」って、従来の形を飛び出す部分に目が行く所があって、これまでに無かった所や他には無い要素をピックアップして「普通と違ってここが面白い」というタイプの意見が目立ちますが、けなす方って「この部分が足りない」という内容が多く、「〜はこうでなければ」というあるべき理想型を想定しつつ、欠けているポイントに目を向ける形式主義的な見方が強いようです。

 

もちろん僕だってどちらをすることもありますが、この「特異性」を受け入れる、もしくは許さない、という二種類の意識の傾向って、この国の今後の方向性を決定付けるカギになるような気もします。

 

「個性を大切に」とか「皆と同じでなくたっていい」みたいな言葉自体は、昔から盛んに言われますよね。

 

表現の世界や広告のキャッチコピーなんて、こっちじゃないとダメみたいなところあります。

でもキーワードとしてよく聞かれるだけで、本当に多くの人が雑多な個性をまんま受け入れるのって、やっぱり簡単じゃないみたいです。

 

正否や優劣の軸で区分するような見方に比べて、人は根本的に、雑多な様相をありのままに受け入れる認識の仕方の方が苦手なんでしょう。

 

我々みんな、子供の頃から通信簿で優劣つけられて育ってきてますから、まぁ無理もありません。

 

僕自身もかつて、この優劣のシンボル「通信簿」に関して、あるコンプレックスを持ったことがありました。

 

それまで成績なんてあまり気にもせずに生きてきた僕でしたが、忘れもしない、中学2年生の年度末に渡されたそれを見て愕然とした経験があるんです。

 

1ばっかとか言う話じゃないんです…。

 

何とその年の通知表、全学期全科目がきれ〜にオール3だったんですね。 

見たことあります?3だけの通知表。

 

この手の話って当事者でないと中々伝わりにくい所があるのですが、そのときの僕は「なんか、ダサ…」とは受け流すことが出来なかったんですね。

 

「え?…え?…」となってから、説明難しいのですが、死にたくなるような恥ずかしさと悔しさに包まれ、ウルっときたのを覚えています。

 

とにかく目立たなくて、友達にも先生にも何かとスルーされてきたような子だった僕は、多分元々その辺のコンプレックスがあって、その成績の普通さが過剰に意識されてしまい、まるで「お前はとことん平均的で、いてもいなくてもいい透明人間のような奴なんだ」という事実を数値で証明されてしまったような恐怖感に襲われたんだと思います。

 

う〜ん、思春期だなぁ…。

なんか、かわいいなぁ…。

 

よく自虐的に「おれなんて体育(もしくは音楽、美術)以外全部1だったからなぁ…」とかいう人の台詞、僕いまだに自慢にしか聞こえないです。。でもちょっと自慢じゃん!アレ…

 

結局そんな中学時代が反動になって、思い返せばその後高校、大学時代の僕は自分の凡人ぶりを必死に隠そうとして個性派アピールばっかやってたような気もします。

 

「そうか、だからこいつ変な店作って、いまだに変わったことばっかやってんのか…」とか思われると今でも死ぬほど恥ずかしいし悔しい。でも多分そう…。

 

きっと心の奥に、ずっと個性への憧れとコンプレックスがあるんでしょうね。

 

そんなだから、アール座読書館はもちろん個性至上主義の方でして、座席も食器も同じものは一つとしてありません(ウソ 同じグラスとかちょっとある…)。

 

でも、店というものが必ず店内の什器を全て統一していた昭和の時代から、僕は「もっと色々なタイプの座席がある店があればいいのに」と思っていたクチで、90年代のカフェブームで初めて不揃いの椅子を並べた「カフェ」なるものが登場したときにはとても嬉しくてワクワクしたものです。

 

僕、何か好きなんです。こういう不揃いというか、バリエーション的なもの。

様々なタイプの同種のものが並んでる光景にとっても弱い。

 

何というか「バージョン違いフェチ」みたいなモノなんでしょうか。

 

よくある新商品のカラーバリエーションの広告みたいに、単なる色違いの同型物が並んでるだけじゃ物足りないんです。

 

もちろん、てんでバラバラでもダメで、同じ道具の違うタイプが沢山…という所がミソなんですね。

分かる人いますかね。

 

