物語喫茶と無言カフェとお散歩のすすめ(?)

2015.06.15 Monday 04:05
こんにちは、2ヶ月ぶりの更新でございます。

心地よいお散歩の季節ですね。
最近こういう気候の時期は短いので貴重です。

ぜひお散歩しましょう。

雨の日だってお散歩日和ですよ。
お気に入りの傘もさせます。

さて、以前ご紹介しました3階「エセルの中庭」の物語喫茶計画も、朗読者の方々のご協力を得まして、予定より遅くなりましたが何とか始まっております。

土日の昼以外は店内に朗読(今は古い児童文学)とBGMが交互にスピーカーから流れます。

もちろん今まで通り、お連れ様との会話も結構です。

ぶっちゃけ現状、平日はガラッガラなので(
゚ー゚;A)お話目的の方以外にも「なんか今日は自分で本読むのメンドくさいな」という方なんかには、ぼーっと椅子に座って誰かにお話読んでもらう気分でのご利用もおすすめです。

ちなみに土日祝の昼はBGMのみです。

実はこの所、新聞やテレビの情報番組なんかでアール座読書館を取り上げて頂ける機会が多くありまして、土日のピークタイム(2時〜5時頃)等は満席のため、少々お待ち頂いてからのご利用になってしまうこともよくあるのですが、そんな時にもおすすめです。


お客様の会話もBGMもありますので、アール座のような静かな読書空間ではありませんが、それでもという方はこちらも併せてご利用下さい(ワンオーダーで二店間の移動は出来ません)。


ところでウチのようなお店では、営業中にテレビカメラが入る取材に関して中々微妙な部分もあるのですが、撮影の形や条件等をなるべくお客様のお邪魔にならない形でご対応頂ける場合に限り、ご相談の上で取材を受けさせて頂いております。

ただ、その際に毎度お客様の寛大なご協力も頂いておりまして、本来は静かに時間を過ごすためにいらした方に(ご承諾の上)それ以外の時間をさいて頂くこともありましたため、届くか分かりませんがこの場を借りて御礼申し上げます。
<(_ _)>

こういうことをこれからどんな形で対応させて頂くかこの所検討中(店内でのインタビューは今後はしない方向で考えております)なのですが、こうした大きなメディアでご紹介頂くことには僕自身とても感謝している理由がありまして、それはまだアール座をご存じない、遠方の方や好みの場所をネット等で積極的に探されないような方で、アール座のような店を必要とされてる方にまで情報が届くという所につきるんですね。

実は一般的な飲食店に比べ、ウチのようなお店をお好きな方のパーセンテージというものは全体ではとても低いものなので、より広い範囲に告知をする必要があるのですが、これが僕なんかの力では限界があるので、そんな告知力をお借りする意味もあって、雑誌や情報サイトはもちろん、テレビ番組の取材も条件を合わせて頂ける場合はありがたく受けさせて頂いている次第なんです。

テレビでご紹介頂いた後は短期間の大きな反応があるのですが、その波が引いた後には、新しい常連様として長く残って下さる方も少なからずいらっしゃるので、きっと「こういう店があればと思っていたけど、ここにあったんだ」という方ではないかと勝手に想像しております。


所で、この所の取材では番組や記事などで「無言カフェがブーム?」というテーマで扱われることがとても多かったですが、皆さん聞いたことあります?

僕自身情報に疎いのであまり知りませんでした
(;^_^A

まぁ大概はこうして語尾にクエスチョンマークが付いてたりするので、ブームというのは分かりませんが、巷には会話を禁止された静かなお店というのが他にもあるんですね。

昔はこんな店をやりながらも、この業態が商売として成立するなんて半信半疑でしたが、何だか楽しい時代ですね。
 
アール座をやっていると頻繁に耳にするお声の一つに、遠方の方々の「こういう店が近所にあればいいのに!」というものがありますが、ウチのような零細の個人事業ではなかなか幅広く叶えてあげられないもどかしいニーズの一つです。

とは言え効率的に利益の出る形ではありませんので、大きな組織や企業が経営するのも難しい形でしょう(基本的に気を下げる方向ってお金が回りにくい)。

そんな中でこういう意思を持った個人経営のお店って、意外と重要な存在だなぁと感じます(もちろんアール座も含めて!)し、増えると嬉しいなと思います。

「無言…」に限らず「世の中もっとこうであればいいのに」という営利以外の目的も持っているコンセプチュアルなお店って、何だかこれからの時代を作っていく気がしますし、個人経営がこれを担ってリードしてゆくのも面白いなという気がします。

…などとまた語ってしまいましたが、思い出すのは今から5、6年前にアール座が始めてテレビ取材をして頂いた時、カメラの前で「なぜこんな店を?」に始まる30分以上にも及ぶロングインタビューを受けまして、僕もドキュメント番組ばりに気負ってアール座開業の由来や世の中に対する思いなどを熱く語り「この放送をきっかけに世の中が変わるといい…」なんて思いつつオンエア見たら自分の話はほんの5、6秒だった、という恥ずかしい記憶です。

「これか!よくテレビでタレントさんが両手チョキチョキしてるやつは…」と思いましたが、きっとテレビ作りの凄まじいメソッドなんでしょうね。

毎回膨大な量のネタを集めてから、絞って絞って密度の濃いものを作るという、いやはや大変なお仕事です。


さて、ここまでが前置きです。
いよいよ今月のおすすめですが…って長すぎる?
 
いつもながらの長編ブログとはいえ、ここから長い本編はさすがにアレですかね。

考えていたのは「お散歩のすすめ」で、内容的にはそれを楽しく彩る野草や蝶や鳥(都会で見られるやつ)の話でもしようかと思っていたのですが…時節モノなので次回にまわすのもアレですしね。
 
ではその中でするつもりだった「ハルジオンとヒメジョオンのすすめ」に絞っちゃいましょう(なんだそれ)。
 
お散歩時に一番思い出して欲しいネタです。
 
皆様ご存知ですかね、このお花。
漢字で書くと春紫苑と姫女苑(ヒメジオンじゃないんです)。
 
昔はビンボウ草なんていうかわいそうな名前で呼ばれていた、東京の空き地でも何処でも生えてる何の変哲もない草花ですよね。
 
通行人にも見向きもされないありふれた花ですが、よくよく見ると侘びた雰囲気の可愛らしいお花です。

両者はとても良く似ているだけに、野草好きの人たちの間では「花弁が紫がかる」「蕾が首を垂れる」「茎を切ると中が中空」など有名な見分け方があるのですが、でも見慣れてくると、お花見ただけでも分かります。
 
名前二つ並べて画像検索すると沢山出てきますが、花弁の形が結構違いますね。
これ覚えて、見分けていきましょう。
 
「別に見分けなくてもいいじゃん」とお思いの方…違うんです。

この2種類は見分けなきゃいけないんです。

このブログで度々口にしている、もはや僕の持論なんですが、「人間は季節感と共に生きていかなきゃおかしくなる」という信念からの発想です。
 
都会の生活は、今がどの季節にあるのかをあまり感じてないから、体のバイオリズムと環境がズレていく気がします(何を隠そう、この所の僕がそう)。

昔の暮らしって、春夏秋冬の季節の変わり目をいちいち確認するような知識やら行事やらが生活に取り入れられてましたよね。

まぁ春は現代でも分かりやすいです。

暖かい強風が吹いてからあちらこちらにお花が咲いて最後に桜が満開になりますと、いやでも春の空気を感じさせられます。

そんな風に植物を見てゆけば、木々の葉が紅葉して木枯らしが吹いてそれが散って、という感じで秋も冬も入口が意識されやすいですね。

で、夏なんですが、これが分かりにくいんです。

山間部や緑の多い地域なら色鮮やかな新緑というものがあって、普通の常緑樹とは色合いが違くなりますが、都会の街路樹くらいではこれもパッとしませんね。

何かいい指標があるといいんですが…そう!これがヒメジョオンなんです。

実はあの2種類って同時に咲く訳じゃないんです。

開花の時期がずれていて、ハルジオンはその名の通り春先に、ヒメジョオンは東京では5月の終わり頃から6月にかけてハルジオンの花が終わる頃と入れ違いに咲き始めるんです

つまり初夏(今頃から)ですよね。
 
この2種の植生はすごく近いので、大抵ハルが生えてる場所にはヒメも生えるんですが、こういう時間差でそっくりの花が交代して咲きます。

つまり、人知れず生え変わっているんですね。

これって何か、すごいロマンチックでないですか?
こんな身近にありながら、まるで知っている人にしか起きていないかのような季節の移り変わりなんです。
 
だからこの2種の見分けがつくと、生え変わりに目が行くようになって「ああヒメジョオンか、夏が来るな…」なんてつぶやいて、目を細めつつ青空を見上げることも出来るんですね。
 
やりたくないかもですが、是非やって下さい。

あなたのバイオリズムのためです
 
…という、まさにこの時期にお伝えしなきゃならない情報でした。
 
んなワケでアール座のおすすめ書棚、今回は野草の本やら蝶や虫や鳥の本やらで埋めておきたいと思います。
 
ぜひ、お散歩帰りに寄って行って「あの草なんて名だろう?」みたいなことやって下さいね。
 
どうでしょう?これくらいの長さのブログならまぁいいでしょ?やっぱ長いか…
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インナーチャイルドと自己否定

2015.04.06 Monday 23:19
こんにちは。
すっかり春ですね。

僕はもちろん桜の季節も好きですが、それが終わっていよいよ植物がいっせいに勢いよく噴き出してくる時期に入る時期にとてもワクワクしてきます。


意識するしないの違いがあるだけで、きっと人は皆植物の緑が濃くなると、それだけで元気が出てるんじゃないかと思いますね。

そんな中突然ですが、今日はある人の話からさせて下さい。

僕がとてもお世話になった人なんです(春と関係ない!)。

以前ブログで、まだお客さんが少なかった開業当初、この店を見聞きした人達が皆一様に「こはすぐにコケる」という見方をした、という話をしましたが、実はその中にほんの数人、違うことを言ってくれた人もありました。

それを一番はっきり言ってくれたのは僕の父方の叔父である圭造おじさんでした

この人の見方はとても特徴的で、他の人が全員判で押したように「この客席数で客単価がこれくらいだろ」と経営マネジメント的な計算をしたのに対し、叔父さんが初めて店に来てくれた時は(聞きづてですが)店に入るなり何だかニオイでも嗅ぐように店内をゆっくりと見回した後に、眉をしかめて「ここはちょっと面白いことになるかもしれないぞ」と一言、僕の家族に言ったたらしいのです。