 

「コレクション」という趣味がありますね。

 

僕自身は物品に対する所有欲というものが大したことないので、コレクター気質の方はあまりないんですが、それでもやっぱり男子なので子供の頃から集めたりはしましたね(ロッテのガムの包み紙とかカッコ良かった!)。

 

店のコーヒーカップ類だって、元は旅先なんかで集めては部屋のガラス棚に飾っていたコレクションのようなものでしたし、他に喫茶店マッチや鉱石のコレクションなんかも、店にはありますね。

 

また、集める方は大したこと無くても、集められたものを見るのは結構好きで、手芸用のボタンでも電車の模型でも、専門店にコレクションがディスプレイされていたりすると、詳しくもないのに入ってマニアの振りしてニヤつきながら眺めたりしてます。

 

だから都内にもよくある、個人経営の何々博物館、みたいのは良く行きましたよ。

 

大名時計とか、知識もないのに並べてあるのを眺めてるだけでワクワクしてしまうのですが、あれって一体何なんすかね? 

 

よく収集癖は男性心理特有のものとも言われますが、そこに含まれるものなのかな?

 

でも例えば、知り合いに凄い顔が似てる人三人いたら、誰だって顔写真並べたくなっちゃいません?

 

みんな子供の頃から見てきた戦隊ヒーローやチームプレイで戦ってくタイプのマンガ、バンドメンバーやアイドルグループや団体競技の代表チームのように、それぞれが違いつつ全員キャラが立ってるタイプのシンボルにも、皆どこか魅きつけられるものがありますよね。

 

そんなのにも似てる感じがするんです。

 

そこには必ず「共通性(目的、役割、形状、ユニフォーム…)」とそれに対する「相違性(個性)」がどちらもあって、その両立こそが魅力になってます。

 

例えば、切手1枚とコイン2枚と王冠1枚とビー玉2個と…みたいに共通項の無いものが雑多に並んでるのって何もときめかないですが、どれか一種類に限定して沢山並べると、途端に興味引かれますよね。

 

切手なら、あのサイズ感と四角いフォルム、そして例の目打ちで切り取られた独特の形状といった、ある種「縛り」にも見える共通項があってこそ、その中での個性の違いが魅力に感じられる所があります。  

 

似ているものを並べたくなる心理の深層には「違いを確認したい」「対象を良く知りたい」という知的好奇心のような本能もあったりするのかも知れません。

 

でも僕がそう言う個性に感じる魅力って、明らかにそれ以上のものなんですね。

これもオール3コンプレックスの裏返しなんでしょうか…。

 

実は最近、店に色々なテーマの図録、写真集系の蔵書を増やそうと入荷したのですが、それ系の書籍の世界で展開される、そのジャンルに特有の多種多様な姿、性質のバリエーションの様相に、僕は期せずして心打たれ、感動してしまったために、今、急に興奮気味にこんな話をしている次第なんです。…という訳で、皆様どうかもう最後までお付き合い下さい…

 

中でも生物系の写真図鑑は傑作揃いです。

 

「多様性」というものの力が凄まじいまでに展開されている生物種の世界は「みんな違う」ということの凄さを、最も如実に物語っています。

 

いや、ホントにすごいんです…生物種のバージョン展開!

そして何よりも、あの神がかった造形美!

 

生物が時間と共に様々に姿を変えてきたことを「進化」と呼びますね。


最初は自分と同じコピーを増やす分裂のような単体増殖をしてきた生物ですが、やがて現れた、オスメス2体で増えるタイプの種は必ずどちらの親とも少しだけ違う質を持った個体を産みだしました。

この「個体差」としか言えない様なほんの少しの「違い」が悠久の時間をかけて膨大な「多様性」を築き、やがてそれ自体が生命力の源になっていくのですが、この進化というものの芸術性が、ちょっと神がかってるんです。

 

 

少々話がそれますが、アール座のフロア中央に3本並ぶ細い柱の内2本に飾られている、2つの小さな蝶の標本をご存知でしょうか。

 

実は彼女たち、かのチャールズ・ダーウィンの進化論を決定的に証拠付けてくれた立役者だったりするんです。

 

どちらも、中南米に生息する「ドクチョウ」という属に分類される蝶の一種で、その名の通り毒を持っていました。

 

その昔、ヘンリー・ベイツという昆虫学者がアマゾンで新種を探しまくっていた頃、このドクチョウの生息域に、一見これらと全く見分けのつかない程同じ姿をした、完全に別種の蝶がいることを見つけたんです。

 

これが生物学では有名な「擬態」というもので、例えば毒を持っていない蝶でも毒蝶に姿が似ているだけで、それを嫌う外敵に狙われる確率が下がり生存率が上がるため、結果、時間と共にその特徴がより強く表れ(どんどん似てくる)それが受け継がれてゆく、という風に獲得される性質です。

 

ダーウィンの「種の起源」が出版されたばかりの頃は、世間がまだ「生き物の姿が昔から変わってきただなんてバカなことを!これだから学者は…」などとせせら笑っていた時代でしたが、ベイツはジャングルの中でこのドクチョウを調べまくり「擬態」という事実を突き止め、明らかに目的を持ったその姿と、その進化、変遷を示すサンプル標本群を提示することによって「じゃあ、こういうのはどういうことだよ!」と世間の常識に向かって突き付けたわけです。

 

でもこれって、歴史的にはついこの前と言っていいような時代の話なんですね…

今の常識だってアテにはなりません。

 

話がそれましたが、このドクチョウの話ずっとしたかったので、ついでに出来てよかった。

 

とにかくそんな風に生み出される特徴(他との違い)のバリエーションこそが、新たな進化への可能性を広げ、やがては偉大なる生命力となります。

 

よく図鑑とかに「進化系樹」という生き物の進化を一括して示した図が載ってたりしますが、あれ見てると僕、本当は全ての生物って一種類としか言えないんじゃないかという気になって来ます。

 

確かに「現代」とか一つの時代で区切ると、目の前には姿も性質も違う多くの種類の生き物がいるように見えますが、時間軸を区切らずに太古から現代までの全体像でとらえると、例えば我々とその祖先になる大昔の類人猿って、親と子の間の、変化とも言えないようなちょっとした個性の違いが連綿と続いて少しず〜つ進化の形になっているだけで、この人から前がホモ・エレクトゥスでこの人以降がホモ・サピエンス、みたいな区切れ目って、当然どこにも存在しません。

 

そう思うと、現実的には旧人類から現生人類まで本当は全て同質のもので、我々が「種」という観念をもって種名を付け、どこかで無理やり区分しなければ、全部一続きの繋がった一生物種でしかないんですよね。

 

これを拡大すると、我々とゾウリムシも、また同じようにそこから枝分かれした鉢植えのサボテンだって、全ての生物は一つの境い目もない同種の兄弟としか言えないところがあります。

 

太古から一度も切れ目無くつながった「生物」という巨大なひとかたまりの存在でしか無いんですね。

 

そうやって見ると、今目にしている種の多様性って、みんな同じもののバージョン違いみたいなもので、つまりは個性なワケです。

 

形成に恐ろしい時間がかかっていますが、みんなDNA螺旋を持ったタンパク質塊という縛りの中で、いろんな経験を経ていろんなタイプのやつになった、というだけのことです。

 

そうやってそれぞれの方向にばらけていくんですね。 

それが本来、一番自然な成り行きなのでしょう。

 

無数の生物種と呼ばれる命がそれぞれ全く違う道のりを経て全く違う個性の力によって長い時間を生き残ってきているという事実ほど、バラけることの凄さを力強く示してくれる証しが他にあるでしょうか。 

 

これを思いながら、今、アール座のおすすめ図書のコーナーにある、きのこ図鑑(世界の美しいきのこ)や粘菌図鑑(粘菌〜驚くべき生命の謎〜)、ニックブラントの動物写真集(On this earth←こんな美しい動物写真見たことないです)とか見ると、僕は楽しいどころではない感動のようなものを覚えます。

 

神がかった美しさを持つ生き物の生態やデザインは、そのどれもが完璧かつ全部違うという点において揺るぎないものであること、無数の失敗やアクシデントを繰り返しながらも、紛れもない自分なりの自然な道を歩んできた中で生まれてきた姿であるということを強く感じさせられます。