まだ今のような内装が半分程しか完成していない頃なので、それを評価したワケでもないでしょう。

おそらくですが、何だか僕がこの空間に込めた気のようなものを読んだように思えてなりません。

他の人達が全員飲食のプロでその人だけは芸術家かなんかだったのかと思いきや、これがそうではなくて、実は計算をしてしまう人達の方こそ、皆多少知識のある素人の人でした(不動産屋さんにまで言われたし 
C=(-。- )。

そしてその叔父がどういう人かというと、日本にまだあまり洋菓子文化が根付いていなかった戦後の時代に単身スイスに赴きパティシエ修行をした後、帰国して東京八王子に洋菓子店を立ち上げ、そこから八王子、日野方面を中心に勢いよくチェーン展開をしつつ,当時としては大変斬新な手法と方向性で様々な形態に事業を拡大してきた老舗洋菓子店グループBASEL(バーゼル)の創設者であり、いわば飲食のエキスパートだった人なんですね。

つまり経営マネジメントなんてものを骨の髄まで知り尽くしている人でした。

そういう人が店を見るときに先ずは直感を使うんだ、ということは今でも強烈印象に残ってい
 
実はこの人が先日亡くなられて(享年80歳)、お葬式に行ってきたんです
 
それに関して、最近色々なことを思い出して色々なことを考えました。

またもや店と関係ない話かというニオイが早くもしておりますが、でもこの叔父さん、僕の運命を変えたと言っても過言ではない人で、この人がいなかったらアール座もなかったかも知れないと思える程の大恩人なんです。

私事がらみの長い話なのですが、今回はちょっとそんなお話をさせてください


昔、僕は人に褒められると反射的に片手を振って「いやいや俺なんて」と慌てて否定してしまうタイプの人間でした(今でも時々やります 汗)

いるでしょそういうやつ

評価が上がると何かハードル上がって落ち着かなくなっちゃうので、そういうのを打ち消して安心出来るタイプ。

普通の人から見たら「何で?」と不快に思われるかもですが、まあそんな人間にもそうならざるを得なかった生い立ちというものがあるものなんです。

さすがにここでそんな長い話はしませんが、とにかくそんな性格の僕が生業のために関わっていただけの飲食業を本気で志し始めたのは今から15年程前のことで、最初は店舗を開業するような資金もなく、軽のワンボックスカーでサンド類の移動販売を始めたんです。

勢い込んで始めたもののしかしまぁ、売れないわけです。全く。

毎日パンを焼き上げて具材を仕込んで出かけては、方々売り歩いても通行人には見向きもされず、大量のそれを持って帰って来るという今思い出しても気が重くなるような虚しい日々でした

これ、何が一番キツいって、体力的な疲労じゃないんです。

自分だけが社会の誰からも必要とされていないような無力感にさいなまれ続けるんですね。
 
特に個人経営の移動販売のような業態で人に相手にされないでいると、何というかたまらない程の屈辱感、焦燥感無能感、無用者意識等々いくつもの心理的な負荷が日々重くなっていって、まともにアイデンティティが保てないんです。
 
お勤めの人達のランチタイムを狙って出店していたので、スーツを着ている沢山の人達の中でいつも自分だけが何の意味も価値も持っていない存在であるような感覚に包まれていました。

例えばある時、やっと馴染んだ販売場所を追い出され、車で次の場所を求めて市街地を一日中探して回った末に、大きな街道に出るつもりで入った小道がやたらと入り組んでいて、進んで行くと最後はヒト気のない袋小路になっていたんです。

いっぱいいっぱいが続いた後のこの状況に何処か象徴的なものを感じて何かがとんでしまったのか(マジであまり覚えてない…(
゚ー゚;A)、急に体が熱くなり汗が滲んで、頭の中が「何でここで行き止まりなんだ もういいや 何かもう全部無理だ おわりおわり…」と言う感じになって、遠くに見える分厚いコンクリートの壁に向かってアクセルをベタ踏みして車ごと突っ込んで行く途中、ハッと我に返って急ブレーキを踏んだことがありました(まぁ大して本気ではなく、ビビって壁よりかなり遠い所で止りましたけどね)。

とにかくそんな風に軽く頭もイカレた感じで、こんな状態をこれから何年も続けていくんだろうか、続けていけばいつか出口がるのだろうか、という不安にのしかかられ日々が続きました。

そこに来て、例の自己否定の強い性格だったので、心の中で自分が世界中から否定されているかのような意識を作ってしまい、その否定から逃れるために更に自分を卑下していく自分はダメな人間だけども、それは自分で分かっているんだというポーズを取るような、なかなかしんどい心理状態にありました。
  
そんな感じのまま2年ほど経って、幾分かは売れるようにもなりましたが、まだ収入というには程遠い金額でした
 
そんな折、僕が飲食業の端くれのようなことをやっているのが圭造叔父さんの耳に入り、「とにかく一度俺の店に来い」と呼び出しがかかりました。

叔父さんに会うのは久しぶりだったのですが、僕は正直あまり気が進みませんでした。

ナカナカ厳しいイメージの人だったので、お説教されるものとばかり思っていたんですね。

実際僕の思い込みを省いても、その頃の僕がやっているお金にならない自己満足のようなこと(満足なんてカケラもありませんでしたが)を仕事として認めてくれている人は周囲にはおらず、皆には只のモラトリアムと見られていたように思います。

だからそんな大きな企業を回している人に、こんなままごとみたいな店をやっていることを話して、何を言われるのかは大体見当がつきます。
 
その日も「バカなことやめてもっとまともな所で働け」というようなことを言われる心積もりで叔父さんの店に入りました。
 
すると予想に反して叔父さんは「おお!来たなぁ!」と僕をにこやかに迎えてくれました。

尋ねられるままに、僕は飲食の商売を思い立ったものの資金がないのでどうにか車を改造して販売資格を取ったもののと、これまでのいきさつを、何だか言い訳でもするように全て説明しました。


すると黙って聞いていた叔父さんは意外にも「いやぁお前よくやってるなぁ。えぇ〜すごいじゃない。」とにっこり笑ってくれました。

ずっと遊びの延長と思われ、誰にも相手にされなかったその仕事を人が認めて褒めてくれた初めての言葉でした。

所がイカレている僕は喜ぶどころか混乱し、本当は全く褒められるような状態じゃないことをきちんと説明しなければと焦って「でも全然売れないからお金にもならなくて、いつまで経ってもシステムが作れなくて、こんなのじゃ商売なんて言えないし」と溜まっていたものを噴き出すようにネガティブワードを連発しました。

褒め言葉を受け入れ切れず、悪いことを言われる前にこちらから言って許してもらおうという防御タイプの言い訳ですよね。
 
そうなるのもムリない心理状況でした。

しばらく話を聞いてから、叔父さんは「いやいや、待て待て」とそれを制しました。

「そうじゃないんだよ それは違うんだ」と、真剣な顔で僕の目をまっすぐに見ました。

そしてここで、僕の一生を貫く指針になる言葉を頂きました。


「いいか、今の経営が良くない、それはもちろんこれから考えなきゃいけないことだ」

「しかしまずその前にだ、お前がこうしてたった一人で商売を思い立ち、自分で車を改造してメニューを考えて小さいながらも店を出し、今毎日それを仕込んで東京中を走り回っているということ、これは本当に大変なことなんだよ」

「それをここまで実行しているのは凄いことなんだ」
「商売が大きい小さいの問題ではない」
 
「お前は先ずそれをちゃんと理解しなきゃいけない」

「先ず自分がこれまでやってきたことを認めて、そこに誇りをもって自信にしなきゃいけない」

「そうしないとその次には進めないんだよ」 

「そして、これを何度も繰り返していくんだ」


「売れる売れないはその後について来る話なんだ」

と言ってくれました(ヤバい、書いてて泣きそう)。



すごくないですか?この柔軟性。
戦前生まれの人ですよ。

僕はこの言葉で胸がいっぱいになり、そして我に返りました。


で、切り替えましたよ、スイッチを。
この日を境に。

まずは自分がこれまでやってきた業績を上げていない仕事を「成果」と捉えるように考え直し、自分の力を信じ直しました(簡単なことではありませんでした)


そして営業に関しても色々な点を見直して大規模に路線を変更し、移動販売向きでなかったサンドをやめて新たなメニュー(何と丼もの)と気持ちで勝負に出ました。

これは前のものよりずっとランチタイムのお勤めの人たちにウケて、次第に店に列が出来るようになり、これを更に2年程続けました。

この出来事が後にアール座読書館を開業する資金とモチベーションを蓄えてくれたんです。

ね、恩人でしょ。



でも、今になって思いますが、こういう心理状態の人って僕だけではない気がします。


今でも世の中の沢山の人がこんな心境でいるんじゃないかということは容易に想像出来ますし、自分がそうだっただけにそれを切実に感じます。

だってこの社会がそういう風に出来てるんですもん。

実際、教育現場でも職場でもマスコミでもネット上も毎日何度も何度も批判に触れながら我々は暮らしています。
皆が執拗に誰かを責めては、責められる世の中ですよね。


別に、今ドキの世の中はという次元の話をするつもりはなくて、社会って大概そんなものだと思います。

そういう環境の中で叱責されながら育つ我々はどうしたって、自分で自分を責めないと周りが許してくれないように思いながら育っちゃいますよね。

自分に厳しい態度、というポーズを取ることでそこを渡ろうとしますが、これが自らの精神をも縛り付けてしまうんですよね


僕は最近、こうした悪循環の原因の要が周囲や社会にあるのではではないような気がしています。

個人的な考えですが、自分のインナーチャイルドを傷つけることが出来るのは自分だけなんじゃないかと感じているんです。

このブログでも時々使う言葉ですが、僕が日頃から意識している「インナーチャイルド」という概念があります。

人の心は子供から大人になるにつれて変容していくのではなく、玉ねぎの皮のように層をなして古い精神を次々に覆い隠してゆくように成長するから、自分の幼少期の精神は今でも自分の心の中核にいて、今の自分の精神の要として生きている、という考えです独自の解釈が入ってるかも)。


確かに社会はこのインナーチャイルドの振る舞いをよってたかって押さえ込んできますよね。

でも僕は、これだけなら何でもないことなんだと思います。

現実の社会よりも、それが反映された自分の中の社会性という意識が周囲の意向に同調してしまう所から良くない方向が始まると思うんです。


例えば「自分には芸術的センスがない」と言う人がいたとしますよね。

自分が描いた絵を皆に笑われた経験があるのかも知れません。
だとしたら無理もないことです。

でもです。想像してみて下さい。

あなたが絵を描いたときの心の中では、例えば3才の頃の幼い〇〇(your first name)ちゃんも昔のままでそこにいて、きっと同じようにノビノビと絵を描いています。