 

もう店閉めて、アフリカとかアマゾンとか行きたい…。

 

そしてさらに、人の歴史においてもこれと同じような所があるとなると、もう冷静ではいられません。

 

「アルベール・カーン コレクション」という、100年前の世界中の民族の姿を記録した写真集などは、ページを繰る度に、本当に様々な土地の人々がそれぞれの民族衣装を誇らしげに着用して立っている姿が次から次へと現れ、感動の中で油断すると泣きそうな気持ちにもなってしまいます(メンタル不安定なのかな…)。

 

ディズニーランドにある「小さな世界」というアトラクションと同じ表現の、もっとリアルなやつですね。

 

世界各地の「小屋」を撮影し、それを徹底的に考察した、かの名著「小屋の力」も今さらですが入荷しました。

 

やはり写真資料に見られるバリエーションの凄さが見応えの中心となっています。

 

何でそんなにも感動してしまうんでしょう?

僕は疲れてるんでしょうか?

 

きっと、この「バリエーション」という形態に含まれる「共通項の中での違い」という性質がカギなんです。

 

これを擬人化すると、僕は「同じような条件で生まれても、それぞれ違う道のりを自分なりに試行錯誤して進んで行く内、他と違う性質になっていく」という人の成長過程を思わず連想してしまうんです。

 

こういう風に、育つ過程で獲得される、他者とは違う後天的な特徴のことを我々は「個性」と呼びます。

 

似ているようだけど一つ一つ図案の違う切手を並べると、僕はそこに個性というものを強く連想して、何だか嬉しいような頼もしいような心持ちになったりするんです。

 

切手とコインを並べても、これは見えてこないんですよね。

 

 

閉店後にアール座のらくがき帳を開いてみると、皆さんがつづられた、置かれた現状におけるご自身の在り方や考え方、性格や気性、癖なんかに関する様々な思いが、時間を越えて刺さってきます。   

 

「どうしてもこういう風に考えてしまう…」とか、真剣な悩みやコンプレックスとしてつづられているものも多いので、こんなことを言うのは失礼に当たるのかも知れませんが、僕はそういうらくがきに出会うと、同情とかより先に、先ず感動してしまうことが多いです。

 

実際ノートに対する感想を見ると、僕だけではなく、他にもそう感じている方がとても多いように思えます。

 

「かわいそう」という意見よりも「勇気付けられる」というコメントの方が圧倒的に多いからです。

 

その人がその人としてもがきながら生きていること、他の人と違ってしまっているということに対する敬意と共感が先ず湧き上がって来てしまうのだと思います。

 

「個性」とか「その人らしさ」って、大抵世間では欠点と言われる方に沢山入ってる気がしますね。

 

世間的に長所とされる特徴って、皆がそちらに向けて意図的に持っていこうとするような特徴なので、その分社会的な要素も強いものです。

 

だから、それでも消せない自分らしさみたいな要素は欠点とされる方に色濃く残るのかも知れません。

 

世の中で、個性はとかく優劣の意識にかき消されがちですから、自分で自分を省みるときも、それに準じて、自分の個性を欠点と思ってしまうことが多いように思います。 

 

色々な性質を「優劣」の軸に沿って縦に並べた方が単純にとらえられるし、解釈も早いです。

 

でもタマには、人の能力をバラエティな個性として並列に見てみるのも大事なことかと思います。

 

例えば、小学生が体育の授業で50m走のタイムを計られますね。

 

そこでは10秒以上かかる子から7秒切る子まで「速さ」という一律の基準に沿って全員が1列に並べられたような認識をされます。

 

軸を一本作ると全体の状況を簡単に認識出来るし、全員を一つの目標に向けてまとめて統率していけます。

 

でもここで一度、「速いほうが遅い方より優れている」という価値観を外して考えてみると、見えてくるものが変わってきます。

 

ある子供が「全力を出して50m8.7秒で走り切る」ということって、実は他のタイムの子達にはどうがんばっても決して出来ないことなんですよね。

 

全てのタイムは皆、その子にしか実現し得ない個性そのものなんです。 

 

もちろん算数の点数だって同じことです。 

 

個性って、そういう見方をしないと、きちんと見えてきません。

 