それを周囲の人が下手だと笑った時に、我々は恥ずかしさのあまり皆への言い訳として「私、絵下手なんだよね」と自分の口から言ってしまいますよね。

周りの人にはふーんと聞き流されるだけのことですが、その一言のダメージをモロに食らうのはきっと心の中のその子だと思います。


楽しく描いた絵を「ヘタ」と言う自分の言葉を耳にしたら、その子は「え?」と顔を上げてクレヨンをポロリと落としてしまうかも知れません。

「私が描くと恥かかせちゃうから、もう描かないでおこう」と描くのを止めて両手を後ろに組んでしまうかも知れません。

これは大人として、自分自身に対して決してやってはいけないことだと思いますが、しかし中々やらずにいられることでもありませんよね。


でもです。
大事なことは、他人に言われたことなんてこのちびちゃんには聞こえないという事実なんです。
自分さえそこに同調しなければ、きっとインナーチャイルドは傷つかないんです。
 
それは自分の口から発せられる時にはじめてその子に伝わるように感じます。

根拠なんて何もありませんが、強くそう感じます。

だから周りの人に「下手だ」と笑われても、気にせず言わせておくことが出来れば何も起きない

イケナイのは「そうなんだよねー」とか言って自分も一緒にその否定的な周りの側についてしまうこと。


これをすると心の中のちびちゃんは唯一の味方を失い、一人取り残されてしまいます

別に私は上手いと言い張らなくても、その場は適当に流してでも、ただ心の中で自分の意識がちびの味方についていてあげることさえ出来ればいいんだと思います。

自分だけが絶対にそこに同意しなければ、自分一人だけしっかりとちびちゃんのに立って「そんなことないのにね。なんで皆分かんないんだろうね」と盾になって守ってあげることさえ出来れば、
例え世界中の人々に馬鹿にされ続けても、ちびちゃんの心はきっとカスリ傷一つ負わないんです。

そしてそんな子達が心の向くままに軽く本気を出すと、どんな奇跡が起こるのかということを僕は最近分かり始めている気がします。

今自分の家を歩き回っている2歳になるちびを見て、またよそのちびちゃん達にも目が行くようになって確信を持ったことが一つあります。

天才的な感受性を持たずに生まれてくる子供なんてこの世に一人もいません。

昔、大阪万博で「太陽の塔」をテーマにした子供たちの絵画作品コンクールが催された折に、その大賞作品を選考する審査員長を任命された岡本太郎氏が床に広げられた沢山の子供たちの作品を見て興奮し「全部いい!全部素晴らしい!」「何が選考だ!何が大賞だ!くだらない!」と怒り出してしまったというエピソードが僕は大好きです。

世の中の評価というものはいつもこの基準なんですね。

根底に他者との「比較」という概念があるんです。

もれなく素晴らしい感性を持って生まれてくるすべての子供たちは、そのあとに様々な条件でそれを閉じ込めたり伸ばしたり、塞がれたり開いたりして、そんな風に大人になる過程で感受性に個人差が出てくるように思います。

心の中の子供たちはとてもデリケートで傷つきやすいけれども、想像を超える高い能力を持っていて、その子の能力をどれだけ信じられるかが、その人が発揮出来る能力の高さの決め手になる、というのが今の僕の持論です。

自己否定を止めるというのは、それがクセになっている人にとっては簡単なことではありませんが、自分に対するネガティブなことを口にすることの重大さだけは大人は意識するべきことなんだと思います。


昔腐っていた頃の僕は頑張っていた自分のインナーチャイルドを無視し続けていました。

周囲からの叱責を恐れてそれに従属するように、インナーチャイルドの頑張りやワクワク感圧迫して押し殺していました。

守ってあげるべき者に見放されていたその子の頭を初めて撫でてくれたのは、たまにしか会わない親戚の叔父さんでした。


先日、棺の中の叔父さんは穏やかに眠っているような顔をしていました。

僕は人の死というものに対して、さほどネガティブな思いを持ってはいないのですが、それでも、もうしばらくはこの人の厳しいしかめ面が見れないのかと思うとやはり寂しく感じます。


でも、もし次に雲の上で会う時に、この人が「お前よく頑張ったなぁ〜 すごいじゃない」と言ってくれたら、今度は僕は胸を張って「おれ頑張ったよ!すごいでしょ!」と言ってやりたいと思うと、なんだか元気も出てきます。

いつにも増して長くなっちゃいましたね。
しかもあまり店と関係ない…(汗)。

まぁいいや。いつものことだ。

最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

 
 

物語の効用と童話の楽しみ方(後編)

2015.02.28 Saturday 01:34
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さて、物語の話後篇です。
 
二部構成にしてまでお話ししたかった内容は、前回も少し触れました、本とは違うもう一つの物語の楽しみ方〜朗読〜についてなんです。
 
もう一つと言っても本来はこっちが先なんですよね、物語の伝え方として。
 
お話というのはその名の通り元々は話して聞かせるためのものでした。
書き文字ではなく人の肉声で物を語ってストーリーを伝えたのが、本来の「物語り」なんですね。
 
昔のお話というものはいつも口伝えで伝わっていったものです。
 
この方法の力を借りつつ、本をあまり読まない方も含めて皆さんを空想の世界に引きずり込んでしまおう、というのがこの所考えていたモクロミです。ふふふ。
 
以前からアール座では、時々朗読者の方に朗読会イベント(この6月にも毎年恒例の春日玲さんの朗読会あります)を開催して頂いておりまして、その度に朗読と言うものの力にぶちのめされていたのですが、今回何人かの朗読者の方々にご協力頂き、触れてみて、改めてその可能性の高さにワクワクしております。
 
 その表現方法の力を、まずは分りやすい所からお話しましょう。
 
前回もお話ししましたが、人の世はお話に溢れていますね。
本以外にも映画や舞台…ってもういいか(前篇参照)。
 
これら、お話の形態は大体文字メディアと映像メディアのどちらか(もしくはその複合)に分類されますが、どちらにも特有のメリットがありまして、例えば書物というものの良さは、想像が広がる、イメージを自由に描ける等の点が昔から良くあげられますよね。
 
「だから本の方が良い」と小学校の時から聞かされてきましたが、僕が思うにそのメリットの真意は自分の感覚にフィットした世界観を描ける、ということだと感じます。
 
例えばロケーションとして「路地裏」とか出て来ても、その印象に関して自分がずっと抱いてきた視覚的なイメージが作り手の提示するものとギャップを持ってしまう事がありません。
自分だけのイメージで視覚を構築出来ます。
 

一方、読み慣れてないと中々世界に入り込めないし、慣れていてもある程度の疲労(頭や目等)は伴うので、平たく言うと「とっつきにくい」という点は書物のデメリットかとも思います。
 
逆に言うと、映像メディアの大きな利点は何と言ってもその点〜入り込みやすさ〜でしょう。
 
論理的思考を介さず、視覚、聴覚といった感覚器からダイレクトに入るので、こちらから積極的に迎えに行かなくても、何にせよ入ってくる力が強いです。
 
良し悪しは別として、TVのように流しっ放しにして気楽に楽しむ、ということは、読書にはなかなか出来ません。
 
そして欠点の方も逆に、視界が固定され、従って世界観も大幅に限定されてしまう(作り方にもよりますが)という部分ですよね。
 
「どこが路地裏だよ」と自分のイメージと違う画像に限定されてしまう事もいた仕方ないのです。
よく原作の有名な映画が難しいと言われる所以ですよね。
 
さてそこで「朗読」ですが、賢明な皆様はもうお分かりでしょう。
そうです。両方の良い所をしっかり備えちゃってるんですね。
 
感覚からダイレクトにスッと入ってきて、こちらのイメージをもって世界を構築してしまいます。
非常に取っつきやすいので、脱力して入ってくるものに身を任せたまま、想像も膨らませられてしまうんです。
 
恐ろしい表現ですよね。
 
こんな所から、より多くの方を巻き込んでいく可能性を僕は強く感じております。
 
でもまぁこれは朗読の分かりやすいメリットの一つで、その醍醐味の真ん中ではありません。
 
僕は朗読に、何よりもその方法としての芸術性に大きなポテンシャルを感じています。

インプットが言語なので、イメージはこちらで自由に思い描けるかというと、そこはちょっと本とは違うんです。

声色やスピードなどの技術によって、アーティスト(朗読者)の解釈と表現が入って来るんですね。
 
だから一人で読むのと違って、ここが非常に面白いんです!
お話が変わるんですね、読む人によって。
 
例えば絵画ってそういうことですよね。
 
ただの町の星空を、頭のおかしくなったフィンセントおじさんが絵で描くと、彼が頭の中で見た星空を我々も見ることが出来ます。
 
が、それを受け取る段階で我々の元々持ってるイメージもそこに重なって(合わさって)さらなるイメージの広がりを呼ぶんですよね。
 
こういう表現者と観覧者の重なり合いって、言語芸術だと詩が近いですかね。
バロウズのカットアップ(アール座に「裸のランチ」あります)とかも幅が広がりますが、これは偶然性の介入ですね。
 
でも物語りにこういう表現者の感覚的な芸術性が介入する方法で、朗読ほどの手段を僕は思いつきません。

文字のなかった太古の人は、当たり前にこの表現をやっていたんですね。 
子供に絵本を読み聞かせるのも、何だか責任感じちゃいます。

では、その朗読を店でどうしようというのかと言うとですね…流れます。
スピーカーから、BGMみたいに。
いつでも店内に普通に流れています。
 
おもしろいでしょ、そんなカフェ。
 
朗読の「入ってくる」という威力を最大限に使った、気構えなしに楽しめるシステムで、よくあるカフェの朗読ライブとはまた違った楽しみ方ですね。
 
で、先ずは先日おすすめした童話作品(著作権切れ)から攻めていこうと思っております。

うまく進めば春先から実施予定で、今の所は夜間だけの予定ですが、お仕事帰りなんかに気軽にいらして、喫茶しつつ物語もいくつか味わって、お好きなお話を心にしまってお持ち帰り下さい。
…という計画をただ今準備中でございます!
 