僕は「全員のタイムが同じではない」と言う揺ぎ無い事実って、早い遅いよりも余程大事なことだと思うんです。

 

その違いによって「結果が分かれる」ということの方が、余程価値あることのように感じるんです。

 

それ次第で、陸上の道に進む人もいれば、コンプレックスになる人もいます。

 

もっと日常的な話なら、いたずらでピンポンダッシュして走って逃げても、速力の違いで逃げ切る子もいれば、怖いオジさんにつかまってしまう子もいます。

 

すると、そこからの展開の違いが、その後の人生を勢いよくぐんぐんと変えていきます。

 

だからオール3という実は中々個性的な成績を叩き出したヤツが、それにとらわれヒネくれたあげく、変てこな喫茶店出しちゃうこととかも起こりうるワケです。

 

この個性という要素がその人だけにもたらしてくれるミラクルは生物種の多様性を生み出す生命力と同じカラクリのものです。

 

「バリエーション」という言葉って、何となく「色々ある」みたいな意味の英単語かと思ってましたが、実際の訳は「変化」とか「変わること」を意味するんだそうです。

 

それぞれの道を進んだ沢山の「変化」が集まった結果が「色々ある」の方なんですね。

 

現在、アール座のおすすめ書籍のコーナーでは「正解が一つではない」という偉大な事実がこれでもかと言うくらいに強く証明されています。

 

もういい加減、社会とか見るのやめて、他の生物種の世界とか見てみるのも良いかも知れません。

 

「周りはみんなこうなのに…」とか、余計な思いや周囲からの変な影響を跳ね返して生きていくことだって出来ます。

 

かなり上級者レベルの現実逃避ですが、ウチのお客さんにはもうそのレベルの方沢山おられますので、今回はこんなハイレベルなおすすめしてみました。

 

今回も長くなってごめんなさい。

読んで頂いてありがとうございました。

 

でもこの辺の話って、この店にとっても僕の人生においてもどんどん重要なテーマになって来てる気がするんです。

 

だからもっと書きたい!また書くかも!

うそ…もういい?!

やだ。書く。

 

 

こういうパッケージじゃなくて、中にあるガムの包み紙の方。

きれいに中身抜いて銀紙戻したものを並べて眺めてました。

 

 

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アクティブシンキングのすすめ

2019.04.05 Friday 02:01

皆さま、明けましておめでとうございます!

 

ですね!桜咲いてますね!

大丈夫ですよ〜

僕だってもう、お正月気分8割方抜けてますからね〜

なんか毎年やってますね…こういうの。

 

という訳で、何とこれが2019年一発目です。

 

いつの間にか年代末ですが、お陰様でアール座読書館もいつの間にか10周年を迎え、11年目に突入しております。

 

本当にありがたいことでございます。

皆さまの変わらぬご愛顧あってのことです。

 

最近初来店された方から開店当初からいらして頂いてる方まで、皆様のご来店あっての存在です。

 

会話がないこのお店では、お客様とは基本的にテレパシーでピコピコと会話しますので、特に古い常連様なんて、入口で「うわ〜お久しぶりです!!お変わりないですか〜?」「相変わらずですよ〜へへ…」なんていう無言の会話が笑顔一発で成立してたりします。

 

そんなやり取りにすっかり慣れてしまっている僕なんですが、やっぱりここではちゃんとお伝えしないといけませんね。

 

改めまして、いつもアール座読書館をご利用頂きまして、本当にありがとうございます。

 

僕のこんな言葉には「お客様は神様」的な思いともちょっと違っていて、個人的な思い入れや親しみも入った何とも複雑な感謝の気持ちがあります。

 

周囲にあまり理解されずに生きてきたスネもの特有の心理なので、説明もちょっと難しいのですが、理解、共感して頂けること、感性の近い人と出会えることの有り難さ、それ通り越して、その「信じられなさ」やもう「恐怖心」にすら近いニュアンスが入った、思わず背筋も伸びる「ありがとうございます」なんです。

 

軽く病んでますね。

 

そしてもちろん僕もスタッフも(現役、歴代共に)みんな頑張りました(みんなありがとう!)。

 

去年の年始のごあいさつでは、10歳なんてまだまだ…みたいに言っておりましたが…何言ってやんでぇ。完全撤回します!