これにあたり、身辺の朗読者の方々の多大なるご協力を頂いておりますが、皆さん才能ある方ばかりでこれっきりでは勿体無いので、もっと違う方向でも何か出来ないかと色々な可能性を考えてしまいます。
 
実を言いますと、僕も挑戦しました。
朗読に。
 
少し読んでみて「うん、なかなか良い声出てるな」と思ったんです。
そして、本気で読んで録音もしてみたんです。
 
よく誰かと自分の録音した声聞いて「えー!おれこんな変な声なのー!」「お前そんな声だよ」という会話ありますよね。
 
で、録音聞いて、やめました(ちゃんちゃん)。
へたくそな奴がすごいカッコつけて読んでるイケ好かない朗読でした
(T-T)
 
凄いんだな…朗読出来る人って。
 
でも実は今少しずつ練習してます。
 
というわけで、春先をメドに、エセルは物語のお店になります。
 
もちろん今まで通り、お話も普通に出来ますよ。
意外と双方邪魔にならずに出来ます。
専用スピーカーのある席もあります。
大騒ぎのみご遠慮ください(しないか)。
 
まだもう少しかかりそうなので、やはり多分春先ですかね。
完成しましたら又お知らせしますね。
 
がんばった!二部構成!
 さて、仕事仕事。 


星月夜/フィンセント・ファン・ゴッホ
 
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物語の効用と童話の楽しみ方(前編)

2015.02.24 Tuesday 02:09
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皆様こんにちは。
 
新年の挨拶以来の更新ですが、まぁいつも通りのペースです(すっかり悪びれなくなりました)。
 
三寒四温の季節ですが、心身共にバランスに気をつけた方がいい時期ですね。
 
この時期になると、決まってバイオリズムを崩してしまう方も少なくないと思いますが、「毎年崩す」と決めてかかると体も心もそういう風に納得してしまいますのでね。
 
「今年は一つ、崩さずに乗り切ってやろう」という気概も大切かと思います。
 
そんな皆様の心の保養にも、アール座はやはり読書をおすすめします。
 
ただ、読書と言っても色々ありまして、タイミングを間違えると心の中をかき乱されてしまうような本もアール座には多いです(汗)。
 
繊細な季節なので、今回は童話というものを少しおすすめしてみようかと思います。
 
こんな店をやっている割に、僕は「人はもっと本を読むべきだ」とかあまり思わない方なのですが、童話や絵本に限ると話は別です。
 
大人が一番読むべき書物があるならこれだとさえ思います。
童話なんかとても読みそうにないタイプの大人の人については特にそう思っちゃいます。
 
無駄なく研ぎ澄まされた優れた童話を読んだ後って、児童文学以外の書物はもう読まなくていいのかなとすら思ってしまいますね(雲の本で感動した後は「雲以外の書物はもう…」と思うタチですが)。
  
 読まれる方には周知のことですが「童話=子供向けの話」ではゼンゼンないですよね。
やさしい表現を使いながらも、大変奥深かい作品が多いです。
 
それに、何と言うか作りがとても丁寧で繊細です。
 
人格形成の時期の読者を対象にしているから作家さんも細心の心遣いがあるのでしょうか。
意図的にか無意識にか知りませんが、作り手の自己主張や自己満足につながるような表現(芸術性としては必要なものと思います)も極力削り取られているような気がします。
 
だから僕は童話というものは、装飾の少ない最低限の表現で、物語のエッセンスのようなものをシンプルにダイレクトに味わえる作品、という印象を持っています。
 
作品の対象年齢が低い程この感が高くなりますね。
 
1,2歳児向けの言葉数の少ない絵本なんかではこの傾向が特に強く、松谷みよ子や石井桃子クラスになると、言葉も何だか神がかってきます。
 

ウチには2歳の子供がいるのですが、これが眠る前に毎日のように読み聞かせている絵本を脇に抱えては今日も読んで読んでと激しくせがんでくる勢いは、甘いお菓子を欲しがる時以上ですし、しまいには文字も読めないくせにページをめくりながら正確にストーリーを読み上げていく(暗記してる)のには驚かされます。
 
こんな年端も行かない子供が、多分本能的に、これほど強くひきつけられる「物語」っていったい何なのでしょう?
 
思えば人間界ってお話に満ちています。
 
本以外にも映画や舞台、漫画やTVドラマだって歌だってお笑いだって、全てお話です。
純真無垢な幼児から暴力団員まで、みんな人はお話(ヤクザ映画含む)が好きですよね。
 神話や昔話のない国や宗教ってのもないでしょう。
 
きっと人間は物語なしでは生きていけないんです(ラピュタのシータの声で)。 
なぜ人はこんなにもお話を必要としているのでしょうか。
 
人間の心や暮らしと物語の関係性については昔から心理学などの研究対象としてよく取り上げられる題材ですが、個人的にも大変興味のある所なんです。
 
先ずは独断で語ってしまいますが、「物語性」というものを僕は「出来事を単なる事象の羅列としてではなく、全ての出来事が結末に向かう何らかの意味を持って(起承転結のように)その関連性を捉えられていくような、またそれがある感情や感慨を伴って体感されるような認識の仕方」という風に考えています。
 
一生懸命意味をまとめたら何だか大学生のレポートみたいな文章になってしまいました(汗)が、とにかく起こった(ピックアップされた)出来事が全てストーリーに関係しているというのが一つの分かりやすい特徴ですよね。
 
例えばドラマの中で、電車のシートにものすごい大男が座っていて「何あの人!大きい〜」という主人公の台詞と共にその体躯の足元から頭上までカメラを振っていくようなワンシーンがあったとして、この大男がそれっきり物語に登場しなかったらちょっと意味分かんないですよね。
 
物語の中では無駄な出来事って存在しないんです。
 
で、この「無駄な出来事って存在しない」という物語的な認識が、現実を生きる人に必要とされている気がします。
 
それはきっと「人が体験した出来事をその人生の中に意味づける」という大切な仕事が、この物語性という意識の中で行われ、またそういう認識方法が物語を楽しむ中でのみ自然と培われるものだからではないでしょうか。
 
人がふと何かを思いついて、その思いを巡らし、やがては夢を描くようになり、心を決めて動き始めたものの思うようには事が進まず、散々な目に遭いながらもどうにも諦める気になれず、もがいていく内に何かが変わり始めて…何ていう人生を続けて行けるのも、その全ての出来事を一貫した流れ(ストーリー)としての意味と感慨を持って感じられるからじゃないかと思います。
 
起承転結やストーリー性というものを全く知らず、人生に起きるアクシデントの一つ一つを、ただ偶発的な出来事の連続、もしくは単なる因果関係としてしかとらえられなければ、人は上のような人生を絶対に歩めない気がします。
 
だって、今味わっている苦しみの先にこういう結末があるはずだ、今の出来事がこの先の何かにつながるはずだという思いやワクワク感が多少なりとも感じられなければ、何と言うか正直もうやってらんないですよね…色々(笑)。
 
逆につらいことを「すごくつらい」と実感することも、それを乗り越えるために必要な精神の段階かと思いますが、こういうのも意識の中の物語性が担ってくれる仕事です。
 
現実の事象を物語として構成出来る力があるからこそ、人間は何かを目指して開拓をすることや自分の身に起こる出来事にどんな意味があるのかを見出すことが出来るし、またこれが文化を持たなかった他の動物との決定的な違いではないかとすら感じます。
 
こう理屈っぽく書くと何だか研究仮説のような話にも聞こえてしまいますが、現実にはこれ、間違いなく皆普通にやっていることですし、特に言いたいのは、お話が育む想像力って本当に生きる力になるということなんです。
 
そういう気質を幼児の内から備えている人間て、やっぱり自分の何かしらを切り開く宿命を持って生まれて来てるんでしょうかねぇ。
 
いずれにしろ、沢山の物語に触れれば触れるほど自分の身に起こる些細なことがより色鮮やかな意味を持って感じられ、人生もより深く見えるようになる、という事は本に触れていても頻繁に感じられることです。
 
だからファンタジーって意外と有意義なんですよね。
 
もちろん物語を読むのは楽しむためで、そんな勉強のようなことのためでは全くないのですが、昨今では、逃避してないでもっと現実を見ろみたいなことばかり言われる世の中で、幻想や物語に触れない分現実への意味づけが浅い人も何だか多い気がするので、ちょっと声を大にして言いたいところですね。
 
意外と有意義なんです。
 
 想像力(=物語的構成力)って生きていくためにとても必要なもので、逆にこんな時代を生きる上でそこが欠けるのって、結構危険な気もします(そして結構欠けてる)。 
 
もっと皆、物語に触れたらいいのにという思いもあって、今回は最も親しみやすく、物語性剥き出しの文学である童話作品をおすすめしたいのです。
 
まぁ、ウチのお客様方本当に感受性のアベレージが高いので、こういう進言じみた内容を伝えてもあまり意味がない気もします(ふつうにご存知)が、実はその他にもう一つ物語をおすすめしたい事情もあるんです。
 
この度進行中の企画についてで、これもまた3階(エセルの中庭)の話なんですけどね(汗)。
 
アール座読書館は開店当初から、一般的なブックカフェと区別するために「読書喫茶室」(造語)と名乗って(全く浸透しておりません涙)ファンタジーを楽しむ場所を目指してきましたが、今それとは違う、物語を楽しむもう一つの形と可能性に挑戦している最中です。
 
それはズバリ「朗読」という表現を使った企画で、エセルの中庭の新しい試みです!
 
今改めて感じさせられているのですが、本当に素晴らしいんです、この表現。
素晴らしいんです…が…もうさすがに長いので、これは次回にまわしましょう。
 
ブログ初の前後編仕立てです(すみません)。
 
さて、アール座の書棚には基本的に、難しい書物や大作よりもパッと手に取ってどこからでもいきなり読めるタイプの軽い読み物や眼で楽しむビジュアル系の書物を多く揃えておりますので、絵本、童話、児童文学の類は結構充実しています。
 
書棚で言いますと、向かって左から2列目の上から2段目にファンタジーや物語のコーナー、3列目の一番上段には大人に読ませたいタイプの幼児向けの本、2段目には絵本のコーナー、一番左の書棚の中段あたりには、ほるぷ出版による近代児童文学の復刻版シリーズが並んでおります。
 
そしておすすめ書棚に、その選り抜きを並べておきますね。
 
ファンタジーの神様、宮沢賢治の短編童話集は言わずもがなですね。
その表現の独創性と病的と言って良い程の想像力、そして何よりも色彩などの視覚的イメージがすごい人ですね。
「黄色いトマト」という作品に出てくる田舎の博物館の描写はアール座やエセルの空間作りにも大きく影響した僕の心の原型イメージの一つです。

もう一方の近代ファンタジーの雄、小川未明は芸術性が非常に高く、童話の域を超えています。
文章表現もちょっと怖いくらいに鋭敏で美しいですね。
 
それから、ほるぷ出版の復刻版シリーズからの抜粋です。
このシリーズ、フォントや紙質まで非常にマニアックに再現していて、その仕事ぶりには感心します。
一体いつ作ったんだろうと巻末の初版年度を見るも、そのページまで原典の完コピなので、復刻版がいつ刷られたのかすら分からず、すごく奥ゆかしい感じがします。
 
昔の童話って、子供に世の習いや善し悪しを示すための教訓ぽい話が多いのかと思いきや(そんなのも多いですが)、成人文学を凌駕する大変繊細な心理描写や情景が描かれているものも多く、昔の童話作家の真剣さを感じます。
 
 その最たる例の新見南吉や塚原健二郎等も楽しんでみて下さい。
 
又、コーナーに並べてみて分かるのですが、装丁のグレードの高さも必見です。
 
 
さて、次回は朗読の話をさせてもらいますが、これはさすがに近々更新いたしますね。
すごくお話したい内容なんです。
 
だからマスターがんばります。

 
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昨年もお世話になりました

2015.01.02 Friday 02:31

皆様、新年明けましておめでとうございます。

このブログにしては珍しく、新年からのご挨拶になりました。

2店舗経営になってからというもの、このブログから毎月ご挨拶することもなかなかかなわず、すっかり営業案内の掲示板に成り下がってしまいましたね
(前回、秋の鈴虫の話だし…)。

そうこうしている間に年も明けてしまいました。

  

今年も沢山の皆様にお越し頂き、またご協力頂いて、お店を営業することが出来ました。

 

こういう事のありがたみや感謝の気持ちは本当は言葉にはならないものがありますが、でもやはり一年の締めくくりとして言葉にしちゃいます。

 

2014年、アール座読書館及びエセルの中庭においで頂いた全ての皆様に心よりの感謝を申し上げます。

皆様の生活の大切なひと時をアール座読書館(そしてエセルの中庭)で過ごして頂き、本当にありがとうございます。

またいつも、こうした形の経営をご理解頂き、本当にありがとうございます。

へんてこな喫茶店ですが、お客様がこんな形に少しでも共感を頂けることがあれば、それは本当にありがたい事なんだという実感が年を追うごとに強く実感されてくる次第です。

コレ毎年言ってるような気もしますが、本当にお陰さまなんです、ウチの場合。
皆様のご理解とご協力がないと簡単に成立しなくなってしまう店なんですね。

なのでこのかしこまったようなご挨拶は、僕の心情的にもはずせません。

 

そしてお陰様でアール座読書館、満6歳になりました。

 

2007年末からプレオープンのような営業を始め、年が明けてから、のしかかるような不安の中で本格的に営業を始めたのですが、それにしても6年てホントでしょうかね。

 

その頃の日々を昨日の事のように覚えているので、ちょっと信じられないです。

 

店内の真ん中、大きな水槽のお席の右側の壁に小さな額縁に入った魚の絵が飾られているのをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか。

 

まだお客様が一日に数組でこの店はやっていけるのだろうかと不安だった開店当初のある日、小さな女の子がお母さんに連れられて来店し、あの席に座りました。

 

読書するお母さんの横で、ずっとうつむいている女の子の後頭部を見ながら「あんな小さな子が喋れない店に来ても何も出来ないし、つまんないよなぁ」「何でこんな店作っちゃったんだろう…」などと、ネガティブ全開で腐っていた僕でしたが、その子が帰り際に満足気な笑顔で「お魚の絵を描いたからあげるね」と、時間をかけて鉛筆で大変良く描き込まれた素敵な作品を手渡してくれた時には、何というかもう、色んな意味で、何かもう、鼻血出そうでした(ウマく言えない…)。

 

あれから6年、その子も今頃はきっとスマホ片手に彼氏とケンカしたりしてるんでしょうか。

 
 

さて来年はアール座もどうにかこうにか7年目に突入です。

7年というと、もう何だかこの店の進退も自分だけの問題ではない感じですね。
ある種の責任のようなものを感じます。

以前はよく街で「長い間ありがとうございました」と最期の営業看板を出しているお店を見ると、ふと、アール座の最後はどうやって終わるのかななどと冗談で考えたりもしたものです。
 
時々考えていたパターンは、ある日突然何の告知もせずに店内を跡形もなく取り払って、コンクリートの空き部屋になったその室内に、80歳くらいの男性の役者さんを雇ってホームレスの格好で仕込んでおくというものです。
 
いつも通りいらしたお客様が驚いて、まるでそこに長く住み着いているかのような男性に「あれ?ここにあった喫茶店は?」と尋ねると、男性は「何言ってるんだいあんた。ここはもう何十年も空き家だよ」と答えます。
 
「そんなはずは…ついこの前まで…アール座読書館というお店がここに…」
 
「何だいそりゃ…アール?…アール座… ああ、そう言えばずっと昔そんな名の店がここにあったなあ。眼鏡をかけたやさ男のマスターがいたが、空襲で店と一緒に焼けてしまったんだっけなぁ…あんた、そんな古い店よく知ってるねぇ」
 
という展開で、皆さんに「じゃあ、私がここで過ごしていた時間は一体…?」という幻のような記憶を残してミステリーっぽく終わる演出です。

やりませんよ、もちろん。そんな恩知らずなこと。
無理ありますね。
食べログとかヒットするし。

それにもう7年目となるとそんなことも出来ませんね(当たり前だ)。
10年20年とがんばっていこうと思っております!
 

 

そして3階店舗も形を変えて再始動です。
 

先月からようやっと営業を再開しております(休業期間中にお越し頂いた方々にはお詫び申し上げます)エセルの中庭ですが、今年は「森の中で読書」というコンセプトを目指したアール座とはまたちょっと違う情景を作り上げてゆくつもりです。

正直な話をしますと、こちらの店に関しては少々迷走しておりました
が、ようやっとビジョンが見えて参りました。


思春期を迎えた主人公エセルちゃんのメンタルが、色々あって少しアングラな方向に寄った感じでしょうか。
よく分かりませんが、幻想的で少々妖しげな空間にしたいですね。
 

照明が暗いので読書には不向きですが、こちらでは本とは違う形で物語など楽しんでもらえたらとかも考えております。
もちろんお話も出来ますので、お連れの方とが来店の際にはぜひご利用下さいね。

また、メニューや特に平日のご利用に関しましては少し形態も変わりましたので、詳しくは
ブログの方をご確認下さい。


そんな訳で、本年も
少しでも皆様の心の休憩所としてお役に立てるようがんばりますので、どうぞアール座とエセルをよろしくお願い致します!

ではまたお店でお会いしましょうね。
お会いして下さいね!(なんちゅう日本語)


店主



 

 

 

秋の夜長の過ごし方 と エセルの中庭に関するお知らせ

2014.09.04 Thursday 01:39
いい季節ですね!
柿!栗!梨!読書!アール座!
最もアール座的な季節、秋がやって来ました。
 
皆様こんにちは。
 
お。2ヶ月ぶりのブログ更新。
早いぞ(早いか?)。
 
毎年思いますが、本当にいい季節。
大好きです。
 
さてこの季節には外せないお知らせがあります。
お馴染みの方はお分かりでしょうか?…秋のアール座風物詩…
 
そう!スズムシ!
やったー!
まだ暑いけど、すずむしの音色で涼むし!
 
…何かいつものテンションと違うかな。
近頃遠ざかっていたせいで、ブログ書く時のキャラが微妙に分からなくなってしまいました。(・・;)
 
とにかく今年はやります、秋の虫オーケストラ
よかったー、やれて。
 
去年は色々あって出来なかったんですね。
楽しみにして下さっていた方々、本当にごめんなさいでした。
 
今年はぜひ来てください。
実を言うともう鳴いてます。
ナカナカいい雰囲気ですよ〜。
 
秋の虫イベント、ご存知ない方はこちらにどうぞ→2010.9/11.9の回)
 
今年入荷している虫はお馴染みのスズムシ、マツムシ、エンマコオロギ、カンタンの4種です。
 
毎年言ってますが、鳴く虫の中でも特に美しい声の種だけをカルテットで聞ける環境ってそうそうないです。
 
もちろん近所の公園のベンチでコオロギ(スズムシはまずいません)の鳴き声聞いてもゼンゼン良いのですが、いずれにせよ、せっかくこれだけ季節の豊かな国に暮らしていて、虫の声を楽しまず秋をやり過ごしてしまう人生ってないですよね。
 
僕は、つくづくそう思います。
去年自分がそれをやってしまったから…
 
作業やお勉強もしやすい環境なので、最近ではその目的で使って下さる方の割合も高いのですが、店本来の目的としてはむしろそういったことを忘れるための場所として作られている部屋とシステムなので、そんな方には、合間の一時でもいいので作業の手を休めて、ただ虫の音に耳を傾けて過ごしてみる時間を持たれることもおすすめします。
 
アール座空間の本当の威力が発揮されますよ〜。
 
あの中でずっと営業していると、どんな条件が揃うのか、時々いつにも増して濃い静寂とちょっと恐い程の神聖な空気が、何だか時間のエアポケットのようにふと訪れる瞬間があります。
 
一緒にいるお客様も同時に感じられるものなのか良く分からないのですが、ふと訪れる、時間が止まったような、静寂の何とも濃厚な時間(無音というのとは違います)という感じです(説明難しい…
 
虫の声響くこの季節には、そんなアール座的雰囲気が最高潮に達するような時間も特に多いです。
  
厳しく忙しい世の中にあっては、課せられているものや強いられている現実から離れて遠慮なく現実逃避をすること、厳しいことばっかり言う社会の意識に抗ってそれを自分に許す時間を頻繁に持つことが、絶〜っ対!!!に必要なことだとアール座読書館は考えますが、秋はこれをする最も良い季節でもあります。
 
以前にも書いた気がしますが、僕が季節の中でも秋を特に大事にするのは、そこが季節の巡りを最も色濃く感じさせるひと時だと思うからです。
 
忙しく過ごしてしまう人は自分の予定や考え事に埋もれて(僕です)ついつい忘れてしまいますが、ふと外の世界を見やるとそこにはいつでも必ず季節があって、自分の状況なんぞとは全く無関係に、常に同じ足取りで流れてゆくんですね。
 
自分が、この優しいような冷たいようなとてつもなく大きな流れに乗って運ばれているという事実って、実は抱えているどんな重大な問題や深刻な悩みよりもずっと大事なことなんじゃないかと思えてきます(いいこと言った)。
 