 

はやりすたりの早いこのご時世に多くの方々の様々な思いを合わせてこんな小さな店が十年もつって、やっぱりナカナカの出来事です!

 

十年凄い!

おめでとうございます!

ありがとうございます!

 

アール座がすっかり色んな人のお店にもなってしまっているので、もう誰が誰に言ってるのやら分からなくなって来ましたが、今後さらなる展開も色々と目論んでおりますので、どうぞこれからもこんなお店の存在を少しでも気にして頂けたら嬉しいです。

 

そんなこんなで、近頃はこういう店の役割というものをより強く意識するようにもなりました。

 

今、アール座読書館は何というか締め直しのタイミングに入ってるのかな…とも感じております。。

 

なんせ変な店ですから、代わりが利かないような部分もあって、そこを失ってはいけないという思いも強まってきます。

 

近頃何となく、昔お客さん全然いなかった頃のアール座店内の雰囲気が思い出されたりしもするんです。

 

何というか、とても純度の高い、今よりも濃い〜ぃ不思議な何かが空間に漂っておりました(怖!)。

 

この、店内に漂う独特の空気感というものは何といってもこの店の要であり命なのですが、思えば、昔のアール座ってこれがすごかったなぁ…なんて思い出したりします。

 

今よりもっと入りにくくて、入ってももっと独特でワケ分かんなくて、でも過ごしていると強引に不思議な感覚に引き込まれて、日常的な気持ちで何かしようとか、思っても出来ないような異質な空間でした。

 

人の出入りが少なかったとか、知られていなかったという事情も大きな理由だと思うのですが、よく魔法がかかってるなんて、ありがたいお言葉も頂いておりました。

 

それが今ではお陰様で多くの方々に知って頂き、すっかり親しみやすい馴染みやすい場所にもなったと思います。

 

これはもちろんどちらもありがたいことなんですが、でも、僕は欲張りなので両方欲しいのです。

 

多くの方々に知って来て頂けるありがたみを胸に秘めつつ、そのポピュラリティに負けないレベルの、さらに強い不思議な空気感をもって、世界中からもっと多くの方に遊びに来て頂きつつ、その全員を催眠術に落とすような強力な魔法をかけなおしていかなければ…なんて思っております。

 

休日のピークタイムなんかは難しいかもですが、せめて平日や夜間だけでもね。…さて、どうしたものか…。

 

まずは僕自身が心身を整えて、意識を改め、自分を信じなおす所から始めなければなりませんね。

 

思えば昔は、これに関しては無敵だったなぁ…とか考えてしまいますが、そんな流れで最近よく意識するのは、感受性のコントロールとか意図的な思考とでもいうようなことです。

 

今日のお話のテーマはですね、割と心が繊細でメンタルも乱れやすいような人向けのお話ですね。

 

僕自身、最近歳のせいかすっかり乱れやすくなったメンタルを自分で管理しコントロールしていくことの必要性を意識するようになりました。

 

だらだらとメンヘラしちゃってると、何といってもお店回せませんのでね。

 

この頃特に気を付けているのは「周囲からの影響を調整すること」と「その時考えるべきことを自分で選ぶ」という二つのポイントなんです。

 

「西の魔女が死んだ」という梨木果歩の童話のワンシーンを僕は思い出すのですが、主人公の女の子が魔女である祖母から魔女修行の手ほどきを受けていく中で「コツをつかめば、現実には見えない色々なものが見えてくる」「けれども大事なのは自分で見ようとする意志であって、見ようともしないものが見えてしまうのはとても危険なことであり、一流の魔女のすることではない」というような意味合いの言葉で彼女が諭される場面があるんです。

 

なるほど〜と感心してしまいます。

こう言う話、何か分かりますよね。魔法の話でなくても。

 

僕なんて元々あまり空気も読めないタイプで、どちらかというと周りを気にせず我が道を行けるタイプだったんですが、こんな店長年続けてると、さすがに人の気というものにあてられてしまうようにもなってきます。

 

だからもっと周りが見えて、普通にしてても人の気持ちとか思惑とかどんどん入ってきてしまう気質の人なんかはきっと、ただ暮らしているだけでもストレスが尋常じゃなかったりしますね。

 

いわゆる「見える」タイプの女性って、イライラを抱えてしまってることも多いんじゃないでしょうか。

 

きっと感受性の入口を開閉する、カメラで言う絞りのような機能が重要になってくるのでしょう。

今どきピンと来ない例え話ですかね。

 

昔のカメラってオート機能とかなくて、明るさに応じて手作業で窓を開けたり閉じたりして入ってくる光の量を調整していました。

 

だから露出計使わない素人でも、写真撮るときには今その場所がどれくらいの明るさかをある程度気にしていたんですね。晴れマークとか懐かしい…

 

でもこういうことを人の思いや感情に対して意図的にやっている人は多くはないですよね。

 

その場の人の気の強さに応じて自分で心を開け閉めする人って、かなり意識的に生きている人だと思います。

 

アール座の利用法をご紹介する時に「帰り際に少し気持ちを閉じた方が良い」というような説明をよくさせて頂くのですが、それはあの空間にある時間ゆっくりすると、ちょっと無防備なくらい感覚の窓が開いちゃうことがあるからなんですね。

 

美術館で絵を鑑賞した後とかに似た感じでしょうか。

 

アートを鑑賞する態度って、作品から何かを受け入れようとして、全開放みたいな状態になっていて、日常的に暮らしている時の心持ちとはちょっと違う精神状態になってるように思えます。

 

そのまま刺激の多い外界に出てしまうと、ちょっとギャップで現実が嫌なものに感じたり、気持ちが乱れちゃったりすることもありますね(分かる人にしか分からない話ですが…)。 

 

だからウチでも店を出た後にパル商店街で慌てて現実に戻るより、店内でしっかりと心を閉じてから外に出る、という手順をお勧めしてますし、使い慣れている方なんかは無意識にもそんな段階をまれてる感じもします。

 

やり方は色々で、「さあ行くか!」と何となく気持ちを閉めるでも、深呼吸してバリアーみたいなイメージを作るでも、また胸の中でボルトをきゅっと締めるイメージを持ったりとか、人それぞれ何でもいいみたいです。

 

そんな感じで、いつもその時の自分の心がどれくらい開いていて、周囲の影響をどれくらい受けやすい状態かを意識し、開閉してゆくことは健全な心を保つためにとても大切なことだと思います。

 

なので僕は最近、人との会話や悪意の入るやり取り、町の喧騒やTV、ネット、週刊誌の中吊り広告に対してでさえ「うわ、なんかヤ…この感じ…」となったときには、反射的にキュッと気持ちを絞めて、それが「自分の外の世界の出来事」であるような感じに持っていきます。デリケートになったもんだ…

 

平たく言えば、ただ「気にしない」というだけのことなんですが、近頃はこれを意図的にやることの重要性を切に感じるようになってしまいました。

 

でもこれ意識してるとですね、嫌なことがあったりしても、なんかその出来事が終わってしまえば、心もち自体は何事もなかったようなところに戻ってたりするんですね。

 

繰り返しますが、メンタル弱ってない人はこんな事する必要全くないと思います!

良いことも嫌なことも全身で感じたらいいですね。

 

それと似たようなことでもう一つ最近気を付けていることがあります。

それは自分がその時何を考えているかを意識すること。

 

人間って、どうしたって考え続けてしまう生き物ですよね。

 

瞑想とかやってみると、考えを止める方が難しいのがよく分かります。

 

アール座はどちらかというと、あえて妄想したり、どっぷりと考える時間を取るような場所なので、取りとめもない妄想なんかは推奨しているくらいのものです。

 

よく言っている「現実逃避」というものも「考えなきゃいけないことよりも今考えたいことを考える」という意味で同じようなもんです。

 

あわよくば、頭の中に塵のように積もった考えのタネを意識し、消化し、整理することにつながるといいなとも思うのですが、逆にこの手の妄想が怖くなるのは、何かをきっかけに日常的にネガティブな考えにとらわれてしまう時や、それが長期に及んで、睡眠や食事など生活まで害してしまうケースですよね。

 