賑やかだった夏が終わる頃から冬の入口に向けてのこの時期、僕は否が応にもそんな時節のうつろいを強く感じさせられてしまいます。
 
秋の虫の音って、現代を生きる人々をそんな風に我に返させる力がありますね。
 
虫が鳴くのは例年9月末頃までです。
 
良く鳴いてる間はいつものようにBGM切って、虫の声ハンドブックをお座席に置いておきますので、ご覧になりながらゆっくりお楽しみ下さい。
※虫達の調子や時間帯、天候等の条件により、良く鳴く時と声が止む時があります(時差ボケもアリ)。
 
 
さて、それからもう一つお知らせです。
 
アール座の上階にある姉妹店「エセルの中庭」に関してなのですが、9月から少しの間お休みをいただいた後、少しシステムを変えて(お話が出来なくなるということはありません)の再営業を予定しております。
 
あちらのブログではお知らせしていたのですが、それに際して大幅なメニューの変更がありまして、フードメニュー等は一旦終了となります。
 
ぶっちゃけてしまうと、まぁ経営が少しずつキツくなって来て、システムごと変える必要に迫られたというトホホな事情なのですが、ご利用されていた皆様には心よりお詫び申し上げます。
 
特にエセルのメニューに愛着を持ってご利用頂いていた方々、本当にごめんなさい。
ご好評頂いていたものはまたいつか復活出来たらなぁとも思っております。
 
取り敢えずの秋からの形として可能性が高いのは、アール座と同じようなメニュー構成でスタッフが2階と同時に対応させて頂くような形です。
 
ただ以前より考えていたコンセプトと方向性は踏まえた上で、ここから別の形と可能性を目指して起ち上げていこうと思っておりますので、アール座共々よろしくお願い致します。
 
何が出るかはお楽しみ!…というかまだ固まってない!
 
ただ僕も、ひとまず再スタートを切る前に、この秋は久しぶりに季節など感じながらゆっくり進もうかなとか思っています。
 
考え過ぎて頭の中が一杯になると新しいものが出てくる隙間がなくなる、とか聞きますよね。
ちょっと怖いけど、まぁ秋の香りでも楽しみながら、考えるのは一切やめてみようかという所です。

 
こんなタイミングで虫の声に包まれるというのも、きっと何かの縁なんでしょうか。
やっぱり秋は優しいなぁ。
 
近頃は気候がおかしいとかグチる前に、先ずは季節のめぐりに感謝ですね。

ただ、皆様も気候の急激な変化には気をつけてくださいね。

 
 
 
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お手紙のすすめ

2014.07.04 Friday 01:18
暑いですね〜。

…てか、皆様お久しぶりでございます。
何と年末以来の更新です。
 
以前は月一更新でごめんなさいとか言ってましたが、このまま行くと年一更新です。
いいんでしょうか?こんなブログ。
 
「もうやめてしまえ」という声も聞こえてきそうですが、でもやめません。

イイんです、もう…ゆっくりでも進んでればo(T^T)o
…と考えることにしましたが、でももうちょっと頑張らなきゃですね。
 
さて、今回は久々にアール座に登場する新企画をお知らせしようと更新しました。
 
この所しばらく、アール座の方では目新しいことを何も出来ずにいたのですが、本来この店はもっとエキセントリックな空間でなければ…という思いは常に抱いておりまして、で、もういいかげん動かさなきゃという気持ちが臨界点に達してきたので、その第一歩です。
 
新企画は、題して「お手紙セット」。
 
あれ?…あまりエキセントリックな感じしないですかね。
 
これはいわゆるレターセットの販売という意味ではなく、ドリンクに付ける「ケーキセット」のような、ワンドリンク(どれでも)とのセットメニューの名前です。
 
「お手紙セットでアールグレイショコラ…」みたいな注文になるのですが、要はお茶をしながら誰かにお手紙を書いて出してもらう、という企画です。
 
やっぱり何だかよく分かんないですね。
 
今3階のエセルでもお食事とそれにまつわる物語がセットになったメニュー(石垣/午後のランチ)というものをやっておりますが、アール座でもこんなことがもっとエスカレートして「飲食店だか何屋だかヨク分からない店」になってしまうというのは僕の一つの夢でもあります。
 
 
さて、皆さんはお手紙書いてますか?
 
近頃ではキーボードを使うことが増えましたので、書き文字の方がちょっと特別な様式のような感じすらありますね。
 
「ここは一つ手書きで」というようなフォーマルさや逆に砕けたニュアンスを出すのに使われたりします。
 
若いスタッフの話によると、今でも高校生は授業中に紙切れにいらんこと書いて友達の机に回したりするんですってね。
メールの普及と共にすっかり失われた文化かと思っていましたが、人って変わらないもんですね。
 
書籍に関しても「紙媒体はいずれ電子書籍に食われて無くなる」と、もう十年以上前から言われてますが中々無くならないのに似ている気がします。
 
やはり手作業というものは肌になじむというか、感覚と簡単に切り離せない何かがあります。
 
 
ただ、僕は「文字は人を表す」という言葉を聞くとお腹が痛くなります。
 
ブログでは分からないのですが、何を隠そう、僕はちょっと恥ずかしいほど書き文字が汚いのです。
 
もともとブキっちょなんでしょうか、小学校1年生の時、すでに周りの子達と差があることを感じた記憶があります。
 
で、3年生位になると、もう恥ずかしくてワザと乱雑に書くようになってましたね。
無意識にですが「本気で書いてないから汚いんだ」とでも言うように。
 
でも先生や大人達はそれが分かるから「汚くてもいいから丁寧に書きなさい」と言ってくれます。
 
所が僕にはこれが出来ない。
丁寧に書いて汚いとなるともうゴマ化しようがないから、とても恐いんです。
 
それでも何度も同じことを言われるので、たまに仕方なく丁寧に書きますと、文字は少しマシにはなるのですが、やはり皆よりはヘタクソ。
 
これに対して大人達は一生懸命丁寧に書いたことを喜んで「キレイに書けるじゃない」とほめてくれます。
しかしヒネクレた僕にとってはこれも何だかやり切れない。
 
優等生の子なんかすでに大人のようなキレイな文字を書いているのに、明らかに汚い字の自分が褒められているというのがたまらなく恥ずかしくて、更なる劣等感を覚えてしまうんですね。
 
大人達にしてみれば良かれと思っての行為なのですが、ヒネた子供は難しいものです。
 
こんな感じで、その後も勢い良く捻じ曲がりながら蔓草のように絡まった思春期を迎えてしまう僕は、
「字は人を…」という言葉がいかに言い得ているかを身にしみて知っているワケなんですね。
 
その後大人になってからペン字を習い、今では立派に…とも行きませんで、未だに乱雑に書いてしまうクセは抜けず、日が経った走り書きのメモなどには解読不能はもちろん、むしろアラビア文字の方に近いフォルムの文面も多いです。
 
ただ、今ではその原因が分かっていて、とにかく鉛筆の持ち方がひどいんですね。
 
3本の指先でペン軸を支えるのが理想的なのに対し、僕の持ち方には指が曲がりがちなクセがついていて、長時間書いている時など、気がつくと握りこぶしの親指と人差し指の間にペンを挟み込んだような形になっていたりします。
 
これを矯正するのに人差し指の指先とペンを輪ゴムで固定するという方法をどこかで知って、長期的にやればこれはかなり良さそうだと思ったのですが、まぁやってません
 
さて、手書きをおススメしようと書き始めていたのですが、私は一体何の話をしているんでしょうか。
こんな奴にススメられたくないという内容ですね。
ムダなカミングアウトをしてしまいました。
 
こんな僕には幸か不幸か、手紙よりもメールが主流の昨今ですが、それにしても活字でのコミュニケーションってとても難しいですよね。
 
とにかく細かいニュアンスが伝わりにくく、語尾のイントネーションのとらえ違いで意味合いがずれたり、何よりもその場の空気というものがない。
 
近頃では皆いらない誤解を避けるために、あらゆる言い方や絵文字や記号を駆使しつつ色々とテクニカルにやってはいますが、でも会話ってそれと比較にならない位繊細で高度なやりとりを無数にしているんですよね。
 
人の脳は相手の声色とか目線とか微細な要素の情報を無意識レベルで捉えて次々に分析しているらしいです。
 
どんなに乱暴な言い方をされても「この人に悪意はない」と思えたり、なぜか分からないけど、直感的に「この人ウソついてる」とか感じたりするのって、きっとつじつまよりもこの辺の作業が利いているのでしょう。
 
実際人間同士のコミュニケーションの中で言語情報が占める割合って20%(だったかな?とにかく思いの他低い)程度なんだそうです。
 
我々は会話といっても、実は話なんか大して聞いてなくて、動物と同じように仕草や表情や声色から相手の感情や意思を読み取ってるのでしょう。
 
メールが難しいわけです。
 
さて、それに対して手紙の話ですが、不思議とこっちの方がメールよりはるかに伝わる気がしません?
 
同じ文字情報なのですが、なぜだか手紙って紙面から空気や感情がよく伝わってくる感じがするし、誤解もメールに比べて少ない気がします。
 
手書き文字の様子にある程度書き手の感情的な情報がのる、というのもあるかも知れませんね。
 
でも、僕はもっと非科学的に「書いている時の気が紙に乗って届く」という風に考えたいです。
手から思いや気をたらたらと流しながら書いているんじゃないかと…。
 
この辺は確かめようもない話なのですが、アール座のらくがき帳を読んでいると、そうとしか思えない感覚を味わいます。
 
昔、よく万博とかで「20年後の自分にお手紙を」などと銘打ったタイムカプセルの手紙版みたいな子供向けの企画があったりしましたが、「あぁ、あるあるこういうの…」と軽くバカにしながら参加したら、20年後に本当に実家に届いたそれを読んでボロ泣きしてしまった奴を知っています。
 
子供の頃の作文て、当時の自分の姿を思い出させる力が写真より強力ですよね。
手書き文字の威力をナメていたのでしょう。
 
なので、手紙です(やっとつながった!)。
 
汚文字のお前に言われたくないと思われるかもですが、実は僕、手紙は良く書いていたんです。
 
年賀状等の慣わしものは基本的にやりませんが、誰かに感謝の気持ちを伝えたいと思った時、特に年配の方に対しては手紙を書きます。
 
この時ばかりは僕も気を鎮めて、人差し指に輪ゴムをかけて、昔大人たちが言ってくれた「汚くてもいいから丁寧に書きなさい」という言葉を今更ながらに思い出して、ゆっくりと一生懸命書きます。
 
でも、そうするとこれがヘタクソながらも悪くない文字で、中々伝わります。
 
ヘタでも一生懸命書かれた文字を大人が褒めてくれていたのはウソじゃなかったんですね。
やはり文字情報ではない、ありのままの何かが紙面ににじむ感じがあります。
 
所で、よく年配の方が習い事なんかでされる「絵手紙」というのがありますね。
手すき和紙のハガキとかに水彩画で野菜かなんか描いて一筆添えて手彫りの落款を押すアレです。
 
絵手紙なんてこうした表現方法の、一つの究極の形かも知れません。
 
僕は最初あれを、自由気ままで穏やかな老後の趣味のようなものと考えていたのですが、本だったかNHKの講座だったかでそのルールを知って、ガラリと見方が変わりました。
 
全般的なルールなのかその先生の主義なのかは分かりませんが、その決まり事を要約すると…「絵手紙は、下書きや草案はせず、いきなり絵の具を使って一発本番で一息に(しかしゆっくりと丁寧に)決めて、訂正や書き直しも許されず、更にどんな形に仕上がっても必ずそれをポストに投函しなきゃいけない」というような内容でした。
 
何とも恐ろしい掟です。
 
「失敗したならそれこそ今のお前の姿なんだ!」とでも言わんばかりのこの鉄則は、体裁を整えることを許さず、書き手の今のありのままをさらけ出すためのメソッドなのでしょう。
 
リセット世代にとっては地獄の掟としか思えませんが、でも確かにこうすることで、余計なものを全て剥ぎ取った今の自分そのものを伝えられる潔くも爽やかな方法です。
 
結局の所、手紙の目的ってこれにつきるんですよね。
 
そこまででなくても、手紙には全般的にそんな要素があります。
 
 
で、ご紹介する新企画です。
 
「立ち寄った喫茶店にお手紙セットとか売ってたから…」と理由をこじつけて、特に用もないけど最近どうしてるのかな?という人に突然手紙を出してみましょう。
 
これがうたい文句です。
 
もちろんこれは利用法の一例ですが、思い返してみると、そう言えば最近どうしてるかなって人いますよね。
 
久しぶりにその人のこと考えてた翌日に向こうから連絡が来た、なんて話も耳にします。
 
人と人にはいつでも縁というものがありますので、気になる人や特に何となく言い残してることがある人なんかには生きている間に言葉を伝えておくのは、例え何も起きなくても、生活に何かしらの前進を与えるという意味で良い気がします。
 
逆に、死んでから「どうしてもこれだけは…」と伝えに行くと、相手にものすごく迷惑をかけます。
 
最近ではfacebookなんかで疎遠になってた幼馴染と…なんてのもあるようですが、手紙が違うのはそこからコミュニケーションが再開してゆくことを前提にしてない所でしょうか。
 
僕がオススメするのは、相手のリアクションを期待しない、ただ言葉が伝わればいいなというだけの軽いお便りです。
 
メールというものが、出した時点である程度返信を要求する意思が入ってしまうのに比べて、リアクションがあってもいいけど、別に返事が来なくてもそれはそれでいいし、という軽い気持ちで何かを伝える場合に、郵便は都合の良いシステムだなぁと思います。
 
逆にいつも会っている親しい人に、敢えて手紙で改まってみるというのも面白いかもですね。
「手紙?!何?やだ〜。きゃー…」という恥ずかしい感じも、何か楽しいかと思います。
 
この最もレベルの高い形が「親にあらたまって感謝を伝える」というやつでしょうか。
 
すんなり出来る関係の人や、ちょっと言う気になれないという人まで様々な形がありましょうが、この行為一発がその人の今後の人生に与える影響って、出来ない人程デカい気がします。
 
生きている間にこれが出来る人って何割くらいいるのでしょうね。
もちろんそれがどんなに気まずい結果になろうとも、当店は一切の責任を負いません。
 
「所でお前は出来るのか」とか言われそうなので、もうこの話題は終わりにしましょう。
 
 
「手紙セット」というのは、ワンドリンク(お好きなものどれでも)+レターセット、切手、さらには筆記具のレンタル一式を1000円にまとめたセットメニューです。
 
詳細は以下の通りです(ショーケースに実物が置いてあります)。
 
貸出分
ガラスペン1
羽ペン1
インク黒/緑/赤(2色はパフュームインク)
ペン先、洗浄ボトル等のセット
シーリングスタンプとワックス、キャンドル等のセット
 
ご使用分
封筒1枚と便せん4枚
80円切手一枚
 
 
切手とレターセットがあるので手ブラで来ても、思いつきでお手紙出せちゃうし、何と書いたお手紙は店内のポストに投函するとそのまま配達されます(セットをご注文の方のみのサービスになります)。
 
筆記具は、きっと誰しも一度は憧れたことのあるクイルペン(羽ペン)と書き味が良いと評判のガラスペン(世にも美しいルビナートのベネチアンガラス細工)という最強コンビです。
 
「買ってみたいけど高価だし、実際使ってみるとどんなもんじゃろ」という方や「インク壺でつけペンってやってみたいけど、管理や維持が大変そう」という方に(CMみたい)、その面倒なトコだけ人にやってもらう、というのもメリットです。
 
同じくルビナートの美しいガラス壺も使ってみたい心をそそるアイテムの一つです。
 
インクは黒と香り付きカラー2色のセット。 
ほんのりとした香りの文字を読んでもらうのも一興です(香りは配達時間によっては薄まります)。
 
気持ちを込めた手紙が書けたら、最後は蝋燭に火を灯して封蝋をしましょう。
 
この、人に想いを伝える行為の最後に封蝋印を押して閉じるという行為は、送るものや自分の気持ちも含めた全てを締めるという意味で、僕は最高の方法だと思います。
 
東西を問わず昔の貴族趣味って本当に、何というか、分かってますよね(ウマく言えない…)。
 
セットをご注文頂いた方なら、もちろん筆記具やシーラー、便箋などご自分のモノを使われていても配送致します。
 
後はポストに投函してしまえば後悔してももう後の祭りです…が、店内ポストなら「やっぱりちょっと待って!」というのもある程度通用しますので、そんな時はお申し付け下さい(笑)。
 
今の所セットは一組みしかご用意がないので、申し訳ありませんが他の方がご利用されている場合はその旨ご了承下さい。
 
こんなもくろみですが、何となく伝わりました?
興味ある方は、いらした時にショーケースだけでも覗いてもらえれば何よりです。
 
いつも長いブログを読んで頂き、ありがとうございます。
恒例の読んで頂いた方特典で、レンタルセットの木箱の底面にシールセット貼り付けておきます!
お手紙に使えるものあったらご自由にどうぞ。
 
それではまた年末に…(ウソです)。
 

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年末のご挨拶と所信表明に代えまして…

2013.12.31 Tuesday 02:51
あっという間に年の暮れです。

…というか、皆様大変ご無沙汰しておりました。

 
前回まともにブログを更新したのはいつのことだったでしょう?
 
いつも気にはなってたんです。
更新しなきゃ…って。
 
そして、いつの間にか今年も暮れです。
もう言い訳もありません。
 
みなさま今年はどんな一年だったのでしょう?
 
僕にはなかなか辛くしんどい一年でしたが、目まぐるしい学びの一年でもありました。 
 
ちょっとナメてたのかもしれません。
「一店舗の店番をしつつもう一店舗を作る」という計画を…。
 
ゆっくり楽しみながらやっていければ、という感じでゆる〜く考えていたのですが、まぁそんなに甘いものじゃないんですね。
 
当たり前だ。
アール座一軒でも大変だったんだから。
 
そんな中、営業に関する不手際もあったかと思います。
 
せわしなく2階と3階を行き来しつつでの営業で、2階のお客さんをお待たせしてしまうこともしばしばでした。
 
あまりの忙しさに、秋の虫の声のイベントも今年はとばしてしまいました。
 
色々なお声を頂いて、実は結構楽しみにしてくれていた人がいらしたんだということを実感してしまいました。
 
そして何よりもブログがこんなことになってしまいました。
 
諸々の不手際に関しまして、改めてお詫び申し上げます
 
しかし、それにもかかわらずこの店の姿勢とコンセプトを維持してくれたのがスタッフや店の動植物、そして何よりもお客様方でした。
 
この春からアール座の営業を一生懸命サポートしてくれているのは(ずいぶんとご紹介が遅れてしまいましたが)フランス文学を学ぶ学生さんで写真が趣味の佐伯さんです。
 
見かけによらずしっかり者で、ビックリすると目を丸くしてインコみたいな顔になります。
 
そしてお魚や植物達もこの空間造りを強力に助けてくれています。
彼らの存在がないと人が心から安らぐことが出来ないのは地球環境と同じです。
 
しかし、何よりもお客様方がこの店の空気と方向性とコンセプトを維持して下さっていたことを強く感じます。
 
ともすれば実用的な勉強専用スペースになってしまいがちなこの店の環境を、しっとりと思想的な空気にして下さっているのは、静けさの中で自分を取り戻す時間を大事にし、それをアール座での時間にあてて下さる皆様のお陰という他ありません。
 
座席ごとに置かれたらくがき帳を見てそう思います。
 
ツイッターが広まっていなかった5年前、何でも軽くつぶやいてもらう場所があればと始めたあのノートですが、今やそんなもくろみを完全に離れて、内容がもうエラいことになってますね。
 
僕が若い頃には有名な米文学短篇集「sudden fiction (カーヴァーやらアップダイクやら、米文学の名手達による傑作超短篇オムニバス:アール座書棚一番左、上から3段目)のような鮮やかで技巧的な作品が大好きで「カッコえぇ〜」と憧れていたものですが、今になってあの沢山の人生が詰まったリアルな告白集である「らくがき張」と比較してしまうと、こうしたテクニカルな文学が何だか色あせてしまう感もあります。
 