ただでさえエネルギーを消費する「思考」というもので精神を削られ続けるのって、消耗も大きく、健康にも影響するし、何よりも前に進めないです。

 

でもこれ、ゼンゼン珍しいことじゃないですよね。

 

嫌なことがあると、人間の思考ってすぐにこうなってしまいます。

 

もちろんそれも意味のある「作用」の一つだと思うのですが、ついつい同じことを何度も考えてしまうときには、本当に考えるべき(考えたい)ことを自分の意思で選ぶ、ということが大切な気がします。

 

僕はこれを便宜的に「アクティブシンキング」とか呼んで一人で手帳に書いたりしてますが(なんかカッコいいし)、そのことが今本当に考えたいことかどうか判断して、必要なければ意思の力で断ち切るということを、大人になったらしなければいけないんじゃないか、と大人になって何十年も経った今頃気づいた感じです。

 

僕は自分にとても甘いので、こういう厳しい系のこと課したりはあまりしないんですが、でもこれは人が何らかの意識をもって前に進み始める上で欠かせない行為であると思うし、結局は「生きやすさ」というものにつながるポイントだと感じています。

 

逆に、これに対して「自動思考」というものもあります。

 

心理学用語ですが、こちらの意思と離れて勝手に進んでしまうタイプの思考のことで、ひどくなると概してネガティブな方向に深く入っていったりもします。

 

なので、あまりいい意味合いの言葉じゃないんですが、まぁしかし人間はこれに陥りやすい体質を持ってますよね。

 

思考って、自分のコントロールを離れて暴走するとロクな方向に向かいません。

僕なんかすぐコレになります

 

ひどくなると神経を病んでしまう原因にもなりやすいものなので、最近ではカウンセリングなんか受けると「認知療法」といって、この手の思考の動きをしっかり見つめ直して、自分が今何を考えているのかを自分の意識に紐付け直す、というような作業を時間をかけてやっていったりします。

 

でも、ここまで行く手前でアクティブシンキング(やっぱ、ちょっと恥ずかしい…)を試みていると、その傾向が変わってきます。

 

一言でいうと、これも「深入りせずに済む」というだけのことなんですが、メンタル弱ってる人にとって、その事実ってとても重大な出来事です。

 

具体的にやることはとても単純で、つまらない考え事にとらわれたときに「今考えなきゃいけないことか?それは!」と問い直し、その後が難しいのですが、気になる考え事の途中であっても容赦なくそれをぶった切ります。

 

でも、そういうのってすごく中断したくないんですよね。

ちゃんと考えて一段落つけてから落ち着きたい。

 

ただ、一段落つかないんです、つまらない考え事って。

 

だから大人の精神力でこれを断ち切ります。

これが出来るかどうかがポイント。

 

で、「つまらぬものを斬ってしまった…」と吐き捨ててそれを忘れ、一旦考えを止めるなり、もっと別の楽しいことに考えを切り替えるなりします。

 

これだけ。

自分が考えたいと思うことを考えるというだけのことです。

 

最初はこれを何度も繰り返すことになるんですが、慣れるとどんどん出来るようになります。

 

ハマらない方にはよく分からん話かもですが、この断ち切る難しさが想像出来る方はやってみるとハマるかも。

 

精神を害するものがあふれる世の中では、こういう意図的なコントロールって健康管理同様、生きていく上でとても重要で有効なものなんですが、でも心の問題って体のケガや病気みたいには重要視されませんね。

 

全部僕自身の話なんですが、もしかしたらこれが有効な方他にもいるかも(らくがき帳とか読むと)と思って、今回はこんな話してみました。

 

まぁ分かる方いらっしゃらなければ何よりなことです。

 

今回のお話、一見、いつもおすすめしている「現実逃避」と逆の話をしているようにも聞こえますが、そうではないんです。

現実逃避であっても(むしろ現実逃避こそ)能動的に行かないと!という話なんですね。

 

自動思考なんて暇なことしてると、人生を持っていかれてしまいますからね。

 

能動思考で生きてゆきましょう、というお話でした。

 

でも、そんなことする時間を何処で取ればいいんですかね。

 

はい。言わずもがなです。

 

お待ちしております!

category:今月のおすすめ | by:アール座読書館 | - | - | -

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