皆様がこの空間を本当の自分と向き合うことに利用して頂けることは、何よりもこの店の意義と方向性を導いて頂けるものと感じております。
 
そしてもちろんお勉強に利用される方も含めて、アール座読書館、そして新店3階のエセルの中庭が今年も沢山の方に利用して頂けましたことを、本当に有難く思います。
 
アール座を開業した時心に決めた目標があります。
 
保健所の営業許可の更新です。
 
それは5年毎にされる規則となっており、つまり「先ずは店が5年続くよう頑張る」という気持ちでした。
 
そして今年、お陰様で無事初めての更新を果たすことが出来ました。
 
2013年も当店をご利用いただき、本当にありがとうございました。
心より感謝を申し上げます。

 
更に今年はエセルの中庭という妹(姉妹店と言うでしょ)も誕生しました。
 
来年はアール座をよりコンセプチュアルに充実させると同時にこちらを本格的に作り込んでゆくことを目論んでおります。
 
こちらにも支えてくれているスタッフ達がおります。
 
いずれエセルのサイトでご紹介出来ればと思っておりますが、皆個性豊かで責任感の強い優秀なスタッフばかりです。
 
僕の知らない所でパン袋の上に寝転んだ画像をツイッターに上げて炎上したりは、多分してないと思います。
 
現在も、スタッフ全員で力を合わせて店を作り上げている最中です。
 
この店の青写真は今年一年僕の脳裏にへばりついたまま、夢にまで何度も現れました。
 
しかしなかなか計画は進まず、アール座の企画も止まったままで、正直言ってしまうと最近の僕は精神的に満身創痍で、勢いも自信もイマジネーションも失速しておりました。
 
それでも、そんな焦りと不安と迷いの中で、不思議と「こんなことやりたい」という火種だけが心のあちこちに残っていて、目の前のことすら出来ていない状況で「こんなことあんなこと」と僕をせき立てるのでした。
 
こんな状況でこんな思いの火種を一体どう処理してゆけばいいのか、自分の中に浮かんで来る荒唐無稽な幾つもの思いの一体どれが正しいのか、果たして今のやり方で良いのか、などという迷いをひたすら繰り返すうちに、次第に固まってきたある思いがあります。
 
私事に近い話ですが、来年に向けた所信表明のような感もありますので、久々のブログでこんなお話をしてみます。
 
昔から幾つもの、何度あきらめても自分の中に繰り返し浮かんでくる「これをやりたい」という気持ちがあります。
 
作るものや描きたいもの、人にやって見せたいもの、大きいこと、小さいこと等それは色々な形を持っていて、実現したもの、失敗したもの、挑戦しなかったもの、保留にしたもの、諦めたものと、結果も様々です。
 
僕は比較的こうした自分の思いに耳を傾けて来た方なので、そんな思いを意識することが出来ましたが、でもきっと誰の中にでもあるモノだと思います。
 
特に意識していない人や別にやりたいこともないと思う人にもきっと心の奥底にあるような気がします。
 
この年になって僕は、こうした思いに絶対に間違いはなく、一つ残らず向かい合わないといけないと考えるようになりました。
 
自分の中に度々湧き上がってくる「これをやりたい」という気持ちは、それがどんなにバカなことであっても小さなことであっても絶対に実現出来ると考えて無条件に全力で取りかからなければいけないというなかなか無茶な結論ですが、もしそれが仮に失敗につながることだとしても、この人生においてちゃんとその失敗をしなきゃいけないような気がします。
 
逆にそもそも自分にとってどうやっても実現不可能なものって本気で思い立つことも出来ないんじゃないかという気もします。
 
ただ、心の中ではそんなかっこいいコト思っても、実際に思いつきを実行に移すのには根気がなかったり勇気がなかったり迷ったりと悪戦苦闘です。
 
自分に厳しく批判的な態度を理想とする教育を受けてきた我々は、夢見がちな気持ちで取り掛かる前に「現実はそんなに甘いもんじゃない」と先ずそれが本当に可能かどうか、現実的かどうかを冷静に検討しなければいけない意識がありますよね。
 
僕も未だにそんな意識との葛藤の中にあります。
 
子供の頃からずっと間違いを正され続けてきたので、正しいやり方に向かわないと何だか誰かに怒られる気がして、「考えが甘い」「そんなウマく行くワケない」「やめたほうが良い」という批判的な声が、外からも自分の中からも上がって心の中の声にケチをつけ、消しにかかってくるのが常ですね。
 
無意識にも、自分でまともな方向に軌道修正しちゃってたりします。
 
でも同時に、無理なことや間違っていることをやらずに、何の問題も起きることなく無事に人生が終わってしまうのもなんだなぁ、とかも思います。
 
 
大人になって感じるのは、人はその人生でやるべきことを、最初から持って生まれてくるのではないかということです。
 
だから自分の心の奥の無意識が一番それを知っていて、やるべきことを繰り返し意識に伝えてくるように感じます。
 
そうなると出来る出来ないとか正しいか間違いかなんて大して重要ではないし、それで人生がどんな風に展開するかなんて誰にも分からないですね。
 
 
客席を縫うようにライオンが歩き回るカフェをどうしてもやりたいと心の底から思ったとして、それを本気で熱く語ったときに、世間から返ってくる反応というものはまぁ予想がつきます。
 
でも僕は、幼稚な思いつきや一人よがりの理想、無理に思える計画をあっさり批判する人の「正しい推測」というものが概して浅はかで、人生に何が起こるかなんて絶対に分からないということを踏まえていないように感じます。
 
例えばそこに向かって挑むうちに動物園の中のライオン舎に併設されたカフェをやることになるかもしれないし、どこか恐ろしく規制のゆるい国があるかも知れないし、アフリカの国立公園の中でカフェをやるハメになるかもしれないし(どうも僕の想像力では真に意外な展開が思いつきませんが)もしかしたら思いもよらない方法で本当に店内にライオンを歩かせられる形があるのかもしれないし、実際にどんなミラクルが起こるのかはやってみないとわかりません。
 
場合によってはそれを探求するうちにその道は諦めて、ひょんなことからライオングッズの販売業者になって成功するかも知れません。
 
最初言ってた話と違うという人はきっと出てきますが、そんなのは本当にどうでもいいことで、それが正しい道のりだったというだけのことです。
 
逆に、基本やノウハウやセオリーばかりにとらわれて自分の中から出てきたもので勝負してない人にはこういう運命的なことが起こりにくい気がします。
 
想像力にしてもそうです。
 
仮にどうしてもライオンを歩かせることが難しいという結論になって、ライオンの寝転ぶ草原の映像をプロジェクターで映しつつライオンの剥製を置いておく店になったとしましょう。
 
最初に無理だといった人は「言った通りだ。そんな店なら出来るだろうが別に面白くもない店だ」と言うでしょう。
 
何のイメージも持っていないこの人たちが想像するのは真っ白い普通のカフェに映像が流されて剥製が置いてあるだけの一番つまらない店内のイメージを思い浮かべて、そういうことを言っています。
 
でも本気でライオンを歩かせたいと思い続けてきた人が作るそれは、きっとまるで別のものになっているはずです。
 
店内に独特の雰囲気の鬱蒼としたジャングルを作り込むか、凄まじい唸り声をサラウンドスピーカーで流すか、剥製の目が光って自動歩行し出すか、大型犬に着ぐるみつけて歩かせるか(うぅ…やっぱりしょぼい発想しか出て来ない…)とにかくもっともっと我々の想像を超えるような環境をそういう人は作り上げたりします。
 
批判する人やバカにする人は、もちろんいるんです。
いたっていいんです。

大事なのは自分がその意見に乗らないことだと思います。
 
未だ迷いの真っただ中にいる僕でも、「やりたいと思うことをやる」ということは「その方向が正しいか否か」「可能か不可能か」「成功するか失敗するか」という話とは次元の違う重要性を持っているということを強く感じています。
 
だからこそ、本当に自分の中から出てきたものはその人にとって絶対に間違っていることはないと言い切りたいです(もう少し色々結果を出せていればなぁ…)。
 
僕はこれでも、昔は結構冷めた心の若者だったんです。
 
こんなに熱いことを語る大人になって自分でもびっくりです。
 
アレは良いコレはダメと批評してアイデンティティーを守ってた(あれはクセになるから良くないですね)若い頃の自分の胸ぐらつかんでこれを教えてやりたい気持ちですが、逆に40年後の自分はこんな今の自分をどう思うんでしょう。
 
「四十代のワシが一番若かったのう…」と、長いアゴ髭をさすりながらつぶやくのでしょうか。
 

やはり個人的な思いの強い内容になってしまいましたが、久しぶりにがっつりとブログを書いて何だかスッキリした気分にもなりました。
 
毎月更新していた時はしんどい部分もありましたが、ああいった店で日常的に皆さんとお話が出来ない自分にとって、このブログは何か僕の本音の吐き出し口のような役割を持っていたのかもしれませんね。
 
読んで下さる方のために…と、愚かにも思っておりましたが、読んで下さる方がいることで自分が癒されてたのでしょう。
 
今初めて知りました。
 
皆様の気分を害する内容になっていないことを祈るばかりです。
 
さて、来年は何回くらい更新出来るのでしょうか(弱気)。

今年よりはと思っていますが、うん…どうなんでしょう(すごく弱気)。

来年もどうぞよろしくお願い致します。



 
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3階「エセルの中庭」

2013.09.26 Thursday 10:01

3階「エセルの中庭」のサイト立ち上げました。
まだ簡単な店舗情報のみですが、良かったらどうぞ→「エセルの中庭」


 
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更新遅れてごめんなさい

2013.07.12 Friday 00:30
 
こんにちは。

アール座ブログ、久しく更新が止まってしまい誠に申し訳ありません。

この春まで読んで下さっていた方々には、こんな体たらくになってしまったことを大変恥ずかしく、また心苦しく思っております。

本当に色々な事情(重大なことではありませんが)が重なり、内容のある文章を書く時間と気力が、どうにも確保出来ないままでおります。

何度かPCに向かいもしましたが、どうも以前のように文章が進まず、「後でもう一段落してから書こう」と逃げ出すことを繰り返しながら、だらしなくずるずると夏まで来てしまいました。

少しでも待っていて下さった方がありましたら、本当にごめんなさい。

もちろんここでブログを終えるつもりではありません。

お店を通じてお伝えしたいことは以前と変わらずあるのですが、それを表現する余力が残っていない、というのが正直な所です。

復活したらまた読んでくださいなどと、とても言える状態ではありませんが、本当に一段落したら、またたらたらと能書きをたれてゆく気持ちがあることだけ伝えさせて下さい。

当面の一番大きな課題が、やはり3階店舗の計画が遅れ気味(普通のカフェとしての基本的な経営は動いておりますことなのですが、これを何とかやっつけて、他の計画にもメドが立つというような状況です。

なので、ブログの更新もう少し停滞するかもなんです

月一更新とかほざいてましたので、こんなブログでも更新を待ってくださる方がおられたらと思うとやっぱり心苦しく、そしてあまりにも引っ張りすぎてしまっているので、しょーもない言い訳に一回分使うことにしました。

でもお店自体はしょーもないものは作りません。

2軒とも凄いお店作ります。

頑張りますね。

もうひと踏ん張りしてみます。

取り急ぎ、お詫びまで。
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